第23話 主に最も近い場所
扇の陰で、エスメラルダは溜息を噛み殺した。そんな不快な顔をしていてはならない。
微笑んでいなくてはならないのだ。アシュレが教えたように泰然と、恵みを垂れる女王のように。
何故なら今はパレードの真っ最中だから。
エスメラルダはパレードの主役ではない。主役はブランシールとレーシアーナである。
人目を憚るようにして旅立ったという設定のエスメラルダとレーシアーナであったが、正式に帰城したとなっているこの日はそれなりの規模のパレードが催された。
しかし、パレードは王城に向かってはいない。
神殿に向かっているのだ。
穢れを払い落とし、禊をし、そしてようやく王城に向かう。勿論、パレードの再開だ。
レーシアーナは震えを必死に押し隠していた。
震えは寒さ故ではない。
十数年間を侍女として生きてきたレーシアーナは自分が背負うものの大きさに耐えられるか不安なのだ。ただでさえ身籠っている身であり精神状態、肉体状態共に不安定である。このパレードは強行軍といえるであろう。
ブランシールが人懐っこく笑いながら手を振る姿にレーシアーナも恐々と手を振って見せる。ブランシールの恥になる訳には行かない。レーシアーナは笑顔さえ作って見せた。
だが、あいた片手はきつく、エスメラルダの手を握り締めている。
エスメラルダはその手を握り返してやる。
それしか今のエスメラルダに出来る事はないからだ。自分はあくまで付き添い。
神殿は白大理石の豪壮な建物であった。
別名『純潔の白き宮』。
その神殿は高い壁に覆われていて外からは中をうかがい知ることが出来ない。
普通の民草達が神殿に用がある時は『宮』という壁の前にある小神殿に向かう。
神殿は、王族と国の弥栄いやさかを祈るためのもの。メルローアを支えるもの。
エスメラルダは最初神殿に入る事を頑なに拒んだ。自分は王族ではないからと。
フランヴェルジュとの婚約もまだ発表されてはいないし、婚約を確かなものにする為には『審判』を受けねばならないという。
『審判』は神殿で行われる儀式だ。そこを見ておくようにとアユリカナが命じ、その言葉にようやっとエスメラルダも納得を示した。
わたくしも覚悟を決めなければならないという事ね。
王族だとか貴族だとか商人だとか、そんな理由でエスメラルダとフランヴェルジュは愛し合ったわけではなかった。
だけれども、身分というものは一生つきまとう。
レーシアーナの婚姻が喜びの声を持って迎えられるのは、レーシアーナ自身は絶対に認めたくない事だが彼女の生家が侯爵家であるからだ。
神殿の門が音を立てずに開いてエスメラルダ達を招きいれる。
馬車が進んで行く。すぐに扉の閉じられる音がした。
その瞬間、エスメラルダは俗世から切り離されたように感じた。
先程まで五月蝿いくらいに耳を打っていた歓声が、唐突に遠くなる。
華美ではないが美しい建物があった。
大理石をふんだんに使った神殿。『純潔の白き宮』。
車寄せに馬車が止められる。
ブランシールはレーシアーナが馬車から降りるのを手伝った。そしてエスメラルダの手を取る。
どきん!
心臓の音が一つ飛ばしに聞こえたのをエスメラルダは不思議に思う。
ブランシール様。
確かに最初は彼に惹かれていた気がする。
だが今でははっきり解る。
今は亡きあの人の面影に心惑わされただけだと。
氷の瞳。銀の髪。
符牒は全て揃っている。
だけれども、今のエスメラルダが愛するのはフランヴェルジュだった。彼だけの筈だった。
馬車から降りて、神官達の礼を受ける。
「お待ち致しておりました。ブランシール様、レーシアーナ様、そしてエスメラルダ様」
ブランシールは鷹揚に頷き、娘達は目礼を返す。
その時、迎えに来た神官の中でも最高齢の老神官がエスメラルダの掌に口づけた。
皆の視線が一斉に集る。エスメラルダに。
老神官は、しかし慌てない。
「皆、お二人を禊の間へとお連れしなさい。エスメラルダ様、貴女様の道案内はわたくしめが務めさせて頂きましょう」
「バジリル様!?」
若い神官が驚いたような声を立てた。
その名前から、エスメラルダも残りの二人も老神官の真実の身分を知る。
神官長、バジリル・スナルプ。
「これ、大声を出すでない。客人に失礼だと思わぬか? 汝らは命じられた事をすれば良い。さぁ、ブランシール様とレーシアーナ様の事は任せる。エスメラルダ様、参りましょう。ある御方が、貴女様がいらして下さるのを今か今かと待っていたのですよ」
ある御方。
バジリルが王族以外に敬語を使うとしたら恐らくは一人だけだとエスメラルダは思い、息を呑んだ。そんな彼女は自分が敬語を使われている事に動転し過ぎていて気付かないでいる。
神官長が敬語を使う神殿の長、神殿の意志にして主の代理人。
大司祭、マーデュリシィ。
未だ二十五歳の若い女性が神殿の最高権力者であった。
その魔力にはすさまじいものがあるという。
かつん、こつんと、大理石の廊下の上に踵の高い靴が足音を響かせる。その音のあまりの大きさに、エスメラルダは何だか申し訳ない気分になる。
帳のようにおりた静寂を打ち破る、無粋な靴の音。
バジリルはどうみても七、八十はありそうな外見ながら俊敏である。
実は若いのではないだろうかとエスメラルダはふと思った。
カスラの一族にもいたはずだ。骨格さえ組み替えての変装を得意とする者が。
バジリルの動きは不自然な程に滑らかなのである。他の者の目は騙せてもカスラの忠誠を受けたエスメラルダはこの老人が只者ではないと看破した。
神官長なのであるから当然魔力は高いのであろうが、それだけではないだろう。
みるからに好好爺と言った感じなのにね。
だが、見た目に騙されてはいけない。エスメラルダはそう教わってきた。
何があるか解ったものではないからな。
そう言ってアシュレはエスメラルダを教育したのだ。
「どうかしましたかの? エスメラルダ様」
考え、自然に歩調が落ちていたエスメラルダはバジリルの言葉に現実世界に返った。
バジリルの問いに、エスメラルダは困ったように笑う。どう答えて良いのか解らないのだ。貴方は正体を偽っているでしょう、などというのは憚られる。
「月には様々な顔がありますわね。新月、望月、弦の月……そういう人間もいるのかしらとふと考えたのです。ただの世迷言です。お忘れ下さい」
「貴女は聡い。そして愚かだ」
先程までのしわがれた声ではなく、バジリルは低音の声を響かせた。白髪頭で琥珀色の瞳の老人の姿のまま。
「ですがそれ故に運命の輪は貴女様を巻き込みながら動こうとするのでしょうな。貴女様は傍観者にはなれない。激しい運命の本流に飲まれて、その渦中において、貴女様のその頬に笑みは刻まれたままでしょうか」
酔ってしまいそうなバリトンの声。
その瞳には真摯な光と子供のような好奇心という二つの色が浮かんでいた。
「わたくしは笑ってみせますわ。何があっても。それがある方との御約束ですの」
かつん、こつん。
足を止める事無く話し合う二人。
その声はどちらも音楽的に美しいのに、まるでレイピアの先のように鋭かった。
「アシュレ・ルーン・ランカスター様ですな」
バジリルの言葉に、エスメラルダは頬に刻んだえくぼを益々深くしながら答える。
「はい」
ただ一言。
するとバジリルは皺でくしゃくしゃの顔を更にくしゃっとさせ笑った。
「正直は美徳。だが時には愚かさの露呈」
バジリルは言う。だがその瞳には悪戯気な光が宿っていた。
エスメラルダは少し考えて答える。
「愚直でよいと躾けられました。裏切られても裏切る事なかれとも。そして心のままに素直に生きよとも。わたくしはわたくしが愚かである事を知っています」
ふむふむとバジリルは頷く。エスメラルダは続けた。
「愚かである事が恥ではなく、愚かである事を知らぬ事が恥なのだと、遠き方は仰いました。わたくしにはこの言葉がまだ本当には解っておりません。愚かである事には変わりないではないかと。ですが、自身の愚かさから目を背ける真似だけはしないでおこうと思うのです」
「……どうやらわたくしめは貴女様に心を奪われようとしていたようですな。さぁ、着きました。この部屋の主たる御方が貴女様にお逢いしたいと願っているのです。では御前失礼」
すぅっと、老人の姿は微かに空気を揺らし、そして消え失せる。
最後の言葉は老人のしわがれ声だった事を思い出し、エスメラルダはくすりと、笑った。作り笑顔ではない笑み。
心を奪われるなど。
あの老人に見える男はこの部屋の主にこそ真実の忠誠と愛を誓っているであろうに。
だからこそ、バジリルがエスメラルダの前から姿を消した……逃げ出した事の持つ意味にエスメラルダは気付かない。
彼は虜になる前に逃げ出したのだ。
エスメラルダはいつの間にか縫いとめられたように足を止めていた。
扉を見る。天井の高い神殿の作り。王城の二階分はありそうなその空間にある大理石の扉は天井まで続いており彫刻がなされていた。
玉持つ竜が花の中で踊るようなそんな意匠。
「見事だわ」
我知らず、エスメラルダは呟いていた。
芸術品だ。国宝級の。
その扉の向こうに、バジリルが忠誠を誓う者が居る。
扉の前に朱と白とで編まれた紐がぶら下がっている。来客はこれを引っ張るのだろうとエスメラルダは思った。そうしたら取次ぎの侍女が……侍女?
神殿では巫女と呼ばれるのだろう、神官と呼ばれるのであろう、そういった人物とエスメラルダはバジリルの手を取って以来誰一人として通りすがった者はいないという事に気付いた。その事は少し怖い。
何故こうまで人の気配がしないのだろう。
この床は時間をかけて磨きぬかれたものであった。廊下の窓も、鏡も、何処にも曇りはなかった。なのに。
奇怪な。
思ったがエスメラルダはその言葉を飲み込んだ。
口にするには憚られたのだ。
そしてありったけの勇気をかき集めて紐を引っ張る。
音がしない……そう思ったのは一瞬の事。
ずずず……と音を立てて扉が動いたのだ。
重い大理石の扉が音を極力立てないように開く。誰の手も借りず。
「お入りなさいな。エスメラルダ・アイリーン・ローグ」
涼やかな声がエスメラルダの耳を打った。
張り上げている訳でもないのに自然に耳に響く声。水のように澄んだ声だとエスメラルダは思う。
「はい!」
エスメラルダは微かな緊張を抱きながら、一歩踏み出し、その声の主を探した。
扉の向こうは花に埋もれていたのである。赤、白、ピンク、青、黄色、オレンジ……言葉に尽くせぬ程の量の花に埋もれていた。
その芳香たるや下手な貴婦人の香水よりきつくエスメラルダの鼻を打った。
安香水かそうでないかなんて些細な事だわ! この匂いときたら!!
「どちらにいらっしゃるのです?」
エスメラルダはそうっと気遣いながら一歩一歩歩く。足元には活けられた花々がある故に踏んだり蹴り飛ばしたりしないように必死なのだ。
エスメラルダは微笑を強張らせながら歩いた。どう考えてもこの部屋から声がしたのにマーデュリシィと思しき人物は影も形も見受けられない。
エスメラルダは半ば自棄になって歩いた。
目指す場所がある。部屋の隅に一箇所だけ花がないところがあるのだ。
もしかしたらそこに扉が在るのかもしれないわ。そうとしか考えられないわ。その奥にいらっしゃるのよ。
そして、その隅の手前についたとき、エスメラルダはがっかりした。扉がないのだ。
だが花の飾られぬ隅の床には文様が描かれていた。何の文様だろうと思う。
そんな場合でないにしてもエスメラルダという少女は気になった事は確かめないと気がすまない性質の持ち主であった。
見詰めていても何だか解らなかった。神に仕える者達が習うエリーク文字までは父は教えてくれなかったのだから当然か。
「そこよ、エスメラルダ。怖がらずに足を乗せて」
「はい」
響いた声に、エスメラルダは従う。
何が描かれているのかも解らない文様に足を乗せる。少しの恐怖心と、冒険好きな少女の気持ちで。
その刹那、エスメラルダは自分の体が影に解けるのを感じた。床の文様と共に。
◆◆◆
「エスメラルダ」
呼ばれて、エスメラルダは顔を上げた。何故だろう。酷く疲れていた。
だけれども、その声には逆らい難い魅力があった。
硬く閉じていた瞳を開けると、光溢れる野の原である。
「此処は……」
横たわっていたエスメラルダは慌てて体を起こす。
そこはまさに光の楽園。
花弁が、葉が、茎が、草が、土が、目を焼かない優しい光に満ちている。
「気がついた?」
ふわり、と、唐突に『彼女』は現れた。
黒い髪が風になびく。黒い瞳は黒曜石のようだ。纏う衣装は、極上の絹。白一色の装束。
「めがみさま?」
エスメラルダは『彼女』をそう評した。
その途端、からからと『彼女』は笑う。
「違うわ。わたくしはマーデュリシィ。大祭司であり、ただの女よ」
「マーデュリシィ様!?」
エスメラルダは驚いてぱちぱちと瞬く。半分夢の中に居て今現に戻ってきた感じである。
マーデュリシィは優しく笑んだ。
「そんなに畏まらなくとも良いわ。わたくしも貴女もただの女である以上の価値など『此処』ではないの」
「……では質問は許されていますか?」
マーデュリシィの言葉にエスメラルダは問う。大祭司は笑みを浮かべ頷く。
「どうぞ」
「『此処』は何処です?」
この様な奇蹟に満ちた場所、天国としか思えない。それなのに、風になびく髪を押えようともせずに君臨しているマーデュリシィは女神ではないという。
「『此処』は世界の始まりの地。主のおわすアーニャの地と繋がる此の世で最も美しく清らかな地、アスノ。お解り? 主の御前ではわたくしも貴女もただの女に過ぎないのよ」
エスメラルダは瞠目した。
主!?
「そんなに肩に力を入れていると駄目よ、エスメラルダ」
「でも……でも!」
主に此の世で最も近い場所。
流石のエスメラルダも硬直した。
だが、その時、ふわりと何かが肩に触れる。
それは黒の中に緑の文様が入っている蝶々であった。
「どうやら、『此処』は貴女が好きなようね」
ふんわりとマーデュリシィは笑んだ。
エスメラルダは恐る恐る蝶々に手を伸ばす。
不思議と、温もりを感じた。
蝶々は伸ばされたエスメラルダの指にふわりと移る。
エスメラルダは感動した。
何だか嬉しくてたまらないのである。
「いい笑顔。その表情が良いわ。その表情にアシュレは魂抜かれたのね」
「ランカスター様の事をご存知でいらっしゃるのですか?」
驚くエスメラルダにマーデュリシィは笑いながら言う。
「告白して、口説いて、押し倒して、……でもことごとく拒絶されたわ。エリファスに、緑の瞳をした娘が待っているのだと」
エスメラルダの心臓がどくんと鳴った。
ランカスター様はこのように美しい人よりわたくしをお選びになったというの?
エスメラルダには俄には信じ難かった。
きっと、冗談。
他人が見たならエスメラルダとマーデュリシィの美貌は甲乙つけ難いというだろう。
だが、エスメラルダはマーデュリシィこそ美しいと思った。
器だけでなくその雰囲気、仕草、表情。
「本当よ。わたくし、嫉妬に狂ったわ。自分でも自分の制御がつかなかった。アシュレは言っていたわ。エスメラルダが自分を愛する事があってもそれは恋の情熱ではないだろう。家族の温もりであろう。それでも構わないから自分はエスメラルダを隣においておきたいのだと。愛しているのだと」
エスメラルダの頬に朱が走った。
アシュレの言うとおりだったからだ。
エスメラルダは父として兄としてアシュレを慕い、誰よりも愛していた。
だが、恋ではなかった。
決して。決して。
恋。それは今、フランヴェルジュに寄せる激情のような、そんな気持ち。
「貴女がアシュレに恋していない事で益々わたくしは彼を手に入れたくなったわ。でもね……話が長くなりそうね。あそこに丁度良い大きさの石があるの、腰掛けましょう」
エスメラルダは導かれるまま進んだ。蝶々は指先を離れ、エスメラルダの耳のすぐ上の髪の毛に止まる。
否が言えるような雰囲気ではなかった。
しかし、奇妙な気分である。
エスメラルダはマーデュリシィの恋敵であったようだ。レイリエ以外にそのような女と顔をつき合わせて話す機会がなかった為、ひどく奇妙な気分である。
石の高さはエスメラルダの膝位まであった。確かに腰掛けるには丁度良い。
マーデュリシィが座ったのを見てエスメラルダも腰掛けた。
「風の匂いが解る? 生々しいでしょう? 水と土と緑の匂い。わたくしは好きだけれども、貴女はどう?」
マーデュリシィに問われて、エスメラルダは一瞬困惑した。だけれども、すぐに頷く。
この香りは懐かしいエリファスに、少し似ている。
「わたくしの好きな匂いです」
「そう、良かったわ」
マーデュリシィは白い歯を見せて笑った。
よく笑う御方……エスメラルダはそう思う。
だけれども、つかみ所のない女性だとも思う。
話の飛躍の仕方が一般人とずれている。
この調子で、ちゃんとした話など出来るのであろうか?
大体何の話があるというのだろう? 繰言を聞かせたいのか?
「マーデュリシィ様……あの……」
「大丈夫。ちゃんと解っていてよ。貴女の言いたい事」
マーデュリシィは笑みを絶やさず言う。
「解ってはいるのだけれども、わたくしは貴方に話さなくてはならない事が一杯あるの。正直、どれから話したらよいのか解らないのよ。だからもう一寸時間を頂戴。大丈夫。『此処』で幾ら長い時を過ごしても戻ったら数秒しか経っていやしないわ。時間は気にしないで。そう、わたくし達共通の話題から……」
くしゃっ、と、マーデュリシィは緑の黒髪を乱暴にかきあげた。
「アシュレの話題を最初に終わらせましょうね。簡単な事なのよ。わたくしが恋していたのは貴女に恋するアシュレ・ルーン・ランカスターだったという訳なの。笑ってしまいそうでしょう? 貴女に情熱の全てを傾けている姿に恋したというのだものね」
「わっ、わたくしは……」
エスメラルダは何か言おうとして口を開き、そして黙り込んだ。微笑が消えている。
『笑って見せますわ』そう、バジリルに言ったのに。
「あなたは可愛い子。無理に言葉を紡ぐ必要はなくてよ? さぁ、本題に入りましょうね。貴女は『審判』を恐れている。そうではなくて?」
エスメラルダの頬が羞恥に染まった。
誰かに何かを恐れていると知られるのが、これ程迄に恥ずかしい事だとは思わなかった。
「どうして……どうしてそれを?」
エスメラルダの問いに、マーデュリシィは笑顔を消した。
「夢を見たの。貴女の夢。貴女は雪嵐の日に『審判』を受ける」
「そんな! わたくしはもっと早く……!」
「早く『審判』を済ませてしまうつもりだった? そうでしょうね。貴女は嫌な事を先延ばしにしない。でも日にちを決めるのはアユリカナ王太后陛下。あの方の頭の中にはいつご自分の息子を結婚させなさるか、未来図が既に描かれている。貴女は命令される。そして貴女は逆らえない。でもね、エスメラルダ。『審判』を恐れないで。その『審判』を行い給いし主はこのように美しい地を創造なさった御方よ。貴女を『此処』に呼んだのは主の慈悲深さを貴女の体に覚えさせる為」
「『此処』を、創造……」
エスメラルダは立ち上がると両手を広げて目を見開いた。この地、アスノの空気を精一杯吸い込んで吐き出す。
美しい場所。慈悲の象徴。
羽を休めていた蝶々が飛んだ。
エスメラルダの目の前をゆっくり三回回り、それから羽を翻す。
光で満ちている。蝶々の燐粉までが光の粉。
「有難うございます。マーデュリシィ様」
両手を下ろすとエスメラルダは礼を取った。
「そんな事しなくて良いのよ、エスメラルダ」
「いえ、わたくしには何もお返しできるものがなく心苦しいですわ」
エスメラルダは頭を上げた。
マーデュリシィは隣の先程までエスメラルダが座っていた石をさす。座れという意味だ。
エスメラルダは少し軽くなった心で石に腰掛けた。そう。世界はこんなにも美しく、それを想像なされた主が残酷な事を強いる筈はないではないか?
エスメラルダは知らなかった。無垢ゆえの残酷さというものを。そしてマーデュリシィは教えなかった。
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