第8話 哀しい思い出(前編)

 そう、今でも相棒だったら。彼は、自分の隣に座っていたかもしれない。彼女と同じように「ぜひ、いらしてください」と誘われて、彼女と楽しむように「今日の紅茶も、美味しいね?」と笑いあっていたかもしれない。すべては、想像の域をでないが。それでも……彼は、とても優しい人だった。自分が彼にどれだけ無茶なお願い(昔のミレイは、好奇心旺盛だった)をしても、その後ろをちゃんとついてきてくれる。彼の前でワガママをいった時も、ヨハンは決して自分に文句をいわなかった。それどころか、彼女に「ぼくは、きみのあいぼうだからね」といって、そのワガママを受けいれてくれた。


 それが本当に嬉しかった。二人の力が合わされば、どんな危険にでも立ちむかっていける。二人は、二人で一つなのだ。悲しい事があれば、一緒に「わんわん」と泣きあうし、嬉しい事があれば、「やったね!」と喜びあう。そこには、何の計算もない。相手の事を「使ってやろう」という気持ちも、また、「裏切ってやろう」という気持ちも。二人はただ、お互いの事を支えているだけだった。人が一人では生きていけないように。二人の関係もまた、その道理にのっとっていただけだったのである。どちらも欠けてはならない、文字通りの一心同体。


 二人は、その関係を保ちつづけた。互いの家へと遊びにいった時はもちろんだが、その両親から「いってらっしゃい」や「よくきたね」といわれた時も、そこに妙な違和感こそあったが、だいたいは気持ちよく迎えいれられ、それぞれの家から出ていく時も、(ヨハンの方は妙に意地悪な扱いをされていたが)家の使用人達から「それでは」と見送られていたのである。


 二人は、その対応を喜んだ。「自分達は、周りの大人から愛されている」と、そう思っていたのだ。屋敷の従僕達から「ヨハン様、あの家にはあまりいかれない方が」と案じられたり、反対に「ミレイ様、あの少年とはあまり付き合わない方が」といわれたりした時も、彼ら自身がまだ幼い事もあったが、「自分達の事をそんなに思ってくれている」と思って、そこに含まれた深い意味までは考えていなかったのである。彼らは「自分達の世界は、希望に溢れている」と信じていたが、マヌア家の従僕達はそんな二人の事をあざ笑っていた。特にヨハンに対しては、本人の目の前で、本人に聞こえるように汚い言葉を使っていたのである。


「本当に汚い子ですね?」


 周りの従僕達も、その言葉にうなずいた。


「ああ、確かに。。お嬢様のような貴い血とは違って、いやらしい血が流れている。見ていて実に不愉快だ」


 従僕達は楽しげな顔で、その言葉に笑いあった。

 

 ミレイは、その様子に首をかしげた。「たっとい」の意味はわからないが、「いやらしい」の意味は何となく分かる。それが示す状態のようなモノも分かる。「いやらしい」とは、とても嫌な言葉だ。人の品位をおとしめ、その理性を壊してしまう言葉。人間から人間らしさを奪ってしまう言葉だ。「いやらしい」とは、正にそういう意味。女の子であるミレイが、一番に嫌う言葉である。それを屋敷の従僕達が、しかもヨハンに対していうなんて。


 彼女は、その光景に違和感を覚えた。ヨハンは決して、いやらしい人間ではない。自分への態度や接し方を見てみても。彼は誠実でこそあったが、彼らのいうような人間ではなかったのだ。それにも関わらず、ヨハンへの誹謗ひぼうは止まらない。二人で屋敷の廊下を歩けば、決まって嫌な言葉が聞こえてくる。「あいつは、娼婦も子どもだ。いやらしい」と、そこら中から陰口がとんでくるのだ。普段は優しい老執事も、ヨハンの姿を見た時は、一瞬だけ嫌悪に満ちた目を向けてくる。老執事は屋敷のお嬢様には「ニコッ」と笑うが、ヨハンの方には決して笑いかけなかった。


 ミレイは、その態度に眉を寄せた。彼の態度は、明らかにおかしい。彼はたぶん、周りの従僕達もそうだが……。彼らの笑みを見ても分かるように、どうも大事な秘密を隠している感じだった。彼女はその直感から、自分なりに色々と推しはかった。


 まずは、従僕達の態度。彼らは自分の要求には従うが、ヨハンの言葉にはまったく従わない。ヨハンも、自分と同じ貴族だ。家の違いこそあっても、従僕は(基本的には)よその貴族もへりくだる筈だし、仮にそこまでへりくだらなくても、いくらかの敬意を見せる筈である。間違っても「汚い子ども」や「不愉快」などの言葉は使わない筈だ。それなのになぜ? 


 第二の疑問は、彼らがヨハンの存在自体をこころよく思っていない事。自分とヨハンは、幼馴染。家のくらいもほぼ同じで、文字通りの対等な関係を築いている。正に「理想」ともいえる関係。そんな関係でありながらどうして、従僕達はヨハンの事をあんな風に扱うのか? まるで汚い物でも見るかのように、ある時には悪口を、またある時には陰口をたたいて、彼の尊厳を踏みつぶそうとするのか? 


 考えれば考える程に分からなくなる。「彼らは貴族の家につかえていながら、本当は『本音』と『建前』を使い分けているのではないか?」と、そう内心で思ってしまい、挙げ句は「今は自分の言葉に従っているが、それも今だけの話で、本音では『いつでも裏切れる』なんて思っているのではないか?」という不安がよぎり、従僕達の事が急に恐ろしくなってしまった。そして、その恐ろしさが、


 その疑問とはつまり、彼がいっていた「娼婦とは、どういう意味なのか?」という事。理不尽の原因であろう娼婦とは、「一体なんなのだろう」という事だった。その意味が分かりさえすれば、ヨハンへの嫌がらせもなくなるかもしれない。彼に向けられている憎悪の目や、誹謗中傷の類いもなくなるかもしれない。そうなる根拠は何もなかったが、幼いながらに頭を使って、自分なりの解決策を考えたミレイには、それを考えるだけで精いっぱいだった。「娼婦への悪い考えがなくなれば、ヨハンもきっと救われるだろう」と。

 

 ミレイはそう考えて、娼婦の意味をさっそく調べはじめた。ヨハンと遊んでいる時はしかたないが、彼が自分に「バイバイ」といって、屋敷の玄関から出ていくと、回れ右をして、屋敷の従僕達にそれとなく、でも何処か大胆に「あ、あの、娼婦ってなに?」と訊いてまわったのである。「みんながその、いうから。『教えてほしい』と思って」


 彼女は自分の立場をうまく使おうとしたが、従僕達の方がどうやら一枚上手うわてだったらしく、彼女の意図に「ふふん」と気づきながらも、その質問自体には「さあ? わたくしどもには、わかりません」と答えつつ、まだ七歳の少女に頭を下げつづけていた。


「わたくしどもは、学のない人間ですから」


 ミレイは、その言葉に俯いた。そういわれたらもう、何も聞きだせない。内心では「うそだ! そんなわけない!」と思っていても、情報の真偽を確かめられない彼女には、嘘の情報を教えられるわけにはいかなかったし、仮に嘘の情報を教えられてしまったら、「それ」をすっかり信じてしまう恐れがあったからだ。だから、彼らの返事にも「そう」と返すしかない。


 彼女は屋敷の従僕達に頭を下げると、悔しげな顔で彼らの前から歩きだした。


「はぁ」


 その溜息が重いのは、自分でも分かった。彼女は自分の溜息にイライラしつつ、不機嫌な顔で「誰にこの疑問を訊こうか?」と考えつづけた。それの先にたどりついたのが、「自分の母」という悪い手だった。物知りの母なら、「娼婦」についても何かしっているかもしれない。そう考えて母の部屋に向かった彼女だったが、それが現在までつづく悲しみの元、悔しさの根幹になろうとは、夢にも思っていなかった。

 

 ミレイは母の部屋に着くと、不安な顔でその扉を叩いた。扉は、数分後に開いた。入室の礼儀を確かめたかったのか、二回目を叩いたところで、その主が扉を開けたからである。主は娘の顔を見おろすと、最初は不思議そうに見ていたが、やがて「くすくす」と笑いはじめ、娘が「お母様」といった時にはもう、部屋の中に彼女を入れていた。


「どうしたの?」


 ミレイは、その質問に胸を高ならせた。


「お母様ならきっと、ご存じだと思いますが」


「なに?」


「『しょうふ』とは、なんですか?」


 それを聞いて母親が黙ったのは決して、偶然ではないだろう。母親は(表面上は)何もしらないフリをしていたが、娘が自分に「おしえてください!」とさけぶと、「それを待っていた」といわんばかりに「ふふっ」と笑って、娘の目をじっと見つめ、それから彼女の目線までゆっくりとかがんだ。


「それはね」

 

 母親は真っ黒な笑顔で、娘の頭を撫でた。


「『娼婦』っていうのはね、?」


 ミレイは、その言葉に固まった。特に「男の人の前で裸になる」の部分には、かなりの衝撃を受けてしまったらしい。


「そ、そんな、お仕事があるの?」


「ええ。貴女も、大きくなったら分かるわ。町の中は、そういう店で溢れている。太陽がお空に昇っている時は、その光から必死に隠れているけどね。それが沈んだ後は」


「お、お顔を出すんだ?」


「そう、月の香りを使ってね。それで男の人を喜ばせるの。男の人の身体を触ったり、自分も相手に身体を触らせたりしてね。私のしっている娼婦は、それで私の大事な人を奪ったわ。私が子ども頃から好きだった人を、私の許嫁だった彼を、あの女は」


「お、お母様?」


 母親は、その声に「ハッ」とした。


「ごめんなさい、ついとり乱しちゃって。そのお、女の人は、ヨハン君のお母さんよ」


「え? 娼婦がヨハンのお母さん?」


「そう。だから、彼は特別なの。今でもこの屋敷に彼を招いている理由は……。屋敷の従僕達に彼が可愛がられている理由も、彼に対する尊敬の証。つまりは、『名誉』というやつね。彼に対するあれこれは、それだけ彼が尊いから」


「ふ、ふうん、そ、そうなんだ。ならヨハンは、みんなから意地悪されていたわけじゃないんだね?」


「もちろんよ。彼は、本当に特別な男の子だから。相応の扱いをしているだけ。娼婦の子どもたる扱いを受けているだけなの。だから、何も問題はない。私のいっている意味は、分かるわよね?」


「う、うん、何となくだけど。みんなが、ヨハンを嫌っていないのは分かった」


 母親は、その言葉に「ニヤリ」とした。たぶん、「本当に愚かな娘だ」と思ったのだろう。態度の方には決して見せなかったが、娘の頭を「よしよし」と撫でる事で、その邪念を見事に誤魔化してしまった。「そう、ならよかったわ。あの子は、貴女にとっても特別。だから、?」


 ミレイは、その言葉に目を見開いた。


「お礼? お礼って、なにをすればいいの?」


「彼が喜ぶ事よ」


「ヨハンが喜ぶ事?」


「そう、ヨハン君が喜ぶ事。彼のお父様は、娼婦の女性と結ばれた。だから」


「そっか! ならヨハンも、娼婦の事が好きかもしれないね!」


「ふふふ、そういう事よ」


 ミレイは、その言葉に胸を躍らせた。その言葉には夢が、とても楽しそうな何かが潜んでいたからである。


「ありがとう、お母さん。明日、ヨハンがこの家にきたら」


「ええ、やってみるといいわ」


「うん!」


 彼女は目の前の母親に頭を下げて、部屋の中から勢いよく出ていった。


 母親は、その余韻にほくそえんだ。これが憎悪の序幕、復讐への第一歩だったからである。彼女は明日の地獄を楽しみにしつつも、表面上ではあくまで平静を装いつづけた。

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