終章
第32話 生きていてほしい
ザラキエルを倒したことにより、天使の軍勢は統率を失った。そこからは人間側が押し返していき、追い返すことに成功。多くの犠牲を払ったものの、ノア第三支部を守り抜いた。
天使側による立て続けの戦力投入を凌ぎきったことで、今後しばらく大きな戦いは起こらないと見られている。
手にした束の間の平穏。しかし、それもいつ脅かされるかわからない。
神と天使がいる限り、人間がいる限り、この戦いは果てしなく続いていく。
*
エミルが目を覚ましたのは、あの戦いから一週間が経った頃だった。ルルトはザラキエル戦直後に意識を失い、未だに戻っていない。
個人病室に入ると、ちょうど彼女が瞼を開いた。赤の混じった銀の瞳には、彼女の持つ光が戻っている。だが、今はまだ弱々しい輝きだった。
「……ロキ、エ?」
「エミル!」
彼女の傍らに駆け寄って、伸ばされた手を握りしめる。夢ではない。彼女はちゃんと生きている。実感すると涙が溢れてきて、視界がぼやけた。せっかく彼女とまた会えたというのに、拭っても拭ってもその姿を鮮明に写すことができない。
「泣き虫だなあ、もう」
彼女の細い指がロキエの頭に伸びて、優しく撫でる。微笑んだ彼女の表情は、しかしすぐに陰が差した。
「…………たくさんの人を殺しちゃった」
天使だった頃の記憶は残っているらしい。彼女は震える声を抑えるように両手を胸に押し当てた。
「いいのかな、私、生きてて」
エミルの目尻から滴がこぼれ落ちる。
それは問いではなかった。生きていていいわけがないと彼女の中で結論づけられている。自らの罪は決して許されるものではないと断じている。
だからロキエは肯定することはしない。
「わからない」
――だけど。
ロキエはエミルを抱きしめて、声を絞り出す。
「生きていてほしい」
たとえすべての人が彼女を許さなかったとしても、この願いだけは否定させない。
「僕も一緒に背負うから。だから、一緒に生きて」
するとエミルは困ったようにはにかんで、精一杯に明るくした声で言うのだ。
「そこまで頼まれたら、仕方ないなあ」
嗚咽を漏らす彼女を腕に抱いて、ロキエは誓う。今度こそ必ず守ってみせると。
エミルが落ち着いた頃、病室の扉が開いた。
「ルルト!?」
ルルトは今にも倒れそうな様子で部屋に足を踏み入れる。一歩ずつゆっくりと歩いてくる。それを見てエミルはベッドから立ち上がった。
膝を折り倒れるルルトを抱きとめて、エミルは彼女の髪を何度も撫でた。愛おしげに目を細め、囁くように言う。
「頑張ったね」
「どうし、て……」
「わからないけど、なんか無性に言いたくなっちゃって」
戦場で何度も顔を合わせたものの、人間の状態で会うのは初めてのはず。だが、エミルの反応は初対面のそれではない。まるで長い時を経て再会したかのような、愛情のようなものが垣間見える。
だからだろうか。ルルトは堰を切ったように泣き出した。
「――おかあさん」
「変だよね。そんなに歳は変わらないはずなのに、そう呼ばれても違和感がないなんて」
ああ、と。ロキエもまた腑に落ちる思いだった。
天輪使いの子供は基本的に親の力を継承する。ならばルルトが炎を扱うことも当然と言えば当然だ。エミルは本能的にそのことを理解しているのだろう。
ルルトがアルター・モラリスシリーズの系譜にあるのなら、アルターもまたエミルの子供ということになる。天輪か、あるいは投薬などによって成長を急激に促すことは不可能ではない。
ルルトをここに送り込んだのはロキエ自身だと、彼女は言っていた。身に覚えがない以上、それはここにいるロキエの仕業ではない。
考え得る可能性は一つ。
ロキエの天輪は時を操るものだ。ただし、それは送ることしかできない。また、時間と言っても効果を及ぼすのは物体の固有時間のみ。
では仮に、送ることしかできないのは天輪のフェーズが足りていないためだとしたら?
もしもルルト以外のすべての――世界の固有時間を戻すことができたとしたら?
馬鹿らしいと一蹴することはできなかった。
アルターとルルトが使っていたフェーズ・シフト、アクセラレーション。あれは天輪の時間を進めるものではないか。
気の遠くなるような長い年月を飛ばすことしかできないロキエに対し、彼女たちは一年などの細かい単位で進めることができるのかもしれない。
アルターが天使化する際に崩壊する仕組みは、ロキエと同じ天輪の力によるものではないか。
ルルトは消えない炎を使えるし、自らの意思で消すこともできる。また、彼女は自らの天輪の固有時間を止めていた。そうすることでフェーズ・シフトしないようにしていた。炎と同様、彼女の意思で凍結を解除することもできる。
目眩がする。死んでいったアルターたちの顔が浮かぶ。
今ならわかる。初対面にもかかわらず、妙に抱いた親近感。それは彼女たちにエミルの面影を見ていたからではないか。いや、それ以上に――。
冗談じゃない。もしもこれが事実なら、到底受け入れることなどできやしない。
胸が引き裂かれるような思いで、それでも聞かずにはいられなかった。
「ルルト、もしかして君は…………」
途切れてしまった言葉の続きを、彼女は幸せそうな顔で紡ぐ。
「はい、おとうさん」
ロキエは崩れ落ちそうになりながら、二人のもとに歩み寄る。そうして彼女たちを抱きしめて、声を殺して涙を流した。
「親子感動の再会だね」
「ああ……ああ……」
希望と絶望で頭の中がぐちゃぐちゃになって、もはやわけがわからない。いっそこのまま狂ってしまえたなら、どれほど楽だろうか。
けれど、そうはできなかった。
抱きしめ返してくれる二人の温度がとても温かかったから。
今はまだエミルには言わないでおく。自分の子供が大量に死に、その一部を自らの手で殺したのだと知ったら、それこそ耐えられないだろう。
だから今だけは――。
ロキエは思考を放棄して、目の前の幸福に身を委ねた。
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