第6話 みんなみんな、地獄に落ちてしまえ!
確かにそうかもしれない。彼女の姿に憐れみながらも、その前を素通りしていく態度は、鬼畜以外の何者でもなかった。人間の中から生まれた化け物、あるいは、化け物の中から生まれた人間。そのどちらであるにしろ、彼らが鬼畜である事には変わらなかった。彼らは「良心」と「悪心」との間にいつも揺れているが、「関わりたくない」という気持ちの前では、どんな良心も無力に等しく、結局は悪心の道を進んでしまうのである。彼女の姿に眉間を寄せ、その前に唾を吐きすてた男も、そんな道に進んでいった一人だった。
彼は数メートル程歩いていたとこで彼女の方をまた振りかえったが、彼女が自分の視線を気づかなかった事もあって、数秒後には町の道路をまた歩きだしてしまった。
セーレは、目の前の通行人達に施しを求めつづけた。
通行人達は数人の例外を除いて、彼女の声を無視しつづけた。周りの目がある以上、「浮浪者に情けをかけるのは恥ずかしい」と思ったらしい。彼らは彼女の姿をチラチラと見、彼女が善意ある通行人達(前述の例外人達だ)から施しを受けとると、それがまるで自分の善意、「本当は、自分もそうしたかんたんだ」といわんばかりに「うん」とうなずいて、ある者は満足げに、またある者は「ホッ」としたように笑っては、自分の正面にまた向きなおり、彼女の前からすぐに離れていった。
セーレは、目の前の老婆に頭を下げた。老婆は彼女の姿に胸を痛めたのか、財布の中から銅貨を取りだして、彼女の右手にそれを握らせたのである。セーレはその厚意に胸を打たれるあまり、青年の前で「わんわん」と泣きだしてしまった。
「あ、ありが、とう、ございます。こん、な」
最後の部分は、嗚咽に混じってよく聞こえなかった。
「う、うううっ」
セーレは右手の銅貨を握りしめつつ、嬉しそうな顔で目の前の老婆に微笑んだ。
老婆はまた、その顔に胸を締めつけられたらしい。最初は彼女の頭を撫でただけだったが、彼女がそれに「ありがとうございます!」というと、その右手にまた銀貨を渡して、彼女に「ごめんな。本当は私の家にお前を連れていきたいが、あいにくの大所帯だね。これ以上増えると、うちの人に怒られるんだよ」と謝り、彼女の前から静かに歩きだしてしまった。老婆は彼女の方はもう二度と振り向かず、黙って町の道路を歩きつづけた。
セーレは、その背中を見つづけた。老婆は「ごめんな」と謝っていたが、その気持ちだけでうれしい。自分の事を「助けよう」と思った気持ちだけで、自分はまた生きていける。この苦しい世の中をまた、一人で進んでいける。鬼畜な人間で溢れかえっている、社会の中を。
セーレはポケットの中に銅貨をしまうと、町のパン屋までいき、そこで一番安いパンの耳を買った。その数は、だいたい6個。粗末な紙袋の中に入れられて、普通のお客なら「ありがとうございました」と渡されるそれが、彼女のような客には「ありがとう」もなければ、「持っていけ」もなく、ただ無言で「ほれ」と渡される。まるで「本当は、売りたくない」と言わんばかりに「さっさと失せろ」と渡されるのだ「お前のような人間には正直、来てほしくないのだ」と、お客相手の商売とは思えない態度で投げられるのである。
「釣りは、いらない」
店主の男は不機嫌な顔で、お客の彼女を「しっ、しっ」と追いはらった。
セーレは、その要求に逆らわなかった。逆らったところで、今の状況は変わらない。自分の置かれている状況は。「浮浪者」というみじめな立場からは。店主の男に「ふざけないで!」と返しても、その立場は覆らないのである。それなら、下手に逆らわない方がいい。店主の男からどんなに冷たくされても、その言葉に「ありがとうございました」と返して、彼の前から立ちさった方がいいのだ。それが今の社会を生きる事、浮浪者達が生きるための処世術なのである。「自分よりも強そうな相手、高そうな身分の者には、できるだけ逆らわない方がいい」と。人間としては年相応に未熟な彼女だったが、そういう部分に関しては、普通の人間(特に同年代の少女達)よりもずっと大人だった。
「この世はどうせ、強い人が偉いんだから」
それも彼女の経験、つまりは口癖だった。
「弱い人はただ、強い人に踏みつぶされるだけ」
セーレは自分の言葉に眉を寄せつつ、良さそうな建物の外壁を見つけて、そこにサッと歩みより、外壁の表面に寄りかかって、袋の中から食料を取りだし、不満げな顔でその食料を食べはじめた。最初の一つ目はすばやく、次の二つ目はややすばやく、三つ目はその二つよりもゆっくりと、四つ目はさらにゆっくりと、五つ目はゆっくりと味わうように、六つ目は最後のそれを噛みしめるように。彼女はパンの耳をすべて食べおると、パンの耳が入っていた紙袋を丁寧に折って、ポケットの中にそれをしまい、外壁の表面から背中を離して、町の道路をまた黙々と歩きだした。
「はぁ」
溜息を一つ。いや、二つ。
「はぁ」
彼女は、自分の溜息にうつむいた。本当は「止めよう、溜息なんかついても無駄だ」と思っていても、町の光景が前から後ろへと流れていくたびに何ともいえない虚しさを覚えてしまったのだ。「町の人々はあんなにも笑っている、少なくても悲しんではいないのに。自分はどうして、こんなにも違うのだろう?」と、そう内心で思ってしまったのである。
彼らにはきっと、自分のような悩みはない。「次の食事には、ありつけるのだろうか?」という不安もない。当たり前の日常を当たり前のように生きている。あそこで友人と思わしき相手と話している女性も、自分の家に帰れば、温かい食事が待っているだろう。家の母親か、あるいは、その女中が作った温かい食事が、テーブルの上にそっと置かれているのだ。
「くっ」
セーレは、両手の拳を握りしめた。「自分はどうして、こんなにみじめなのだろう?」と。そう言葉では言わなかったが、少女達の顔をじっと見つめる眼差しや、それらの顔から視線を逸らした動きには、その悲しみがありありと浮かんでいた。
彼女達は、生まれながらの
人生の幸運に恵まれた
彼女達は自分の周りに「これが欲しい」と言わなくても、それの方からやってくる人間達なのだ。黄金色に輝く未来が、次から次へとやってくる人間達なのである。それこそ、「貧しい」の「ま」の字もしらない程に。彼女達は、富の従者を常に付きしたがえている少女達なのだ。
富の従者達は決して、彼女達の事を裏切らない。常に「分かりました」とうなずいている。自分への対応がどうであろうと、主人が一番に欲しいであろう言葉、最も喜ぶだろう物を見ぬいては、何の見かえりもなく、主人に「それ」を渡してしまうのだ。それがたとえ、自分の命を縮めるモノだとしても。自分の主人に頭をたれて、相手に「それ」を渡してしまうのである。
「くっ」
セーレはまた、両手の拳を握りしめた。そうしなければ、この悔しさに押しつぶされてしまう。人生の理不尽に踏みつぶされてしまう。どんなに抗おうとも抗えない、人生の理不尽に。残酷すぎる不条理に飲みこまれてしまうのだ。「幸せ」の渦に飲まれるのはいいが、そういう渦には飲みこまれたくない。不幸の渦に一度でも飲みこまれれば、(余程の事がない限り)そこから抜けだせないからだ。幸運の風に好かれるのは難しいが、不幸の渦に飲まれるのはたやすい。砂の楼閣が水に流れるように、今までの努力がすぐに飲みこまれてしまうのだ。
「う、ううう」
セーレは、町の中を黙々と歩きつづけた。その途中で疲れらしきモノは感じても、「そこで止まるのは何だか悔しい」と思い、止まりかけた足をまた動かして、町の西から東へと歩き、頭上の空が暗くなりはじまると、いつものねぐらに戻って、冷たい地面の上に寝そべり、悔しげな顔で両目の瞼をつぶった。
それがまた開かれた場所は……どうやら、夢の世界らしい。その世界には懐かしい風景があふれていて、彼女が目覚めた場所もかつての家、そして彼女自身も、昔の自分に戻っていた。彼女の周りには、その両親が立っている。彼女は両親の登場に驚いてしまったが、夢特有の非現実感が「これは、夢だ」と囁いてきたせいで、両親に自分の身体を蹴られるまでは、周りの風景に不思議な感覚を覚えていた。
「うっ」
セーレは、自分の腹を押さえた。腹の痛みが、あまりに強すぎる。普通の夢なら「痛い」という雰囲気だけを覚える筈なのに。この夢は妙に現実的で、しかも生々しさにあふれていた。まるで自分が両親から本当に蹴られているようである。
「くっ、うっ」
彼女は身体の痛みに耐えられぬあまり、夢の世界から「ハッ!」と飛びだしてしまった。その先に待っていたのは、現実。今の彼女が生きている、現実の世界だった。現実の世界には、いつもと同じ風景が広がっている。
セーレはその光景に「ホッ」としたが、同時に胸の不快感を覚えてしまった。
「気持ち悪い」
町の全体を照らしている朝日も、その朝日を浴びている人々も、みんなみんな……。
「気持ち悪い」
彼女は両目の涙を拭ったが、例の飢餓感を覚えると、その涙を静かに拭って、橋の下からゆっくりと歩きだした。橋の下からしばらくいった先には河川敷があり、そこを歩くのは気持ちよかったが、その奥にある階段をのぼり、鉄橋の上まであがった時は、今までの気持ちが消えて、代わりに憂鬱な気持ちが襲ってきた。
「はぁ」
セーレは暗い顔で、地面の上に座った。地面の上は、冷たかった。表面の水気は既に無くなっていたが、その冷気が僅かに残っていたせいで、彼女が道路の通行人達に「お願いします。何でもいいので、なにか恵んでください」と頼むまでは、それを痛い程に覚えてしまった。
彼女は、道路の通行人達に呼びかけつづけた。
通行人達は、その声を無視した。彼女の声はちゃんと聞こえていたが、周りの目がやはり気になるらしく、ほとんどの者が見て見ぬふりをして、互いの目をチラチラと見あっては、無言の内に「お前がやれよ」、「いやいや、お前がやれ」と言いあっていたのだ。それに混じっていた老人の顔も、不機嫌な感じで彼女の顔をじっと睨んでいたのである。
彼らは彼女の前からつぎつぎと離れていき、たまに気まぐれで立ちどまる事はあったが、それ以外には何の反応も見せず、ただ黙って彼女の前を素通りしていった。
セーレは、その光景にうつむいた。「ああ。この世はやっぱり、無慈悲だ」と、そう内心で思ったが……それすらも忘れてしまう光景が、彼女の目に飛びこんできた。視線の先に見える、一台の馬車。馬車の中には美しい少女が座っていて、その衣服も絢爛豪華、貴族の華を綺麗に咲きほこらせていた。
セーレは、その少女に衝撃を覚えた。歳の頃は自分と同じくらいだが、その格差があまり違いすぎて、気持ちの柱がポキッと折れてしまったのである。彼女は少女の馬車が見えなくなった後も、不機嫌な顔でその残滓を睨みつづけた。
「墜ちろ」
みんなみんな……。
「地獄に墜ちてしまえ! 真っ赤な炎に焼かれて、真っ黒な灰になっちゃえばいいんだ! 何もかもを失って、そう! あの子も、失えばいいんだ! あんなに綺麗な服を着て、うっ。こんなのは、不公平だよ。わたしとあの子は、同じ人間なのに。その人生がまったく違うなんて、そんなの酷すぎる。わたしだって、綺麗な服を着たいよぉ。カッコいい男の子と恋がしたいよぉ。オシャレなお店に入って、それから……うううっ」
彼女は「うわん」と泣きくずれると、悔しげな顔で「あの子」が不幸になる様を思いうかべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます