第25話 審判と生誕祭 前編

 フランヴェルジュの生誕式は派手なものになった。


 真冬である。

 だが、その日の朝、地面にも床にも何処かしこにも花という花がばらまかれ、自己主張し、王都カリナグレイの誇る王城までの広い石葺きには両端に無数の屋台が並んでいた。


 フランヴェルジュは式典用の衣装に身を包み、真白な毛皮で縁取られた赤いマントを羽織り、民衆の前に姿を現していた。

 王城の前の広場、そこへ僅か数人の供を連れただけの格好で現れた国王たる彼はとつとつと演説を始めたのである。

 国王の姿が目の前で拝めるということで人々は凄まじい勢いで集った。

 その中、フランヴェルジュは国王というよりは青年らしい朗らかな笑顔を浮かべる。

 その姿に、人々は親しみを感じた。


 国王といえどただの人間なのだ、と。


 周囲の全てがこのようなフランヴェルジュの行動を黙認したわけではない。

 だが、ブランシールは反対派に対してせっせと説得に勤しんだ。いや、逃れられぬ巧妙な根回しと言った方が相応しいかもしれぬ。


 国王フランヴェルジュは歴代メルローア国王の中でも最も国民に愛されたと言われているが、彼がその信頼を勝ち取る為に盛んに民衆の前に姿を現し、ある時は雲上人を演じ、ある時は今日のような親しみやすい青年の姿をさらす事が出来たのはブランンシールの功績に負うところが大きい。


 午前中を広場で他愛ない話をしていたフランヴェルジュは昼前には王城に引っ込んだ。人々に惜しまれつつ。

 昼食は各国の使節達と食べる事になっていた。ブランンシールとレーシアーナは明日の婚姻の最後の調整の為に欠席した。


 フランヴェルジュは寂しい。

 だが、そういった時こそ他者と交流を深めるチャンスでもある。


 自分が上機嫌なときや周りに愛すべき者達が居る時はつい疎かになりがちなことだが、フランヴェルジュは国王なのである。


 上機嫌と言えぬ心境の時こそ、人を魅了する仮面を身に着け他者との交流を深め、篭絡せよ。

 そう教えてくれたのは叔父であるアシュレ・ルーン・ランカスターだった。


 さて、誰に声をかけようか。


 本来なら隣国のファトナムールの使節と話したい事があった。

 ファトナムールから輸入していた羊毛に凄まじい高値がついたのである。

 他国にはいつもの値段で売っているというのにメルローアにのみ高い関税をかけてきたのだ。


 長年の友好国である。その国が何故突然そんな暴挙に出たのか。


 フランヴェルジュは密偵を送り込んだが、誰も帰ってこなかった。

 殺されたという事だ。


 直談判する良い機会だと思ったのに、雪の為に遅れると、昨夜、鳩が書簡を運んできた。

 そこにあった名前はファトナムール第一位王位継承者ハイダーシュ。


 まぁ、今日が無理でも明日があるさ。


 フランヴェルジュは意識を切り替えると他の国の使節に話しかけた。


 国交。国交。国交。


 フランヴェルジュにはつまらない事である。


 だが、彼は自分が背負うものの重みをよく知っていた。そしてそのつまらない事を避けた時の面倒事も、真摯に向き合った後に齎される国益も、フランヴェルジュはちゃんと理解している。


 メルローアの民の為に!

 全てはそれに尽きる。今までの彼ならば。


 だが今は。

 エスメラルダの為にも。


 そう、思うようになった。

 エスメラルダが座り心地の良い玉座に座す事が出来るようにと。


「メルローア国王陛下、雪でございますな」


 フランヴェルジュと喋っていたエネーシャ国の使節がそう言った。


 雪?


「陛下は神の愛児まなか。天から白い花が舞い散り、陛下を言祝ぐ。メルローアの未来に光あれ!!」


 エネーシャ国の使節はそう叫ぶとゴブレットを高々と掲げ、そして引き戻すと一息にあおった。


「フランヴェルジュ国王陛下に光あれ!」


 他の者も便乗して乾杯の音頭が幾つも取られた。


 フランヴェルジュは苦笑する。


 外の雪はいまや嵐の様相を見せていた。


 エスメラルダ。

 本当はこんなところにいたくない。


 政治が嫌いなのではない。

 愛しい娘の側に行きたいと思うのだ。

 ただ一人、試練に向かう娘に。


『フランヴェルジュ様、お待ち下さいませね、きっと何処の誰が贈るよりも素晴らしいものをお贈り致しますわ』


 あの笑顔が頭に焼き付いて離れない。

 出自と後ろ盾、それを持たぬ彼女は自分の隣にある為だけに、今日、試練に臨むのだ。





◆◆◆


 エスメラルダは神殿の中で雪嵐を見詰めていた。大きくくられた窓の外は白の乱舞。


 マーデュリシィ様の予言どおりね。

 エスメラルダは思う。


 エスメラルダは雪嵐が嫌いだ。

 雪嵐の日に大切な人間を三人も喪えばそれも致し方ない事であろう。


 エスメラルダの気力は萎えそうになる。

 だけれども、引き下がる事は出来ぬ相談であった。エスメラルダの愛と誇りにかけて。


 フランヴェルジュ様。

 きっと、わたくしは持ち帰ります。

 ひびも無く曇りもない水晶を。


 エスメラルダの事前知識では『審判』を受けた者の言葉に偽りあれば『審判』に使われた水晶は砕け散るという。


 だけれども、わたくしに何もやましい事など、ない。

 エスメラルダはごくりと息を飲み込んだ。


 神殿の最奥部。


 儀式に使われる『水晶の間』の控え室で出されたお茶を飲みながら、エスメラルダはこれから何が始まるのだろうと思う。


 だけれども。

 どんなひどい事があろうとも来年の今頃はわたくしとフランヴェルジュ様は一緒なのだ。

 そう考えたなら何を恐れる事があろうか。


 目の前にはバジリルが座っていた。

 彼はエスメラルダがお茶を飲み終わったのを確認すると、ぱんぱんと手を打ち鳴らした。


「エスメラルダ様、老骨は外に出ております故にご心配なさらず」


「バジリル様?」


 控えの間といってもエスメラルダの寝室くらいある部屋で老人は闇に溶けてしまった。


 何だと言うのだろう?

 エスメラルダは背筋がぞくりとするのを感じた。


 何だか嫌な予感がする。


 こんこんとノックの音がしたのでエスメラルダは「どうぞ」と言った。その声が震えださなかった事を神に感謝しながら、エスメラルダは扉を見やった。


 やってきたのは、巫女が三人。


「湯浴みをしていただきます。他の控え室にお湯を用意してございますれば、どうかそれを御使い下さい」


「有難う。案内して下さい」


 エスメラルダは自分でも驚くほどしっかりと答えた。

 湯浴みなら朝一番にしてきた。

 髪を洗い身体を泡立てた石鹸で洗い、最後にこの寒い季節に塩と水で身を清めた。

 だけれども、あれから時間も経っている事だし此処は神殿、此処の流儀にあわせたが良いとエスメラルダは判断する。


「此方にございます。どうぞ」



 そう言ってエスメラルダの手を取った巫女の手は冷たかった。


 何!? まるで素手で雪でもかいたかのような……。


 エスメラルダは気付いていなかった。

 先程バジリルが飲ませた薬草茶の所為で自分の身体が炎のように火照っている事を。

 それでも熱さを感じないのはエスメラルダの緊張の証である。


 冷たい手に自分の手を重ね、エスメラルダは進んだ。


 隣の控え室には湯気が立ち込めていた。


「霊山ホトトルから運ばせた温泉水を温めたものです」


 微かにつんとした臭気があった。薬湯のような。

 そこに花が沢山浮いている。琥珀の湯の中に艶やかな白い花。


「この花は?」


「美しゅうございましょう? ホトトルの高山植物ですわ」


 そう言いながら巫女達はエスメラルダを取り囲んだ。


「御召し物を失礼致します」


「自分で脱げます」


 エスメラルダはきっぱりと言った。今日はコルセットを身に着けてはいない。白くてゆったりとした衣装は一人で脱ぐ事が可能だ。正直緊張しきっていてコルセットなどで身体を束縛したら事あるごとに気絶してしまうかと思っていたら神殿から届けられた衣装。有難いとその時思ったのだった。


 だが、巫女達は譲らない。


「これが我々の仕事です。果たせずば大祭司様のお怒りを買う事になるでしょう。どうか」


 エスメラルダは不承不承頷いた。


 しかしあのマーデュリシィが怒るなど想像もつかない。

 エスメラルダのの知るマーデュリシィは慈悲と愛の塊に見えた。だが、半面、苛烈な性格も持ち合わせている事は、エスメラルダの知らない事である。


 服を全て脱がされるとエスメラルダは酷く無力な気分になった。裸体を同性とはいえまるで見知らぬ人間の前に晒しているのである。日頃仕えてくれている侍女達と今日初めて知った巫女達とでは、色々と違い過ぎる。


 促されるままに湯に入り、身体をタオルで擦られた。

 エスメラルダの額に玉の汗が浮く。

 熱い湯につけられている上、バジリルの飲ませた茶がエスメラルダの身体を火照らせる。

 ただの湯ではなく熱湯に付け込まれているような気がエスメラルダにはした。


 しかし、エスメラルダは馬鹿ではなかった。

 熱いけれどこの肌に火傷を齎すものではない。耐えられぬものではない。

 ただ、一体いつまでこの湯につかっていればいいのだろう? 


 思って聞いてみるが、巫女達は首を左右に振るばかり。


 つまり、まだまだこの浴槽から出ることは許されていないということね。

 気が遠くなりそうであった。

 しかし試練は始まったばかりなのである。


 エスメラルダはたっぷり一時間は湯の中にいた。出ることが許されたのはそれからである。

 だが、エスメラルダは生まれて初めての完璧なる屈辱を味わう事になる。


 タオルで身体を拭かれ、髪の毛を何枚ものタオルで乾かされた後、香油と共に剃刀が持ち出され、顔と頭髪以外の全ての体毛をそり落とされたのだ。その足の間でさえ。


「や……!!」


 エスメラルダのか細い悲鳴は、しかし冷酷な声にかき消される。


「お身体に剃刀傷をつけたくなければ、静かに大人しくして下さいませ」


 剃刀が肌を這う感触。

 こんな屈辱があろうなどとは知るはずもなかった。


 しかしだ、身体は指一本動かせず逆らう事など出来はしない。

 逆らう事が仮に可能でも、逆らえない。

 儀式を受けて、全き水晶を持ち帰らなくてはならないのだから。


 だが、怒りと無力さが呼ぶ恐怖に震え出しそうになるのを懸命に堪え、耐えたそれが屈辱と呼ぶほどの事ではないという事をエスメラルダはすぐに知る事になる。


 次に、部屋に運び込まれたのはつんとした臭気を放つ白いクリーム状の泥だった。


「ホトトル山から運びました泥に薬草を練りこんだものです。これをお肌に」


 巫女の一人が言うなり、べちゃりという音を立ててエスメラルダの身体にそのクリーム状の泥が塗りつけられた。

 巫女達は手際よくエスメラルダを白く染める。その顔にも、丁寧に乾かした髪も、エスメラルダの身体中何処もその泥から逃れられた場所はない。


 大方塗り終えてしまうと、巫女達はエスメラルダに彼女の腹の高さ程ある、複雑な彫刻が施してある車輪のついた台の上に寝転がるように指示し、言った。


「足をお開きください」


 何を言っているのか、理解したくない。

 何故そのような体勢を取る必要があるのか!?


 けれど、従うしかないのが今のエスメラルダだった。

 恐らくもう嫌だ耐えられないと、そう口にすればこの場から逃れられるだろう。

 覚悟なき者は『審判』を受けるに値せず、と。


 どんな事を求められても、エスメラルダはやりきるしかない。

 母の家名を名乗る事を拒絶したエスメラルダは、何の後見も無い。今更気が変わりました、その威を使わせてくれなどという調子の良い言葉をにっこり笑って良しとする家ならば、エスメラルダの母はきっと、とうに許されていただろう。


 無力な自分をエスメラルダは知っている。母の家名については自ら拒絶してしまった事も決してエスメラルダは忘れていない。

 だが、エスメラルダはフランヴェルジュという男を諦める事など出来はしないのだ。


 恐ろしく熱い湯に長時間つかる事を命じられたせいか、身体は面白い位に力が入らない。

 だが、力が入らないまでも、台の上には横たわった。


 しかし、足を開け、とは?

 理解しようと必死なのに理解出来ないその言葉は?


 唐突にエスメラルダは叫び出したくなった。

 一体全体どういう事⁉ 何故、自分の言葉が真に正しいか、それだけを証明するだけなのにどうしてここまでの辱めを受けなければならないの!?


「足を。エスメラルダ様」


 再度の巫女の言葉にエスメラルダは唇を噛んだ。

 解らぬふりをしていたかった。自分にその意味を理解出来る事を認めたくもない。


 だが、これがエスメラルダの選んだ道だ。逃げてたまるものか。だから彼女は言い聞かせる。


 これが、アユリカナ様の通られた道であるとなら、わたくしにだって出来ぬ筈がない!!


 初めて開いた脚は、震えていた。


「もう暫く足を開いたままいらして下さいましね。ホトトルの果実で作った顔料です。貴女様の身体を主のおわす地に繋ぐ魔法陣を描きます」


 筆がエスメラルダの身体の上で踊る。


 赤と青と緑の顔料がエスメラルダの顔といい、足といい、腹といい、何処もかしこも鮮やかに彩る。


 冷たい台の上でエスメラルダは震えそうだった。

 飲まされた茶と異様に熱い風呂に長時間の入浴を強要されたエスメラルダは寒さ故に震えているのでは勿論ない。


 屈辱が震えを呼ぶ。


 だが、そのうちに筆の乱舞が終わればタオルくらいはかけてもらえるだろうと考えていたエスメラルダは、まだまだ、ひたすら甘かった。


「失礼」


 くいっと、エスメラルダの両腕は掴み取られた。そして手首を頭上で鉄の輪で一つに止められる。

 脚は開いたまま台の両端へとつながれた。


 生まれてこの方、こんな屈辱も恐怖も、エスメラルダは知らずに生きてきた。


「さて、エスメラルダ様。準備は整いましてございます」


 エスメラルダは悲鳴をあげるのを必死で堪えた。


 この格好が準備の整った格好だというの!? 信じられない! まるで見せ物ではないの!!


 だが、準備が整ったというのであればそうなのであろう。


 そして、巫女達は車輪のついた台を押す。

 エスメラルダを縫いとめた台を。


 先導の巫女が部屋の扉を開けた。

 花の香りが鼻を打つ。ホトトルの泥とやらはほぼ無臭で、エスメラルダの嗅覚を狂わせはしない。


 甘い花の香りはもう遠くなってしまった日を思いださせる。

 主の話をしてくれたマーデュリシィの事をエスメラルダは思い出す。


 まぶしい位の明かりの中、エスメラルダは目を閉じた。


 見てはならないわ。知ってはならない。一瞬視界に写ったあれは幻。

 懸命にエスメラルダはただ自身に言い聞かせるしか出来なかった。


 その部屋には、神殿中の人間が集ったのではないかというほどの人がいたのである。

 女だけでは勿論なかった。

 そこには男達も沢山いた。


 だから、エスメラルダは目を開けていられなかったのだ。


 恥ずかしくて死んでしまいそうだわ。


 見たくなかった。

 怖かった。


 ガラガラという車輪の振動が背を打つ。

 そしてかなりの距離をいったところで台は止まった。巫女達が離れて行くのが気配でわかる。

 もう何が起きても驚かないと思いながらも、エスメラルダの眼はやはり閉じたままだ。自分を百人はいそうな人間が取り囲んでいることなど、この無力で恥ずかしくていっそ舌を噛みたくなる程の今の姿が衆人環視の元にあるなど、理解したくない。


 目をつぶっていれば、一瞬ちらりと見えた人々の姿、それを錯覚だったと心に言い聞かせられるかもしれない。


 そんな風に必死で逃げまいと足搔くエスメラルダは不意に何か大きな気配を感じた。身体の大きさではなく、その存在は気配が大きく、そして他の誰とも決定的に違う存在。


 マーデュリシィ様!


 エスメラルダは恐々と目を開けた。

 無意識に救いを求めて彼女は大祭司の姿を探す。拘束されていて自由に動けぬ身体だが、懸命に気配のする方を見やる。


 果たしてそこにはマーデュリシィが、いた。


「小さき者よ、宣言せよ。そなたの身が未だ男を知らぬ処女であるか否か」


 凛とした声でマーデュリシィは言う。

 相も変わらず美しい声だった。

 だが、あの日の温かみは何処にもない。


 凍りついたような大祭司としての声。


「我、ここで宣言す。我が操は未だ誰にも犯された事はない事を」


 脇の下に嫌な汗をかいた気配を覚えながらエスメラルダは言った。


 アユリカナ様の仰るようにマーデュリシィ様は仰った!


 エスメラルダには不思議に思えたが、アユリカナに教えられた台詞を告げるだけで良かった事にほっとした。


 だが、怖い。握り締めている手のひらも汗ばんできている。


 マーデュリシィはそっと台座の上にあった水晶をエスメラルダの腹の上に置いた。

 エスメラルダには知らぬ事だが、その水晶を正しい場所に置いた時点でエスメラルダに塗りたくられた白い泥に記された魔法陣が完成したのだ。


 その水晶は不思議と温かなものであるように感じた。


「そなたの言葉に真実が反すればその水晶は砂の如くに砕けるであろう。言い直しがきくのは今だけぞ。エスメラルダ、汝の言葉に偽りはないか」


 マーデュリシィの言葉にエスメラルダははっきりと言い切った。


「ありません、大司祭様」


 マーデュリシィが微かに微笑んだ気が、エスメラルダにはした。


「天の玉座を二分するもの、常にこの世界を見守り給ひし二つの魂、太陽と月よ、その光をこの水晶へ投げかけられん事を。そして尊き魂よ、見守り給ひしこの娘の過去を映し出し給へ。偽りあらざれば、地の番人よ、この娘は死後汝の物にならん。印をつけるが良い。真実であれば、天の番人よ、この娘は死後汝の腕の中にあり。祝福を」


 どくん! どくん!!

 エスメラルダの心臓は破裂するのではないかという程に暴れに暴れる。


 身の潔白を知っているのは間違いなく自分である。

 だが、地の番人の名前を聞くと怖かった。

 それは恐ろしき悪鬼であるという。


 そして、水晶が光り始めた。

 その光は彼女の生きてきた今までの軌跡を導く。エスメラルダの脳裏にエスメラルダが生まれてから今までの記憶がすさまじい勢いで再生される。


 眩しさに、エスメラルダは再び目を閉じた。


 最初に浮かんだのは父ジブラシィと母、リンカの姿であった。

 母は眠っており、エスメラルダは揺籃の中にいた。


 揺籃の中を覗きながら父はぽつりと言ったのだ。


「男であればよかったのに。女というものは金食い虫だからな」


 エスメラルダの胸に痛みが走った。


 いつも少しばかり乱暴でも優しかった父、粗忽なやり方ではあったがちゃんと可愛がってくれていた父。

 だがエスメラルダは気付かない振りをしてはいたものの、知っていた。

 自分が父の望みに応えらえぬ性、女として生まれたが故に父を自分が完全に満足させる事は出来ない、その事をエスメラルダは知っていた。


 これは真実。疑うより、赤子の自分に落胆する父をエスメラルダは自然と信じてしまう。



 くるり、世界が暗転する。



 次は医者に詰め寄るジブラシィをリンカが必死になって止めていた。


「リンカがもう子供を産めないだと!? 一体どんな赤子の取り上げ方をしたんだ!?」


「止めて下さい、貴方!」


「おそれながらリンカ様の……その、産道は大変狭くていらっしゃいます。産めぬのではなく次はお命の保証がないのです!!」


「ふざけるな! ではローグ家は誰が継ぐ!? リンカが産まねば誰が男子を産むというんだ!? 俺はリンカ以外妻を娶る気はない!!」


 ジブラシィは医師の白衣の喉元を握り締め激昂した。

 リンカが泣きじゃくりながら夫の袖を引く。


「産みますから!! わたくしがもう一人でも二人でも産みますから!! 御医者様に乱暴なさらないで下さいまし、ジブラシィ様! 赤ちゃんが見ております!!」


「赤子の脳で記憶に残るものか!」


 赤子のエスメラルダは泣きもしなかった。

 だから今、瞼の裏に広がる光景がはっきりみえるのだろう。


 十六のエスメラルダは泣きたくなった。


 父が男の子を欲しがっている事を幾ら理解している心算でも、それでもまだ傷つく自分がとても不思議ではあるのだけれど、泣きたいと思うのだ。


 エスメラルダが十一の頃、身籠った母に盛んに男の子を産めと言っていたのをエスメラルダはしっかりと覚えている。


 わたくしは、要らない子……だったのかしら?



 くるり、再びの暗転。



「エスメラルダ」


 ジブラシィが呼んだ。


「今日も綺麗だな。女の子は良い。飾り甲斐があって目の保養にもなる」


 振り返ったのは十歳くらいのエスメラルダだった。


「今日はとても良いニュースがある。お母様のお腹にお前の妹か弟がいるんだよ」


 エスメラルダは嬉しくなかった。

 リンカはただでさえ、ベッドで過ごすことが多い。だからエスメラルダが母に構ってもらえる時間は限られていたのに赤ちゃんが来たら……生まれたら完全にリンカをとられてしまう。



 暗転。



 雪嵐。


 出血。



 暗転。



 首をくくった男。



 暗転。



 美しい緋蝶城。


「覚えておきなさい。兄様がお前に飽きたらわたくしがお前を殺すわ」


 レイリエの言葉。レイリエはエスメラルダをこの世のどんな存在よりも憎んでいた。だけれども、レイリエが魂まで全て捧げんと愛する男がエスメラルダを愛している。その男への愛がレイリエを板挟みにし続けた。


 何度でもレイリエはエスメラルダを殺せただろう。レイリエが愛する男がエスメラルダに与えた子犬の腸を引き抜き嬲り殺したが、レイリエは子犬ではなくエスメラルダにも同じことが出来た筈だ。

 それをすると、レイリエの愛する男が決してレイリエを許さぬ……というならば憎しみという形でレイリエは彼の心に己を刻み付ける為にも嬉々として行ったに違いないが、エスメラルダを喪えば憎むという感情を覚える前にごく当たり前に自害しただろう。

 最高の被写体であるエスメラルダを喪えば、あの男に生きる意味を見出す事は出来ぬ事。

 狂いそうな憎悪をエスメラルダに向けながら、エスメラルダを傷つける事も出来ずにレイリエは四年間、ただひたすらに苦しんだ。


 とはいえ、エスメラルダにとってレイリエは大事な存在どころか敵でしかなく憐れむ気持ちはないのだが。


 嗚呼、懐かしい匂い。

 絵の具の匂い。緑の匂い。土の匂い。水の匂い。


 エリファスは美しい土地だった。

 エスメラルダはカリナグレイでの生活よりもエリファスの生活の方が好きだった。


 朝、絞りたてのミルク。


 昼、寝かせてあったチーズ。


 夜、子豚の丸焼き。


 自然と一緒に時間が流れた。


 優しい時間だった。

 そして何処までも素朴な。


 両親を続けざまに喪い、母方の親戚には拒絶され父方の親戚の話を一度も聞いた事のない、頼る相手をもたないエスメラルダの心の傷を癒すのには最適の場所だった。


 レイリエさえいなければ。


 だけれども、レイリエ、あの子も可哀想な子。叶わないのに。それは罪なのに。


 そういえばメルローア王家は狂っているとランカスターが言っていたのを思い出す。

 近親相姦を罪だと思わぬ輩が増えたと。


 恐ろしい事だとエスメラルダは思う。

 それは自然に反している。


 ランカスターが笑っている。


「此処にいて、お前の絵を描いて過ごす。それが私の楽しみだよ」


 そして様々な事をエスメラルダに叩き込んだ。状況に応じて立ち位置から立ち姿、視線の方向まで。

 だからエスメラルダは、指先までピンと神経を張り詰めた美しい立ち方が出来るようになった。


「私の未来の花嫁さん」



 暗転。



 雪嵐。


 馬車の事故。




「いやぁぁあああああ!!」




 エスメラルダは絶叫したつもりだった。

 だけれども声は頭の中で反響するだけで、目も開かない。



 暗転



 エスメラルダは眠っていた。


 特別紅潮しているわけでもなければ青ざめているわけでもない顔は、土気色というのだろうか、凄まじい疲労を覚えた人間のように暗い顔色をしていた。

 その手をフランヴェルジュは握り締めていた。布で縛りさえして。決して離れぬように。


「死ぬな……頼む。エスメラルダ……」


 ああ、レイリエに毒を盛られた後ね、と、エスメラルダは思い返す。


「死ぬな」


 この声に引き戻されて、エスメラルダは戻ってきたのだ。戻ってこられたのだ。

 そうでなければ。

 死んでいた。


 フランヴェルジュが自分を呼び、望んでくれたからこそ、エスメラルダは今もなお、生きているのだろう。


 愛しい人。

 フランヴェルジュ様は、この時は既にわたくしに心をくださっていたのだわ。



 暗転。



 エスメラルダは眠っている。

 ただ貪欲に、ひたすら眠りを貪っている。


 そこに、闖入者。


 ブランシール様?


 何故、彼はそんな事を自分にしているのだろう?

 エスメラルダは混乱した。ブランシールがそんな事をする理由が何一つ思いつかないからだ。


 ブランシールが眠りの中にたゆとう自分に仕掛けているのは執拗なキス。けれど、そこに愛はない。エスメラルダが愛する愛さないのその前に、ブランシールがぶつけているのは上手く言葉に出来ないものの、きっとマイナスの感情だとエスメラルダは直感する。

 記憶にはないはずなのそのキスが、真実あった出来事である事をエスメラルダは疑わない。


 だが何故……!?


 しかし、彼女が記憶を振り返っていられるのは此処までだった。 


 パン、と、大祭司マーデュリシィは手を叩く。エスメラルダは強引に現に引き戻される。


「『審判』はこれにて終了せり。水晶は全き姿でここにあり。エスメラルダ。アイリーン・ローグの言葉に偽りなし!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る