第2話 謎の少女
「エミルのいない世界じゃ、僕は駄目なんだ」
天使が虚空に手を伸ばすと、その手に剣が握られた。たちまち剣身が炎を纏い、感情のない眼差しがこちらに向けられる。
炎を消されたことを受け、物理攻撃に切り替えたのだろう。まったく見当違いではあるが、いずれにせよその攻撃は通る。こちらに応じる気がないのだから。
ロキエは瞼を閉じて、死の来訪を待った。
走馬灯のように数々の記憶が呼び起こされる。そのどれもにエミルの姿があって、胸が苦しくなった。
もう彼女の姿を見ることはできない。声を聞くこともできない。それは死ぬことよりも怖いことだった。
途端に、怒りの感情が湧き出した。
神への怒り。天使への怒り。仲間への怒り。世界への怒り。
だが、そのどれもが八つ当たりでしかない。
自分がもっと強ければエミルを守れたはずだ。少なくとも彼女が天使になることはなかったはずだ。
ただ。己の弱さよりも許せないことがあった。
それはエミルに天輪を使ったことだ。守らなければならないはずの、世界で一番大切だったはずの人。そんな彼女を殺そうとした自分に腹が立った。
殺さなければならなかった。そういう決まりだから。それでも殺したくなかった。天輪を使うべきではなかった。まるで彼女を裏切ったように感じられて、途方もない後悔に駆られていた。
天使が近づいてくる。こちらに戦意がないことがわかっているのか、足取りはゆったりとしたものだった。
「迷える子羊よ。主へ祈りを捧げよ。さすれば――」
「エミルの口で喋るな」
目をカッと見開いて、天使を睨み上げる。溢れ出る敵意と憎悪。
天使は続くはずだった救いの言葉を飲み込んで、代わりに剣を振り上げる。
「汝、不遜なり。滅せよ」
ロキエは抵抗せず、その一振りを受け入れようとした。
だが、それが振り下ろされることはなかった。
天使は弾かれたように別方向を振り向くと同時、大きく飛びすさった。直前までいた場所に剣の形をした炎が突き刺さる。それはすぐに溶けるように消えた。
ロキエと天使の間に少女が着地した。
金髪のショートカットは陽光によって、まるで天使の輪のように輝いている。赤の混じった金色の瞳。首輪のように巻かれた天輪が目映く光を放つ。だが、それよりも目を引くのが彼女の背中。そこに生えた一対と一枚の翼。
翼が生えるのは天使化の特徴の一つではあるが、通常時でもごく稀に翼が生える天輪使いがいる。だからそれ自体は珍しくとも、おかしくはない。問題なのは翼の枚数だ。過去、記録されているのは偶数枚のみ。そもそも空を飛ぶための翼である以上、それは偶数枚でなければおかしい。不要なはずの三枚目の翼は特異に映った。
「君はいったい……」
尋ねると彼女は微笑し、目を細めた。ロキエに手を差し伸べながら、彼女は言う。
「私の名前はルルト。あなたを助けに来ました」
あどけなさの残る愛らしい笑みに、ここが戦場だということを忘れて見とれてしまう。
ロキエはルルトのことを知らない。見たこともない。可愛いという意味合いでも、翼が奇数枚であるという意味合いでも、彼女の容姿であれば支部で噂になっているはず。だが、そんな噂も聞いたことがない。
つまり、彼女はロキエの所属するノア第三支部の人間ではない可能性が高い。言い換えれば、敵である可能性もあるということだ。
しかし、ロキエは彼女が敵だとは思えなかった。敵ならばロキエを助ける必要がないというもっともな理由からではない。敵かもしれないという疑念すら湧かず、彼女を味方だと思ったのだ。今までに味わったことのない、不思議な気持ちだった。理屈ではなく、本能がそう告げていた。
「ありがとう」
「いえ、お礼は無事に帰還できてからにしてください」
そうだ。まだ窮地のただ中にいることに変わりはない。どうにかして天使から逃げおおせなければならない。そう考えてから、ロキエは淡い笑みを浮かべた。先ほどまで死のうとしていたのに、今度は生きようとしている。わけがわからない。わからないけれど、やるべきことは決まっていた。
「ルルト、僕の天輪はせいぜい炎を防ぐくらいしかできない」
「問題ありません。一人で十分です」
「え? いや、いくら天使化した直後だからって、相手は天使だ。一人でだなんて無謀だ。それに……」
続く言葉をロキエは飲み込んだ。殺さないでほしいだなんて、言えるわけがなかった。天使を助けるのは組織の違反行為だ。即刻死刑となる。
「倒そうとは思っていません。私はまだ本調子ではありませんから、退ける程度が精一杯です」
ルルトの言葉に安堵してしまう自分がいて、ロキエは唇を噛んだ。
彼女はその手に炎を生み出すと剣を形作った。エミルと同じ火を操る天輪のようだが、ルルトは形を固定できるようだ。エミルは放出するだけだったから、ルルトの方が上位の力かもしれない。
天使は宙へ舞い上がり、ルルトを見下ろす。
「愚かな」
剣が振り下ろされ、剣身に絡みついていた炎が槍のごとく放たれる。ルルトは避ける素振りも見せず、正面からそれを切り伏せた。続けて天使が幾本もの炎槍を放つと、ルルトは炎剣を振り上げ、そこから分裂した炎で槍を相殺する。
遠距離戦では埒が明かないと判断したようで、天使はルルトを目がけて急降下してきた。対するルルトは迎え撃つ構えだ。
二人の剣がぶつかり合う。打ち合う度に火炎が撒き散らされ、周囲は火の海へと変わっていく。互いに一歩も引く様子はなく、さらなる激しい打ち合いが始まる。
翼が四枚ある天使を相手に、たった一人で互角の戦いを続けることができる天輪使いは一握りしかいない。一人で十分だというのは虚勢ではないらしい。
ロキエは次元の異なる戦いを眺めることしかできなかった。
ただ、本調子ではないと言っていたことも正しかったようだ。戦いが長引くにつれ、ルルトの表情は険しさを増していった。動きが鈍り始め、攻撃を受けきれずに避けることが多くなっている。
ついに避けきれなくなった彼女は、天使の剣を受けて地面へ落下する。辛うじて炎剣で防いでいたものの、華奢な少女の身体が地面へ叩きつけられればただでは済まない。
瞬間、ロキエは走り出していた。天使を警戒する余裕もなく、ただ駆ける。ルルトの落下地点に滑り込むと、ギリギリ彼女をキャッチできた。
「いてて……大丈夫?」
「……はい。すみません」
天使は一息つく間すら与えてはくれない。空を見上げると、巨大な火球が現出していた。それはまるで二つ目の太陽のようで、たった二人の人間を殺すには過剰すぎる力だった。
「逃げましょう――っ!」
ロキエを連れて飛ぼうとしたルルトだが、身体が宙に浮かぶことはなかった。顔を顰める彼女の翼は先ほどの攻撃で傷ついたのか、うまく動かないようだ。
「すみません……助けると言いながら……」
悔しげに唇を噛むルルト。
君のせいではないと言う代わりに、ロキエは彼女の手を握りしめた。
「大丈夫。今度は僕が防いでみせるから」
降ってくる太陽に向けてロキエは右手を伸ばす。接触した瞬間、痛みを伴った衝撃が腕に走る。
「がっ――」
ロキエの天輪は『時送』。文字通り時を送るという力だが、一〇秒や二〇秒といったスケールではなく、一〇〇年、一〇〇〇年の単位だ。故にいかなるモノも、それが永遠でないならばその右手で消し去ってしまうことができる。
ただし、送ることができるのはモノの固有時間――いわゆる寿命だ。だから消し去ったモノが持っていた運動量を完全に消し去ることができず、余波となってその身を襲う。このレベルの攻撃となれば、右手が保つかわからない。
視界が晴れ、青空が広がる。なんとか防ぎきった。ロキエたちのいる場所だけが無事で、それ以外は火球に抉られて巨大なクレーターが出来上がっていた。その底には赤黒い液体が音を上げ、白煙を立ち上らせている。
「ロキエ、腕が……」
顔を歪める彼女に笑って見せようとしたけれど、痛みで顔が引き攣るせいで失敗した。
腕はところどころの皮膚が裂け、血が流れ出ていた。動かそうとしても力が入らないため、折れているかもしれない。
見上げた先に浮かぶ天使は、すでに二発目を放とうとしている。それを防ぐ術はなかった。
「ルルトだけでも逃げて」
「駄目です! それでは私が来た意味がありません!」
頑なだった。口を真一文字に結んだ彼女は譲る気がなさそうだ。どんな説得も通じないだろう。
無駄だとわかっていて、けれどルルトはロキエの上に覆い被さった。なにもせずにはいられなかったのだろう。
彼女を巻き込んでしまったことを申し訳ないと思う。これでは無駄死にだ。
ロキエは動かない右手の代わりに左手を空に伸ばす。届かないと知りながら、彼女の名を呼んだ。
「エミル――」
先ほどよりも膨れ上がった太陽は、しかし振り下ろされることなく萎んでいく。見れば天使の様子がおかしい。苦しんでいるかのように顔を押さえている。突如、天使の身体から力が抜け、落下を始めた。意識を失ったように見えた。
「いったい、なにが……」
天使は溶岩に落ちる直前で目を覚まし、翼を広げ、その場に浮かび上がる。
「ロキ……ご、……めん…………」
それはほとんど聞こえなかったけれど、天使の口はそう言っているように見えた。
しかし、すぐに天使の右手がロキエたちに向けられる。炎が渦巻き始めたが、もう片方の手が伸びて、攻撃を拒むように腕を降ろさせようとする。
「エミル! 意識が戻って――」
その手から放たれた炎がでたらめに地面を暴れ回る。攻撃はロキエたちの元までは届かず、むしろ天使自らを囲むようにうごめいた。
天使は攻撃を諦めたのか両手を降ろして、ロキエたちへ視線を移す。その表情に、エミルを見つけることはできなかった。
接近戦へ持ち込まれるのかと思いきや、翼を広げた天使は明後日の方向へ飛び立った。その姿はみるみるうちに遠ざかって、やがて見えなくなる。
「助かった、のか……?」
「はい。そのようです」
お互いに無事とはいかないものの、命は繋ぐことができた。四枚翼の天使を相手に生き延びられたのだから、勝利と言っても過言ではない。しかし、当然のことながらロキエの心は晴れなかった。
「エミル……」
もう見えないのに、ロキエは彼女の飛び去った方向を眺め続けた。
世界で一番大切な人。ずっと一緒にいたかった人。
彼女を救うこともできず、殺すこともできず、逃がしてしまった。中途半端な覚悟のせいで彼女を神の使いに――人間を殺戮する兵器にしてしまった。
重くなった瞼を閉じながらロキエは願う。
次にエミルが人間と戦うときには、せめて彼女の意識が完全に消えていますように、と。
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