第21話 葛藤 前編

 ブランシールは未来の妻を膝の上に乗せ、ベッドから半身を起こした状態ののまま、会話していた。


 会話の中に水煙草の事は出てこなかった。

 忘れたい記憶として、二人、共に口に出すことは無かったのである。


「シビルでは寂しかっただろう? あそこは療養地としては良いところだけれども、社交的な場所ではないからね。エスメラルダがいたのならまだマシだったと思うけれども」


 ブランシールは自分がいなかったときの事を聞く。レーシアーナの事は勿論、エスメラルダの事も。


 ブランシールは水煙草の禁断症状に苦しむ間でさえただ一人の事を考えていた。

 たった一人の事を。


 何より強く。

 何より激しく。


 だが、それはレーシアーナには聞けそうにはなかった。


 毒が抜けて、この部屋に移されてから、アユリカナが話してくれた。レーシアーナとエスメラルダは王城には居ないのだと。

 自分のアリバイ作りの為にシビルにいるのだと聞かされた。


 だが、特に寂しいとは思わなかった。


 それよりも、ブランシールは恐ろしかったのである。

 レーシアーナが妊娠していると言う事が。


 兄は公務の間を縫ってはブランシールに会いに来てくれた。それがひたすらに嬉しく、その間だけはレーシアーナの妊娠にも怯えずに済んだ。


 自分の子供など想像がつかなかった。『蜜』という避妊薬が百万分の一という殆ど気にしなくていい数字で、命に係わる副作用を齎もたらす事は余り知られていない事実。だが、その事実故にブランシールはレーシアーナに決して『蜜』を使う事を許さなかった。


 行為をすれば子供が授かる事もある。


 知っていた。それでも、それでも己の身に起きてみるとひたすら恐怖だった。

 何年経っても子供が授からぬ男女の組み合わせなど掃いて捨てる程。それなのに何故そんな事が起こってしまったのか。


 だが、こうしてレーシアーナを膝に抱いていると、その腹に宿るのが確かに自分の子だと解る。不思議で仕方がないのだが、レーシアーナの膨らんだ腹を目にした瞬間何とも言えない熱い気持ちが沸き上がってきたのだ。ただただ、愛しかった。

 そんな気持ちは初めてで最初、ブランシールはその態度に表さずとも酷く動揺していた。


 だけれども、温もりを感じていくたびに心が解れていく。

 激しい情熱ではなかった。

 例えるならば、ほんわりと温かい、春の日差しのような優しい愛おしさ。


 それをレーシアーナとその腹の子に感じる。


 ブランシールは、兄からエスメラルダの心を捕らえたという事を聞いていた。

 嬉しそうに話す兄に覚えた寂寥感。

 もう自分は兄の第一番で無い事がまざまざと解ってしまい、辛かった。


 だけれども、それはブランシールの望んでいた事でもある。


 あの美しい娘を、兄の隣へ。


 それは自分の望んでいた事だった筈だ。


 フランヴェルジュとエスメラルダの婚姻は自分達の婚姻の後になるであろう。婚約と式の発表を兄は急ぐ事になる。今、レーシアーナが孕んでいる、だから自分達の婚姻も繰り上げざるを得ないのだが、兄が愛する存在との結ばれる事をひたすらにこいねがっていたブランシールも、兄に急がせようとは思ってはいなかった。


 それでも、もうゆっくと兄とエスメラルダが互いの気持ちを育むのを、兄自身が待てないだろう。

 王と、王の正当な妃、それを兄はブランシールと彼の愛する女、未だ生を受けてはいない子供、それらを守る為に、兄はきっと……動く。動かざるを得ない。


 王弟であるブランシールが華燭の典を挙げただけなら良かったが、レーシアーナの腹の子は下手をすれば火種になる。

 そんな事を、フランヴェルジュは許そうとは決してしない。


 問題はある。

 フランヴェルジュとエスメラルダは、まだ周囲を納得させられる材料を持っていない。それでも、自分達の婚姻からそう日を置くことなく王の婚姻は執り行われる事だとブランシールは確信しているのだ。自分もれレーシアーナも玉座への野望を持っていない事を兄は知悉している。自分達を護る為に、兄はきっと急ぐ。


 兄上。

 僕の兄上。


 心に様々な想いを抱きながら妻になる娘の頭を撫でていると、娘は柔らかな声音でとんでもない事を述べた。


「寂しかったですわ。とても。でもエスメラルダがいてくれて良かったと思います。エスメラルダのお祖母様がいらした時は吃驚しましたけれども」


 潤んだ瞳で微笑みながらレーシアーナが継げた言葉は爆弾。

 エスメラルダの祖母、ダムバーグ家の実質的支配者。それが、シビルに赴いたと?


「何だって?」

「あ」


 レーシアーナは口を押えた。

 余計な事を言ってしまったわ! あれはエスメラルダの個人的な事柄なのに!!


 だが、ブランシールはすこぶる優しい声音で問う。甘い甘い声音。


「詳しく知りたいな、その話。エスメラルダにはお前から聞いたなんて言わないよ。教えてくれないか?」


「でも……」


 レーシアーナは躊躇う。

 友人への忠節と、ブランシールへの忠誠。


 ブランシールの言葉は絶対だ。それは今までもこれからもそうだ。

 だけれども、エスメラルダの事は……?


 たっぷりと静寂に身を任せた後、仕方なくブランシールは口を開く。

 嘘よりは真実の方が強い。


「……いいかい? レーシアーナ。エスメラルダはこの国の正妃になる」


「! ……んですって!?」


 掠れた声音でレーシアーナは問い返した。

 あのエスメラルダが、正妃?


「兄上はエスメラルダ以外の娘を妻に選ぶお心算はない。そして母上も自らの後継としてエスメラルダ以外の娘を選ぶお心算が無いということだ。だから」


 ブランシールは言葉を切った。


「ダムバーグ家の娘として君臨してくれるならこれ以上のことはないのだよ」


 今のエスメラルダが持たないもの。家名と後ろ盾。後ろ指を指される事のない出自。


 ダムバーグ家の娘となってくれるなら、何もかもがあっさり解決するのだ。いや、ダムバーグ家に祖母であるマイリーテがいて他の貴族が後見に立つ事など出来ようか、養女に迎える事など出来ようか。


 否だ。絶対にそれは出来る事ではない。


 だから、面倒事を解決する為には、ダムバーグ家に迎えられる以外の方法はない。


「ああ、ブランシール様」


 レーシアーナが困惑した声を出した。


 頭が付いていかないのだ。自分の親友が正妃になるなど。つまりは自分の義姉になるなど。

 だけれども今口にしなくてはならないのは真実だけ。求められているのはそれだけ。


「エスメラルダはダムバーグの姓は名乗らぬとはっきり申しました。ダムバーグ夫人にも、そのように」


「何と……」


 ブランシールは思わず額に手をやった。

 その手には痺れがあった。水煙草の後遺症で治るものではないのだということだ。しかし、そんな事はどうでもいい。


 エスメラルダは一度自らが蹴った縁にしがみつくことはしないだろう。そういう娘だからこそフランヴェルジュが恋に落ちた。

 ダムバーグ家が何度も追いすがるようにエスメラルダを求めるとも思えない。


「後は母上にお任せするしかないか」


 呟いたブランシールの手を、レーシアーナは己の手で包み込んだ。微かに震える、骨ばった手。

 この手で守ろうとしているのは何なのだろうとレーシアーナは考える。自分であったら良いのにと思う。だが、ブランシールは自分を見ていない。

 ブランンシールはレーシアーナの背後を見るように遠い目つきをしている。


 エスメラルダを、お守り遊ばしたいと、そう仰せられるのですか? ブランシール様。


 ブランシールは、何度も何度も愛する女はお前だけだとレーシアーナに囁き続けた。それは自分の都合の良い夢でしなかったのか。


 レーシアーナは勘違いしてしまいそうだ。けれど、レーシアーナの懸念はほんの少ししか当たっていない。


  ブランシールが焦がれる相手がエスメラルダではない、けれど自分の想いは兄の想い人を口説く何倍も罪深い事。

 だが、ブランシールにとって最高の女はレーシアーナだ。扱いにくそうな上に無意識に男を散々に振り回す、そんなエスメラルダにブランシール自身の食指は全く動かない。


 ブランシールはそっとレーシアーナの頬に触れた。そのまま輪郭を撫でながら、丁寧に愛でる。子を孕み、既に腹が目立ちつつあるレーシアーナに不埒な真似をする心算は毛頭ないのだが、女を愛する方法は睦言だけではない。


 ブランシールの中に、彼を狂わせ兼ねない人への想いがあっても、レーシアーナは完全に別格の、唯一無二である事は間違いない。


 レーシアーナは黙って好きにさせていたが、不意に何かが違うのだと気付いた。

 ブランシールのその触れ方は、愛が籠ったそれだと言えないだろうか。


 ずっと何処かでレーシアーナはブランシールが愛する女は自分の愛する友であると思い込んでいた。それなのに女誑しらしくなくエスメラルダを口説こうとしない彼に違和感を覚えていたが、ブランシールは、もし欲しければ身を引ける男だろうか。


 何かが違うと訴える。


 何かが違うのだ。


 自分は誤解し続けていたのかもしれない、そう、不意に気付いた。


 ブランシールはエスメラルダを愛してはいない、恐らく。

 そして、ブランシールの想いの先はエスメラルダではなく……。


 その時、ぽんと赤子が腹を蹴った。


「ブランシール様! 赤ちゃんが!!」


 レーシアーナは叫ぶと握っていた手を再び己が下腹部に押し当てた。


 ぽんと、衝撃が再び来る。


 ああ、赤ちゃん。


 レーシアーナは未だ生まれざる我が子に心から感謝した。


 最高のタイミングだわ。わたくしの可愛い子。


「……生きているんだね。僕とお前の子が」


 柔和な表情になってブランシールはその下腹部を撫でた。レーシアーナの皮膚。最後にレーシアーナの皮膚に触れたのは何時だったであろう?


 あの悪魔が塔の住人になる前だ。


 それでも、此処に確かに新しい命が育まれている。自分とレーシアーナの子供。


 不意に、視界が曇った。

 熱いものがこみ上げてくる。


「ブランシール様!?」


「……女は命を紡ぐ……」


 ぽろぽろと、ブランンシールは泣いた。


 もう、兄を第一として全ての判断基準とするのはやめよう、そうブランシールは思った。。レーシアーナの中に宿る命を、これから第一に考えるべきだろう。いや、その子を抱くことを決め、堕胎薬に手を伸ばそうとしなかったレーシアーナが一番か?


 エスメラルダの事は母に任せよう。兄も愚鈍ではないのだから自分一人でも何とでもなる筈だ。

 もう、いいでしょう? 僕は……僕は……。


「レーシアーナ」


 ブランシールは涙を拭おうとする少女の手を捕まえて言った。


「お前を愛している」


 偽りのない言葉にレーシアーナの全身が歓喜に震えた。

 ブランシールの瞳は何処か遠くではなく、今この瞬間、確かにレーシアーナだけを見ている。


 他の誰でもない、レーシアーナだけを見て愛の言葉を紡いでくれるのは――初めての事で。いつもレーシアーナの方を見ながら、何処か遠くを見ていたブランシールの目に、今はレーシアーナだけが写っている。


 ずっと、レーシアーナはこんな風に彼女自身だけを宿した瞳で囁かれる愛の言葉が欲しくて堪らなかったのだ。今のこの状況をずっと夢見ていた。

 贅沢な事だと、その想いを必死で殺していたが、強請らなくとも、ブランシールはその夢を叶えてくれた。


「嬉しい」


 レーシアーナの瞳から涙の粒が転がり落ちる。涙にくれていてもなお美しい婚約者を、ブランシールは壊れ物でも扱うかのごとくそっと抱きしめるしか出来ない。


 温かい。

 その温もりだけが確かなものだった。

 十九年間生きてきて、ブランシールが手に入れた唯一のものだった。


 兄には玉座も王冠もある。そしてエスメラルダも。

 ブランシールにはレーシアーナしかいない。


 あの方は僕の気持ちなどお考えになった事もないであろう。


 だけれども、自ら告げる事は出来なかった。

 拒絶されたら生きてはいけない。

 それ位なら一生心に秘めたままで良い。


 そう思う。


 以前は伝えたくて仕方がなかった。

 その衝動が収まったのはレーシアーナが今、此処にいるからだとブランシールは思う。

 彼女がずっと、ひたすらにひたむきな愛をくれた。

 そして今、彼女の中には自分の子供までもが息衝いている。


 愛しいレーシアーナ。可愛いレーシアーナ。僕の聖域、僕の最愛。


 兄上。


 貴方はエスメラルダを捕まえるといい。

 僕は貴方を裏切らない。

 貴方が望むままに生きよう、仕えよう。


 それでも、此処に在る命二つ、レーシアーナと未だ生まれざる我が子を愛する事は許して頂けますよね? 貴方以外に心を割く事を。

 この二つの命の為に、己が命を差し出しても貴方は許してくださいますか?


 愛しい。イトシイ、カナシイ。

 そう思いながらレーシアーナの体を抱きしめていたら少女はつっと上を向いた。

 唇が赤い。

 その唇を吸って欲しいとばかりにレーシアーナは目を閉じる。


 彼女がブランシールのキスを強請る仕草を見せたのは初めてでひどく驚いたけれど、それは眩暈がする程の強い想いを、レーシアーナに対する想いを、ブランシールが改めて知るきっかけとなり。


 ブランシールは優しく唇を重ねた。

 甘い口づけだった。


 ブランシールが与えたキスに、レーシアーナの心もまた震えていた。

 嗚呼、わたくし達は一生、一緒なのだわ。


 少なくともその時のレーシアーナはそう信じていた。




◆◆◆


 エスメラルダは塔の四階にある部屋をあてがわれていた。


 三日後、『ブランシールとレーシアーナと』三人で帰ってくるようになっているのだ。それまでは姿を隠さなくてはならない。


 南翼の工事も思いのほか早く完了したとの事で、エスメラルダにもその新築の部屋が与えられる事になった。ブランシールとレーシアーナが華燭の典を挙げてからの住居の筈であったが、子まで成した事実上の夫婦である事であるからと、シビルから帰ってから早速、そこに住まう事になったのである。


 メルローア人はめでたいことには大体、寛容なのであった。


 確かに婚儀を挙げる前に妊娠した事でレーシアーナを非難する者はいたが、それは大体が貴族階級。


 民衆はそんな事気にしなかった。平民階級では決して珍しい事でも何でもない。それに、子作りは女だけでは出来ぬのにレーシアーナだけを責めるのはおかしいと、一般的な民衆の方がよく理解していたのである。


 エスメラルダは塔の客用寝室として使われている寝室のベッドの上で天蓋を眺めていた。


 正餐の後、やっと一人になれた。


 実はエスメラルダはアシュレ以外の男から求婚を受けたのは初めてではない。

 エスメラルダほどの美貌である。身分がなくともという男は多かった。醜聞に塗れはしていたが、それが却って男達には良かった。

 相手を選んでいる余裕はない筈だとエスメラルダに求婚してくる者達の多かった事。

 平民の身でありながら貴族に想われ側室に納まる、良い話だろう? そう、下卑た声で囁かれた事は一度や二度ではない。


 もし、わたくしが名門貴族と呼ばれる者達ですら驚く財産を所有している事がしれたら、大変だったでしょうね。


 嫌らしい目つきで誠意もなく口説いてきた男達を思い出すとエスメラルダは笑ってしまう。おかしくて。


 勿論、そんな失礼な男達にエスメラルダが応える筈もなかった。


 だが、フランヴェルジュは違う。


 美しい女なら他に幾らでもいるだろう。

 醜聞とは縁のない家柄に恵まれた女達は山といるだろう。


 だが、彼はこの自分を求めてくれた。

 この何もない自分を選び、求めてくれた。


 そう、幸せな物思いに耽っていた時。


 こつん。

 石と石とがぶつかるような音がした。


「カスラ。出ておいで」


 ふわりと影の中から女が出現した。

 だが、女のその右腕はない。


「カスラ!? 一体どうしたの!?」


 血が包帯からにじみ出ている。腕は二の腕の半分から先がなくなっていた。


「主が下された命を違えた事に言霊が罰を与えたのでしょう」


 カスラは自嘲げに笑った。


「命を違えたって……レイリエを殺したの!?」


 『真白塔』が炎上する前に馬車で逃げおおせた氷姫。メルローアから出るのがブランシールの出した条件であったとカスラから聞いた。それを守ってくれたら逃がそうとブランシールは約束したのだとカスラは言った。


 蛇を殺すなとエスメラルダは命じた。もう毒の牙は抜かれているのだと。

 今は何処にいるのだろう? あの蛇は。


 シビルからの旅は常にレーシアーナと御者も共にいたのでカスラやカスラの手下と会話する事は出来なかったのだ。


 しかし、なんたる失策。何としてでも己一人の時間を作るべきだったのだ!


「レイリエは隣国、ファトナムールの王太子の心をつかむ事に成功致しました。脅威になる前に、再び毒の牙を生やす前に殺してしまおうとしたら王太子ハイダーシュに腕を……不覚です。部下も一人命を落としました」


 エスメラルダはぞっとした。

 カスラの一族を傷つけるだけの技量を持っているだなんて!?


「二人一度に消そうとした結果がこれです。お笑い下さいませ、エスメラルダ様」


 カスラは薄く笑った。


「ハイダーシュは未だレイリエの存在を公表致しておりませぬ。消すなら今のうちです。次はこの様な不覚は取りませぬ。欲をかかずにレイリエだけを仕留めるように致します。エスメラルダ様、命を……どうか」


「……レイリエがハイダーシュの妻になろうと何が出来るというの? それよりも、お前は身体をいといなさい。他にも傷を負ったものがいるのではなくて?」


 エスメラルダの言葉に、カスラは唇を噛み締めた。


「あの女は危険です。何をするか解りません。消すべきです」


 エスメラルダは緑の瞳を眇めた。


「お前はきっと甘いといって怒るでしょうけれども、わたくし自身もどうしてこうも自分が甘いのか不思議になるけれども、でもね、わたくし、レイリエには死んで欲しくないの。ランカスター様の妹として、生きて欲しいの」




あやめられんとしてもですか?」


 押し殺したような声でカスラは問いかける。

 エスメラルダは笑った。


「多分わたくしは今、余りに幸せなのだわ。だからきっと人の幸せも願えるのね。願ってしまうのね。勿論、お前やお前の一族の血をわたくしは忘れないし、ハイダーシュに復讐するわ。わたくしなりにね。そう、寝物語で隣国の金鉱を狙うようにとこの国の王に囁きましょうか? わたくし、求婚されたの」


「存じております」


「だから幸せをばらまきたい気分なのだと思うわ。血は贖われなければならないものだけれども命まで取る気にはなれないの」


「そんな事で牙の生えた蛇を放置すると? 生かしておくと?」


「そんな事、だなんていわないで頂戴!」


 きゅっとエスメラルダは唇を噛み締めた。


 今日は生きてきた中で一番幸せ日だと思っていた。それを『そんな事』だなんて……!


「エスメラルダ様、お怒りをお静め下さいませ。私の失言でした! 決して、決して!! フランヴェルジュ様との婚姻を喜んでいない訳ではないのです!! エスメラルダ様!!」


「五月蝿く騒がないで頂戴! 頭が割れそうだわ!!」


 エスメラルダが叫んだ。

 緑の瞳が燃えるように煌く。

 だけれども、その表情は何かを堪えんとするが如く。


「責めないわ。でもお願い、そっとしておいて頂戴。人生最良の日だと思ったのよ。それがお前と喧嘩して終りだなんてあんまりだわ。報告だって明日でも良かったでしょうに。わたくしの幸せの邪魔をしないで」


 エスメラルダには解っている。自分がひどく理不尽な事を言っている事を。カスラは右腕を失う程の大怪我をしたのだ。エスメラルダの幸せを彼女なりに考えて。それなのに。


 嗚呼、今のわたくしは、とても醜いわ。


「傷の手当てをちゃんとしなさい。そして明日詳しく報告しなおして頂戴」


 言って、エスメラルダは酷く惨めな気分になった。求婚された記念日なのに。なのになんと情けない事になっただろう。

 そして、求婚それに固執して、仕える者達に向き合えない自分は何と仕える価値のない主人である事か。


「は」


 葛藤に苦しむエスメラルダを見てカスラは影の中に消えようとした。その時、エスメラルダはふと思いついて懐のガーネットの細工の薬入れをカスラが消えようとしていたそ影に投げた。


「母に教わった薬よ。切り傷によく効くわ。熱も鎮めてくれるし、痛みも取ってくれる。使いなさい」


「有り難き幸せ」


 そう言うとカスラはその薬入れを左手で頭上にかざし、押し戴いた。エスメラルダはその光景から目を逸らすしか出来ない。

 片手で、エスメラルダの幸せを祈って腕を亡くし、なのに幸せそうな表情すら浮かべて頭上に薬入れを掲げるカスラが痛々しくてならなかったのだ。


 薬ですって? 確かによく効く薬だわ。それでも片腕を落とすような大怪我に何か出来るような薬ではないわ。ただの切り傷なら兎も角。

 わたくしは、何をやっているの?


「おいき」


 エスメラルダが命じると、カスラの気配が消えた。

 静かに影に溶けたのだ。


 酷く落ち込んだ気分であるが、考えなくてはならない事がある。

 レイリエとハイダーシュの事だ。


 考えたくなかった。


 女にとって本当に好きな男から求婚を受けるなどとは一生に一度、あるかないかであろう。


 それなのに、何故今、嫌いで嫌いで大嫌いで、そして性格を考えるとただ虫唾が走る女の事を考え対処を考えなければならないだなんてあんまりだ。せめて、今日だけは、愛する男に求められた事だけを考えてそれで頭も心も満たしたかったというのに。


 そう思ってしまうのを止められないのだが、エスメラルダは同時に激しい自己嫌悪にも襲われる。


 カスラの失われた片腕よりも、己の気持ちに浸っていたいと言う身勝手さ。

 それが少女の潔癖さに触れた。自分が許しがたい存在に、いや、それ以下の汚泥のような存在に、思えてしまう。


 その時、扉を叩く音がしてエスメラルダは慌ててベッドの上から飛び起きた。


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