第22話 葛藤 後編

「どなた?」


 夜の九時。こんな時間に扉を叩くのは。


「わたくしです。アユリカナ。扉を開けて頂戴」


 エスメラルダは跳ねるように毛足の深い絨毯の上を駆けると扉を開ける直前に、慌てて己の衣服に目をやった。


 幸としか言えないが、たまたま今夜は着替えていなかった。ドレスのままの姿である。そのドレスには多少の皺がついてしまっているが仕方なかった。着替えるまで待てと言える身分のものではない。相手は王太后である。そして未来の母親だ。


 完璧に王太后という身分の女性への敬意を表しているとは到底言えない格好は惨めになる。だらしない女と思われる可能性を考えると泣きたくなる。


 だが、相手はどうあっても体裁を整える為の時間を頼める相手ではなくエスメラルダは扉を開けた。


 にこやかに笑って見せるアユリカナは一糸乱れぬ姿である。皴一つない、まるで着替えたばかりにすら見える彼女は、エスメラルダが衣服の乱れを気にするのを忘れる品を持参して訪れたのだ。アユリカナが持ち込んだそれは、バケツだ。氷を惜しむことなく入れたそのバケツに、二本のワインボトル。


 全然違うような気もするが、こんな事が前にもあったとエスメラルダは思った。


 今自分を苦しめている元凶のレイリエがエスメラルダに毒を盛る為、夜中に酒を持って訪れたあの日。


 アユリカナ様のお酒には毒が仕込まれているのかしら? それとも薬?


「晩酌の相手をして頂けない? レンドルが死んで以来、わたくしは夜一人でお酒を飲んでいたの。半ば中毒になってしまった時期もあるけれど、最近漸く、お酒を味わって飲めるようになったわ。飲み過ぎはよくないしお酒に負けて人生を棄てる心算はないから、飲むのは自分へのご褒美と決めてはいたのだけれど……でも、アイスワインが手に入ったのですもの。それもわたくしの飛び切りお気に入りのそれよ! これを一人で飲むなんて勿体なくて。お酒への冒涜だとすらわたくしは思ってしまうのです。付き合ってもらえると、わたくしは嬉しくてよ」


「まぁ」


 アユリカナが中毒になるというのはエスメラルダには意外だ。完全な中毒というのではないのだろう。手遅れの中毒患者ならば、アユリカナの様に酒を味わって飲むことが出来る状態にはならない。酒を止めるか人間止めるか、その二択になる。

 それでも、アユリカナは愛する夫を失い、そして恐らく酒に逃避したのだろう。立ち直れなければ、逃げる事を止める精神力が無ければ、目の前の女性も二択を突き付けられるまで堕ちていたかもしれない。


「どうぞ、お入り下さいませ。アユリカナ様にお借りしているお部屋ですので、わたくしがどう考えていても好きな時に立ち入る事の出来るお部屋ですが」


 そう言いながら、エスメラルダはアユリカナを招き入れる。 

 毒が入っているのか薬が入っているのか解らないワインに目が行きそうになる自分はどれ程酒が好きなのかと、エスメラルダはほんの少し落ち込むが仕方ない。アユリカナとの晩酌は、夢のようだと思うその感情も偽らざる本音ではあるのだし。


「人と飲むお酒はいいものだわ。そう思い出して貴女のところに来たの。迷惑だったかしら?」


 齢四十、エスメラルダはアユリカナの年をそう聞いた記憶があるのだが、目の前にいる女性はゆったりとした落ち着いた雰囲気があってやっと三十前半に見える若さだ。その落ち着きを引っぺがしたら三十代にすら、見えないかもしれない。

 恐ろしく若さを湛えた王太后が自分を見つめながら首をかしげる仕草に、エスメラルダは何故か慌ててしまった。


「いいえ、とんでもない!! アユリカナ様とお酒を味わう機会だなんて、僥倖としか申せませんわ」


「有難う、エスメラルダ。この部屋の勝手はまだよく解っていないでしょう? だからわたくしが準備をするので、そのコルクを抜いてもらえるかしら。わたくしがコルクを抜こうとすると、大抵コルクを大破してしまうのよ」


 アユリカナはベッドの横にあるテーブルセットの上にボトルを置くとてきぱきと動き始めた。作り付けの戸棚からゴブレットを出し、棚からつまみを取り出す。チーズとドライフルーツが出てきたのには驚いた。エスメラルダは酒を寝室に常備する事は忘れないが、つまみを部屋に備蓄しておく発想は無かった。

 しかし、アユリカナは酷く手際がいい。この部屋を借りたばかりのエスメラルダは勝手が解らず、高貴な身分の相手に晩酌の用意を整えさせることになってしまった。中途半端に手伝うのは邪魔だ、そう己を慰めつつコルクを抜く。


 それでも、あっという間に寝室の小さなテーブルは晩酌の用意が整ってしまって、流石に申し訳ない気持ちでエスメラルダが謝罪の言葉を口にしようとした途端、きょろきょろと視線を動かしながら発せられたアユリカナの言葉により、エスメラルダは謝り損ねる事となる。


「ねぇ、影の者の気配がしたわ。気の所為ではないと思うの……、嗚呼、そうね、良かった。アシュレは貴女に遺したのね、カスラを」


「カスラをご存知なのですか!?」


 エスメラルダは思わず叫んだ。


 アユリカナは椅子に腰掛け、ゴブレットに酒を注ぎながらエスメラルダに座るようにと指示する。大人しく着席したエスメラルダのゴブレットにこともあろうに酌をした王太后は乾杯と言いながらゴブレット同志を軽くぶつけた。繊細なグラスでは乾杯はそれを持ち上げて見せるだけなのだが、頑丈な作りのゴブレットを愛する人間が多いのは、もしかしたらそのせいかもしれない、が、そんな事は今のエスメラルダには些細過ぎて心に引っかかる事すらない。


 アユリカナはカスラを秘密にしなくても良い、そういう人間なのだろうか。


「わたくしはアシュレの事なら何でも知っていてよ。アシュレに仕える者の事も勿論知っていてよ。そうね、思い出話でもしましょうか」


「はい」


 懐かしい男性ひとの思い出にエスメラルダは浸る。

 彼には謝らなければならない、エスメラルダの心は彼と共に土の下で眠ると信じていたけれど、そうではなかった。彼女の心は、寡婦として一生を思い出を大事にしながらただ生きるだけという人生を拒絶した。

 そして、フランヴェルジュを愛してしまった。


 けれど、アユリカナはエスメラルダが一瞬必要だと思った謝罪をあっという間に忘れさせてくれた。アユリカナはエスメラルダの知らないアシュレを沢山教えてくれて、彼女は自分が碌にアシュレの事を知らなかったという事を知ったのだ。


 ただ、どうせならフランヴェルジュの事でエスメラルダが知らない事を教えてくれたら、言葉に出来ない喜びとなっただろうに。


 この日、アユリカナの訪いによって、エスメラルダは自己嫌悪の波から逃れる事が出来た。笑む事が出来た。


 だが、アユリカナが運んできた話はそれだけではなかった。

 エスメラルダにとって辛い決断を下さねばならない話もあったのである。


 アユリカナは薬と毒を両方携えて訪れたのだ。


 二人は酒を楽しみながら他愛もない話に興じていた。


 アユリカナが持参したのはワインは甘さが特徴ではあるもののノーブルロット――貴腐ワインとは全く違う味わいのそれ。


 アシュレと暮らしている時は彼の趣味で甘いワインがあまり食卓に並ばなかったせいか、エスメラルダは甘いワインで美味しい銘柄をまるで知らない。アシュレが泉下の人となった今、彼の趣味に従わなくともよくなった筈なのに、甘口のワインの銘柄を碌に知らないエスメラルダは、なかなか、甘口のワインを選べないでいるのだ。

 エスメラルダは自分で手に取るのは難しいその甘く芳醇なワインを心から堪能する。王城の食卓には辛口のそれも甘口のそれも並ぶのは並ぶが、まだエスメラルダは甘口のワインを考えると初心者というか。


 美味しそうにワインを味わうエスメラルダにアユリカナは苦笑する。


「アシュレは本当にお酒の好きな男だったわね、エスメラルダ」


「はい、ランカスター様は、いつも酒蔵が一杯でないとご機嫌が悪くなられました」


「酒癖は悪くないのですけれどもね。わたくしとレンドルと三人で飲むでしょう? わたくし達二人が必ず潰れてしまって、翌日は二日酔いに泣いたものだわ」


「まぁ」


 エスメラルダは目を見開く。

 とてもとても、意外な事を聞いてしまったために表情が取り繕えないのだ。


 フランヴェルジュにアユリカナの酒の強さを聞かされていた為であろうか。それとも自分が二日酔いなど経験した事がなく、潰れるのがアシュレであった為であろうか。エスメラルダはアシュレが酒に強いという事を考えた事すらなかった。寧ろ酒に弱いながらの酒好きという認識があったのだ。


 あの方が、酔い潰す? 全然、想像が出来ないわ。


 そんな風に戸惑うエスメラルダに、アユリカナは微笑を誘われる。だが、同時に胸に杭が打たれたかのごとき痛みも感ずる。


 アユリカナはとびっきりアルコール度数の強いワインを選んで持参した。アシュレが生前、エスメラルダを酔い潰す事が何度試しても出来ないという愚痴を聞いていたので、アユリカナは自分が酔うために強いワインを選んだのだ。


 ところがちっとも、本当に全く、酔えない。

 緊張という物が酒の力に勝つ力の一種だなんて笑えないが、いつまでもただ、楽しい会話に逃げる訳にはいかなかった。


 アユリカナは自分が素面しらふでは聞けなかったこと、言えなったことを口にする為、夜中に押しかけたのだ。覚悟を決めて、それでもまだ弱い自分を何とかする為に酒の力すら借りようとして。


 全く酔えないのはある意味主の慈悲深さかもしれないわ。酔うことが出来たら確かにわたくしは楽でしょうけれど、これは向き合う事を逃げてはいけない事だわ、ね。

エスメラルダに、とても失礼な事をするところだったのかもしれないわ。


 二人きりになれる機会が次何いつ訪れるか解らないのだ。話すなら今夜しかない。


 けれど、酷く胸が痛くて、苦しい。


「ねぇ。エスメラルダ」


 酔えない事に、アユリカナはほんの少し焦り、苛立つ心もあるがそれを綺麗に隠した心算だった。

 だけれども、エスメラルダはレイピアの切っ先を喉許に当てられた気がしたのである。


「……はい、アユリカナ様」


 答えた声が震えなかった事で、エスメラルダは自分を誉めてやりたくなった。

 だが次の質問は……!!


「単刀直入に聞くわ。貴女とアシュレは、寝たの?」


 エスメラルダの頬が真っ赤に染まる。


「わ、わわ、わたくし達は、同じ……ベッドに眠っておりました」


「そうではないわ。男女の事があったのかどうか訊いてるの」


「有りません! わたくし達が華燭の典を挙げなかったのはアユリカナ様もご存知の通り……!!」


「でも、レーシアーナは妊娠したわ」


 そう言うと、アユリカナは唇だけで微笑む。

 そう、華燭の典を挙げ夫婦とならなくとも、子は授かる。


「わたくし達は潔白です!」


 エスメラルダは叫ぶようにそう言うと、ゴブレットの中身を喉の奥へ流し込んだ。


 嗚呼そうだ、潔白だとも。お陰様で、男女の事と言われても実は良くわからない位なのだから。どういう物か解らなくてエスメラルダはアシュレに十二から十六の四年間できっちり三度、アシュレに尋ねてはみたのだが、答えはいつも一緒で……婚儀を挙げたら教えてやろうと亡き人は笑って言ったものだから。


 エスメラルダの知識での男女の事というと、裸で抱き合う事で、それ以上の何かがあるかもしれないが確かめる事がどうしても出来なかったのだ。だから、エスメラルダは沢山の夜をアシュレの腕の中で眠ったものの、裸体を晒すどころか、互いの夜着が一切乱れる事のなかった事を考えて、男女の仲は無かったと、そう思うのだ。

 ついでに十六の誕生日に華燭の典を挙げたら、アシュレはちゃんとその事を教えてやるとも言っていた。初夜を迎えたら、一つ一つ教えてくれる、とも。


 そんな会話があったのに、エスメラルダが何にも理解していない状態でアシュレと性愛という形で愛しあっていたとは思えない。


 「それが聞けて良かったわ。わたくしが今一番知りたいことだったから。貴女がレイリエの撒いた毒とは違う生き方をしてくれていて良かった」


「あれはランカスター様への冒涜です!」


 アユリカナの言葉に、エスメラルダは憤慨する。ああ、もしアユリカナ様がレイリエが生きているとお知りになったら……!!

 婚前交渉はメルローアでは決して悪ではない。それでも、アシュレは常々エスメラルダを大事にしたいとそう言ってくれていた。

 アシュレを愛して壊れかけているように見えるレイリエは、自分が彼の意思を粗末に扱い、そして踏みつけてぐちゃぐちゃにしている事を理解しているのだろうか。


「フランヴェルジュが貴女に求婚したとわたくしに告げたわ」


「あ、アユリカナ様……」


 エスメラルダは一気に小さくなってしまう。


 フランヴェルジュ様! それを二人きりの話でなく大切な人に告げるなら、それはちゃんと教えて頂きたかったわ!


「時間薬でどうにかなるかとわたくしは思っていたの。貴女の醜聞についてよ」


 エスメラルダは背筋に冷水を浴びせられた気分になった。


 身分を持たぬ平民の身。何一つ後ろ盾を持たぬが故に醜聞と言えぬ醜聞に塗れてしまっている自分。

 アシュレと婚前交渉をごく普通に持っていたとしても、エスメラルダが貴族の身分を持ち、その実家が後ろ盾となってくれるならば、さしたる問題ではなかった。


「それは……それは……」


 やはり、無理なのだろうか?

 この身は、フランヴェルジュの隣に並べぬのか?


 ――そんな事は、解っていた筈だ。


 わたくしは夢を見ていたのだわ。


「可愛いエスメラルダ、聞いて頂戴。貴女は王妃になるべき娘よ。フランヴェルジュは貴女以外を選ぶ心算はない。わたくしも後継として選ぶなら貴女しかいないと思っていてよ」


 アユリカナの言葉にエスメラルダは驚きの余り目を見開いた。

 そんな風に言ってもらえるとは欠片も思っていなかったのだ。


 この身にその価値が、玉座を分かち冠を戴く価値が本当にあるのだろうか。

 父親が生きていたとしても、それでも金で爵位を買った平民である事はどうにも出来ないが、生きていてくれたらまだ違ったのかもしれない。母が生きていれば、エスメラルダが如何にローグという姓に拘っていても、母の為にダムバーグ家は動いたかもしれない。


 本当にこの身には何もない。後ろ盾など皆無。

 好きになった男が、自分を好きだとそう言ってくれて何も考えられない程浮かれて愚かになっていた、自分。


 それなのに、アユリカナはエスメラルダを肯定しようとしてくれている。


「でもね、エスメラルダ、残念な事にまだ充分に貴女の美質は宮廷に受け入れられていない。一方、フランヴェルジュは結婚を急がねばならない。解りますね?」


 それはレーシアーナが身籠っているからだ。ブランシールの血を引く和子がそう遠くない未来に生まれる。

 考えたくはないが、子供がこの時代無事に生まれてくる確率は百パーセントには遠く及ばない。死産も早産も日常的な悲劇。だが、どうなるにせよ、ブランシールとレーシアーナは華燭の典を挙げる。レーシアーナが生きていれば、今胎に宿る子供だけではなく、きっと次々に和子に恵まれるだろう。


 ブランシールの王位継承権を考える。彼の和子はそれに準じた継承権を持つことになる。


「わたくし……わたくし……」


「泣かないで、エスメラルダ。わたくしは貴女こそを娘と呼びたいと思っています。それは変わらない、普遍の事実だと思ってくれて構わないわ。だけれども王妃に醜聞がついてまわるのは避けなくてはならないの。だから、わたくし、わたくしの口からは言いたくなかったけれども……でも、これを言えるのは恐らくわたくしだけだから」


「何ですの!? わたくしの道をお示し下さい。わたくしは、フランヴェルジュ様の為なら何でも、どんな事でも恐れませんわ!」


 縋りつけるなら悪魔にでも縋りつこうとエスメラルダは問うた。方法があるのならば、なんでもする。それが愛しい男の隣に立ち、その人の母親を『お義母様』と呼ぶ権利を齎してくれるのならば、なんでもする。


 この身の血がフランヴェルジュに、メルローアの王にちっとも釣り合わないそれでも、貴賤結婚と人が哂う事になっても、それでもエスメラルダはフランヴェルジュの隣に立ちたい。

 彼があの目に熱を灯し、そしてエスメラルダではない他の女に優しく、さもなくば貪るようなキスを与える事には、何が何でも耐えられない。


 彼の隣に立てる可能性がほんの一欠片でも増すという方法があるのならば、どんな事でも恐れ逃げる事ではない。


 エスメラルダの本気に安堵しながら、アユリカナは溜息と共に囁いた。


 何故この娘にそんなことを言わなくてはならないのだろう? そう思いつつ。


「『審判』を受けて頂戴……」

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