第6話 企ては失敗に帰す
翌朝、ロキエは悪夢から飛び起きた。全身から滝のように汗が流れ落ち、呼吸が乱れて肩を激しく上下させる。右手が柔らかい感触に包まれていて、顔を向けると少女がいた。あどけなさの残る可愛らしい顔立ち。金色のショートカットは溌剌とした印象を受けるが、赤の混じった金瞳は鬱屈とした憂いを帯びているように見えた。
「大丈夫ですか? うなされていました」
「ああ、うん。大丈夫だよ」
心配そうにこちらを見やるルルトを安心させようと、ロキエは笑みを浮かべて見せる。しかし、手の震えを止めることができなくて、ルルトがその手を優しく包むように握り直してくれる。
「なにがあっても、私があなたを守ります」
そこまでしてくれる理由は不明だが、今は彼女の存在がありがたかった。一人なら恐怖に押し潰されていたかもしれない。
ロキエが見たのはエミルを殺す夢だった。それも天使化した彼女を自分が殺した場面。さらには自我が残っていたというおまけつきだった。彼女の腹部に突き刺した剣の感触が生々しく残っている。夢の中で彼女はロキエを責めていた。お前のせいだと言う彼女の怨嗟の声が、頭の中に蘇る。
ふと、頭上から影が差した。見上げる前に押し倒され、ベッドに仰向けになる。目と鼻の先にルルトの顔があって、離れようとするも両腕を掴まれてしまい、動けない。
「まさか……」
リーベの危惧していた通り敵だったのか。天輪を使おうにも手のひらで触れなければならないため、無力化されている状態だ。力尽くで逃れようにも、びくともしない。天輪使いはフェーズに応じて身体能力も向上する。彼女の首にはめられた天輪には五本の線が刻まれていた。明らかに格上だ。
「や、やめ――」
言葉は口を塞がれることで遮られた。問題だったのはその塞ぎ方で、ロキエの口には彼女の唇が密着していた。
数秒間、時が止まったように錯覚した。
顔を離したルルトは微笑をたたえ、首を傾げる。
「元気、出ました?」
「へ?」
「効きませんでしたか? キスをすると元気が出るという情報は嘘だったのでしょうか」
顔を真っ赤にするロキエに対し、ルルトは平常を保っている。
「だ、誰がそんなことを!?」
「リーベさんが言っていました」
「なに教えてるんだあの人は…………」
タバコの仕返しだろうか。大人げない一面に呆れつつ、それを疑うことなく信じたルルトに危うさを覚えた。
「いくら元気が出るって言われたからって、普通キスする?」
「駄目……だったのでしょうか」
ルルトは不安げな面持ちでロキエの表情を窺う。揺れる瞳は潤んでいるように見えた。
駄目とは言えず、とりあえず状況を少しでも改善しようと彼女に退いてもらう。十分に心を落ち着かせてから彼女に向き直った。
「ほら、キスって好きな人とするものだから」
「私はあなたのことが好きです」
「え!? そ、それはどういう意味で……」
「ん? 好きは好きです。そのままの意味です」
「恋愛感情が含まれた好き、だよ」
「恋愛感情とはなんですか?」
説明しようとしてロキエは困惑した。適切な言葉が思い浮かばないのだ。異性を好きになること、だとルルトは恋愛感情を持っていることになる。異性と一緒にいたいと思うこと、でも同じ。この世でただ一人と、という言葉に置き換えても、記憶を失っている現状では当てはまってしまう。
「なんだろうね……」
「なんでしょう」
答えが出そうになかったので、この話題はここで終わりにする。どうやら知識の欠如も相当なようだ。
そこでようやく、現状への違和感に気がついた。
「どうしてルルトが僕の部屋にいるの?」
寝る前に部屋に入れた覚えはないし、もちろん鍵は閉まっている。鍵は生体認証が使用されており、部屋を割り当てられた本人にしか開けない。だからルルトが入ってこられるはずがない。
「ここが私の部屋だからです」
その言葉にロキエは慌てて部屋の中を見回した。まさか寝ぼけて他人の部屋に入り、あまつさえベッドを占領して寝てしまったのだろうか。
しかし、どんなに目を凝らしてもそこは自分の部屋だった。
いったいどういうことだろう。必死に頭を回転させていると、ルルトが何気なく呟いた。
「同じ部屋ですね」
「え?」
言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
ここ第三支部では天輪使いに対して一人一部屋あてがわれている。天輪使いの需要と供給が吊り合っておらず、常に部屋が余っている状況だ。そのため、同室という概念は存在しない。
しかし、ここがルルトの部屋でもあるのなら生体認証を突破できたことにも頷ける。なんのことはない。ただ歩いてくれば扉は勝手に開く。
『面倒はお前が見ろよ』
リーベの言葉を思い出す。
「だからってなんで同室に……」
言いながらも大体の予想はついた。正体不明の天輪使いを自由にさせておくのは危険だ。しかしながら、強力な天輪使いを遊ばせておくほどの余裕はない。そういった事情を考慮した結果、監視つきで動員することが決定されたのだろう。
「なにをするにも一緒にいるようにと、リーベさんから言われています。頑張ります!」
「なにをするにもって……」
彼女は自分が言っている意味を理解できているのだろうか。胸の前で小さな拳を握りしめている様を見ていると、多大な不安が押し寄せてくる。
「トイレは」
「頑張ります!」
「お風呂は」
「頑張ります!!」
「ベッドは」
「頑張ります!!!」
頭が痛くなってきた。ロキエは顰め面をして眉間を揉みほぐす。もはや知識の欠如どころの話ではない。これは確かに監視が必要かもしれなかった。
「全部別々だ!」
「ですが、ベッドは一つしかありません」
トイレや風呂は交代で入れるが、ベッドはそうもいかない。
「ぐ……それはなんとかする」
「…………そんなに私と一緒にいるのが嫌なんですか?」
今にも泣き出しそうな表情で彼女は俯いた。
そんな顔をされてしまうと迂闊な返事ができない。
「嫌ってわけじゃなくて……」
「それならいいですよね?」
ぐいぐい来る感じに押されてしまう。このままではまずい。頷いてしまう。それだけは駄目だ。絶対に駄目だ。
ルルトの圧に押されて頷きかけたそのとき、コール音が響いた。
「あ、通信だ!」
水を得た魚のように端末に飛びつくロキエ。しかし、聞こえてきた声にげんなりする。
『お前、上官に向かってその態度はなんだ』
「上官のくせになにやってんですか!」
思わず怒鳴ってしまったが、端末ごしに笑い声が聞こえてくる。
『キスしたか? したのか?』
「…………変なこと教えないでくださいよ!」
『おい、なんだ今の間は。え? したのか? え? え? 嘘だろ? 私だってしたことないんだぞ!』
悲鳴にも似た怒号に、ロキエは端末を投げ捨てた。ベッドに転がったそれからリーベの怒声がはっきりと聞こえるので、そうとうお冠のようだ。
リーベは今年で二八歳。見た目は美人なのだが、目つきが鋭いせいでキツい印象を与えてしまうためか未婚だ。当人は彼氏が欲しいと言っているが、いつまで経っても結果が伴わない。
ついにはすすり泣くような音が聞こえてきたので、ロキエは慌てて本題を促す。
『配属先が決まった。一三部隊な。以上』
それで通信が切れてしまう。と思ったら、再び端末が繋がった。
『すぐに第五ブリーフィングルームへ来い』
生気の感じられない声だった。それだけリーベの心に傷を負わせてしまったということだろう。
「あの、先ほどの話なんですが……」
「リーベさんに呼び出されたから、すぐに行かないと!」
蒸し返そうとするルルトを遮って、これ幸いと彼女の手を掴んで駆け出した。
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