第24話 花に浮き立つ

 エスメラルダの気持ちは高揚していた。『審判』など何も恐れる必要が無いと思った為か心が軽い。そうなると神殿から王城までのパレードも楽しむ余裕が出来た。


 王城に帰り、エスメラルダは別室へ通されるがブランシールとレーシアーナは沢山の臣下に囲まれて帰城の報告を果たした。


 王と王弟では天と地ほども身分が違う。

 同じ女の腹から生まれ出でたのに。


 だが、フランヴェルジュはそれを寂しく思っているがブランシールはまったく苦痛に思っていない。


 貴方が至尊の地位に在る事が何より嬉しく思います。兄上。

 後は隣に最高の女が座ったならば問題ない。

 だが、その為にあれこれ画策するのはもうやめようと思う。


 そう思うと、楽だった。……楽?


」ブランンシールは淡々と挨拶を述べながら混乱していた。


 僕は間違えていたのか? 兄上の御為。それが僕の幸せだった筈なのに役目を放棄した今の方が『楽』だなんて。


 兄上!

 僕の兄上!!


「つつがなき日を過ごしていたようで兄として嬉しく思う」


 ブランシールは粘つく嫌な汗をかきながら畏まった。

 全て台本どおり。

 自分の挨拶もフランヴェルジュの言葉も。

 だが、そこに予定外の言葉が入った。


「底に控えおるレイデン侯爵令嬢との婚儀の日を王として定める。そは勅命なり。我が生誕祭の翌日一月九日に華燭の典を挙げよ」


「は!」


 ブランシールは左胸を叩き、深く頭を垂れた。

 レーシアーナも頭を下げる。だが身重ゆえ腰は折らない。それが許されている。


 生誕祭の翌日とは思い切ったものだ。普通に考えれば華燭の典が疎かになるという結論に出よう。少なくともメルローア以外の国でならば質素さに泣きたくなる式になるのが見えている。

 だが、フランヴェルジュは反対の意図で決めたのだと長くそばにいるブランシールには手に取るように理解出来た。


 生誕祭はどうでもいい。

 フランヴェルジュはそう言い切ったのだし、メルローア人ならば理解するであろう。

 理解が間に合わぬ者も、本能的に知っている筈だ。


 華燭の典が生誕祭に劣ることなく素晴らしいそれになるように。

 職人意識とプライドの高いメルローア人ならば、何事もない日程の華燭の典の何倍も気合が入ったものになるのは間違いない。


「今宵は旅の疲れもあろう。明日、ささやかな夜会を開く。それまで城の南翼でゆるりと休むが良い。謁見の義はこれにて解散とす」


 玉座から、フランヴェルジュが立ち上がった。家臣達が一斉に平伏する。

 足が沈んでしまいそうな絨毯の上をフランヴェルジュは滑るように歩いた。


 フランヴェルジュは本当は走り出したい。

 城の南翼にあるエスメラルダに与えられた部屋へと。だが、それは出来ない。

 エスメラルダとの婚約は公的なものではないからだ。


 心は繋がっている。だがその心が急く。


 まだだ。

 まだ駄目だ。

 時期を待たなくては。


 少なくとも発表は弟と自分のお気に入りの少女が結婚してからになる。

 でないと全精力が国王の華燭の典に注がれてしまい弟達の婚儀がみすぼらしくなる事であろう。

 一生に一度のことだ。出来る限り華々しく、この国の国政を担う者としての華燭の典としてやりたいではないか。


 レーシアーナにも美しい衣装を着せてやりたいとフランヴェルジュは思う。美しい娘なのだ。磨けば更に光るであろう。妊娠中というのが惜しい。腹が目立つのは仕方のない事だが何とかできないものなのだろうか?


 くすり、とフランヴェルジュは笑った。

 自分がそんなに心配してもどうしようもない事だし、男に女の衣装のことなどろくに解る筈もない。


 弟の華燭の典に自分とエスメラルダとのそれを重ね合わせて想像しているのだという事に、フランヴェルジュは気付いた。


 絨毯が途切れ、石の床の上を長靴の音を響かせながら歩く。歩みは止まらない。


 国王が供もつけず出歩ける国はメルローアくらいであろう。尤も、フランヴェルジュは強い。それもあるし王城の結界の中にはそう簡単に破れない。だから人々は王の一人歩きを黙認する。


 フランヴェルジュは真っ直ぐ『真白塔』に向かった。


「早かったですね、フランヴェルジュ。エスメラルダはまだですよ」


 アユリカナに言われ、フランヴェルジュはいい笑顔を浮かべて頷いた。内心の落ち込みなど綺麗に隠して見せる。が、他の誰かなら兎も角アユリカナという女性にこの手の腹芸が通じるなど、息子たるフランヴェルジュは考えたこともないが。


 塔での逢瀬の約束。時間は決めていなかった。だけれども、待っていて、両手広げて待ち受けてくれている姿を想像していたフランヴェルジュにはダメージが大きい。

 失望を心の奥に必死に隠そうとするが、恋に浮かれるフランヴェルジュには少し難しい。


「もうすぐですよ。今日はあの二人に貴方達の付き合いを発表するのでしょう?」


 母の言葉に、フランヴェルジュは赤くなる。


 この塔はいつの間に社交場と化したのかしら? とアユリカナは溜息と共に思った。




◆◆◆

「純白だわ」


「アイスブルーの方がレーシアーナ様の瞳が引き立ちます」


「純白よ」


「あたくしはプロのデザイナーとして申しているのでございます」


「わたくしは純白以外は認めません。ただしアクセントとしてリボンや縁取り、それは認めましょう」


 レーシアーナはおろおろと二人を見やった。


 『純白』と言い張っているのがエスメラルダ。

 『アイスブルー』と譲らないのがデザイナーのフォビアナだった。


 レーシアーナは自分の事だが、妊娠して以来どうも性格が丸くなってしまったらしく、言い争いが苦手になってしまったのである。


 何か言わなくてはと思うのだ。思うのだが。

 何せ二人が今にも切りあいを始めかねない表情で意見を戦わせているのは自分の花嫁衣裳、そう、ウエディングドレスについてなのだ。


 だからレーシアーナが二人をおさめねばと思うのだが。


 どうしてこうも、臆病になってしまったのかしら?


 レーシアーナにとって婚姻とはブランシールと生きるという誓いを改めて立てる、それだけの意味しかない。

 ぶっちゃけ、ウエディングドレスなどどうでもいいのだ。


 なのに何故この二人は殺気を纏い兼ねぬ勢いでレーシアーナを置き去りに議論をするのか。


「……よござんす。ドレスは純白に致します。最上級の絹に致しましょう。ただし銀糸とアイスブルーの糸で刺繍を施す事に致します」


 珍しくフォビアナが折れたかと思ったら、条件付である。この話し合いに決着はつくのかとレーシアーナは疑問に思った。


 ブランシールは書斎で仕事をしている。

 自分が水煙草に溺れていた間の国政についてを頭に叩き込んでいる最中である。


 元々花嫁衣裳は婚姻の朝、部屋に迎えに来るまでは相手の男には見せないのが慣例である。


 エスメラルダの場合は絵に描いた時に美しいよう、エスメラルダを引き立てるよう、アシュレが注文に注文を重ねて作ったものであったがそれは滅多にない話であった。

 そして流石のアシュレも悪いと思ったのであろう。披露宴のドレスはエスメラルダに選ばせてくれた。


 その二枚のドレスはもうない。

 ランカスターと共に冷たい土の下にあるドレスは風化が始まっているのではなかろうか?

 とりはからったのはレイリエだという事だが、何故レイリエが故人の棺の中にそれを入れたのかエスメラルダは聞き出せなかった。


 だが、もう居ない人間との婚礼衣装より大切なのが目前の婚礼である。

 エスメラルダは少し譲ってみる事にした。


「刺繍ね。どんな刺繍を入れるの?」


「アイスブルーの糸で花を挿します。そして銀糸で朝露を」


「ありきたりね」


「な……!」


 エスメラルダの服飾レベルはアシュレによって非常に高くまで引き上げられていった。

 ただし、影響を与えたアシュレからして流行より自分の美意識が一番、人がどう思うかより自分の評価が一番。

 エスメラルダのそれも似たものがある。人に恥をかかさぬよう普段は流行などもちゃんと考えらるだけまだエスメラルダはアシュレより頭が柔らかい。


 それでもこれは人生一度きりという事態が発生するとエスメラルダも自分の美意識を優先させてしまう癖がある。

 そして、今回は譲れない。親友の婚姻。


 美意識と、で、エスメラルダは絶対に譲れないのだ。


 絶句したままだったフォビアナは顔を真っ赤にして口をパクパクさせていたが、ついには頭の中で堪忍袋の緒が切れてしまったらしい。

 遂に叫んでしまった。


「でっでは!! 貴女様ならどうなさるというのですか!!」


「真珠を髪に巻いて上げさせるわ。額には小粒真珠を三連に巻くの。ティアラも真珠で作って頂戴。陛下は弟君の婚姻に吝嗇ケチったりなさるお方ではないでしょう? そして真珠の首飾り。これは作らなくていいわ。アユリカナ様にお借りするの。快くお貸しいただける筈よ。あの胸元一面を覆う雲の巣のような真珠の首飾り。貴女も知らない訳ではないでしょう? 袖は三段のパフスリーブにしてリボンを……フォビアナ、貴女の好きなアイスブルーにするわ。それからドレスはハイウエストにして頂戴。そこから薄紗を何枚も重ねて花の花弁を作りましょう。その花弁の薄紗はきっとお腹を目立たなくさせてくれる筈。そこは貴女の技量だけれどわたくしは貴女が最高の仕事をしてくれると信じていてよ。純白のレースを花弁の一番上に重ねましょうか。フォビアナ、貴女の好きな刺繍は全ての紗に使って頂戴。透けて見えるのは勿論の事、紗が揺れた時に覗くようにして欲しいの。それから銀糸は茎と葉に使って朝露には真珠を使いましょうね。それから……」


「参りましたわ」


 フォビアナが降参のポーズをとった。


「敗因は?」


 にやりとエスメラルダが笑う。フォビアナは苦いものでも噛み潰したかのような顔。


「自分のドレスに拘った事でござんしょ。エスメラルダ様はあくまでレーシアーナ様が美しく見えるように衣装を考えていらした。一寸有名になったからと、あたくし天狗になっていたんですわ」


 フォビアナの良い点は素直なところである。


 レーシアーナはほっとした。と、同時にぞっとした。


 わたくしがそんなに沢山の真珠を身に着けるですって!?


 真珠、それも真球の物は恐ろしく値段が高い。それをふんだんに使えば使うほど格を見せ付ける事に繋がる。だがしかし。

 悲しい程庶民的なレーシアーナには今のエスメラルダとフォビアナの会話が自分の婚礼衣装の話だとちゃんと認識できないのであった。


 だが、フォビアナはレーシアーナに視線を移すと苦笑する。

 エスメラルダが口にしたデザインは製作者がフォビアナではなく、もしくは纏うのがレーシアーナでなかった場合、ピエロの衣装になる。

 フォビアナの熟練の腕とレーシアーナの清楚な美貌が揃って初めて人から溜息と感嘆の声をもたらすドレスになるだろう。


 そして、フォビアナはエスメラルダの本当の意図に気付いて唖然とした。


 自分とレーシアーナという花嫁ならば確かに最高のウエディングドレスになるが、そのドレスは王妃もしくは王太子妃のドレスに近いものになる。

 純白というその色も、そしてそのドレスを完成させる為に選ぶのが他の宝石ではなく真珠である点も。


 花嫁衣装が純白なのは当たり前の事だった。本来ならば。

 平民も貴族もそれがごく普通。


 自分が我知らずアイスブルーで仕上げようとしたのは、レーシアーナが王妃ではなく王弟妃になるからだった。

 王妃になるべく娘――フォビアナの目の前で扇で顔を半分隠すエスメラルダがまさにそうだとはフォビアナはまだ知らないでいるのだが――その娘に遠慮していたのだ。


 その遠慮は代々メルローアの王族に嫁ぐ王妃王太子妃以外の誰もが当たり前にやっていた事だが。


「……王弟妃が純白を纏ってはいけないなんて、そんな定めは何処にもないはずよ。更にいうなれば弟君への寵愛篤い陛下はきっと、弟君の妻になる娘に遠慮して一歩引いたドレスなんて着せたいとは絶対に思召されることはない筈だわ」


 フォビアナは頷くしかなかった。

 思い至ったことを言葉で突き付けられて考えてみるとまさにその通りだと納得さえした。


 まだ王と王弟が幼い日に王室の専属デザイナーの頂点に立ったフォビアナは、フランヴェルジュの性格もブランシールの性格も、かなり細かく知っていたのである。


「有難うございます、エスメラルダ様」


 神妙な顔でフォビアナは礼を述べた。


「陛下の御心に添う、そんなドレスが作れるかと存じます。陛下の御心に添う事こそ、殿下の御心に最も添う衣装になりましょう」


 話は終わった、そう判断してエスメラルダは扇を閉じた。

 『真白塔』に急がねばならない。フランヴェルジュが待っているに違いない。


 そして。


 やっと、レーシアーナにわたくしの恋を告白出来るのだわ。




◆◆◆


「揃ったわね」


 アユリカナが満足気にウィスキー入りの紅茶を飲む。よく磨いた 桃花心木マホガニーの揺り椅子に体を預けて。


 そろそろ夜は冷え込むので暖炉には火が入っていた。普通の薪ではなく漂流木を取り寄せる。アユリカナは暖炉の中の炎のダンスを見るのが好きだった。漂流木を薪として使うと良く火が跳ねるのだ。色合いも赤というよりは金に近くなる。


 だが、今日のアユリカナはそのようなものを見てはいなかった。


 向かいの長椅子に座ったエスメラルダとフランヴェルジュ。斜め向かいの二脚の椅子に座ったレーシアーナとブランシール。

 今までなら長椅子にフランヴェルジュとブランンシールが座ったであろう。そして二脚の椅子にはエスメラルダとレーシアーナといった風に。


 だが今日からは違う。


「フランヴェルジュ、さぁ、貴方の婚約者の話を家族皆にして頂戴」


 アユリカナのその言葉はレーシアーナを既に家族と捉えた上での発言であるが、誰も異論を挟まなかった。


 フランヴェルジュが立ち上がる。エスメラルダもすぐにそれに倣う。


「『誓言』によって生涯唯一人と定めた女性を、国王ではなく、ただのフランヴェルジュ・クウガとして母と弟、未来の妹に紹介する。エスメラルダ・アイリーン・ローグ嬢だ」


「おめでとうございます! 兄上!!」


 ブランンシールが立ち上がり拍手すると皆もそれに習った。


 エスメラルダは、はにかみながらも笑っていた。幸せそうに。

 事実彼女は幸せだった。

 エスメラルダはまた幸せになれる日が来るとは思ってもいなかった。


 神様、主よ、有難うございます。


 エスメラルダは心の中で祈りを捧げる。


 誰も彼もが浮かれていた。

 弟は兄の耳元で卑猥な冗談を言い、義理の姉妹になる事が決まった娘達は、片方が、教えてくれなかったなんて酷いわと言いながらも相手から恋の話を聞きだそうとする。


 ねぇ、秘密の恋って甘くない?

 そんな事を言い交わしながら。


 アユリカナは微笑んでいた。

 ひどく満ち足りた気分なのは、やっと自分の後継が定まろうとしているからだろうか。

 まだ越えねばならぬ山は幾つもあるだろうに、心が満たされるような気分になる。


 誰もがこの場に居る者全ての幸せを疑う事はなかった。

 冬が来て雪が溶けて、その先も幸せで笑っていられると思っていた。信じていた。


 まだ運命の残酷さを知らなかった。

 そうでなければ、運命の残酷さを忘れていた。


 予兆を見逃したのはエスメラルダ自身だった。いや、見て見ないフリをしてそのまま忘れてしまっていたというべきか。


 エスメラルダは、彼女に許された時間の中で、後に激しく後悔する事になる。


 だが、今はそんな事など知らずただ皆と笑っていた。

 笑っていられる事が幸せで。


「アユリカナ様」


 突然声を張り上げたエスメラルダにみなの視線が集中する。

 レーシアーナも話が途切れたと思ったら突然にエスメラルダが未来の母の名を呼んだので青い瞳を見開いている。


「わたくしは此処に在る全ての人間との関わりにかけて誓います。『審判』を受ける事を。その日はアユリカナ様が決めてくださって結構です」


「エスメラルダ!? お前、相談もなしに……!!」


 フランヴェルジュが声を荒げるが聞いていない振りをする。

 乗り越えねばならぬこの問題はフランヴェルジュでは解決できないそれなのだ。


 王であるからこそ、王の権力でどうにかしてしまってはいけない問題。


「……解りました」


 アユリカナの金色の瞳に涙が浮く。


 あれは、本当に酷い事。いっそ痛みに耐える方がマシな儀式の詳細を、制約故にアユリカナはエスメラルダに伝えることが出来ない。


 ごめんなさい、有難う。


「有難う……よく決意してくれました、娘よ」


 ぽつり、一粒の涙が絨毯に吸い込まれた。

 かつんと床を蹴るようにアユリカナはエスメラルダとの距離を詰めるとその身体を抱きしめる。


「エスメラルダ、貴女は良い子ね」


 砂上夜夢さじょうやむの香りがエスメラルダの鼻腔をくすぐる。


 この御方が、『審判』さえ受ければお母様になって下さるのだわ。


 それはエスメラルダには甘い夢だった。


 本当に夢ではなくて?

 子爵位を金で買ったローグ家の娘が、今はただの平民にまで落ちた自分が次の正妃になるなんて。


 だけれどもフランヴェルジュは確かに『誓言』をくれた。

 『誓言』は王たるものが一生に唯一人だけ捧げる事叶うもの。生涯の誓い。

 故にフランヴェルジュはエスメラルダだけのものなのだ。


 フランヴェルジュ様、わたくしはただ、貴方が下さった愛に応えて見せたいだけですわ。

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