第20話 帰還と求婚

 晩秋の頃である。エスメラルダとレーシアーナは王城へと急いでいた。


 そろそろ朝は寒い。


 だが、夜明けと共に王都カリナグレイの城門が開くなり馬車でそこを通り抜けた少女達は熱い興奮に包まれていた。


 『ブランシールが未来の妻とその親友と共に乗った馬車』は三日後、カリナグレイに辿り着く筈であった。王家の紋章入りの、派手な馬車は今頃何処を走っているだろうと少女達は噂する。彼女らの帰国は秘密裏に運ばれた。全てアユリカナの手配である。


 ブランシールを牢から出したという報せが届いた時、少女らは飛び上がったのだ。


 今、ブランシールは『真白塔』にいるらしい。彼にあてがわれた二階の部屋は、一階に続きアユリカナの部屋でもあった。

 だから秘密裏に隠す事が出来たのである。


「ブランシール様にちゃんと妊娠をお伝えしていないのよ、わたくし」


 レーシアーナが馬車の中で何度言ったか解らない言葉を口に出した。


「その姿を見せれば一目瞭然ではなくて?」


 言うエスメラルダに、レーシアーナは惨めな声を出す。


「でも、でも、もし、不義の子だと思われたら……ああ、ブランシール様!」


 エスメラルダは扇の陰で溜息を噛み殺した。


 妊婦特有のヒステリーであろうか?

 レーシアーナはもう百回は同じ事を言ったと、エスメラルダは思っている。


 だが、エスメラルダは哀れな親友の事をふと忘れそうになる自分に気付いた。


 もうすぐ。

 もうすぐ、フランヴェルジュ様にお逢い出来るのだわ。


 それは歓喜であり恐怖であった。


 逢った途端、魔法が消えるように、フランヴェルジュの胸のうちから自分への想いが消えてしまったらどうしよう?

 ただの遊びだったと言われたならどうしよう?


 いや、遊びでも構わない。この身分で、何を求める事が出来るというのか。


 ただ、ただ、ひとえに逢いたかった。

 逢いたくて逢いたくて逢いたくて。


 エスメラルダはレーシアーナに優しく慰めの言葉をかけながら、ひたすらに思った。


 早く!

 早く王城へ!!

 エスメラルダの望むものはそこに在る。

 フランヴェルジュはそこに在る。


「さぁ、さぁ、大丈夫だから! ブランシール様が貴女の不貞を疑われる筈無いじゃないの。貴方の貞淑さを一番ご存知の方が」


 エスメラルダは務めて明るく言う。自分の心の焦燥を押し隠して。


「でも、例えそうでも、ブランシール様は恥だと思われるかもしれないわ。婚姻前よ?」


「そんな薄情な方に惚れたの? 貴女は」


 エスメラルダの少し意地の悪い問いにレーシアーナは慌ててかぶりを振った。


「違うわ! ブランシール様は薄情な方ではないわ!! ……でも、あの方は王族だわ。二ヵ月半、カリナグレイを離れていたでしょう? わたくしね、全て夢だったような気がするの。わたくしがあの方の寵愛を受けた事も求婚を受けた事も」


 ずきん、と、エスメラルダの胸が痛んだ。

 その気持ちなら解る。自分もあのキスが夢だったのではないかと思えてしまう時があるからだ。


 紫檀の箱はレーシアーナには見せられない。

 恋人からの手紙がぎっしり詰まった箱などレーシアーナを悲しませこそすれ、喜ばせる事は出来ないだろう。


 エスメラルダは知らず、レーシアーナを軽んじていた。共に喜ぶことが出来る存在だとは考えなかった。考えられなかった。


 レーシアーナが苦しみの渦中にいながら明るく振舞っていたからだろうかと思う事もあった。ブランシールの事を想っても、傍にいられない事に妊婦の身でありながら耐えねばならなかったレーシアーナ。


 余計な気苦労をさらに追わせたくなかったのかもしれない。


 けれど、何事もなく平穏な日々の中でも、この恋を告げられたかエスメラルダには自信がないのだ。


 しかし、一概にエスメラルダを責められないであろう。何故ならエスメラルダはまだ十六の乙女であり、いかな美酒より甘美な初恋に酔う少女だったのだ。

 おまけにそれは、初恋であった。エスメラルダはまだ、この気持ちをどう表現すればいいのかすら知らずにいるのだ。


「レーシアーナ、王城が近づいてきたわ」


 エスメラルダが囁いた。


 白亜の王城。名前の無い城。

 その建物に名前が無いのは付け忘れたためでは勿論無かった。余りに美しく、どのような名前でもその美を表しきれないという事からただ単に王城と呼ばれているのである。


 フランヴェルジュ様!!


 馬車は裏門に回り、そこで手配していたものと打ち合わせ『真白塔』の近くの車寄せに馬車が止まった。


 今回の旅は御者とエスメラルダ、レーシアーナの三人であった。妊婦ではあるが侍女であったレーシアーナは、自分の面倒だけでなく他人の面倒も見る事が出来たからである。全てを秘密裏に。ただ、その為に。




◆◆◆



 フランヴェルジュは『真白塔』の最上階から外を見ていた。


 エスメラルダが今日、帰ってくる!!


 まずはブランンシールとレーシアーナの事を何とかしなくてはならなかった。その事については母に何か考えがあるらしい。


 難しいことは母上にお任せしよう。


 フランヴェルジュは元来思考用に向いてない頭をさっさと切り替えてエスメラルダとレーシアーナの乗った馬車を探していた。

 遠眼鏡であちらこちらを覗いていたフランヴェルジュはやがて車寄せに、質素に見えるがその実贅を尽くしたお忍び用の馬車を発見する。フランヴェルジュがよくブランシールと共に街に繰り出すときに使った馬車だ。


 気付けば遠眼鏡を投げ捨てていた。

 あったものは元の場所に置かなくては気が済まないフランヴェルジュが、である。


 階段を駆け下りる。

 素晴らしい速度で駆け下りる。


 エスメラルダ!


 フランエルジュの胸の中にはその言葉しかなかった。弟の事も忘れた。弟の婚約者の事も忘れた。だが。


 扉の前にアユリカナが立っていた。


「迎えに出る事は許しません。フランヴェルジュ。もうすぐこの塔に二人は入ってきます。貴方は軽々しく動いていい身分ではない。解りますか? メルローア国王陛下」


 ぎりっと、フランヴェルジュは唇を噛んだ。


 国王。


 その言葉、その地位故にどれほどのものを得ただろう? そして失ったであろうか?


 愛しい女を迎えに行く事も出来ぬのですか? 母上。


 しかし、すぐに使いの者が扉を叩いた。馬車を走らせてきた御者だ。


「到着致なさいました!」


「通しなさい」


 フランヴェルジュが何か言う暇もなく、アユリカナが命じる。


 ぎぃぃと扉が開いた。


 そこにいるのは美しい二人の少女。


 黒髪を軽く結ったエスメラルダは頬を赤く染め、そして妊婦であるレーシアーナの手を引いていた。レーシアーナの顔は、エスメラルダとは逆に蒼白であった。


「二人とも、お帰りなさい」


 アユリカナが優しく微笑んでみせる。


「さぁ、二階に行きましょう。ブランシールは今眠っていると思います。まだ夜明けから間がありませんものね。フランヴェルジュ、レーシアーナを抱きあげて頂戴。妊婦に階段は危険だわ」


「も、勿体無うございます! アユリカナ様!! 陛下の御胸になど……」


「構わん。そなたは我が妹になる身ぞ。何を遠慮する事があろうか」


 フランヴェルジュはそう言うとさっと腕を伸ばしレーシアーナを抱き寄せ、そのまま横抱きにした。


 レーシアーナの頬が染まる。レーシアーナはブランシール以外の男にこのように抱かれる事は無かった為だ。おまけに相手は国王そのひと。


「随分、大きくなったものだな」


 フランヴェルジュは不思議そうに言う。


「何が、でございますか? 陛下」


 エスメラルダは精一杯感情を抑えた声で問うた。


 まだ優しい言葉一つ、愛情溢れる言葉一つ貰っていない。確かに、無理がある状況だが何とか、して欲しかった。

 それが単なる我儘だとエスメラルダは知っている。知っているのに理性を感情が噛み殺そうとする。


 離れていた二ヶ月の間に夢は消え去った?


 フランヴェルジュはそんなエスメラルダの物思いに気付くことなくレーシアーナのふっくらとした腹を見つめながら言った。


「いや、腹がだ。女性とは不思議なものだ」


「だから男は女を守るのです」


 アユリカナが言った。


「守るべきもの、大切にするもの、愛しむもの。女は子を産む道具では決して無い。だけれども、どんな偉大なる王も女の腹の中で育まれ、生まれ、名を残したのです。さぁ、無駄話をしている場合ではないわ。上へ」


 階段は薄暗く、狭かった。人一人通るのがやっとの幅しかない階段でレーシアーナは自然フランヴェルジュにしがみつくような形になる。それがエスメラルダには辛かった。


 別にレーシアーナが悪い訳ではないと解っているのだ。だけれども。

 フランヴェルジュ様はわたくしのもの……。


 その筈なのに視線も合わせられない。この階段を昇るまで。

 先導していくのはアユリカナその人。そして殿しんがりがエスメラルダだった。


 ぎぃっと扉が開く音がして薄暗かったその場に光が差した。


 その光の中にアユリカナが、レーシアーナを抱いたフランヴェルジュが消え、エスメラルダも慌てて飛び込んだ。


 そこは天蓋付きのベッドが殆どを占める小さな部屋だった。

 そのベッドに上半身を起こし、ブランシールが淡く微笑んでいた。


 沢山の気配にブランシールの眠りは覚め、そして愛しい妻が帰ってきたことを知ったのである。唇が綻ぶのをどうやって止められよう。


「ブランシール様!!」


 フランヴェルジュがレーシアーナを下ろすか下ろさないかの内にレーシアーナは飛び出していった。膨らんできた腹を気にせず、華奢な靴を蹴るように脱ぐと、ベッドに飛び乗り、愛しい男のその身体を抱き締めた。


 レーシアーナの世界に、今はブランシールだけがいた。


 レーシアーナが冷静なら、そのように下手をすれば不敬を咎められる行動は取らなかっただろう。理性など消えてしまうほど、レーシアーナはブランシールをひたすらに求めていたのだ。

 皆、それが解るから、レーシアーナを咎める者は誰もいない。


 元より華奢な感じのあったブランシールだが、さらに痩せていた。レーシアーナはそれが辛い。


 わたくしがついていればこんなに痩せさせなかった……!! わたくしが!!


「レーシアーナ、おはよう。それから有難う」


 ブランシールの声は滑らかに響く音楽のようにエスメラルダには聞こえた。

 こんなに美しい声の持ち主だっただろうかと思わせるのは、その声の中に溢れるレーシアーナへの愛情故にだろう。


 エスメラルダが後ろ手で扉を閉めると、部屋は一杯一杯だったが誰も気にするものは居ない。


「有難うって何ですの? ブランシール様」


 そっと顔を上げ、レーシアーナが問う。

 その顔は美しかった。

 涙で濡れて、頬に幾筋も痕が付いているというのに、レーシアーナのその顔は、愛しいひとを再びその腕に取り戻した女の顔は、美しかったのだ。


 綺麗なレーシアーナ。


 エスメラルダはまた胸が痛む。


 親友の幸せを素直に喜べない自分が嫌だった。そんな自分は汚らわしいといっても過言ではない。


 その時、フランヴェルジュが不意に一歩、二歩、後退してエスメラルダの方に近付いてきた。視線はブランシールとレーシアーナに固定されたままだったが。


「赤ちゃんを、有難う。僕のレーシアーナ」


 ブランシールは優しく囁く。

 その言葉に、レーシアーナはまた新たな涙を誘われたようだった。


 それを見ながらフランヴェルジュは溜息をついた。周りの目が気にならないのだろうか? 若さが羨ましかった。


 だが、自分にはエスメラルダがいる。そう思い、つ……と無骨な手を、伸ばす。背中に居る人物、エスメラルダに向けて。

 反射的にエスメラルダはその手を握っていた。触り心地の良い手ではなかった。分厚くて、ごつごつしていて、たこや肉刺が沢山ある温かい手。


 その手を、エスメラルダは愛していた。

 その手が、エスメラルダの帰ってくる場所であった。


「ただいま戻りましてございます。フランヴェルジュ様」


 エスメラルダは囁くようにいった。すると、フランヴェルジュはエスメラルダの手を握り返した。強い力で。

 エスメラルダは不思議と痛いとは感じなかった。その力が愛情に思えて嬉しかった。


「フランヴェルジュ」


 アユリカナが凛とした声で呼んだ。

 その場を静寂が支配する。


 だがそれも一瞬の事。


「これは勅命として聞け。国王たる余を支える弟、ブランシール・シャルレ・メルローアと、レイデン侯爵令嬢レーシアーナの婚姻を冬の善き日に定める。詳しい日時はレーシアーナの侍医と相談の上、発表する。これは命であり否やは許さん」


 つっとエスメラルダの手を離したフランヴェルジュが王としてそこに君臨する。


 レーシアーナはベッドから転がるように降りると裸足のまま跪いた。腹を庇いながらのその姿勢は辛いはずなのにそれを感じない。


 ブランシールもレーシアーナに続く。


「勅命、受け賜りましてございまする」

「全ては陛下の御心のままに」


 ブランシールの言葉に続けてレーシアーナも言う。その声は震えていた。


「身籠っている最中の婚姻は辛い事と思う。しかし、子供が生まれてからの結婚では子供が一時的にでも私生児扱いとなる。それは避けたい。察してくれ」


「は!」


 ブランシールが左胸を叩く。

 レーシアーナがまた新しく涙を零した。


「後は二人で話しなさい。積もる話があるでしょうから。ブランシールも、そのお腹のふくらみを見たら自分が父親になると言う事実を噛み締めると思うわ」


 アユリカナがそう言うとその場はお開きとなった。


 母と兄と兄の想い人を見送ってから、ブランシールは溜息を吐く。


「真に恐ろしきは母上ぞ」


「アユリカナ様が?」


 絨毯の上に座り込んでいるレーシアーナを、ブランシールは横抱きにしてベッドの上に下ろした。そしてその隣に座る。妊婦の腰を冷やしてなるものか。


「兄上は勅命を下された。しかし、この場の空気を支配していたのは間違いなく母上だ」


 そういわれてみればそうかもしれない。

 だけれども、レーシアーナはその事に触れず、ブランシールの手を己が腹にあてた。




◆◆◆


『真白塔』の屋上にエスメラルダとフランヴェルジュが上がってきたのは午餐の後だった。


 アユリカナが最も信頼しているフォトナ女官長が、仕える者の中では事実を知るただ一人の人間だった。


 彼女が用意した午餐を、アユリカナとフランヴェルジュ、ブランシール、レーシアーナ、そしてエスメラルダが円卓を囲んで摂った。


 その後漸くエスメラルダはフランヴェルジュと二人きりの時間をもてたのである。

 しかも目立たぬよう屋上に上がる事を命じられたフランヴェルジュは不服そうな顔であった。晩秋。塔の上は寒いのだ。

 アユリカナの持っているショールでエスメラルダをすっぽり包んでも、フランヴェルジュは未だ恋人が寒いのではないかと心配だった。


「大丈夫ですわ、フランヴェルジュ様。わたくしは平気です」


 そう言って笑うエスメラルダの手を、フランヴェルジュは握り締めた。


「こんなに冷たい……」


 呟く恋人に、エスメラルダの笑みが深くなる。そして赤い唇で言った。


「では温めて下さいますか?」


「どうやって? こうして俺の手で包んでいれば良いのか?」


「それだけでは足りませぬ。後はご自分でお考え遊ばせ」


「拗ねているのか?」


「まさか」


「いいや、拗ねている。逢ったその瞬間に抱き締めなかったとその目は拗ねている」


「解っていらしたの? なら尚の事教える事は出来ませぬ」


「じれったいな」


 抱き寄せて口づけた。

 赤い唇に焦がれて、夢にまで見た。

 その唇が拗ねたようにすぼめられているのを見て欲望を抑え切れなかったというのは嘘になる。


 だってそれはまるで、口づけをねだる顔。


 フランヴェルジュは何度も何度も唇を重ねる。大切なひと。愛しいひと


 二ヶ月というのはとても長かった。


 エスメラルダは、まだ口づけをする際の正しい応え方を知らない。ただ彼女を動かすのは女の本能というやつであろう。

 ランヴェルジュの手がエスメラルダの手を自由にし、そして今度は彼女の腰を抱く。そんなフランヴェルジュにエスメラルダは懸命に応えてくれる。


 どくん! どくん!


 早鐘を打つ心臓の音。身体と身体の間に殆ど隙間がない今、お互い聞き続けているだろうその音が重なり一つの音楽を作る。

 こんな快楽を、エスメラルダは勿論、フランヴェルジュも知らなかった。


 しかし、唐突に口づけは止まってしまう。


「フランヴェルジュ様?」


 ふっと、フランヴェルジュは身体を離した。

 温もりが遠ざかる。


突然のフランヴェルジュのその行動はエスメラルダを堪らなく不安にさせた。


 わたくし。舌は噛まなかったわよ……ね?


 まだ、エスメラルダは口づけに慣れていない。フランヴェルジュしか自分にそれを教えて良い男はいないのに、恋を確かめ合った途端に離されて。

 だから、経験を積みちゃんと慣れたのなら、こんな風に不安に思う事も無いんだろうか。


 ちゃんと、経験が欲しい。学びたいとわたくしは強い決意を抱いているわ。だから、これからもっとフランヴェルジュ様にキスというものを教えて頂くことが出来たなら……


 だが、エスメラルダが頭の中で忙しなく浮かぶ感情を持て余していたまさにその時、前触れもなく唐突にフランヴェルジュはエスメラルダの前で膝を折ったのだ。


 跪いた国王にエスメラルダの頭は真っ白になる。

 国王はどんな相手にも跪いてはならない存在だ。


「フランヴェルジュ様!? いけませんわ! お立ちになって下さいませ!」


 しかし、フランヴェルジュが上げたのは顔だけ。金の瞳で緑の瞳を捉え、視線が熱を持つ。


「我、メルローア国王として伏して汝に願い奉らん。我が傍らにて我が背負う荷の半分を共に、我が知る喜びの半分を共に、汝がその生涯を我と我がメルローアの為に捧げん事を願うものなり。これは命ではなく我が願い。全ては汝の心のままに」


 エスメラルダはただただ、おののいた。


 求婚されているのだ。

 アシュレ以外の人間が、エスメラルダを妻として求めた。


 気持ちなら知っている。だけれども妻になれようか? 醜聞に塗れたこの身が。何の身分も後ろ盾もないこの身が。


 だけれども、フランヴェルジュが行った求婚はメルローア王家に代々伝わる誓言だった。

 先代の王レンドルもアユリカナに似た言葉を言った筈だ。レンドルが王太子であったが為に似た言葉。王であったなら、一言一句同じであったはずの言葉。神聖なる誓言。


 愛人としてではなく、妾妃としてですらなく、『王妃』として迎える娘に誓う言葉。一人の王が一生にただ一度しか口に出来ぬ求婚の言葉。


「わたくし……わたくし」


 エスメラルダは困ってしまう。

 どうしたら良いのか本当に解らなくて、エスメラルダは膝を付いた。


 出会って一年も経たず、恋を自覚してからはずっと離されていた。長い時間を過ごしてお互いの総てを知った訳ではない。


 それでもこの男は自分が欲しいと、これ以上ない程の方法で教えてくれた。


 ――応えたい。生命を懸けて応えたい。


 黄金の瞳が、エスメラルダを見ている。


 誓言だとアシュレは教えてくれた。だが答え方までは指南してくれなかった。


「フランヴェルジュ様……」


 困ったように呼ぶと、フランヴェルジュも困った顔をした。


「俺ではいけないか? 頼りないか? 答えは今すぐでなくとも良いから……だから」


「貴方しか要らないわ!」


 エスメラルダはフランヴェルジュの頭を己が胸にかき抱いていた。


 お互いまだ知らぬ事の方が多い。過ごした時間は余りにも短い。

 それでも、あと百年生きてもこんなにも愛しく思える男と出会えるとは思えない。


「わたくしが欲しいのは貴方だけですわ」


 心臓が破裂しそう。

 どきどきしてたまらない。


「だから、答えは……是ですわ」


 エスメラルダの赤い唇が震えている。

 慄く唇にフランヴェルジュは唇を重ねた。




◆◆◆


 アユリカナは地下の霊廟に降りていた。

 そして生前と変わらぬ姿の夫の許に足を運ぶ。


 防腐処理の技術は完璧だった。始祖王バルザを始め何人の王族が此処に眠っているのか、考えただけで気が遠くなる。


 この霊廟は『真白塔』の地下だけでなく王城の地下全域にまで及んでいる。慣れぬ者が迷い込んだら出られぬのは必至。

 しかしアユリカナの足取りに迷いはない。

 銀の燭台に蜜蝋。それを掲げてアユリカナは歩き、辿り着く。


 レンドルは優しい顔で眠っていた。

 断末魔の苦しみようを見ていたアユリカナには信じられない事であるけれども、その顔は穏やかであった。


 もう二度とレイリエの虜にはならぬ夫。


 知っていた。


 夫がレイリエを抱いている事をアユリカナは知っていた。レンドルの告白を聞く前から。


 夫婦なのだ。

 血よりも濃い絆で結ばれているのだ。

 気付かぬ方がおかしい。


 だけれども責めずにいたのはレンドルが一番苦しんでいる事を知っていたが為だ。

 苦しんでいる夫を、更に糾弾する事は躊躇われた。アユリカナには出来なかった。


「貴方……」


 アユリカナは燭台を枕元に置くと、そっと冷たい頬に触れた。


「わたくしは駄目な妻だったわ」


 アユリカナの黄金の瞳が潤む。


「子供を、三人しか残せなかった」


 流産。早産。

 沢山の水子が生まれた。


「そして、もう皆、わたくしから去っていく」


 ぽつん、レンドルの頬に涙が一滴、落ちた。

 ぽつん、もう一滴。


「子供の成長は嬉しいことだと思っていたわ、レンドル」


 少女時代の口調で、アユリカナはレンドルに語りかける。


「でも嬉しいだけじゃないの。初めてフランヴェルジュがロンパースを卒業して半ズボンをはいた日を覚えていて? わたくしが泣くのが不思議だと貴方は言ったものだけれども、女はいつまでも子供が自分だけの可愛い赤ちゃんであったならと、思ってしまうものなのよ。早すぎるわ。レンドル。早すぎるのよ。あっという間に皆大人になったわ。エランカを手放した時も辛かったけれども今度はもっと辛い。胸が痛いわ。フランヴェルジュもブランンシールも、わたくしから去っていく。二人とも女を見る素質はあるわ。貴方譲りかしら? エスメラルダもレーシアーナも、とても良い娘よ。嫌な女だったならって思うわ。そうしたら苛めてやれたのにね」


 アユリカナは夫の胸に顔を埋めた。

 もう温かくはない胸。もう心臓が脈打つ事のない胸。


 わたくしの、レンドル。

 貴方の心はわたくしだけのものだった。


「貴方を、許さないわ」


 アユリカナは言った。

 ぽつり。また一滴黄金の瞳から涙が搾りだされる。


「わたくしをおいて逝った貴方を許さないわ。わたくしを一人にした貴方を、許さないわ」


 しかし、許さないといっても何が出来るというのだろう?

 胸元から顔を離し、アユリカナは彼の胸元を何度も叩いた。小さな手で。


『小さな手だ。細い指だ。子供のような手だな。だが私はこの手が良い。この手で私を支えて欲しい』


 レンドルがそう言ってアユリカナの手に口づけた時、アユリカナはその言葉が信じられなかった。

 アユリカナが薬漬けに去れて幽閉されていた期間、彼女は何度犯された事であろう。そして妊娠し、意識が殆どはっきりしないアユリカナは夢うつつの中、堕胎させられた。


 アユリカナはだから、子供がもう産めない身体になったと医師に告げられていたのだ。


 次代を紡げぬ王妃など。

 そう思った。


 だが、レンドルは言ったのだ。

『それでも構わない』

 と。


『生涯私が貴女を支えよう』


 アユリカナが子供を身籠る事が出来たのは奇跡としか言いようがない。その子供達もレンドルは一人一人愛してくれた。


 しかし、先に逝ってしまうと知っていたら、アユリカナはレンドルの求愛を受けたであろうか。


「答えてよ! 返事をしてよ!!」


 腕から力が抜け。棺に手をかけたまま、崩れ落ちるようにしてアユリカナは座り込み、そして号泣した。


 死者だけが聞いていた。

 二度と彼女を抱けぬ死者だけが。

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