第5話 理不尽な世の中
町の中は、宿屋の中に入る前とほとんど変わっていなかった。道路の両脇に建っている商店はもちろん、その中で買い物を楽しんでいる客達も(時間の関係で女性が多かったが)、穏やかな顔でそれぞれの時間を過ごしていた。それを眺めているセーレがどういう気持ちかも知れず、店の主に「これ、素敵ですね!」と微笑んでは、持ち前のあざとさで店主に値切りを頼んだり、それが叶わない時は「ええ、ひどぉい!」と叫んだりしていたのである。「よその店は、もっと安く売っていたわよ?」
彼女達は半分冗談、半分本気で、店の中からふわりと出ていった。
セーレは、その光景に苛立った。自分はお洒落を楽しむどころか、それ以前の問題で……とにかく、イライラしてしまったのだ。彼女達の見せる笑顔に、その笑顔を知っているあざとさに腸が煮えくりかえってしまったのである。
「あの子達は」
そう、何もしらないのだ。彼女達が笑っている裏で、泣いている女の子達がいる事に。その女の子達が、彼女達の優越感を満たしている事に。これっぽっちも、その脳裏に浮かべる事すらしたいのだ。「今の日常が当たり前」と、そう信じきっている。あるいは、その暗部をしる事すらできないのもしれない。彼女達は日常の光を浴びすぎているせいで、そこに影が差している事はもちろん、その影が意外と深い事にも気づけないでいるのかもしれないのだ。その影がいつ、自分に迫るともしれずに。彼女達は、「今の日常がずっと続く」と思っているかもしれないのである。
「人生の落とし穴は、そこら中にあるのに」
セーレは、自分の言葉に胸が締めつけられた。自分ではふと何げなくいった言葉だったが、それが胸の奥にまで届いて、激しい痛みを覚えてしまったからである。
「あの子達は」
そこから先を言わなかったのは、彼女なりの
自分の家に帰ってきたわけではないが、それが与える安堵感にホッとしてしまい、地面の上に座った時はもちろん、道行く人々の顔をまた眺めはじめた時も、不思議な安心感を覚えてしまったのである。彼女の視線に気づき、その視線をチラッと見た女性も、彼女に対して驚きはしたが、それ以外の反応はまったく見せず、真面目な顔で町の道路をまた歩きはじめてしまった。
セーレは、その背中をじっと見つづけた。その背中が自分を救ってくれるわけではない。自分のところまでわざわざ戻り、自分に手を差しのべてくれるわけでもない。文字通りの素通りである。彼女に対する情けも……いや、そう決めるのはまだ早いかもしれない。これはあくまで想像だが、女性は彼女への関心を捨てる事で、彼女の尊厳を守ろうとしたのかもしれなかった。
セーレは、その善意に胸が熱くなった。名前も何も分からない相手だが、世の中にはああいう人もいる。「無視」に善意を込められる人が、「不干渉」に愛情を込められる人が、この社会にもしっかりといるのだ。彼女がまだ知らないだけで、「親切な人」は意外とたくさんいるのである。彼女の姿に胸を痛めたらしい老人も、彼女に「大丈夫か?」と話しかけて、その手に大きなパンを渡してくれた。
老人は優しげに笑いつつ、彼女の頭をそっと撫ではじめた。
「『今日は一つ、こいつを平らげよう』と思ったが、老人一人じゃ流石にきつい。美味い者は、いろんなもんと分け合わんとね?」
その言葉はたぶん、嘘だろう。老人が一人で、こんなに大きなパンを食べられる筈がない。彼はたぶん、最初は「自分の妻や孫達と一緒に食べよう」と思っていたが、たまたま目に入った彼女の姿、特に擦りきれた衣服に憐れみを覚えて、彼女に「このパンをあげよう」と思ったに違いない。それを確かめる術はなかったが、老人が別れ際に彼女の頭をまた撫でた事や、彼女に「こんな事しかできずにすまんな」と謝ったところを見れば、その予想もあながち間違っていないように見えた。
セーレは遠くの老人に頭を下げて、それから右手の食料とゆっくりと食べはじめた。食料の味は、美味しかった。その表面には何も塗られていなかったが、それが口の中へと入るたびに何ともいえない美味を感じてしまったからである。彼女は自分が周りからどんなに笑われ、見くだされても、一心不乱で自分の食事を食べつづけた。それを食べおえたのは、彼女がその満足感に悲しみを覚えた時だった。
彼女は寂しげな顔で、自分の右手を見つづけた。もう何も握られてない自分の右手を、パンの感触が僅かに残っている肌を、「食べちゃった」と何分も見つづけたのである。「もう少しゆっくりと食べれば、よかった」と、そう後悔に打ちのめされたのだ。あんなに大きなパンなら、最高で三日、最低でも二日は持つ。パンの端を少しずつちぎり、その量に「これくらいでいいんだ」とうなずけば、腹の満腹感は得られないが、飢餓感の方は覚えなかっただろう。「自分の命が危機に瀕している」という、そんな感覚を覚えるような危機感は。
彼女は身体の飢餓感から逃れたい一心で、その危機感から逃れる術をすっかり失ってしまった。「はぁ」の溜息も、重い。それからつぶやいた、「バカ、死んじゃえ」という言葉も。すべてが、彼女の絶望を表していた。
彼女は悔しげな顔で、地面の上にまた座りなおした。だが、町の天気もどうやら意地悪らしい。彼女が施しのパンを食べている時は晴れていたが、地面の上にまた座りなおした瞬間、その表情を急に変えて、空の太陽をすっかり隠し、それに代わって雨を、しかも大粒の雨を落としはじめた。
雨は地面の上につぎつぎと落ちていき、そこを歩いている通行人や、建物の屋根をゆっくりと濡らしていった。その空間に立っていたセーレも、周りの人々が雨粒から逃げる姿をならい、鉄橋の下(しばらく行ったところに階段が設けられている)をすばやく降りて、雨風の防げるところまでいき、服の水気を叩きおとして、地面の上にそっと座った。
セーレは両腕で自分の足を囲うように抱き、さっきよりも激しくなった雨に目をやっては、その雨音に耳を傾けて、それが止むのをじっと待ちつづけた。雨は、なかなか止まなかった。季節的にはまだそういう時期ではなかったが、様々な条件らしいモノが重なって、いつもならすぐに止んでしまう雨も、今日に限っては休む事なく降りつづけていた。
セーレは、その光景に暗くなった。橋の近くを流れる運河が、その雨に打たれる様子にも。その雨音が、自分の耳を打つ音にも。あらゆるモノに「憂鬱」を覚えてしまった。雨と一緒にやってきた風が、自分の頬に当たりはじめた感触も……「くっ」
彼女は両脚の間に顔を埋めて、その冷たさから少しでも逃げようとした。だが、所詮は無駄なあがき。浮浪者の少女ができる、ささやかな抵抗である。風雨は彼女の事を
セーレは、その冷たさに震えあがった。
「助けて」
もう……。
「いや」
彼女は両目の涙を拭おうとしたが、風雨の冷たさに体力を奪われてしまったせいで、その意識がゆっくりと薄らいでいき、挙げ句は地面の上に横たわってしまった。
「う、ううう」
彼女の身体が震えだしたのは、それからすぐの事。その震えに続いて、悪寒が走ったのは数秒後の事だった。悪寒は、彼女の身体をすっかり覆ってしまった。
セーレは「それ」に何とか抗おうとしたが、異常な程の眠気に襲われてしまい、最初は「負けてたまるか!」と思っていた気持ちも、最後は暗幕のようにスッと降りてしまった。それがまた上がったのは、彼女が地面の上に倒れてから約一日、つまりは翌朝の事だった。
彼女は悪寒の気配が残る身体を起こして、自分の周りを恐る恐る見わたした。彼女の周りには、昨日とほぼ同じ風景が広がっている。雨のせいで濁っている運河も、それが上に漂っている木の枝も、その種類は僅かに異なっているが、ほとんどの物が昨日と同じだった。枝の上に降りたった水鳥も、自分の周りを注意深く眺める動きが微妙に違っているだけで、そこからまた飛びたった時間もコンマ数秒程の違いしかなかった。
セーレは、その光景をぼうっと眺めつづけた。それ以外に何かしようと思っても、活気の扉が閉ざされてしまって、その意欲がまったく沸いてこなかったからだ。「このままじゃダメだ」と焦っても、その焦りを覚えるだけで、それを行動に移すわけではない。無気力な焦りをただ、覚えつづけるだけだった。近くにあった石を拾って、運河の中にそれを投げたのも、その気持ちを少しでも紛らわそうとしたからである。
彼女は波紋の広がる水面をしばらく眺めていたが、その波紋がやがて見えなくなると、両脚の間にまた顔を
「みんな、幸せそう」
彼女は運河の方にまた視線を戻したが、突然の飢餓感に襲われた事や、通行人達に自分の姿を見られた事がきっかけで、「そこから逃げだしたい」という衝動を覚えてしまい、地面の上から素早く立ちあがると、自分の顔を隠すように俯いて、今の場所からそそくさと歩きだしてしまった。
「きもちわるい。わたしは、見せ物じゃないんだよ?」
セーレは鉄橋の裏をうまく使って、そこの階段をすぐにのぼり、周りの浮浪者達に混じって、いつもと同じ物乞いを、人の良さそうな通行人達に「何でもいいです。わたしに物を恵んでください」と頼みはじめた。
「朝からなにも食べていなくて」
通行人達は、その言葉に眉を寄せた。その言葉に嫌悪感を覚えているわけではないようだが、彼女の姿があまりに悲しすぎて、それに応えようと思っても、不器用に「助けたいのは山々だが。すまないね、私にも自分の家族がいるんだよ」と断る事しかできなかったようである。彼らはすまなそうに「ごめんな」と謝ると、悲しげな顔で彼女の前から立ちさった。
セーレは、それらの背中をじっと見つづけた。本当はそれらの背中に「ふざけるな!」と叫びたかったが、それを叫ぶだけの気力はなく、また仮にあったとしても、「叫んだら叫んだで、余計に虚しくなる」と思い、喉から出かけた罵声をすぐ引っ込めたのである。彼女は両手の拳を強く握ったまま、悔しげな顔で周りの人々を睨みはじめた。
「あなた達は、鬼畜だよ」
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