第5話 なにも知らない世界で、独りで
「それで?」
ロキエがタバコを奪う気がなくなったのを見て、リーベは心の底からホッとした表情でポケットにしまう。仕切り直しとばかりに咳払いを一つしてから、元の凜々しい表情に戻った。
「彼女がここに来た目的は、お前を守ることだそうだ」
「大げさですね。通りすがっただけでしょう?」
「いや、これから先もお前を守ると言っている。それが自分の使命だからと。それしか言わん。お手上げだ」
初対面の相手を守るの使命など嘘に決まっている。
リーベもそう考えているようで、ロキエの肩に手を乗せた。
「聞き出せ」
「なにをですか?」
「彼女の正体だ」
「すぐにバレる嘘を吐くほど、話したくないんじゃないですか? 無理に聞き出さなくても」
「正体不明の天輪使いなんてノアにとってリスクでしかないんだ。最悪の場合……」
リーベはその先を口にしなかった。それは脅しでもなんでもなくて、ただ言いたくなかったからだろう。彼女の苦々しい表情を見ればわかる。クールに振る舞ってはいるが、彼女は子供に優しいのだ。
「わかりました。力になれるかはわかりませんが、やってみます」
「頼んだ。私は別室にいる。……もしも危険だと判断したなら、そのときは――」
「大丈夫ですよ。安心してください」
「……そうか」
ロキエは彼女の手を汚したくなかった。きっと何日も塞ぎ込んでしまうだろうから。それにルルトは敵ではない。直感がそう告げている。
取調室はとても簡素だった。真ん中にテーブルがあり、それを挟んで椅子が二つ。カメラはどこかに仕掛けられているはずだが、見かけはわからない。
ロキエの姿を見るなり、ルルトは表情を緩めた。そのまま駆け寄って来ようとしたところをロキエが手で制す。余計な動きで疑いを持たれたくなかっただけなのだが、ルルトは落胆の滲んだ表情でしょんぼりと腰を下ろした。
「上の人が不安がってるから、大人しく座っていた方がいいよ。それから、今日は危ないところを助けてくれてありがとう」
「いえ。反対に私が助けられてしまいました。傷は大丈夫ですか?」
「平気だよ。ルルトは?」
「治療は受けたので問題ありません」
話している感じ、印象はとてもいい。リーベが言ったような口を割らない頑なな態度は垣間見えない。
「ところでルルトはどこから来たの?」
「わかりません」
「わからない?」
そんなはずはないだろうと思いきや、彼女は神妙な面持ちで頷いた。
「覚えていないんです」
嘘を吐いているようには見えない。ただ、もし本当に記憶喪失であれば矛盾が生じる。
「じゃあどうして僕のことを守るの?」
「わかりません」
これは確かに手を焼きそうだと思い直していると、彼女は言葉を続けた。
「ただ……」
「ただ?」
「そうするべきだと、はっきりわかるんです」
「覚えていないのに?」
「はい」
「名前とそれ以外はなにも?」
「欠落はありますが、知識は残っているようです。それ以外はなにも。あのタイミングであなたに出会えたのは幸運でした」
――知らない場所に独りきりで、心細かったので。
小さな声で呟いた彼女はうつむき加減ではにかむ。
ロキエはハッとして、自らの行いを恥じた。ロキエが来るまで彼女は知らない場所で一人きりだった。加えて今は唯一知っている相手から尋問を受けている。助けに行った相手に疑いを持たれている。その状況で不安を感じないはずがない。
「ごめん」
「なにがですか」
首を傾げる彼女は本当に心当たりがないようだ。それならそれでいい。今のは謝りたかっただけだ。
「これからずっと僕のことを守ってくれるって聞いたけど」
「はい、そのつもりです。…………迷惑でしょうか?」
その瞳には不安がありありと浮かんでいた。捨てられた子犬のような眼差しは庇護欲をそそられる。可憐さとあどけなさも相まって、彼女の上目遣いを受けて断れる者はそういないだろう。
「迷惑なんかじゃないよ。ルルトみたいに強い子が側にいてくれたら、それだけで安心できるし」
ロキエも例に漏れずその一人だった。
彼女は安堵の息を漏らすと、満面の笑みを浮かべる。見とれていると、彼女は笑みを引っ込め、恥ずかしそうに俯いた。
ルルトの笑顔は、どことなくエミルに似ているような気がした。もう二度と見られないと思っていた笑顔を思い出してしまって、苦しくなると同時に嬉しくて涙が出そうだった。
「どうかしましたか? 苦しそうです」
「ううん。なんでもないよ」
泣きそうになっていたのはバレていないようだ。ホッとする反面、己の女々しさに辟易してしまう。ただ、エミルを思って泣ける自分がいることに安堵もした。この痛みこそ彼女を忘れていない証明に他ならない。
ルルトについて聞き出せることはもうないだろう。本人が忘れているのだから仕方がない。 少し待っているように告げて、取調室を出た。そこには苛立ちを隠さず眉間に皺を寄せているリーベが待っていた。
「おい、結局なにもわかってないんだが」
「記憶ないんだからどうにもなりませんよ……」
リーベは諦念の滲んだため息を漏らし、ポケットに手を伸ばそうとして止めた。ぎこちない動きで手を彷徨わせると、誤魔化すように腕を組む。
「今、タバコを――」
「お前は彼女が敵ではないと言ったな?」
「それは間違いありません」
「何故だ?」
「…………なんとなく」
「それで私に納得しろと?」
はい、としか言えなかった。ルルトはロキエの窮地を救ってくれた。客観的な事実はそれだけだ。ノアの敵ではないと断言するだけの根拠にはならない。
回答に窮していると、リーベは苦笑してロキエの髪をくしゃくしゃに撫でる。
「わかった。上には私が掛け合ってやる。その代わり、面倒はお前が見ろよ」
「ありがとうございます!」
やはり彼女は子供に甘い。
「戻っていいぞ。彼女には色々と手続きがあるからな。終わったら向かわせる」
これでルルトは解放されるだろう。ロキエは安堵を浮かべる。取調室に戻ってルルトにその旨を伝えると、彼女は微笑みとともに頷いてくれた。
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