第4話 帰還
「エミル!」
勢いよく起き上がってすぐ、異変に気づいた。何故か部屋の中にいたのだ。
充満する薬品の匂いは嗅ぎ覚えがある。腹部を押さえて怪我がないことを確認すると、ようやく先ほどまでの出来事が夢だったのだと実感する。
夢とは言っても事実でもあった。
突如訪れた天使によって部隊は壊滅し、エミルはそれと戦った。違うのは、ロキエが戻ったときには彼女がまだ人間だったということだ。
汗で服が肌に張りついて気持ちが悪い。額から流れ落ちる水滴を拭って、周囲を見回すが誰の姿もない。部屋に六つ並んだベッドはロキエのを除いて綺麗なままだった。
どうやら支部に運ばれたらしい。気絶した後、救援がきたのだろう。
エミルには逃げられてしまった。ほんの少しだけ安堵する自分に腹が立つ。彼女は天使になったのだ。その瞬間から人間の敵となる。彼女が生きていることは脅威に他ならない。
取り返しのつかないことをしてしまった。
自責の念が波のように押し寄せる。彼女を残して行くべきではなかった。彼女を生かしておくべきではなかった。天使になった人間を戻す術はない。だから殺すしかないのだ。天使化すれば人間性が消えるのだから、それは死ぬことと変わらない。だったら人間のうちに殺された方が当人のためだ。天使になってしまえば、身を粉にして戦い守ってきたすべてを自らの手で壊すことになるのだから。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。涙が滲んで視界がぼやける。泣きたくはなかったから、ロキエは上を向いた。
『私がいなくても、前に進むこと』
それが彼女の願い。だからいつまでも感傷に浸っていてはいけない。
大丈夫。大丈夫。そう自分に言い聞かせる。目元を袖で拭って、深く息を吐いた。
「よし!」
声に出してはみたものの、心にわだかまる虚無感は拭いきれなかった。なにをする気にもなれないけれど、別のことを考えていないと彼女のことばかり頭に浮かんでしまう。もうあの笑顔を見ることも、声を聞くこともできないのだと思うと切なさがこみ上げて再び泣きそうになる。
「今すべきことを考えよう」
そうやって気を紛らわせないと一歩も動けそうにない。今まではいつだって隣に彼女がいて、道を示してくれた。だから歩いて来られたのだ。ロキエにとってそれほど大きな存在だった。
「ああ、もう!」
すぐにエミルのことを連想してしまう自分が情けない。彼女に縋るのはやめよう。
ベッドから立ち上がってふと、ここにいない存在に気づく。
「あれ? ……ルルトは?」
彼女も怪我をしていたはずだ。ここには治癒の天輪使いがいるから、怪我はすぐに治る。ロキエの右腕も元通りで問題なく動いた。だが、蓄積された疲労は回復できないのだ。だからしばらくは安静にしなければならないはず。
とりあえず彼女を探そう。病室を出ようとしたところで、向こう側から扉が開かれた。現れたのは中年の男性だった。
「第七部隊所属、ロキエ・ヴィヒトリエだな」
「はい。そうですけど」
「お前とともにいた正体不明の天輪使いについて、リーベ指揮官がお呼びだ」
「正体不明ってどういう……」
「いいから早く来い」
有無を言わせぬ態度にロキエは疑問を飲み込むしかなかった。いずれにせよリーベから説明があるはずだ。
男の後についていく。経路から目的地が予想できてしまって、わずかな怒りが湧いた。
取調室から出てきた美人な女性に男が敬礼する。
「ロキエ・ヴィヒトリエを連れて参りました」
「ご苦労。下がっていい」
「はっ」
男はきびきびと歩き去って行き、ロキエは廊下で女性と二人きりになった。
翡翠色の髪を左肩に流したサイドアップ。ロキエより背が少し高いため、意識しないと視線が大きな胸へといってしまう。口に引かれた紅が彼女の凜々しさを際立たせる。鋭い目つきは理知的だが、ロキエへ向ける眼差しには温かみがあった。
「リーベさん……」
「先の戦いはご苦労だったな。部隊のことは残念だが、お前が生きて戻っただけでもよかったよ」
憂いを帯びた表情で頭をくしゃくしゃ揉んでくるものだから、ロキエはなにも言えなかった。
全滅した第七部隊は彼女の指揮下にあったのだ。他の指揮官と異なり、彼女は天輪使いへの思い入れが強いため、とても辛く感じているはずだ。
ひとしきりなで回してから、彼女は取調室の方を向いた。
「さっそく本題だが、お前の連れについて知っていることをすべて話せ」
「ルルトは僕を助けてくれました。だから敵じゃありません」
「敵かどうかはともかく、お前を助けたのは本当らしいな。問題なのは彼女がどこの誰か、ということだ」
「やっぱり第三支部の人間じゃないんですね」
「それどころかノア自体に所属していないぞ、彼女は」
「え?」
人類存続機関ノア。それは人類を存続させることを至上の目的としており、天使と戦う唯一の組織だ。天輪使いは必ずノアに所属する。生活を保障される代わりに天使と戦う役目を負っているのだ。いくら特別な力を持っているとはいっても、個人で生き延びることは不可能。聖獣相手ならまだしも、天使には敵わない。そのため、組織で動かざるを得ない。
だからノアに所属していない天輪使いは異例だった。
「本当になにも知らないのか?」
「……実は初対面です」
「だろうな……」
リーベは髪を掻きむしると、ポケットから箱を取り出した。器用に片手で中から一本を取り出してくわえようとするが、こちらの視線に気づいて渋い顔をする。
「禁煙してくださいって言いましたよね」
「いいじゃないか別に」
「身体に悪いだけなのに、どうして吸うんですか」
「大人の世界にはな、色々あるんだ。…………わかった。わかったから睨むな」
渋々とタバコをポケットに戻そうとするが、ロキエは手を出して渡すように無言の圧力をかける。すると彼女は綺麗な相貌を崩し、情けない声を漏らす。
「た、頼む! 持っていないと落ち着かないんだ。…………そう! これはお守りなんだ」
とってつけたような言い訳を並べて、リーベはタバコを大事そうに抱えて距離を取る。
指揮官の嘆かわしい姿にため息を漏らし、ロキエは半眼で彼女を見やった。
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