第19話 対峙

 レーシアーナが宮廷から姿を消し、エスメラルダもそれに従った。

 レーシアーナの妊娠が発表され、未来の王弟妃は静養の為に『ブランシールと共に』親友を連れて王都から南にあるシビルという温泉地の王家の別荘へ引き篭ったのである。


 常にフランヴェルジュの隣にいたブランシールの不在を隠す為、計画された『静養』


 フランヴェルジュはエスメラルダが旅立つのを止められなかった。何故ならお互い恋を確認して間もなくの出立であったからでもあったし、二人がアユリカナに想いを通じ合わせた事を告げられなかったからでもあった。


 無論、アユリカナは気付かぬほど馬鹿ではない。だが、言い出されないのをこれ幸いにと気付かぬ振りをした。

 フランヴェルジュとエスメラルダが告げられなかったのが、エスメラルダ自身の醜聞の為であるとか、フランヴェルジュの王としての立場であるとかその様な事ではなく、初めて叶った恋に興奮し、溺れ、そして羞恥心を持っていたからであったというのは皮肉としか言いようが無い。


 王と少女ではなく、フランヴェルジュとエスメラルダであったから引き離された。


 しかしこれは致し方ないことであろう。


 エスメラルダの醜聞が完全に掻き消えた訳ではない。そのエスメラルダがレーシアーナのいない宮廷に残ってどうするというのだ? もし、フランヴェルジュと仲睦まじくしていたなら再び醜聞に火がつく事であろう。

 それは、今の段階では好ましくない。


 アユリカナはエスメラルダが『審判』を受ける事を望まなかった。あれは経験しなくて済むのなら経験しないほうが良い。

 自然に受け入れられる様にするには未だ土台作りが完全とはいえなかった。


 醜聞、アユリカナは笑いそうになる。


 婚姻を挙げていないのは確か。挙げていたならばエスメラルダは一生アシュレの妻であり、臣籍降下はしたものの王族の妻としての処遇が与えられていた。


 宮廷の蜂雀達が事実婚がどうのと騒ぎ立てているが、アユリカナは言えるものなら言ってやりたい。


 ではそなたは生娘なの? ではそなたの娘は男を知らぬ処女なの?


 決して答えられないだろう。

 貴族の娘は奔放で結婚するまで沢山の恋人を持つものは少なくない。おまけに、家同士の利害関係の為、父親が娘にどこそこの誰これと一夜を過ごすようにと命じる事などよくある話。

 貴族の娘で処女というのは絶滅危惧種だ。


 本当に馬鹿げている。


 エスメラルダが婚約者と契っていようが契っていまいが、本来ならそんなことは醜聞になり得ない事柄。それが醜聞になってしまったのはエスメラルダの出自と――美しすぎるが故のこと。


 蜂雀の嫉妬は……本当に醜い。


 まだ、もう少し時間が必要だわ。


 だからアユリカナは恋人同士が一時的に引き離される事を良しとした。

 それ位の距離で離れてしまう恋心ではないと、アユリカナは見切ったのだ。


 ただ、許される時間は少なかった。


 兄であるフランヴェルジュではなく弟であるブランシールの結婚が先に決まり、そしてレーシアーナは身籠った。子供は王位継承権第二位となる。

 時間が命で買えるのならば、アユリカナは買ったかもしれなかった。




◆◆◆


「それにしても、退屈だわね、エスメラルダ」


 レーシアーナがもう日頃の挨拶になっているかの如き言葉を繰り返した。

 シビルの温泉に大はしゃぎしたのが昨日の事のように感じられる。


 王都を離れ、二週間が経過していた。


 ブランシールが縛されて四日後に旅立ち、着いたのは五日前である。十日間の旅程だが本来なら一週間もあれば十分に辿り着ける。これは妊婦であるレーシアーナを思いやっての事であった。早馬なら五日か四日といったところであろう。


 ちなみにこの妊婦、レーシアーナだが悪阻もなく、精神不安定になることもなく、逞しくやっている。

 未来の夫の事も一旦腹を決めると、ぐずぐず泣いたりはしなかった。アユリカナの事を完全に信用しているレーシアーナはアユリカナに従っていれば総て安心だといわんばかりだ。


 もしかして、と、エスメラルダは思う。

 レーシアーナって本当は神経が図太いのではないかしら?

 泣いていたかと思うとすぐさま立ち上がる。


 わたくしの大切な親友は、わたくしの何倍も何倍も、強い。それがとても誇らしい。


「レーシアーナ、確か貴女、面倒なお茶会も夜会も他の宮廷行事もなくて楽だわと言っていたのではなくて?」


 エスメラルダの言葉にレーシアーナはしぶしぶ頷いた。


「そうだわ。人付き合いやその他から解放されたいとずっと思っていたわ。苛々を噛み殺すのに精一杯で笑っているのが苦痛だった。だけれども、仕事も何も無くて働きづめだった十数年間とは全く違う王女様のような生活をしてみるとね、暇だわ。暇すぎて苦しいのよ。これこそまさに贅沢病ね」


 エスメラルダは苦笑する。

 毎日届くお見舞いの数々はレーシアーナに見向きもされない。代わりにエスメラルダが返事を書く。

 レーシアーナがそんな侍女の仕事をしなくても良いと言ったのだがエスメラルダは聞かなかった。エスメラルダも退屈だったのだ。


 そしてその夜。

 エスメラルダは嬉しくない知らせを一つ、受け取った。

 それはマイリーテ・ラスカ・ダムバーグが王都を出てこちらに向かっているという事。


 カスラは言った。


「もしお許し頂けるのでしたら、エスメラルダ様。マイリーテ・ラスカ・ダムバーグの馬車は不幸な事故に遭う事でしょう」


「駄目よ!」


 エスメラルダが声を荒げると、カスラは闇に溶けた。

 エスメラルダの胸は早鐘を打ち、頬が紅潮する。


 ブランシールが驚くべき速さで回復しているという報告も、今のエスメラルダの神経を休める手助けにはならなかった。


 カスラの報告に遅れる事二日、マイリーテが使者を寄越した。レーシアーナはエスメラルダに目で問うたが、緑の瞳は真っ直ぐにレーシアーナを見据えてきたので彼女はマイリーテの来訪を許可した。


 使者が帰るなりレーシアーナはエスメラルダに尋ねる。必死の面持ちで。


「本当に良かった? わたくし、間違えてなかった? 貴女がわたくしの目を見たのは、わたくしを止めるためではなかったわよね? どうか何とか言って頂戴!」


「レーシアーナ、そんなに早口でまくし立てられたら答えに窮するわ。勿論、貴女の判断は間違えていなくってよ」


 エスメラルダは殊更明るく言った。笑いながら。


 到着日は四日後。カスラから知らせを受けてから数えるなら六日後、マイリーテは此処に到着するという。

 一週間近い時間があった。


 エスメラルダはその間に祖母と対決する為に心を研ぎ澄ました。


 大丈夫。わたくしは大丈夫。

 エスメラルダは呪文を唱える。


 泰然とあれ、エスメラルダ。泰然とあれ。


 アシュレからの口伝えの呪文。


 だけれども、それより勇気が出る物が二階の自分に割り当てられた部屋にあるのをエスメラルダは知っている。

 階段を駆け上がってそれを抱き締めたい欲求とエスメラルダは必死に戦った。


 夜、抱き締めれば良い。


 紫檀の箱に金色のリボンで束ねてある手紙達。フランヴェルジュが一日も欠かさず寄越してくるそれら。


 エスメラルダも一日も欠かさず手紙を送っていた。

 それは今までと変わりの無い事であった。

 手紙の内容も変わらず、相変わらず色気の欠片もない。


 だが、手紙の意味が変わったのだ。


 行間から滲み出してくる、『こんなにも愛しい』という想い。それは以前には無かったものだ。


 両想いになってから、沢山考えた。


 両親を亡くし、貴族ではなくなったこの身がフランヴェルジュの隣に立つことなど出来ようか。愛人でもいい、いや、名前などどうでもいい。彼に愛される立場ならば。


 そう思う反面、いずれ彼が王妃を迎えるのであれば、自分は愛しい男を他の女と共有する事になるのだろうかと悩んだ。フランヴェルジュが他の女と褥を共にして、耐えられる訳がない。


 よりによって、とんでもない恋をした。


 それでも、フランヴェルジュを想うのはとても幸せで。もう、恋を知らなかった頃には戻れない。


「ダムバーグ夫人がわたくしを訪ねてくる貴族の一人目だなんて変な気分だわ。尤も、貴女に用があるんでしょうけれどもね、エスメラルダ。わたくし達、ちゃんと決めておかないといけないわ。ダムバーグ夫人にどう接するべきなのか」


「どうって?」


「ああ、エスメラルダ。貴女はあんなにショックを受けていたじゃない。それにお母様とお父様のお話もしてくれたわ! 嫌じゃないの? ダムバーグ夫人の事。平気なの? 受け入れられるの?」


 レーシアーナは真剣にエスメラルダを心配しているようだった。


「わたくし……受け入れるつもりはないわ」


 エスメラルダは言った。


「今更祖母ですって言われても困るもの。わたくしは受け入れない。受け入れられない。だけれどもジブラシィ・ローグとリンカ・ローグの娘として、ランカスター様が妻にと選んで下さった女として、威厳を持って接するつもりよ」


 エスメラルダは心の中で付け加えた。

 そうして今、フランヴェルジュ様が選んで下さったものとして、と。


 レーシアーナにも、エスメラルダは小さな恋の成就を伝える事が出来なかった。

 何故だろうと思う。親友なのに。


 だけれども、フランヴェルジュとの事は心の聖域の中にあった。誰にも冒されはしなかった。

 そして、秘める事により、より一層の強さを持って恋が成長していく事をエスメラルダは知らない。


 きっと伝えられないのは、わたくしがフランヴェルジュ様の唯一無二になるに足る身分を持たないからだわ。父様が生きていて下さったなら、それならば子爵令嬢として少しばかりの可能性はあったでしょうけれど。


「じゃあ、エスメラルダ。わたくしはどうしたら良いかしら? 模範的な女主人として最後まで場を取り仕切って、貴女が孫だなんて一言も言うことが出来る余裕がないようにするべき? それとも、悪阻がひどくなったふりをして一時間でダムバーグ夫人を追い出すべきかしら? それとも、わたくし、席を外して貴女とダムバーグ夫人を二人っきりにすべき?」


 親友の声に、エスメラルダの意識は恋から現実に戻った。


「そうね。どうしてもらうのが一番良いのかしら?」


 少女たちは相談する。

 特に楽しい相談ではなかった。それでも盛り上がったのは二人とも退屈を囲っていた所為もあるであろう。侍女はマーグしか連れてきていない。後は元いた使用人達が二十人。

 話し相手にも不足する中、この騒ぎは不謹慎ながらもほんの一寸だけ、歓迎された。




◆◆◆


 マイリーテ・ダムバーグが来た時、エスメラルダは緑のドレスを着ていた。波紋の浮き出た美しい絹は手紙と一緒になって送られて来たフランヴェルジュからのプレゼントであった。


 それをドレスに仕立てたのは退屈を囲う二人の少女達である。使用人任せにしても良い仕事をエスメラルダとレーシアーナはひたむきに取り組んだ。


 そのドレスに苔緑のリボンを合わせ、エスメラルダはレーシアーナが取り仕切るお茶の席に同席した。


「ダムバーグ夫人にはようこそはるばると、わたくしめの退屈を紛らわせる為にいらして下されました。心よりお礼申し上げます」


 レーシアーナがそう言いながらダムバーグ夫人を見やる。夫人は唇に笑みを刷き、言葉を返す。


「お腹の和子様は順調でしょうか? レイデン侯爵令嬢。式の日取りがどうなるのかで宮廷は大賑わいですのよ」


 それはレーシアーナが妊娠しているからだ。初夏に身籠った子は夏の盛りに発表された。

 そして夏の終り、秋の息吹が耳元を掠めそうな頃、今、こうしている。


 春の最初の鍬入れと、レーシアーナの出産は余りに近かった。だから式が早まるか延期されるか人々はその噂で喧しい。

 尤も、そこには幾ばくかの非難と嘲笑もこめられていた。


 婚姻前に妊娠するなどはしたない──。


 だが、レーシアーナはそれら総てを解った上で言う。


「総ては陛下の御心のままに」


 レーシアーナと違い、エスメラルダはそれが結構難しい問題である事を理解していた。

 早めれば父王の死に敬意を欠いた事になり延期すれば乳飲み子を抱いた花嫁となる。


 王弟ブランシール。


 フランヴェルジュに子供がいない今、ブランシールは王位第一位継承者であり、レーシアーナの腹の子は王位第二位継承者となる。


 それ故、子供が生まれるのは婚姻後が良いであろうとフランヴェルジュは思っているらしい。少なくとも手紙にはそう書いてあった。


 だが、父王への敬意云々は時が来れば冷める話だからよしとしよう。問題はブランシールがいつ、毒に打ち勝つかだ。水煙草の毒が抜けきるまで婚姻は無理だ。


 婚姻はフランヴェルジュの脳内では冬を予定されている。だが、エスメラルダは決定事項ではないこれをレーシアーナに伝えるつもりは無かった。


 フランヴェルジュの考えている通りに行けば、レーシアーナは身籠った身体で婚礼衣装を着るという屈辱に耐えねばなるまい。国内外の王侯諸侯の視線に耐えねばならない。だがそれは仕方のない事だろう。


 『蜜』と呼ばれる避妊薬を口にしていれば身籠る事もなく、妊娠初期に堕胎薬を飲んでいれば人知れず流せた。


 レーシアーナはブランシールの和子を自ら望み、産むことを決めた。それならば、屈辱などにレーシアーナは決して屈する事がないとエスメラルダは信じた。


 エスメラルダは上品にお茶を味わう。


 その一挙一動にマイリーテの視線が突き刺さるようである。だが、エスメラルダは意に介さない……でいるのは無理だった。


 もし。

 もしも。


 お祖母様と呼んで甘える事が出来たら。


 そんな淡い期待は綺麗さっぱり捨てたと思っていたのにまだ残っていたらしい。

 だけれども、マイリーテは母の母なのだ。エスメラルダが余りにも早く喪ったリンカの事を知る今では殆ど居ない人間なのだ。


 エスメラルダは宮廷に入ってからかつてのリンカの友人達を探そうとした。ところが、エスメラルダは憤ることとなる。


 リンカーシェは死んだ。


 それが彼女らの答えだった。


 ダムバーグ家が事実を曲げたのか、淑女達の潔癖さがそう言わせたのか。

 エスメラルダは『母』に飢えていた。

 アユリカナだけでは埋められぬ『母』に。


 エスメラルダはレーシアーナが凄いと思う。何故ならレーシアーナは実家には見向きもしないからだ。幼い頃、レイデン侯爵家が、つまりは父がレーシアーナを売り払ったからだというが思慕の情を全くといって良い程表に出さないその態度は羨ましかった。


 わたくしはお祖母様に何を求めているのかしら?


 マイリーテは視線をエスメラルダに貼り付けたままレーシアーナと会話を続けていた。


 上っ面だけの会話。エスメラルダからすれば寒々しくもある。


 会話には加わらず、エスメラルダはマイリーテ・ラスカ・ダムバーグを観察した。


 足元から順に見て行ったのだが顔を上げた時、目が合った。


 緑の瞳。同じエメラルド。


 唐突にそれが嫌だと思った。

 この人と同じ目の色は嫌だ。


「レイデン侯爵令嬢……未来の妃殿下にこの様な事、申し上げるは大変心苦しいのですが……お許し下さい。このエスメラルダ嬢と二人にして頂けませんか?」


 マイリーテの声は今日初めて、心に思うままの事を紡ぎだした。


「ダムバーグ夫人、それはわたくしに問うべき事柄ではありませんわ。エスメラルダに仰って下さいまし。『二人になりたい』と。エスメラルダが是ならわたくしは退室致します」


 レーシアーナの言葉に、マイリーテは一瞬だけ怯えたような顔をした。だが、すぐに威厳を取り繕う。


「エスメラルダ。名乗りは済ませたので敬称は省きます。祖母から孫に敬称だなんて滑稽ですものね。お祖母様と一緒にお茶を頂きましょう。ね? 構わないでしょう?」


 レーシアーナが身を固くしているのを感じながら、エスメラルダは頷いた。


「解りました。ダムバーグ夫人」


「お祖母様とお呼びなさい。ではレイデン侯爵令嬢、どうか二人に」


 レーシアーナは立ち上がった。


「では、わたくしは席を外しましょう」


 そしてレーシアーナは背を向ける。


 行かないでという声をエスメラルダは精一杯の努力で飲み込んだ。


 ちゃんと対峙しなくてはならない事だった。

 エスメラルダ自身が。


 そう、他の誰でもないわたくし自身の問題なのだわ。

 きゅっと、エスメラルダは唇を噛んだ。


 ぱたむと扉が閉まる。


「さぁ、エスメラルダ。何故ダムバーグ家の者が侍女のようにレイデン侯爵令嬢と一緒に居るのです? お祖母様と都に帰りましょう。お祖母様は既に貴女の部屋を作らせています。緑と金を基調にね、ファリアドール式ですよ。きっと気に入ると思います。それから何か欲しいものがあって? 何でもお言いなさい」


 一気にまくし立てるマイリーテを見ていると、急速に心が冷えていくのを、エスメラルダは感じた。


 汚い俗物。


 潔癖な少女には物や何かで歓心を買おうとするマイリーテが祖母だという事が堪らなく辛かった。


 フランヴェルジュ様も物でつろうとなさったわね。最初は。


 その耳飾りは今もエスメラルダの耳朶を飾っている。だが、フランヴェルジュは他人だった。少なくともこの耳飾りを提供しようと持ちかけた当初は。


 だけれども、マイリーテは祖母なのだ。

 それなのに。



 エスメラルダは一言一言をゆっくり区切りながら言った。


「欲しい物は一つだけです」


「何です? 何でもお言いなさい」


 エスメラルダは息を一つ吸うと言った。


「わたくしのお母様の事を教えて頂きたいのです。ただ、それだけです。他に何も望みません」


 新しいお部屋も何も要らない。


 マイリーテは溜息をついた。誇らしげとも苦しげともとれる溜息を。


「リンカーシェも欲の無い娘でした。貴女もリンカーシェの美質を受け継いでいるのですね。そう、あの子は天使と呼ばれていました」


 どくんっと、エスメラルダの胸が鳴った。


 天使。

 優しかった母に丁度良い名前ではないか?


 そしてマイリーテはとつとつと語り始めた。

 リンカ……リンカーシェの話を。


 エスメラルダは貪るように聞き入った。

 マイリーテの口調からは物で歓心を買おうとした卑しさは払拭されていた。ただ、語る事を禁じられた娘の、最愛の娘の話が出来る喜びに身を浸らせていた。


 『母』とはこのように純粋で、我が子の事を愛おしめるものなのだろうか?

 誇らしげに話すマイリーテに、エスメラルダはただただ聞き入っていた。


 どれ位の時が過ぎたであろう。

 鐘が鳴った。十七時の鐘だ。


 お茶の客は辞去すべき時間である。


「エスメラルダ、レイデン侯爵令嬢にお別れの言葉を。一緒に都に帰りましょう」


「それは出来ませんわ。ダムバーグ夫人」


 エスメラルダは言った。


「一つはわたくしがここに滞在するというのは王太后様の命であるからです。そしてもう一つは、……もう一つは、わたくしはやはり、エスメラルダ・アイリーン・ローグでいたいと思うからです。ですが、わたくしは今日、わたくしの母がどれ程愛されていたかを知りました。有難うございます」


 エスメラルダは生涯忘れないであろう。

 その日、祖母が一粒だけ零した涙を。




◆◆◆


 重苦しい夕方を乗り切り、正餐の席に着いたエスメラルダはレーシアーナに話をせがまれていた。


 どうなっているのか? 何があったのか?


 エスメラルダは祖母が零した涙の事は伏せ、一緒に行けないと言うと毅然とした態度で辞退したと告げた。


 一瞬だけ、汚い考えを抱いてしまった事もエスメラルダはレーシアーナには言えなかった。余りに恥ずかしい事であったが故にだ。


 家名を捨て、ダムバーグ家に迎え入れられ、エスメラルダがその姓を名乗る事になれば……フランヴェルジュの隣に、唯一無二の存在として立つ事が、もしかすれば許されるかもしれない……。


 けれど、どうしてもそれは出来ない。

 エスメラルダのちっぽけな矜持はそれを決して許さない。


 そして正餐が終り、エスメラルダは今日の午後届いた手紙の封を切った。ペイパーナイフは、フランヴェルジュが旅立つエスメラルダに贈った宝石細工のものである。


『元気にしているか? 昨日も聞いたな。だが、昨日と今日とでは体調に変化が出るかもしれない。人の身体とは不思議なものだからな。側にいられない分、お前の体調が心配だ』


 珍しく甘い……と言っても許されるだろうか? ……言葉で始まった手紙にエスメラルダは赤面した。


『俺は元気だ。変わり無しといったところか。しかし、なんたる虚しさか。お前は側に居ない。こんな時に話を聞いてくれたブランシールは牢の中だ。尤も、母上が仰るには随分毒が抜けてきたそうだ。このままだともう少しで牢から出せるだろうとの事だ。


だが、そこからが大変だな。問題は山積みで逃げ出したくなる。


なぁ、エスメラルダ、真剣な話として聞いて欲しい。お前にもし王冠を戴き、毛皮で縁取られたマントを羽織り、宝石細工の刀を差し、王尺を持ち……そんな男が……メルローアの王が愛を語ったとしよう。お前はそれを受けるか?


だけれどもな、最近俺は思うんだ。俺の治世はそう悪くない。それでも王冠も、上述した総てのものを捨て、ただのフランヴェルジュとして生きていく事は出来ないだろうかと。それでだ。もし何も持たないただのフランヴェルジュが愛を囁いたら、お前はどうする?』


 エスメラルダの頬は既に熱を持っていた。心臓が早鐘を打つ。


ただのフランヴェルジュでも構わないか? 贅沢はさせてやれないだろうが。それでもだ、全てを捨ててお前の事だけを考えて、俺とお前の幸せだけの為に生きる事が出来たらと時々思う事がある。お前と二人で幸せになれるなら、それはどんなにか素晴らしいだろうな』


 エスメラルダは泣きたくなった。フランヴェルジュもやはり、自分と同じ事を考えているのだろうか。この身がまともな出自を持たぬが故に己は愛する男を悩ませているのだろうか。


 だけれども、この手紙を書いた時、フランヴェルジュは酔っていたに違いない。フランヴェルジュはこんな事を言う男ではない。玉座の重みを知るが故にそれに対して真摯な人なのだ、フランヴェルジュは。


 それに愛の言葉をこんなにも囁くのは不自然だった。思わずエスメラルダは間違いなくフランヴェルジュの筆跡か確認した位だ。だが、フランヴェルジュのものである。間違いはない。


 どうなさったのかしら?


 常軌を逸しているとしか思えなった。


『こんな事を言い始めたのは周囲が最近賑やかでな、婚姻婚姻と五月蝿い所為だ。俺はお前と以外添い遂げる気はない。お前と添い遂げられないなら王なんて辞めてやると思った。


だが、刻印のようなものなのだな。王とは。王冠が王の証かと思いきや、身体の何処かにか、もしかしたら魂の何処かに刻み付けられているのかも知れぬ。気付けば国の事を考えている。王なんて真っ平だと思っていたが思考が王なんだ。何処までも逃れられぬ。


その半面、此処は俺の居場所ではないという気がするんだ。強く強く思うんだ。此処ではない何処かで歌でも歌っているのが本当の俺のような気がする。どっちが本当の俺なのか解らないし、どっちの生き方を本当は望んでいるのか解らない。結構辛いものがあるぞ、これには。


ただ、一日が終わって、おべっかやお追従の無いお前の手紙を読んでいる時。その時だ。ちゃんと生きている、と思えるのは。


何だかまとまりのない手紙ですまん。俺には手紙の才はないようだ、と、いう事はお前もよく知っている事だろう。と、いうかお前しか知らない筈だ。俺はお前にしか手紙を書いた事が無いからな。


ではな。くれぐれも身体に気をつけて。


フランヴェルジュ』


 きゅっと、エスメラルダは手紙を抱きしめた。愛しさがふつふつと湧いた。


 わたくしは、貴方の為に何が出来ますでしょうか? わたくしのフランヴェルジュ様。


 返事を書くために、エスメラルダは机に向かった。羽ペンのかりかりという音が時計の秒針の音と混じりながら聴こえる。


『お疲れのご様子のフランヴェルジュ様へ』


 書き出すと止まらなかった。

 『王』である事に疑問を感じている様子のフランヴェルジュに殊更優しい言葉を選び、その便箋に口づける。


 婚姻という言葉で悩ませているのは自分だろう、謝罪の思いを込めてもう一度、口づけ手から封をして封蝋で閉じた。


 加速する思いを抱いて、複雑な一日を終え、そしてエスメラルダは床に就く。


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