ミレイ・マヌア 篇
第7話 少女達の想い
あの子は、不幸にならなかった。馬車からの中から降りる時も幸せだったし、そこから屋敷の庭(正確には、友人の屋敷だが)に向かう時もまた幸せだった。屋敷の中では友人達が彼女の到着を待っていたが、彼女が庭の中に姿を見せると、ある少女は嬉しそうに笑い、またある少女は彼女に「やっときた!」といって、その到着を心から喜んでいた。「もう少し遅かったら、このお菓子も先に食べるところだったのよ?」
友人達はテーブルの前まで彼女を導き、そこの椅子を引いて、その椅子に彼女をゆっくりと座らせた。
少女は、周りの友人達に微笑んだ。
「ごきげんよう、みんな」
周りの友人達も、その挨拶に応えた。
「ごきげんよう、ミレイ」
友人達は屋敷の執事に視線を移し、そこの主人が代表して、その執事に「お茶をお願い」と頼んだ。
執事の少年はそれにうなずき、ティーカップの中に紅茶をつぎつぎと注いでいった。主人のカップにはゆっくりと、客人達のカップには丁寧に。専用の道具で計ったわけではなかったが、普段から慣れているらしい彼にとっては、カップの中に紅茶が注がれる感覚はもちろん、それが丁度よい量になるところも分かるようで、少女達が楽しげに話している中、すべての紅茶を均一に注ぎいれた。
「お待たせいたしました」
少女達は、その声に会話を止めた。
ミレイは自分の紅茶をしばらく眺めてから、周りの紅茶をゆっくりと見わたした。
「流石は、執事ですね。今日も、見事な腕前です」
執事は、その言葉に赤くなった。彼女の言葉がどうやら、相当に嬉しかったらしい。自分の主人は複雑な顔でそれを眺めていたが、彼としては「い、いえ」とオドオドしながらも、内心では「ありがとうございます」と笑っていたようだった。
「こんな事しかできませんので」
彼は、恥ずかしげに笑った。
ミレイはその顔に「クスッ」と笑いかえし、自分のカップを持って、紅茶の匂いをかいだ。
「不思議な香り。ねぇ?」
「はい?」
「紅茶の種類を変えたの?」
「はい」
アリスお嬢様のご命令で、と、彼はいった。
「お気に召さなかったでしょうか?」
ミレイは、その質問に首を振った。
「いいえ、とても素晴らしいです。紅茶の味はもちろん、この香りも」
「そう、ですか」
執事は嬉しそうな顔で、目の前の彼女に頭を下げた。
「それならよかったです。あなたにそう仰っていただけると」
そこから続く言葉が途切れたのは、彼の主人が「ふふふ」と笑い、執事の横腹を突いてきたからだ。彼女は楽しげに笑う一方、どこか寂しげな顔で、執事の耳元にそっと囁いた。
「今回は、かなり頑張ったからね」
ありがたく思いなさいよ? と、彼女はいった。
「これを見つけるの、本当に大変だったんだから。あんたの背中を押すために」
執事はその言葉にオドオドしたが、やがて「ムッ」と赤くなった。
「お、お嬢様、そ、それは、言わない約束、じゃ!」
「あら、そうだったっけ? ごめんね。つい、うっかり」
わざとらしい口調。それが少年の羞恥心を煽ったらしい。彼はその恥じらいを隠しつつ、ミレイの顔をチラチラと見ては、やはり赤くなった顔で、主人の顔をじっと睨んだ。
「うっかり、じゃありませんよ! まったく」
「まあまあ、そんなに怒らないで? 執事の恋愛は」
ミレイは、その言葉に目を見開いた。
「恋愛? ノリス君」
「は、はい」と、応える執事。その顔は、複雑な思いに満ちていた。「な、なんでしょうか?」
執事は不安な顔で、彼女の顔を見かえした。
ミレイは、その視線に驚かなかった。
「ノリス君は、誰かに恋しているの?」
アリスは、その言葉に「ニヤリ」とした。彼女としては、それをどうしても訊いてほしかったらしい。
「そうそう! ノリスはねぇ」
「お嬢様!」
執事は慌てて、主人の口を塞いだ。「これ以上話されては困る」と思ったのだろう。普段の彼なら決してやらないようだが、この時ばかりは己が身分を忘れて、主人の「なにするの!」を無視し、右手でその口を押さえてしまった。
「もう本当、勘弁してください! お嬢様のお気持ちは」
とても嬉しいですが。その言葉にお嬢が止まったのは、果たして偶然だろうか? 執事の焦りに俯いて、その額に影が覆った光景も。そしてまた、何ともいえない複雑な表情を浮かべた事も。すべては彼女の心が起こした、気まぐれだったのだろうか? その答えは、彼女自身にしか分からない。彼女の表情に首をかしげたミレイも、その様子に瞬いて、自分なりの予想を立てる事しかできなかった。
アリスは、執事の手をのけた。
「まったく、そんなに強く押さえる事ないじゃない?」
執事は、その言葉にオドオドした。
「も、もうしわけありません。しかし、ですが!」
「なに?」
「わたくし」
「止めて」
「え?」
「こういうところでは、それを使わないで」
「か、かしこまりました。僕にはその、そういうのは似あわないので」
「なぜ?」と訊いたのは、彼の横顔を見ていたミレイである。「どうして、似あわないの?」
ミレイは、彼の横顔をじっと見つづけた。
執事は、その視線に目をやらなかった。
「不相応ですから」
そこで空気が止まったのは、いうまでもないだろう。執事は悲しげに笑っていただけだが、少女達はそれに複雑な思いを抱いたようで、アリスはより悲しい表情、他の少女達も何処か寂しげな表情を浮かべていた。少女達は無言のまま、少年執事の顔をしばらく見つづけた。
執事は、それらの視線に頭を下げた。
「もうしわけありません。僕のせいで……その、変な空気にしてしまい」
少女達はその言葉に暗くなったが、ミレイだけは「ニコッ」と笑っていた。
ミレイは、彼の目を見つめた。
「ノリス君」
「は、はいっ」
「恋愛は、個人の自由です。それりゃ今も、昔の恋愛観は残っていますが。私は誰かが誰かを好きになるのに、遠慮はいらないと思っています」
「マヌア様」
執事は彼女の目を見かえし、彼女もその視線に微笑んだ。二人は互いの顔をしばらく見あったが、それがアリスにはあまり面白くないらしく、内心では様々な葛藤を抱いていたようだが、それの一つに心が傾くと、二人の間に入って、微妙に繋がりかけた線をスッと切ってしまった。
アリスはまた、執事の耳元に囁いた。
「まったく。あたしがせっかく手伝ってやったのに。あんたって男は」
「も、もうしわけありません。マヌア様の言葉があまりうれしく」
「それだけじゃないでしょう?」
「え?」
「あんたが、この子を好きな理由は」
優しいだけではない。彼女はとても上品で、また可愛らしい女の子だった。正に「可愛い」と「綺麗」のいいとこ取り。多くの少年が夢みる、理想の女の子である。当の本人は「それ」にどうも気づいていないようだが、同じ女性でも思わず見ほれてしまう程の美しい脚はもちろん、腰の辺りまでまっすぐに伸びた黒髪や、水のように透きとおった肌は、女性達の嫉妬を最早超えて、憧れの息に達していた。「ポカンっ」と少しマヌケな表情も同じ。彼女はあらゆる動きに「可愛さ」が宿った、恋愛劇のヒロインそのモノだった。
アリスは、その事実に俯いた。彼女も女性である以上、そういう部分には劣等感があるらしい。彼女は執事の耳こそ楽しげにつまんだが、その表情には何処か悔しさが浮かんでいた。
「まったく……」
ミレイは、その言葉に眉をあげた。理由は分からないが、その口調に妙な違和感を覚えたらしい。
「どうしたの?」
アリスは、その質問に「ハッ」とした。
「なんでも、ない」
そう応えるアリスだったが、どうも変な様子だった。まるで恋敵への嫉妬心に苦しんでいるかのように。
「ただ、このヘタレ男にイライラしていただけ」
「そ、そう」
「だから!」
アリスは、両手の拳を握った。
「本当になんでもない」
周りの少女達は、その言葉に押しだまった。彼女が「なんでもない」というのなら、それは本当になんでもないのだろう。溢れかけた涙を「うん」とこらえる程度には。少女達は彼女の本意を何となく察しながらも、それに確たる証拠が得られなかったので、「あれこれ」と考える事はできたが、その本質自体を知る事はできなかった。
ミレイは、その光景をじっと見つづけた。
「そっか」
「うん」
「でも」
「え?」
「ヘタレでも、私は好きだよ?」
「え?」
その「え?」は、今までの「え?」とまったく違っていた。
「私は、好き?」
「ええ」
ミレイは「ニコッ」と笑って、彼女の執事に目をやった。執事の顔は……今の言葉にかなり驚いたのか、耳の辺りまで真っ赤になっている。
「とても。彼は」
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
待って……、と、アリスはいった。
「ミレイは、こいつの事」
アリスは悔しげな顔で、彼女の顔を見かえした。
「『男』として好きなの?」
ミレイは、その質問にしばらく答えなかった。
「それは、分からない。でも、好きな気持ちは変わらないよ? 彼は、とても親切だしね? それに」
「そ、それに?」
「私のし……昔の親友と似ているから。もちろん、ぜんぶじゃないけれどね? ノエル君を見ていると、すごく懐かしい気持ちになるの」
「ふ、ふうん」
アリスは、その続きを飲みこんだ。それ以上は、いえない。いえる筈がない。「彼女の前でそれ以上をいえば、自分の気持ちを、執事への好意を打ちあける事になる」と、そう不安に思ったらしく、肝心な執事が「え? え?」と驚いている中、自分の気持ちを必死に隠しつづけた。
「ミ、ミレイにも、そういう人がいたんだ?」
アリスは、彼女に苦しまぎれの反撃を見せた。
ミレイは、その反撃に気づかなかった。いや、「気づけなかった」といった方が正しいかもしれない。彼女は目の前の友人がどういう意図でそれをいったのかも分からず、ただ悲しげに「クッ」と笑っては、友人の執事が煎れた紅茶をすすって、その味に「美味しい」とうなずいた。
「とても」
周りの少女達は、その言葉に顔を見あわせた。二人の会話はもちろんだが、そこから生まれた様々な憶測が、彼女達の神経に刺さって、妙な感覚を覚えてしまったからである。官女達は互いの顔をしばらく見あっていたが、それも次第に耐えられなくなってしまい、ある少女が「こ、紅茶が冷めちゃうから!」といった事で、その空気から何とか脱する事ができた。
執事はまた、彼女達のカップに紅茶を注いだ。少女達も、その紅茶をすすった。彼らは無言で、二人の醸しだす雰囲気に耐えつづけた。
アリスは、友人の顔を恐る恐る見た。
「ねぇ、ミレイ」
「なに?」
「うんう、なんでもない。ただ」
「ただだ?」
「その人が今も、ミレイの特別な人だったら?」
ミレイはその質問に驚いたが、やがて「そうだね」と笑いだした。
「彼が」
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