第3話 哀しているわ

 そこからヨハンが動きだしたのは、人々の笑い声に「ハッ!」としたからなのか、それとも単純な理屈で我に返っただけなのか、その真意は本人にしか分からなかったが、とにかく「店に戻ろう」とは思ったらしく、馬車の走っていった方向から視線を逸らしては、何処か真剣な顔で町の道路を歩きだした。

 

 ヨハンは、町の道路を黙々と歩きつづけた。道路の端には様々な店が、それらの前にも様々な人が溢れていたが、それらのほとんどは飲んだくれか、艶やかな女性に「ねぇ? 寄っていってよ?」と誘われている若者、その誘いに「クククッ。ああ、いいぜ」とうなずいている中年男だった。彼らは周りの視線などまったく気になせず、己が本能にのみ従って、若者は仲間達の言葉に煽られ、中年は自身の本能に煽られ、それぞれが求める店の中へと入っていった。

 

 ヨハンはそれらの光景を眺めこそしたが、内心では「いつもと変わらない風景」と思っていたようで、自分の周りからどんなに嫌らしい声が聞こえても、ほとんど気にせずに自分の店へと帰っていった。

 

 

 その翌日……というのは、正しい表現ではないかもしれない。カノンが彼の店にまた訪れたのは、人間の欲望が顔を出す夜ではなく、その本能が隠れる昼だったからだ。彼女は、多くの人が「理性的であろう」とする時間に「今日は」と現れたのである。これには、流石のヨハンも驚いてしまったようだ。彼女の身なりは昨日とあまり変わらなかったが、何となく甘い雰囲気が漂っていて、服の隙間から時折見える(たぶん、「わざとだ」と思うが)みずみずしい肌が、それをたまたま見てしまった通行人や、あらゆる少年達の視線を釘付けにしていた。


 カノンはそれらの視線を無視して、目の前の少年にのみ「クスッ」と微笑んだ。


「約束通り、また来たわよ?」


 ヨハンは、その言葉にうまく応えられなかった。言葉の意味は分かっていたようだが、彼女の行動力に驚くあまり、しばらくポカンとする事はできても、その言葉に「いらっしゃい」と返す事はできなかったらしい。彼は思考の川がもう一度流れだすまで、目の前の少女をじっと眺めつづけた。「ああ、うん。いらっしゃい」とようやく返せたのは、それから数分後の事である。「こんな時間から凄いね?」


 カノンは、その言葉に赤くなった。今の言葉が、本当に嬉しかったからだ。彼が自分の行動に偏見を、それを「」とあざ笑わなかった事に。性の魔力に魅せられている彼女ではあったが、そういう部分は年相応なようで、どうでもいい相手には「どう思われてもいい」と思っている一方、自分が好意(あるいは、好感)を抱いた人間、少なくても「この人には、自分のすべてを曝けだせる」と思っている人間にはやはり、「そう思われたくない」と思っていたようだった。だからこそ、今の「こんな時間から凄いね」がこの上なく嬉しかったのである。


 彼女は満面の笑みで、彼の手をそっと握った。


「この手にまた、『泣かされたい』と思ったから」


 ヨハンは、その言葉に押しだまった。「彼女はたぶん、いや絶対に! 普通のお客様ではない」と、そう無意識に感じたようだが……まあいい。彼の心境を推しはかれば、おそらくはそんな感じだろう。彼女に対する不思議な感情が、そこから生まれる一つの憶測が、こう訴えているからだ。「彼女はそう、今までの客とは違う」と。彼の技術だけに酔いしれ、満足げに「ありがとう」と帰っていく客とは。好感以上の感情を覚えない、大人の女性客達とは。彼女は根本こんぽんからして、それらのお客様とはまったく違うのだ。

 

 ヨハンはその感覚に驚いたようだが、それもすぐに収まってしまった。彼女の本質が何であろうと、自分は「それ」を満たす専門家でしかない。そう一瞬の内に思ったようで、店の中へと彼女を導いた時には、いつもの彼にすっかり戻っていた。

 

 ヨハンは昨日と同じく、テーブルのところに彼女を連れていき、そこにある椅子の一つを引いて、その上に彼女を座らせた。

 

 カノンは、その親切を拒まなかった。彼の親切は、とても温かい。彼がサービスで煎れてくれた紅茶も同じくらいに温かいが、それをすっかり飲みおえると、その温かさが薄れて、何処か切ない気持ちが沸いてきた。


「不思議ね」


「なにが?」


 ヨハンはティーカップの内側を洗いつつ、不思議な顔で彼女の方を振りかえった。


 カノンは、その表情に微笑んだ。


「貴方の紅茶には、色々な味が混ざっている」


 それがヨハンの心を揺れ動かしたのか? 彼は食器棚の中にティーカップを戻すと、その場に立ったままで、彼女の目をじっと眺めはじめた。


「例えば?」


「例えば?」


「どんな味が混ざっているの?」


 カノンはその答えをしばらく考えたが、やがて「」と答えはじめた。


「温かい方の愛じゃなくて、寂しい方の哀ね。それが味の中心に立っている。その周りには、温かい方の愛や、もっと温かい慈悲が渦巻いているけれど。それらは、『哀』を引き立たせるための脇役でしかない」


「女の人は、そっちの方が好きそうな気もするけど?」


 カノンは、その言葉に溜息をついた。


「ワタシは、『愛』よりも『哀』の方が好き。そっちの方が、大人の感じがするからね。『愛している』に『愛している』と返す恋愛は、ママゴトの中でやる恋愛だわ」

 

 ヨハンは、その言葉に目を見開いた。


「すごいね」


「なにが?」


「君が、さ」


「それは、褒めているの?」


 その質問に対する答えは、無言。「否定」でもなければ、「肯定」でない沈黙である。ヨハンはその沈黙を保ったまま、彼女のところに戻っていったが、彼女が椅子の上から立ちあがると、自分の仕事に気持ちを切りかえて、店の奥にまた視線を移した。


「お風呂はもう、沸いているから」


「そう」


 カノンは「ニコッ」と笑って、店の奥に歩いていった。……そこから先の流れは、あえて書かなくてもいいだろう。同じような事が、同じように繰りかえされる光景。早熟の少女が、大人の疑似快楽を味わう光景だけなのだから。無理に書く事はない。大事なのは、「それ」がどういう影響をもたらしたかだ。二人の関係性にもたらした影響、特に「カノンの生活にどういう影響をもたらしたのか?」という事である。


 カノンは所謂……平たく言えば、店の常連客になった。自分の身分が貴族、貴い血統にも関わらず、ほぼ年中無休でやっている彼の店を訪れては、店主の彼に「今日もお願い」と頼んで、その快楽を味わうようになったのである。「貴方の与える快楽は、本当に最高だから」


 彼女は自分の身体が彼に揉まれるたび、そのオイルがゆっくりと塗られるたびに「ああ、ううう」と悶えて、自分が女性である事、女性が女性である故に味わえる快楽を思いきり楽しみつづけた。


 ヨハンは、その光景に眉を寄せた。その光景自体が不快だったわけではないが、彼女の乱れる姿を見て、彼なりに思うところがあったらしい。彼は確かに専門家ではあったが、利益第一の商売人ではなかったようで、彼女がいつものように果てると、その横に音もなく立って、彼女の顔をじっと見おろしはじめた。


 カノンは、ヨハンの瞳を見つめた。


「ありがとう。今日も、凄くよかったわ」


 ヨハンは、その言葉に押しだまった。


 それを不思議に思ったのか? カノンは彼の顔をしばらく眺めていたが、流石に耐えられなくなってしまい、彼がまだ黙っているにも関わらず、寝台の上から上半身を起こして、その顔をじっと見つめはじめた。


「どうしたの?」


 ヨハンはその言葉に戸惑ったが、それも数秒程で終わってしまった。


「君のご贔屓ひいきは、嬉しいよ? この店を気に入ってくれて。ただ」


 なに? と訊くまでもない。ヨハンはお客の口から漏れている涎を見て、その汗とオイルがぐちゃぐちゃに混ざっている光景を見て、言いようのない不安感を覚えていたのである。お客の目から視線を逸らしたのも、それを裏づける確かな証拠だった。


 カノンは、その証拠に首を振った。


「心配しないで」


「でも」


「貴方は、何も悪くない。ワタシは、貴方の技術が好きなだけ。貴方の与える快楽だけが」


 カノンは彼の首に手を回し、その頭を引いて、彼の唇にそっと口づけした。


あいしているわ」


 数秒の沈黙は、彼がその言葉に戸惑ってしまったからだろう。ようやく返ってきた言葉にも、何処か少年らしい動揺が見られた。


「それは、温かい方の愛?」


「いいえ、寂しい方の哀。貴方は、ワタシの寂しさを紛らわせてくれる」


 カノンは、彼の身体を抱きしめた。自分が今、裸である事には気づいていても。そんな事などまるで無視して、彼に自分の身体を教えたのである。


「ずっと一緒にいて」


 お願い、と、彼女はいった。


「ワタシには、貴方が必要なの」


 ヨハンは、その言葉に俯いた。普通の少年なら迷わずに「うん!」とうなずきそうな告白も、彼にとってはすぐにはうなずけない告白だったようである。「うっうう」と震える眉間も、その苦しみを示す現れだったようだ。


「レーンさん」


「なに?」


「君は、素敵な女の子だ」


「え?」


「道行く誰もが振りむく美少女、その金髪かみにふさわしい綺麗な女の子だ。そんな女の子を」

 

 そこで黙ったのは、彼なりの葛藤だったのかもしれない。ヨハンは心の乱れがなかなか収まらないのか、しばらくは両手の拳を強く握りしめていた。


「僕なんかが独り占めできない。僕と君とは、身分が違うんだ」


 それは、明らかな謝罪。彼女の告白に対する、「ごめん」の返事だった。ヨハンは彼女の顔を恐る恐る見、すまなそうな顔でその目をじっと見つめはじめた。カノンも黙って、その目を見つめ返した。二人は何も言わないまま、互いの目をしばらく見合っていたが、カノンが静かに笑いだすと、それまでの空気がすっかり無くなってしまった。


 カノンは、彼の身体をそっと放した。


「相手と結ばれるだけが、一緒にいる事じゃない。ワタシが『一緒にいて』といった理由は、『これからもワタシと付き合って欲しい』って事なの。ワタシが欲しい快楽を、貴方が与えつづける関係。結婚とかいう契約よりも、ずっと深い絆で結ばれている関係。そういう関係を『続けて欲しい』って事なの」


 分かった? と、彼女はいった。



 ヨハンは、その言葉に眉を潜めた。「君の両親は、それで納得するのか?」と。だがそれは、文字通りの杞憂きゆうに終わってしまった。その言葉を聞いたカノンが、ニッコリ笑ったのを見ても分かるように。「心の解放」という点においては、カノンの方がずっと大人であるようだった。

 

 カノンは寝台の下に降りて、彼の目をじっと見つめた。


「大丈夫よ。ワタシの両親も、そういう風に結ばれたから」

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