神が世界を掬うなら
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序章
第1話 天使へと至る
――神というやつは、人間が嫌いらしい。
ロキエはそれを子供の頃に聞いた。
そんな言葉を思い出したのは、目の前で悲しげに微笑む彼女のせいだ。
「ロキエ――私を殺して」
銀の長髪が風に揺れる。髪色に赤の混じった瞳には諦念が浮かんでいた。
嫌いだなんてとんでもないと、ロキエは奥歯を噛み締める。神は人間を憎んでいる。だからこんなにも惨いことができるのだ。
「大丈夫だよ! エミルは天使になんかならない!」
力強く吐き出した言葉はしかし空虚で、どうしようもなく震えていた。ロキエ自身が嘘だと知っているからだ。エミルは天使になる。それはもう覆らない事実だ。
エミルの右手の中指にはめられた金色の輪が輝きを増す。輪は光の円となって彼女の腕をすり抜け、頭上で大きく広がった。
「お願い。ロキエの天輪なら苦しまずに死ねるでしょ?」
「なんで……なんでそんなこと言うんだよ」
「私はみんなと戦いたくない。わかってよ」
天使は神の僕。天使化した天輪使いは人間の敵となる。
だから、天使となる前に殺すのが決まりだった。
エミルは困り顔で、けれど少し嬉しそうにロキエの頬に手を添えた。細い指が溢れ出る涙を愛おしげに拭う。
「泣かないで。男の子でしょ」
袖で何度も拭うけれど、涙は止めどなく流れた。その手をエミルに掴まれて、ロキエは顔を上げる。ゴツンと額に小さな衝撃が走った。そこから彼女の温度が伝わってくる。
おでこを合わせた状態のまま、彼女が口を開く。
「ご飯は好き嫌いせず残さず食べること。背筋を伸ばして胸を張って歩くこと。いじめっ子に絡まれたら舐められないようにぶん殴ること。あまり悩みすぎないこと。あまり気負いすぎないこと。人と話すときすぐに目を背けないこと。辛いときこそ顔を上げること」
それはすべて幼い頃に彼女から注意を受けたことだった。もう子供ではないと言ってやりたかったけれど、彼女の切実そうな表情を前に口を開くことができなかった。
「私がいなくても――」
エミルはそこで息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。わずかに震えた吐息。しかし、次に発せられた言葉にそれはなかった。芯の通った声で彼女は言う。
「私がいなくても、前に進むこと」
そんなのできるわけがない。ロキエが首を振ると、エミルは苦笑する。
「ねえ、お願い。安心して私が逝けるように、約束して」
自分が一番辛いはずなのに他人の心配ばかりして。涙すら見せず、儚く微笑む彼女の言葉を無視することはできなかった。だから首を横に振ることもできず、かといって覚悟を決めて縦に振ることもできない。
「私が死んだら、私のことは忘れてね。ロキエの重荷にはなりたくないから」
「忘れるなんて、できるわけないだろ!」
怒鳴るように言うと、彼女は目を大きく見開いた。それからほっと表情を緩ませて、うつむき加減で唇を噛む。
「じゃあ、ずっと覚えてて。私のこと忘れないで」
強く頷くと、彼女は頬を掻きながら苦笑する。それは彼女が照れたときにする仕草だった。
「私、酷い女だ」
否定する間もなく、ロキエは彼女に抱きしめられた。
こうして触れ合ってようやく気づく。エミルは震えていた。当たり前だ。死ぬのが怖くないはずがない。そんなこと少し考えればわかることなのに、自分勝手な言動を取った自分を恥じた。
「最後に一個だけ、わがまま言っていい?」
ロキエは頷きながら彼女の背中に手を回す。彼女の震えがほんの少しだけ和らいだ気がして、こんなときなのにたまらなく嬉しかった。
「最期はロキエの腕の中がいい」
無意識に抱きしめる力が強まっていたようで、エミルに苦しいと文句を言われる。声色が心なしか嬉しそうだったのは気のせいだろうか。
「もう時間ないからさ。ひと思いにお願い」
そんな簡単に覚悟を決められない。世界でたった一人の、大切な人の命を奪うのだ。きっと一生かかっても決断なんてできやしない。
「エミル……大好きだ」
嗚咽に震える喉から言葉を絞り出した。ずっと言えずにいた言葉。もっとちゃんとした場所で、しかるべきタイミングで言いたかった。
「……えへへ、私もだよ」
そう言って彼女はより強く抱きついてきた。
終わりの時だ。
右手首の天輪を発動させる。
「最期までロキエといられるなんて、私は幸せ者だ」
「僕もだよ」
本当は違うのだと叫びたかった。二人でずっと一緒にいることこそが幸せなのだと言いたい。けれどそれはもう叶うことはないから。
手のひらを彼女の背中に押しつけて力を行使する。それでおしまい。彼女の身体は一瞬で土に還る。
――はずだった。
「え……?」
「ねえ、そろそろ本当にマズいよ」
エミルの声には焦燥が滲んでいた。けれど、より焦っていたのはロキエの方だった。
「早く力を――」
「使ってるんだ」
「え?」
「さっきからずっと発動してる。でも、なにも起こらない」
エミルはロキエから離れ、顔を覗き込む。彼の言っていることが真実だと知って、青ざめた表情で戸惑いを露わにする。
「じゃあ、もう私は天使に――あああああっ!」
「エミル? 大丈――」
突然、背中に衝撃が走った。肺から空気が絞り出され、喘ぐように呼吸をする。気づけば、先ほどまで目の前にいたエミルが遠い。彼女のもとに駆け寄ろうと立ち上がるが、足に力が入らず尻餅をついた。背に大木が当たってようやく、自分が吹き飛ばされていたのだと知った。
「ロキエ! 早く逃げて!」
エミルが叫んだ。苦しそうに顔を歪め、片手で顔を覆う。身体を丸めた彼女の背から二対の翼が飛び出した。途端に呻き声は止まり、腕をだらりとぶら下げた彼女が顔を上げる。光が消えた瞳からは涙が止めどなく溢れ、痙攣する腕がゆっくりと持ち上がる。その手のひらはロキエに向けられていた。
「身体が、勝手に……」
エミルのか細い声をかき消すように、紅蓮の炎が渦巻いた。空気を焦がす音は次第に激しさを増し、炎は人間一人を飲み込むほどの大きさに膨れ上がる。
「やめて……駄目――」
彼女の願いは放たれた火球の轟音によってかき消された。
それを受ければ人間など一溜まりもなく焼け消えるだろう。
だが、ロキエは迫り来る灼熱から逃げなかった。右手を前に差し出す。手首の天輪が輝きを放ち、その力を解放する。
手に触れる直前、炎は音もなく消失した。
押し寄せる奔流のすべてを凌ぎきったロキエ。しかし、その表情は虚ろだった。
「もう、おしまいだ」
エミルは天使となってしまった。こちらを攻撃してきたことに加え、ロキエの天輪で死ななかったことがなによりの証明だ。
ロキエの天輪は、天使を殺すことができないのだから。
そうなると、この場においてエミルを殺す方法はない。先ほどのように攻撃を防ぐことならできるがじり貧だ。そもそも右手で触れなければ防ぐことすら叶わない。
助けは望めない。ロキエとエミルを残して部隊は全滅している。支部からの増援も間に合わないだろう。
先ほどは反射的に攻撃を防いでしまったが、もはやロキエにその気はなかった。木に背をもたれかけ、自嘲の笑みを浮かべる。
「エミル、ごめん」
応えはない。自我が溶けきってしまったのだろう。今目の前にいるのはエミルの姿をした天使だ。
彼女は死んでしまった。なら、自分も生きている意味はない。
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