第3話 絡まる絆 前編

 その日の朝はブランシールがフランヴェルジュの部屋を訪れた。

 毎朝の習慣。交替でお互いの部屋を訪れ、朝食を摂る事。


 朝食は簡単なものだった。

 焼きたてのパンに、カリカリのベーコン、いり卵、サラダにミルク。

 裕福な商家の子供なら、もっと豪奢な朝食を摂っているであろう。だが、二人にはこれで充分であった。これでも贅沢に過ぎると思っていた。何故なら人の手が丁寧に入っているから。心を込めた料理だから。


 二人はゆっくりと朝食を咀嚼した。


 部屋の中、兄の背中の後ろに飾ってある絵をブランシールは見つめる。それも習慣になってきた。


 美しいだけでなく力強い絵。

 『太陽』と、アシュレが名をつけた絵である。ブランシールの部屋には『望月』と名付けられた絵が飾られている。


 その対なす絵は緋蝶城より兄弟が持ち帰ったものであった。それはアシュレの遺産。

 銀の蝶々が金色の花の蜜を吸う意匠の鍵が、ランカスターが二人の甥に残した遺産であった。

 二人が欲しがって止まなかったもの、だが、こんな形で手に入れる事になるとは思ってもみなかった物が、しかし確かに手許にある。


 その鍵は緋蝶城の地下、ランカスターのアトリエの鍵であった。


 レイリエが居ない隙を狙って二人の王子は緋蝶城に入った。そして三日の間、ランカスターの絵に見とれていたのである。

 食事はサンドイッチとミルクのみであった。そこから出ようとしない王子達には時間の経過すら解らず、腹が減ったらサンドイッチを食べるといった風であった。


 兄弟はランカスターの初期作から見ていった。

 それらの絵の世界は、まるで生き物が、自然が、息衝いているかのように感じられた。

 時代により書き方は変わっていった。大胆になったり繊細になったり。

 好んで使う画材も時々によって変わっていった。


 そして、兄弟はついに見出したのだ。


 アシュレ・ルーン・ランカスターの女神。

 エスメラルダ・アイリーン・ローグ。


 それは奇蹟の様な美しさであった。そして物事全てに陰陽があるように、エスメラルダを画布に閉じ込めた時代から、ランカスターの絵は対になった。

 慈悲と苛烈。言葉に言い表せない全て。


 エスメラルダとはどのような少女だろう?


 二人の王子は同じ疑問を持った。

 正反対に見られがちのこの兄弟は実はとても似通っていたのだ。


 エスメラルダが見たい。


 そして、アトリエからそれぞれ一枚ずつ絵を持ち出すと、緋蝶城を後にしたのだった。

 帰ってすぐ、二人は大急ぎで夜会を開いた。

 エスメラルダへの招待状は封蝋に王子の印章指輪を押し付けたものだった。


 そして、生きているエスメラルダに魅了された。


「兄上、食が進みませぬか?」


 ブランシールが気遣いの声を上げる。フランヴェルジュはここのところ、やたらと食が細い。ただ一人を思い出しているのだと、ブランシールには、ブランシールだけには解る。


「もう入らぬ」


 フランヴェルジュは笑ってそう言うが、こけた頬の、目に精気の宿っていない兄を見るのがブランシールには辛かった。


 夜会から一週間が経っていた。

 その間に催されたイベントには殆ど顔を出さなかった。自室にこもる日々が続いた。

 自室にはエスメラルダが居る故に。

 本人ではない。出迎えてくれるのは絵に過ぎない。だが、その絵に魂を奪われるかのように二人の王子は絵を見つめた。


 フランヴェルジュの『太陽』は赤いシフォンのドレスを着ているエスメラルダが描かれている。髪が風にたなびき、その髪を押さえようともせず、不思議な笑みを、人ではないような笑みを浮かべている。


「兄上は、エスメラルダをお求めなのでしょう?」


「そういうお前もだろう? ブランシール」


 ブランシールは笑った。


 兄上は解っておられない。

 フランヴェルジュが絵を見つめる理由とブランシールが絵を見つめる理由は、違う。


 二十一にもなって、始めてフランヴェルジュは恋というものを覚えたのだ。


「エスメラルダは僕には激しすぎます、兄上。まるで火傷をしそうだった。好きですがね、ああいう女性は見て愛でるぐらいが丁度良い。それに僕が誰を妻にしたいと思っているか、兄上はご存知でしょうに」


 ブランシールはパンを千切りながら言う。


 本当は手に入れたい。だけれども、ブランシールの台詞は決して嘘ではなかった。手に入れたい理由が恋でも愛でもなく違う理由である事は兄には知られたくはない。それに、エスメラルダという兄と同じ炎の気性の娘は兄の隣でこそ真価を発揮する娘だとブランシールは思う。


 だから、何が何でも、どんな方法を取っても、ブランシールはエスメラルダをフランヴェルジュの隣に並ばせたい。


 不器用な兄がやっと恋をしたのだ、本来ならすぐにでも迎えの使者を立てたいところだ。だが、レイリエが撒き散らした毒故にそれが出来ない。

 無理強いすればエスメラルダの体面だけでなく王家の体面も潰れてしまう。


 レイリエが憎いというのは兄弟共通の思いであった。

 しかし、あれでも叔母なのだから始末が悪かった。その始末を何とかして、エスメラルダを迎えに行きたい。


 冷静に考えるとエスメラルダを迎えに行くというのは簡単な事ではない。天涯孤独の、今となっては何の身分も持たない、半分は商人の血を、半分はどんなものか身元の全く分からぬ女の血を引いた娘。


 しかし、日頃頭の回る兄弟は出自の事をこの時考える余裕がなかった。考えたくなかったのかもしれない。妾妃どころかただの情人にするのがやっとの身分。初恋に酔う人間と、その人間に心酔する人間に考えられる事ではない。

 だからただただレイリエの巻き散らした毒の事を考え、苛つく。


 炎のようなエスメラルダ。


 叔父は、ランカスター公爵はどのようにしてエスメラルダを愛でたのだろう? エスメラルダを知ってから、ブランシールは時々、この考えにふけってしまう。


 彼の部屋にある『望月』では白いマーメイドラインのドレスを着て、花冠を頂き、微笑んでいる。背景は勿論、欠ける事なき満月だ。

 だが、その微笑ときたら!

 幸せそうに唇を持ち上げている。だけれども、それは唇だけの微笑。

 そこには静けさと優しさがあった。

 エスメラルダは二面を持ち合わせる娘なのだろう。だからエスメラルダの絵は全て対になっているのだ。


 ブランシールは優しく微笑むエスメラルダが見たいと思った。

 けれどそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。


 フランヴェルジュはぼんやりと『太陽』を見つめて溜息を吐いた。美しい絵だ。けれど本物のエスメラルダという娘はもっと……魅力的だった。


「兄上らしくもない。溜息を吐かれるくらいならさらっておしまいになれば良いのに」


「それも考えた」


 フランヴェルジュはもう一度溜息を吐いた。


「あの馬鹿女の所為でエスメラルダは醜聞に塗れた。王家に迎えるには相当な準備が必要だ。だからいっそ、エスメラルダをさらって何処かに逃げようかとも考えた。他の国に、誰も俺達を知らない国に行って二人で暮らす事も考えた。だが、エスメラルダの心はどうなる? 想像もつかん。あれはそれで幸せなのか?」


 エスメラルダの幸せ?


 ブランシールは深く深く恥じた。


 エスメラルダの心など、ただの一度も慮った事がなかった為に。ブランシールの心の中にあったのは兄の幸せだけだった。

 そして兄を誇らしく思った。

 王太子でありながら、人一人の幸せを考える事の出来る優しさを持った男が自分の兄なのだと思うと誇らしかったのである。


 しかし、少し心配でもあった。

 ブランシールも兄同様の帝王教育を施されている。その中の、『王者は時として非情であれ』と言う言葉が頭をよぎるのだ。


 兄は優しすぎるのではないかと、ブランシールは心配になったのである。

 だけれども、暴君である事を考えたらまだ、優しすぎる位が丁度良いのかもしれなかった。


「兄上はお優しい」


「別にそんなんじゃない」


 耳を赤く染めて、ミルクを飲み干す兄が、ブランシールには心から愛しく思えた。

 本当に可愛いお方だ。


「兄上、エスメラルダの事、彼女の幸せになるかどうか解りませんが、もしかしたら、醜聞からは救い出せるかもしれません」


「何!? ブランシール、どういうことだ!?」


 フランヴェルジュはミルクの入っていたグラスを叩き付けるように机に置いて問う。


「神殿で、『審判』を」


 ブランシールの顔を見て、フランヴェルジュはその言葉が冗談ではない事を知った。


「……………本気なのか?」


「当たり前ですよ」


 ブランシールは感情の篭らない声で言う。


「では噂が本当であった時には?」


 フランヴェルジュの声は震えていた。宮廷の雀蜂の巻き散らす噂に本当の事が混じっていた事など殆どない。フランヴェルジュは恋した女性に処女性を求める程子供でもない。それでも、今の噂を人々が『醜聞』と受け取っている以上、本当であってはならないのだ。


「本当であっても兄上は彼女がお好きなのでしょう? でもその確率は限りなく低いと思いますよ。ねぇ兄上、あの叔父上の性格ですよ? 夜な夜な身体を重ねるくらいなら精魂込めて何枚もの裸婦画を描いておられる事でしょうよ。そして、そんな絵はなかった。叔父上が緋蝶城に籠り切った四年間、誰も叔父上の新作を手に入れていない、アトリエのエスメラルダが全ての筈です」


 ブランシールは落ち着いている。


「問題はエスメラルダが『審判』を拒んだ時ですよ。『審判』は神殿内の事柄。神殿内に王族の権威を振り回すのは禁じられておりますからね、一言嫌だと言われたならそれで終わりです」


「俺なら『審判』などご免だ」


「エスメラルダもそう言うかも知れません」


 だが、エスメラルダが仮に潔白だったとして、レイリエの流した毒を洗い流してくれるだろうか? 雀蜂どもは楽しんで醜聞に群がっているというのに。


 それでも、何もしなければ、このままフランヴェルジュとエスメラルダの道は交わる事はない。


 『審判』を、どうやったらエスメラルダに受け入れさせる事が出来るだろうか?


「兄上……他に手はありますか?」


 フランヴェルジュは頭を抱えた。

 暫く低く唸った後、ぱっとフランヴェルジュは顔を上げた。


「母上にお知恵を借りに行こう。母上は『審判』を受けた事がおありだ」


 決めたら、フランヴェルジュは席を立った。


「急いで食え。お前も来るのだからな」



◆◆◆

 王妃アユリカナが『審判』の儀式を受けたのは、もう十八年前になる。

 去年、他国へ嫁いだ王女エランカの髪が赤く、瞳が緑だった所為だ。


 国王レンドルの髪は金色で瞳は青。

 王妃アユリカナの髪は茶色で瞳は金色。


 レンドルは我が子だとは、最初、認めなかった。

 アユリカナにしてみても、驚きであった。

 アユリカナは知っていた。自分が潔白である事。だから何故自分とも夫とも似ていない子供が生まれたのか、葛藤は凄まじかった。


 それでも子供は愛しかった。


 赤子が泣くと、乳が痛くなる。アユリカナは淑女達が子供を生むとコルセットをつけ、胸を縛り上げスタイルを維持しようとするのを馬鹿げていると思っていた。


 アユリカナの子供達には乳母が居ない。

 フランヴェルジュ、ブランシール、エランカ、三人の子を全て己の乳で育て上げた。周囲からの顰蹙を無視して。

 胸が張るのに、子供にその乳を飲ませず捨ててしまうなど間違えていると思っていたからである。


 エランカに乳を含ませ、そしてアユリカナは決意した。


 このままでは、この子は不義の子と思われるであろう。赤い髪の毛などメルローアの王族には居ない。そしてアユリカナの血筋にもそのようなものは居ないのだ。

 先祖がえりでも済ませられないのなら、方法は一つしかない。

 

 アユリカナは怖かった。

 

 『審判』とは、真実と真実でないものを判断する儀式である。だが、具体的にどのようなものなのかは知られていなかった。知っている筈の者も口を硬く閉ざしたままだった。

 レンドルが勅命としてアユリカナに命じた。

 神殿で『審判』の儀式を受け、間違いなくこの娘が二人の娘であるか神にただせと。

 アユリカナは『審判』を受け、エランカはレンドルとアユリカナの二人の子供であるという真実が伝えられた。


 レンドルは喜んで娘に名前をつけた。その時までエランカには名前がなかったのである。だが、父として、正しく我が娘と知ったなら愛しくてたまらなかったようだ。

 男親というのは総じて娘に甘いもの。


 レンドルも例外ではなかった。


 レンドルの中には疑ってしまった事を恥じる気持ちもあったのだろう。その分可愛がり、罪の意識から逃げようとするレンドルは、エランカには甘すぎる父親だった。

 そしてレンドルはフランヴェルジュとブランシールの事も可愛がった。


 ただ、子供達は知っている。


 三人の子供と妻が崖から落ちそうになったら、レンドルは躊躇いなく妻を救いにいくと。

 

 アユリカナは刺繍を差しながら自室のゆり椅子を揺らしていた。

 そんな時、息子達二人が会いに来たと言うので、侍女達を遠ざけ、二人を迎え入れた。

 だけれども、刺繍は休まない。


 アユリカナはいつもそうだった。繕い物をしていない時には刺繍をさす。刺繍を指す物がなくなればレースを編む。手を休めるという事を知らない。王妃であるというのは何もしなくて良いという事ではないとアユリカナは思っている。公務がない時位ゆっくりしろと周りは言うが、何もしないでいる事に耐えられる性格ではなかった。


 アユリカナは、だから針を刺す。今縫っているのは産着だ。孤児院の子供の為に刺しているのだ。

アユリカナの公務で大きな割合を取っているのは孤児院や施療院への慈善活動……と表向きはなっている。実際は運営にも大きく関わり、慰問して励ましてするだけのお飾りではないのだが、お飾りに見えている方がやりやすい。お飾りのアピールを忘れない為の産着、それに手抜きをすることなく懸命に針を刺していたのだが、息子達が揃って訪ねてくるという珍しさに、手は休まない物の集中出来ないでいる自分を発見しアユリカナは笑いたくなる。


「貴方達、どうしたのです? 朝早くに尋ねてくるなんて珍しい事ですね」


 アユリカナが暖炉の側の長椅子を指し示す。息子達はそこに座る。春とはいえ、まだ寒い。


「母上……御願いがあるのですが」


 フランヴェルジュがずばり切り込んできたのでブランシールは慌てた。遠まわしに話を持っていこうとしたのに。

 こういう時だけは兄の直情径行な性格が嫌になる。

 

 アユリカナは微笑んだ。

 

 最近、見上げるほどに大きくなった子供達が我が子である筈なのに距離を感じてしまっていたのだ。男の子は難しいと思う。優しくて頼りがいも最近出てきた息子達。成長に微かな寂しさを覚えていた。でも、こうやって頼ってくれると嬉しい。


「何です?」


「『審判』の内容を詳しく教えていただきたいのです、母上」


 アユリカナは、苦いものでも飲んだかのような顔をした。


「フランヴェルジュ、駄目よ、教えてあげる事は出来ないわ」


「何故です? 母上」



「制約の呪がかかっているの」




◆◆◆

 フランヴェルジュはむっつりとした顔で自室へと下がっていった。

 制約がかけられているなら仕方のない事だ、そう思う半面、息子の煩悶を何とかする為に制約を破ってくれはしないのかと思ってしまう。フランヴェルジュ二十一歳。まだ彼は真実の意味での『制約』を知らない。


 ブランシールも自室へと下がった。

 そして、侍女を呼ぶ。

 ブランシールが呼ぶ侍女は一人だけだ。


 レーシアーナ・フォンリル・レイデン。


 ブランシールと同じ十九歳の少女。

 淡い金髪に海の色をした青い瞳。美少女といっても差し支えない。だが、本人は自分の美貌を自覚していない。そこがまた愛らしいのだといってしまえばそれまでなのだが。


 ブランシールは人嫌いだ。周囲に人が侍っていると窒息しそうになる。

 それも王子なのだから仕方ないと言われたならそうなのだが、式典や何かのイベント時以外はレーシアーナ以外の侍女を側に置かない。断固として。


 周囲は良い顔をしなかった。レーシアーナとブランシールの間は完璧に綺麗な関係なのだが、ベッドの中でも仕えているのだろうと揶揄されがちだ。

 だが、レーシアーナは気にしない。レイデン家は名門だが、とっくに没落しているのでレーシアーナが働いて稼ぐ金が必要だった。生家は、ブランシールが望むのなら、いや、それこそが本望なのだろうが、娘を妾として差し出す事に何の異論もなかった。


「レーシアーナ、頼みがある」


「頼みだなんて勿体無いお言葉。わたくしは出来る事なら何でも致します故にどうかご命令下さいませ」


 レーシアーナは微笑んだ。

 その微笑みがブランシールには痛い。


 いつかレーシアーナを妻として娶るつもりであった。そして、小さくても良いから領地を分けてもらい、慎ましやかに過ごすのが夢であった。

 

 エスメラルダに出会う前は。


 エスメラルダを愛している訳ではない。ただ、自分の思いを叶える為に、兄の恋を叶える為に、必要とあらば自分の恋も自分自身も犠牲に出来る自分がいて、それが怖い。

 兄が恋を覚える事を心の底から祈っていたのに、酷く胸が苦しい。


「いいかい? レーシアーナ。これから手紙を書くから、それを間違いなく本人に届けて欲しいんだ」


「はい」


 返事をし、そしてこくり、と、レーシアーナは頷いた。


 誰にあてる手紙かは知らないが、侍女や執事、従僕に預けた場合、時として握りつぶされる事もある。

 それでは、侍女として行くわけには行かないとレーシアーナは思う。レイデン侯爵令嬢としていかなくては。


 だが、相手は誰なのだろう?


「どなたに手渡せば宜しいのですか?」


「エスメラルダ・アイリーン・ローグ嬢だ。今は叔父上の王都での邸の一つ、緑麗館に住んでおいでだ。叔父上がローグ嬢に残した財産だからね、流石のレイリエ叔母も追い出す事が出来ないでいるんだよ」


 ブランシールの言葉を受けて、レーシアーナはちらりと飾られている絵を見つめ、頭を忙しく働かせた。


 エスメラルダ。

 綺麗な顔の女だこと。でも、頭のほうはどうかしら?


 自らが醜聞にまみれている事も知らないのか、知っていて何の手も打たないのか、どちらにせよ、レーシアーナの考え方でいくと、無能な女に思えてしまう。


 それでも、ブランシールからの命令だ。


「わたくしに侍女を貸して頂けますでしょうか? それから、馬車も紋章入りではない、上品なものを」


「手配させよう」


「わたくしは着替えて参ります。ブランシール様のお名前を出せば大事になりますが没落貴族のレイデン家の娘が訪ねていっても身分故に追い返せないでしょうし、でも、大きな噂になる事もないでしょう」


「お前は賢い、レーシアーナ」


 どくんっと、レーシアーナの胸が高鳴った。

 褒められるだけでも、こんなに嬉しい。

 側に居られるだけでも、こんなに幸せ。


「お前が言ったようにレイデン家の令嬢として訪ねてもらおうと思っていたんだよ。そしていいかい? 大事な事だよ? 返事を貰うんだ。是か否かだけでいい。手紙の内容は、お前は知る必要のない事だ」


「解りました、ブランシール様」


 レーシアーナは一礼すると一旦退出した。その間に、ブランシールは大慌てで手紙を書く。ゆっくり考えて書く事は出来なかった。正気で書くには内容が無茶な話である故に。

 書き終わるのとレーシアーナが着替えて戻ってくるのと、時間的にはそう大差なかった。


 瞳を引き立てる海の色のドレスを着た少女を見て、一瞬ブランシールは心を掴まれるような衝動を覚えた。侍女のお仕着せなどに身をくるむ普段も愛らしい娘だが、装うと胸が痛くなるほどブランシールの目には美しい娘に思える。


 ブランシールにとってこの世で一番美しい女はレーシアーナだ。他のどんな女とも違うブランシールだけのレーシアーナだ。


「やはりお前はドレスの方が美しく見えるね」


「ブランシール様のお見立てですから」


 去年の誕生日に贈ったドレスは我ながら良い見立てだったとブランシールは思った。


 しかし、急いで思考を切り替える。

 手紙を託す。封蝋には印章指輪の跡。


「必ずお届け致します」


 レーシアーナの『必ず』は『絶対』だ。


「頼んだよ、レーシアーナ」


 レーシアーナは必ずやり遂げてくれる。

 ブランシールは安堵を覚えながらレーシアーナを送り出した。

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