第9話 哀しい思い出(後編)
それの結果がどうなったかは、とりあえず置いておこう。これの視点はあくまでミレイ、彼女が思いかえしている記憶なのだから。記憶の中に注釈を入れるのは難しい。だから今まで蘇らせてきた光景も、彼女が心身ともに大きくなり、それと合わせながら広がった視野や経験を元にしているので、実際の過去は「これ」よりもずっとおぞましく、また、辛いモノだったかもしれないのだ。今の自分が、昔の自分に震えあがるように。本当は、思いかえす事自体が辛い記憶かもしれないのである。
ミレイはいつもと同じ時間に家の朝ご飯を食べて、いつもと同じ時間に屋敷の家庭教師から勉強を教わり、いつもと同じ時間にヨハンを呼んで、屋敷の中に彼を招きいれた。
「ごきげんよう、ヨハン」
ヨハンも、その挨拶に応えた。
「ごきげんよう、ミレイ」
ヨハンは彼女の手を握り、ミレイもその手を握りかえした。二人は周りの視線などまるで関係なく、嬉しそうに「ワハハハ!」と笑いあっては、屋敷の廊下で鬼ごっこをしたり、彼女の部屋でオママゴトを楽しんだりした。
ミレイは、椅子の上にゆっくりと腰かけた。床の上にも一応はカーペットが敷かれていたが、午後のティータイムごっこをするには、目の前に小さなテーブルが置かれている、そこの椅子に座る必要があったようである。彼女は貴族の令嬢らしく、わざと偉そうに振る舞って、目の前の幼馴染に「お茶をちょうだい」と頼み、彼の「しょうちいたしました」を聞いて、自分も嬉しそうに笑った。
ヨハンはティーカップ(当然、オモチャのティーカップだ)の中に紅茶を入れて(これもフリだ)、彼女の前にそれを置いた。
「どうぞ、わたくし自慢の紅茶でございます。とてもお上品なお味なので、ごゆっくりお味わいください」
お、を何度も使う冗談。それがミレイには、とても面白かった。彼女は「クスッ」と笑って、彼の煎れてくれた紅茶をゆっくりと飲みはじめた。
「いただきます」
そういいつつも、最初は紅茶の香りを楽しんだ。お茶の表面から漂ってくる……なんて事はないが、「こういうのは、気分の問題」という感じに笑って、空想の香りを楽しんだのである。空想の香りは、とても優雅だった。
ミレイは、その香りに酔いしれてしまった。
「いいかおり。葉っぱの種類をかえたの?」
ヨハンは、そのお遊びに付きあった。
「まあね。いつも同じ葉っぱじゃあきると思ったから。今日は、ちょっと高い葉っぱを使ったんだ。このお屋敷が買えるくらいの」
「すごぉい! それじゃ、じっくり味わわないとね?」
「うん!」
ヨハンは自分のカップには紅茶を注がず、嬉しそうな顔でミレイの事を眺めつづけた。
ミレイはその視線に笑いかえしたが、それが次第に薄れていくと、自分の母親からいわれた言葉をふと思いだし、最初は何処か気恥ずかしかったものの、椅子の上からスッと立ちあがった後には、「ミレイ?」と驚くヨハンを無視して、彼の前にそっと歩みよっていた。
「ねぇ、ヨハン」
「な、なに?」
「ヨハンは……」
そういってから同時に襲ってきた緊張と不安。それは本当に未体験の感覚だったが、頭の中が恋色一色だった彼女には、その感覚が妙にここちよかった。彼女は胸の鼓動を少し落ちつかせると、やはり不安な顔で幼馴染の顔を見つめた。
「私の事、好き?」
相手の返事は、「もちろん」だった。
「好きだよ?」
「そ、そっか。それじゃ」
「ミレイ?」
ミレイはその声を無視して、自分の服をゆっくりと、しかも妙に色っぽく脱ぎはじめた。
ヨハンは、その光景に目を見開いた。その光景が意味するところはもちろん、彼女がどうしてそんな事を……まあいい、とにかく戸惑ってしまったようで、彼女に「ど、どうしたの?」と訊こうとしても、それがうまくいえなかったようだ。彼女が「ヨハン」と話しかけてきた時も、それに「え?」と驚くことはできたが、その言葉自体に応える事はできなかったようである。彼は文字通りの混乱状態、目の前の光景にただただ呆然としてしまった。
「み、れ」
ミレイは、その続きをさえぎった。彼女が聞きたいのは、ヨハンの動揺ではない。ヨハンが自分の裸を見て、「どう思ったのか?」だった。彼女の足下には、その主人が脱いだ服が落ちている。まるで美しい蝶がその蛹を脱ぎすてたように、彼女の服が静かに落ちていた。
ミレイは最初こそ恥ずかしがっていたが、ヨハンがなおも「み、みれ」と震えているのを見て、その反応に「もう!」と怒り、右手で隠していた自分の胸はもちろん、左手で隠していた自分の一番恥ずかしい部分も、彼にそのすべてを見せてしまった。
ヨハンは、その身体に息を飲んだ。彼女の身体があまりに美しかったからだ。年齢の方は自分と同じではあったが、その幼いながらも整った
「な、なんで? どう」
ヨハンは、自分の手から伝わってくる感触に震えてしまったらしい。最初は彼女の体温に瞬いていただけだったが、それが身体の感触、ふわりとした胸の感触に変わると、ただでさえ乱れている思考がさらに乱れてしまい、彼女が「どう、ヨハン? 私の身体をさわれて? うれしい?」と訊いてきた時も、その質問に「え?」と驚く事はできたが、それ以外は何もいう事ができなかった。「う、ううう」
ミレイは、その反応に「ムッ」とした。彼の反応自体は嫌ではなかったが、それでも何かもの足りない。せめて、「うれしい」くらいの言葉はいって欲しかった。「君の身体に触れてうれしい」と、それくらいはいって欲しかったのである。自分は、こんなにも頑張ったのに。
「むぅううう」
彼女は自分の胸だけでなく、横腹や太ももも彼に触らせた。
ヨハンはまた、それらの感触に震えてしまった。胸の感触もそうだが、それらの感触もまた衝撃だったらしい。彼は、幼馴染の感触に頭がクラクラしてしまった。
「だめ」
だよ、の部分がうまくいえなかった。
「こんな事、しちゃ」
ヨハンは頬の火照りを浮かべつつ、真剣な顔で幼馴染の目を見つめた。
ミレイは、その視線に眉を寄せた。彼がどうして、自分にそんな視線を向けるのか? 幼い彼女には、その理由がまったく分からなかったからである。彼女は不満な気持ち半分、不安な気持ち半分で、彼の目をじっと見つめかえした。
「どうして?」
「どうしても、だよ。こんなのは!」
やっちゃだめ、と、彼はいった。
「ミレイみたいな女の子が、こんないやらしい」
少女の顔が強ばったのは、どう考えてもそれが原因だった。自分は今、幼馴染の少年にいやらしい事をしている。彼女としては大好きな彼に好意を示しているだけだったが、幼馴染の方はそれを「いやらしい」と感じているらしく、少年らしい動揺こそ見せているものの、彼女を喜んでいるようには見られなかった。「僕は彼女にこんな事、して欲しくなかったのに」と、そう無言の内に訴えているようで、今の彼が見せている態度も、「ありがとう」というよりは、「どうして?」と戸惑っているようにしか見られなかったのである。
「ヨハン」
ミレイは彼の動揺に戸惑う一方で、「彼にはやはり喜んでもらいたい」と思っていた。彼は、とても大事な人だから。この世で唯一、「恋」の感情を抱いている人だから。どうしても、喜んでもらいたい。自分の真心を受けとめてもらいたい。「自分は、こんなにも愛しているのだ」と、そう感じとってもらいたかった。この思いが彼に届きさえすれば、彼もこの重いにきっと応えてくれる。自分の好意をすみずみまで味わってくれる。彼からいわれた「いやらしい」の言葉にまだ戸惑いは残っていたが、それも数分後にはすっかり消えて、彼に対する大胆な思い、「自分のすべてをしってほしい」という欲求だけが残っていた。
ミレイは幼馴染の気持ちを無視して、自分の気持ちだけを進めつづけた。自分が「また胸を触ってほしい」と思ったら胸を、「太ももの間を触ってほしい」と思った太ももとを、彼の手をすっかり操って、彼にその感触を伝えつづけたが……それもだんだんと違う方向に変わっていき、彼女も彼女で一種の気持ちよさを感じてしまったらしく、本当なら彼の悦びを第一に考えなければならないはずが、いつのまにか自分の快楽ばかりを考えるようになっていた。
「う、ううん」
ああん! の声は、自分でも驚く程にいやらしかった。その後から漏れた息にも、不可思議な甘さが潜んでいた。まるで身体の神経が砂糖にでも変わったかのように、あらゆる刺激が「気持ちいい」に変わっていたのである。
「いいよぉ、いい」
ミレイは自分の快楽だけを考えて、ヨハンの手をひたすらに動かしつづけた。
ヨハンはその光景に瞬いたが、やがていつもの調子に戻りはじめた。自分でもどういう理屈かは分からないが、彼女が自分の快楽に溺れる姿を見て、その姿から何ともいえない感情、ある種の悟りを開いたらしく、「彼女の事をもっとよくしてあげよう」と思い、今までは彼女に操られていた自分の手を動かして、今度は自分から彼女が喜びそうな場所、「気持ちいい」と感じそうなところを攻めはじめた。
「どう、ミレイ。気持ちいい?」
彼女の答えは、「うん!」だった。
「とても気持ちいい。頭がぼうっとする」
ミレイは彼のなされるまま、その指にただただ酔いしれつづけた。
「ああ……」
ヨハンは、その声に「クスッ」と笑った。だがその笑みも、長くはつづかなかった。突然開かれた、部屋の扉。扉の向こうには、屋敷の従僕達が立っていた。まるでヨハンの事をにらみつけるように……いや、それを初めから分かっていたかのように、その身分をすっかり忘れて、両目の刃をギラギラと光らせていたのである。
ヨハンは、それらの刃に震えあがった。「ち、ちが」の声も、見事に震えている。彼は従僕達の眼光に怯えたが、それらの眼光に妙な違和感を覚えたようで、ミレイが自分の手を握った時にはもう、いつもの落ちつきを取りもどしていた。
「どうして?」
従僕達は、その疑問に答えなかった。従僕達には、彼の疑問などどうでもよかったらしい。ヨハンが「う、くっ」と怯んだ時にも、彼に「うるさい」とはいったが、肝心な疑問の答えは一つも答えようとしなかった。従僕達はお嬢様の近くに走りよると、女達は真剣な顔でお嬢様に衣服を着せ、男達は怖い顔でお嬢様とヨハンを引きはなした。
「貴様、お嬢様になんて事を!」
ヨハンは、その言葉に首を振った。それこそ、「ち、違います!」と叫ぶように。だが……従僕達には、文字通りの無力だった。従僕達は相当に怒っているらしく、ヨハンがどんなに叫んでも、それに耳を傾けるどころか、お嬢様の「ちがうわ! ヨハンは、なにもわるくない!」も無視し、彼女の母親にこれを伝えて、彼の行いを罵った。
ヨハンは、目の前の光景に俯いた。それを見ていたミレイも、同じような顔で俯いている。自分がどれだけ馬鹿だったのかをしって、目の前が真っ暗にまっていた。「自分はもう、彼とは会えない」と、そう無意識のうちに感じていたのである。わたしがおろかだったせいで……。
「ミレイ」
ヨハンは、彼女の顔を見つめた。ミレイも、彼の目を見つめかえした。彼らは互いの顔をしばらく見つめあったが、そこに少女の母親が現れると、今までの感情を忘れて、これから起こる悲劇にただ俯いてしまった。
少女の記憶が現在に戻ったのは、それからすぐの事だった。
ミレイは寂しげな顔で、自分の過去に涙を浮かべた。
「彼は今も、恨んでいるよね? 私の事を。私は、とても大事な物を壊してしまったなんだから」
周りの少女達は、その言葉に目を見開いた。特に彼女の親友であるハウワーは、周りの少女以上に衝撃だったらしく、少女達が何やらいろいろと話しはじめた時も、その会話に混じりこそしたが、意識の方は親友にずっと向けつづけていた。
「ミレイ……」
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