第25話 失いたくない人(前編)
約束の時間は、しっかりと守る。それがヨハンの
ヨハンは通り側の椅子を引いて、その上にゆっくりと座った。ミレイがそこに現れたのは、従業員の女性がヨハンに注文を聞こうとした時だった。彼は遠くの彼女に手を振って、自分のテーブルに彼女を導き、彼女から注文を聞いて、目の前の従業員に「二人分の紅茶とケーキをお願いします」と頼んだ。
「ケーキの方は、ゆっくりでいいので」
「かしこましました。少々お待ちください」
従業員は「ニコッ」と笑って、厨房の方に歩いていった。
ヨハンはその背中を見送ったが、目の前のミレイに「ねぇ?」と話しかけられると、彼女の方に視線を移して、その目をじっと見はじめた。
「なに?」
「え、いや、その……」
ミレイは、自分の気持ちに意識を向けた。気持ちの中では、様々な感情がうずまいている。「彼とまた、こうして話せた」という感情も、そして、「彼とたくさん話したいのに、その話題がうまく見つからない」という感情も。それらの感情がいくつも混ざりあっていた。「自分の悲哀を悲哀で終わらせたくない」という感情も、そこにたくさん流しこまれていたのである。彼女は彼にある意味で最も恐ろしい質問、自分の感情が壊れるかもしれない疑問を投げかけた。
「ヨハンは、私の事を恨んでいる?」
今度は、ヨハンの方が押しだまった。彼女の質問があまりに衝撃だったようである。ヨハンは彼女の目をしばらく見ていたが、やはりどこか気まずいらしく、テーブルの上に目を落としては、複雑な顔でその表面を見おろしはじめた。
「僕が、君の事を恨んでいる?」
「そう、私の事を今でも。私は昔……もしかしたら、今もかもしれないけど。あなたに酷い事をしてしまったから。それが原因で」
「君を恨む理由は、どこにもないよ? それどころか」
「それどころか?」
「僕はずっと、君に謝りたかった……うんう、謝らなきゃならなかったんだ。僕が馬鹿だったせいで、君にあんなはずかしめを。男の子には、決して見られたくない姿を。僕はその姿に魅せられて、自分の大事な者を傷つけてしまった。その罪だけは、どうやっても消えない。今の仕事に一生を捧げたとしても。それだけは」
「ヨハン」
「本当にごめん、ミレイ」
ミレイは、その言葉に思わず泣きだしてしまった。周りの人々はそれに「なんだ? なんだ?」と驚いているが、そんな事は気にしない。彼女は目の前の幼馴染に「落ちついて」といわれても、うれしそうな顔で自分の涙を流しつづけた。
「馬鹿みたいだね、私達。本当はお互いの事、ちっとも恨んでいなかったのに。今日の今日まで、まったく気づかなかったんだから。本当に大馬鹿者だよ」
「そう、だね。本当に大馬鹿者だ。相手の気持ちにも気づけない大馬鹿者」
ヨハンは、自分のおろかさを笑った。ミレイも、同じ部分を笑った。二人は互いが互いを許しあった気持ち、そこからくる喜びにしばらく笑いあってしまった。
ミレイは、自分の紅茶をすすった。
「ねぇ、ヨハン」
「なに?」
「私達、やりなおせないかな? 昔みたいに」
ヨハンはまた、彼女の言葉に押しだまってしまった。どうやらまた、心の葛藤を覚えてしまったらしい。
「それはたぶん、『無理だ』と思うよ? 少なくても昔のようには。僕はもう、貴族じゃないし。ああいう店もやっているしね? 今も貴族である君とは」
対等な関係になれない、と、彼はいった。
「君の方が『対等だ』と思っていたとしも。一度落ちた階段には、もう二度とあがれないんだ」
「そ、そんな事、やってみなきゃ!」
「分かるよ」
「え?」
「やらなくても分かる。いや、分かってしまう。『社会』というのは、特に『貴族』という人種は、そういう世界を大事にするんだ。家の名を磨こうとはしないが、それを落とされるのは好まない。
「同じ?」
「だろうね? 『それが悪い』とは、思わないけど。僕個人としては、『あまりいい』とは思えない。過去の栄光にいつまでも頼ろうとするのは」
「そ、そうね。だから」
「ん?」
「私は、自分の母親が許せない。私の母親は、本物の悪女だよ。昔の失恋を根に持って、復讐の機会をずっとうかがっていたんだから。とんでもない悪女だよ。私とヨハンをずっと遊ばせていた理由だって!」
「うん、僕の父上、父さんに対する復讐だった」
「気づいていたの?」
「それに気づいたのは、ずっとあとになってからだけどね? 君の母親はたぶん、こう思っていたんだ。『貴方の事は、決して忘れない』と。自分の恋を踏みつぶした、貴方の事は」
「怖いね?」
「うん、本当に怖いよ。僕の父さんも、それにはずっと悩んでいたようだった。『そもそもの原因は、自分だというのは分かっている。彼女が自分に恨みを抱く気持ちも。自分には、それを否める権利はない。権利はないが、やはり素直にうなずく事はできない。彼女の復讐にこれ以上付きあいつづける事は』と。父さんは……直接ではないけれど、僕にもそれとなくいって、何度も『すまない』と謝った。『お前にも嫌な思いをさせて』と。『自分があの時、君のお母さんと結ばれていれば』ってね。君の家は、文字通りの名家だから」
ミレイは、その言葉にしばらく応えられなかった。
「ねぇ?」
「うん?」
「貴方のお父さんは」
「僕のお父さんは?」
「貴方のお母さんの、どこに惹かれたの?」
ヨハンはその答えに戸惑ったが、やがて「クスッ」と笑いだした。
「たぶん、『中身』じゃないかな? 僕の母さんは確かに美人だけど、だからって物凄い美人ってわけでもないしね。考えられるとすれば、『中身の部分しかない』と思う。母さんは、苦労の人だったからね? 人の痛み、悲しみ、苦しみをたくさんしっている。それがもたらす不幸せもしっている。普通の人が、普通じゃなくなる不幸を。母さんは、それに苦しんでいた。自分の身体をすりへらすように。だから、父さんに救われた。誰よりも頑張っていた母さんだからこそ、そこに救いの手が差しのべられたんだ。母さんはその手を握って、真っ暗な世界から解きはなたれた」
「幸せな人だね?」
「うん、本当に幸せな人だ。周りの人達は、いろいろといったらしいけど。それでも幸せな事には、変わりない。それを救いだした父さんも。二人は人間の損得では決して買えない、本当の幸せを手に入れたんだ。人間が人間らしくいられる幸せを。自分の本能にしばられない幸運を。二人はその幸運に恵まれて、周りの人々からどんなに拒まれても、その幸せを
ミレイは、その話に目を見開いた。特に「自分の家から追いだされた時も」の部分には、妙な違和感を覚えてしまい、彼が自分に笑いかけた時も、不思議な顔で彼の顔を見つづけてしまった。
「追放は、家の体裁を守るためじゃなかったの?」
ヨハンは、その質問に笑みを消した。どうやら、その質問で気持ちが引きしまったらしい。
「表面上では、そうなっているけどね?」
その真実は違う、と、彼はいった。
「ここから先は、誰にもいわないでほしいんだけど? いい? それくらい大事な話なんだ」
「う、うん、いいよ。誰にもいわない、絶対に」
ヨハンは、その言葉に微笑んだ。今の「絶対に」は、決して裏切られない「絶対に」である。
「君との一件があった後、両家の間で話しあいがなされたのは覚えているよね?」
「もちろん、覚えている。貴方に対する処罰をどうするか? それをじっくりと話しあった。私としては、まったくうなずけなかったけど。貴方のやった事はやっぱり、私の尊厳を傷つける行為だったから。それに対する処罰も、決して甘くしてはならない。私の母親は、貴方の地位
「その結果が追放、正確には追放も兼ねた地位剥奪だけどね? 父さんはすべての事情を察しながらも、家の書斎に僕を呼んで、僕にその旨を伝えた。僕は、その罰を拒まなかった。いや、正確には『拒む必要がなかった』といった方が正しいかもしれない。僕は元々、『貴族』という存在自体に疑問を持っていた。貴族も町の人々と変わりない……それこそ、普通の人間なのに。今以前の風潮に従って、ある種の特権が与えられている。町の資本家達と手を結ぶ事で、その地位を保とうとしている。その感覚が、僕にはどうしても分からなかった。僕は、貴族のヨハン・ロジクじゃない。人間のヨハン・ロジクだ。特別な力はなにもない、ただ普通の人間。『ヨハン・ロジク』という、ただの男でしかないんだ。それに特別な地位を与えるなんて。僕は君への償いはもちろん、そういった
「今のお店を開いたの?」
「僕だけの力じゃないけどね? 僕はいろんな人の力を借りて、今の店をなんとか開いた。最初の頃はやっぱり、うまくいかなかったけどね。失敗の連続だった。僕は商売道具であるオイル、お客様からは『不思議なオイル』なんて呼ばれているけれど。それを何度も作りなおして、今のオイルにたどりついた。女性の快楽を満たす、安全性の高いオイルを。他者との交わりから得られる幸せ、それに擬した快楽を。僕は、そのオイルを使って」
「ごめんなさい……」
「え?」
なにが? と、ヨハンはいった。
「ごめんなさい、なの?」
ミレイはまた、彼の言葉に泣きだしてしまった。彼の言葉に胸を打たれたわけではなく、ただ感情のままに泣きだしてしまったのである。
「うんう、ただ」
「ただ?」
「ヨハンは、凄いね? 私とは、まったく違う」
「そんな事は、ないよ? これはいわば、僕の意地みたいなモノだから」
「それでも!」
やっぱり凄いよ、と、ミレイはいった。
「ヨハンは」
ヨハンは、その言葉に首を振った。
「ミレイだって、自分の大切な人を守ろうとしているじゃないか?」
「ハウワーの事?」
「そう、彼女の事を。彼女は、君の親友なんでしょう?」
「うん、唯一無二の親友。ヨハンは、私の相棒だったけど。彼女の場合は」
「違う?」
「うん」
「そっか」
ヨハンは自分の周りを見わたして、それからまた、目の前の元相棒に視線を戻した。
「ねぇ?」
「うん?」
「彼女とは、どこで知りあったの?」
その質問に彼女が驚いたのは、それがあまりに突然だったからである。ミレイはどこか悲しげな顔で、親友との出会いを思いかえした。
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