第12話 再会は唐突に
随分と奥まで進んだところで、急に視界が拓けた。そこだけがぽっかりと巨大な円に切り抜かれ、緑の絨毯が敷かれているかのように草が地面を覆い尽くしていた。
円の中心には人一人を飲み込めそうなほど大きな花弁を持った蕾。まるでそれが花開くために用意されたような空間だ。
「なんだありゃ」
「不用意に近づかない方がいい。嫌な感じがする」
ピルリスが柄を握る。彼女だけではなく、ルルトもまた警戒心を露わにしていた。
変化はなんの前触れもなく訪れた。ゆっくりと花弁が開き始めたのだ。
その中から姿を現したのは人間――否。
「なんで天使がこんなとこにいんだよ!」
「翼が四枚――中級天使かー。ちょっとまずいよねー」
中級天使を相手にする場合、通常は一〇から二〇人の天輪使いで対処する。それでようやく勝てるレベルだ。この場にいるのはたったの五人。戦うには分が悪すぎる。
「そんな……」
ロキエは震えた声を漏らす。眼前の信じがたい光景に目をむいた。
「どうするー? 逃げ――」
「なんで、こんなところに……」
「ロキエくん?」
パルが小突いてくるが、それどころではなかった。
何故なら、目の前にいる天使は――
「エミル」
銀色の髪。赤の混じる同色の瞳。見間違えるはずがない。人形のように生気がまったく感じられないことを除けば、その天使はかつてエミルだったモノだ。
その呟きで、パルたちは状況を理解した。
「あれが逃がした天使か。こんなとこにいるたあラッキーじゃねえか」
「うん、まだ調整が終わっていないみたいだねー。今なら倒せるかもー」
天輪使いが天使化した場合、すぐに天界に行くことはできない、ということがわかっている。天使化直後では天界での活動に身体が耐えられないため、調整を行っているというのが有力な説だ。そのため、彼らはしばしこの世界にとどまざるを得ない。ただ、普通はデウスクラウスムの効果範囲外まで逃れてから調整に入るため、このように近くにいることは珍しかった。
「天使化直後に力を使いすぎたことが原因か。とにかく今はあれを殺すのが先決だ。行くぞ」
ピルリスが迷いなく駆け出し、パルとラルアが後に続く。そんな中、ロキエはその場から一歩も動くことができなかった。
「……大丈夫ですか?」
ルルトの声がとても遠く聞こえた。
もう二度と会うことはないと思っていた。殺戮の天使となった彼女など見たくなかった。だが、たとえ敵だとしても彼女に会いたかった。相反した感情のその先で、ただ一つの決断を迫られる。
――お前にエミルを殺すことができるのか。
ここがきっと汚名を返上する最後のチャンスだ。彼女と戦うことができなければ、ロキエはこの部隊で――いや、これから先、どこに行っても信頼を得られないだろう。
選択肢はたった一つしか存在しない。戦う以外の結論はあり得ない。だからこそロキエは沈黙していた。選ぶだけの覚悟がない。眺める視線の先ではすでに戦闘が始まっていた。
ピルリスが花ごとエミルを両断しようとする。天使すらも切り裂く刃は、花弁を散らすだけにとどまった。空を仰げば四枚の翼を広げた天使が、こちらを見下ろしている。その身体には傷一つない。
「愚かな咎人よ。その身をもって贖え」
エミルは虚空から剣を取り出した。その剣身に炎が渦巻き、空気を揺らめかせる。明らかに彼女の天輪の力ではない。
「ラルア!」
「るっせぇ! わかってらあ」
振り下ろされた剣から放たれた蛇のごとき炎。だが真横から風が凪ぎ、その流れを変えた。ピルリスから狙いの逸れた炎が緑を焦がす。
エミルがもう一度炎を出そうとすると、死角から矢のごとくパルが突撃。強烈なパンチが轟音とともに空間を弾く。辛くも避けたエミルは空中で体勢を整え、すぐさまパルに襲いかかった。
パルがいくら剛力を持っていたところで空を飛べるわけではない。だが、彼女の小さな身体を風が攫い、エミルの剣は空を切った。
一番の脅威をラルアと認識したのか、エミルは彼に剣先を向ける。
そこへ上方から風が吹き荒れ、彼女を地面へと叩き墜とした。目に見えるほどの空気の流れが、まるで檻のように一帯を囲い込む。
「これで逃げらんねえぞ」
エミルは風檻を一瞥する。空の利を諦めたのか大地に降り立った。
着地のタイミングを狙って飛び込むピルリス。その刀が袈裟に振るわれる。エミルは避けることなく、自らの剣で受け止めた。激しい剣戟の音が響く。
「なっ――」
なんでも切断すると豪語していたはずのピルリス。しかし、彼女の刀はエミルの剣を切断できなかった。
驚愕により隙が生まれた。そこへエミルが一歩踏み込み、剣を振り下ろす。ピルリスが辛うじて避けたものの、地面を穿つほどの力に数メートル吹き飛ばされた。
「これならどーだ!」
背後に迫ったパルが拳を振るう。完全に虚を突いた攻撃。だが、エミルは振り返ると同時に自らの拳をぶつけた。
両の拳が打ち合わさり、反発した力が周囲へ飛び散る。衝撃波が地を穿ち、さらには離れた木々を軋ませる。両者の力は完全に均衡していた。
「うそー!」
驚きを浮かべつつも、パルはすぐさま上段蹴りを放つ。それを腕で受け止めたエミルは彼女の足首を掴み、上へ放り投げた。
「ちょっ――ラルアくん!」
パルの身体が風の檻に触れる寸前、ラルアがその部分の流れを変え、隙間を作り出す。パルが抜けていったその穴を目がけてエミルが飛ぼうとするが、ピルリスの斬撃が阻んだ。
落下を始めたパルは同じ穴を通った後、ラルアによって無事に着地。穴はすぐに塞がれた。
「なにやってんだドチビ!」
「今のはしょーがなくなーい?」
軽口は減らない二人だが、表情は険しい。ピルリスはその力を見つめ、悔しさ故か歯を噛み締めていた。
「よもや私の天輪が通用しないとは」
「うちの力と同じってやばいよねー」
「テメエらしっかりしろよ」
天使ですら切ることのできるピルリスの天輪。それで切れないということは、少なくとも天使以上の強度を誇るということだ。正攻法では傷一つつけられないだろう。さらにパルと同程度の膂力を併せ持つ。剣だけでなく、彼女の徒手空拳にも注意を払わなければならない。
人間であった頃のエミルの強さを考慮すれば、強大な天使となるのは必然。とは言え、ここまでとは思わなかった。しかも彼女は未だ大技を使っていない。太陽のごとき巨大な炎球を使われれば、風を操るラルアとて防ぎきれないだろう。
三人では彼女を押さえるだけで精一杯。ただ、それでも並の天輪使いではできない芸当だ。この部隊が少数精鋭で運用できてしまうのも頷ける。
今すぐ助けに入るべきだ。そうすれば少なくともエミルの炎は封じられる。あるいは剣に触れることができれば壊せる。天使を滅ぼすことはできないにしても、それは十分な脅威となるはずだ。
だが、つい考えてしまう。
もしもあの天使にまだ、エミルの心が残っていたなら、と。
それだけで足が地面に縫いつけられたかのように動くことができなかった。
「私は――」
思考の沼からロキエを掬い上げたのは、決然としたルルトの声だった。
「私はあなたを守るためにいます。だから――」
彼女はロキエに背を向けて、一度深呼吸してから言った。
「私があの人を、解放してもいいですか」
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