第10話 麻の如く 前編

 エスメラルダは思う。

 

 耳が重い。


 それは見事としか言いようがない一対のエメラルドが耳朶を飾っている所為だ。


 金の台にエメラルド。

 フランヴェルジュの瞳にエスメラルダの瞳。


 外してしまいたいがどうしてもそれが出来なかった。


 何故だか解らない。


 怖かったのかもしれない。

 あれはエスメラルダが相手を異性として、男として、初めて意識した瞬間の事だった。


 フランヴェルジュの無骨な手が、自分の耳朶に嵌めた耳飾り。自分でつけると言ったのに、フランヴェルジュはそれを許してくれなかった。だけれども、それはそれは優しい手つきでエスメラルダの耳に触れた。

 それ故、エスメラルダは耳飾りを外せぬのかもしれぬ。


 あの手の不器用さ。金具を上手く止められなくて少し焦っていた。可愛かった。それなのに怖かった。


 どうしてかしら? ねぇ、母様。


 時々、エスメラルダは心の中で母に意見を求めた。勿論答えが返ってくる筈もない。だけれども、問いかけねば忘れそうだった。母の面影を。肖像画があるから顔そのものを忘れる事はないだろう。だけれども、表情は失われていく。声は、もう、どうしても思い出せなかった。


 時とは無情なものだ。

 そう、アシュレは言った。


 時とは優しいものだ。

 そうとも、アシュレは言った。


 どちらが本当の答えなのか解らない。どちらも答えなのかもしれない。


 ランカスター様。

 貴方もやがて思い出になってしまうのですか?


 それだけは無いだろうとエスメラルダは思う。あれ程までに求められて、忘れられようか。出来る筈がない。


 魂かけて求められた。


 だけれども、あの日のパーティーの時、庭園で二人きりになった時、フランヴェルジュは似た表情をしたのだ。


 そう、『似た』。

 決して『同じ』ではない表情。


 それでも、エスメラルダはその表情から目を離せなかった。


 あの日──。


 フランヴェルジュは耳飾りをエスメラルダの耳に飾ると、言ったのだ。


「この耳飾りに合う首飾りを作らせている」


「そんな! 本来、耳飾りだとて頂く事は出来ぬものですわ! 更に首飾りだなんて!!」


 エスメラルダは思わず大きな声を出した。

 フランヴェルジュは彼女の唇に指を当て、微かに笑んだ。エスメラルダは国王の前での失態に顔色をなくす。


 こういう時はどうしたら良いのですか!? 母様、ランカスター様!!


「静かに。国王たる俺が贈りたいと言っているのだ。黙って受け取れ。それが忠義ぞ」


 どんな忠義かとエスメラルダは思う。難しい事を言ってエスメラルダの理解の範疇を超えさせ、力ずくではなく理屈攻めでエスメラルダに贈り物をする気なのだ、この男は!


 だが、国王に逆らえようか? 国王とは神の次に絶対なるものだ。偉大なる神の次に。


 エスメラルダは、頷くしかなかった。


 それを見たフランヴェルジュは破顔する。

 笑うと、エスメラルダが知っているフランヴェルジュに戻った。

 威厳と言う名のやたら重いマントを脱ぎ捨て、笑うフランヴェルジュは子供のようだ。やんちゃで、子供のようだ。耳飾りを嵌められた時も思った事だが可愛いとさえ思う自分がいる。


 わたくしはどうしたのだろう? そんな物思いはフランヴェルジュの言葉でとりあえず収まる事になる。


「エスメラルダ、俺が今、お前に一番贈りたい物は何だと思う?」


 問われて、エスメラルダは考える。


 自分がフランヴェルジュから貰いたいと思う物は何も無かった。そしてエスメラルダは男と言うものに全く無知であった。


 男の考えそうな事などエスメラルダに解る筈もない。


「わたくしには、解りかねますわ、フランヴェルジュ様」


「解らないなら解らないで良い。見透かされても恥ずかしいしな」


 フランヴェルジュの声が僅かに上ずっている。本当はエスメラルダに解って欲しかったのではなかろうか。

 しかし本当にどう考えても解らぬのだから仕方がない。耳飾りや首飾りを指して言っているのではないという事が解からぬ程馬鹿ではなかったエスメラルダは頭を下げるしかない。


「申し訳ございませぬ、陛下」


 あの夜、会話はそこで途切れた。

 中座した国王を近衛たちが探し始めたのだ。


「花一輪、確かに貰い受けた!」


 そう言って、フランヴェルジュは笑った。


 眩しい程の笑顔をエスメラルダの心に植え付けて、フランヴェルジュはその場を後にしたのである。




◆◆◆

 『花』が何の事か、エスメラルダには最初、解らなかった。だから湯浴みの後、何枚ものタオルで髪を包み、乾いたその髪に香油を擦りこんでいるマーグに聞いたのだ。


「『花』をね、ある殿方から貰い受けたと言われたの。おかしいわよね? わたくし、花なんか摘んでないわ。わたくしはランカスター様以外の方の為に花冠を編んだりしないわ」


 マーグは顔色を変えた。櫛を持つ手が止まる。


「エスメラルダ様。その方はどういうご身分の?」


「教えないわ、マーグ。家柄によって『花』の意味が変わると言うのなら兎も角。教えられないお方なの。醜聞に塗れさせてはいけないわ。わたくしと何か噂でも立てばレイリエ様が攻撃してくるでしょうし。レイリエ様は南の温泉地へ行かれたのよね?」


「レイリエ様は確かに温泉地にお出かけです。モニカでございますよ、エスメラルダ様。それより、花を摘んだのはどなたなのです?」


 マーグの剣幕と常ならぬしつこさにエスメラルダはくっと顔を上げた。


「言えないと言ったでしょう? 鼻をつまむ? そんな失礼な事はされてなくってよ。マーグ、お前と話していると混乱するわ。わたくしは『花』の意味を聞いているの」


「……男女の間でよく使われる隠語でございますよ。『花を摘む』が口づけ、『花を咲かせる』が相手の心を掌握したという事、『花を散らせる』が……その……性愛の意味でございます」


「……確かに一輪」


 エスメラルダは唇を指でなぞった。


 初めての口づけ。

 口付けとは唇を重ね合わせることだとばかり思っていた。だけれども、それだけではないと知ったあの夜、舌が甘いと知った夜。

 あの時、フランヴェルジュの柔らかな唇は熱を持っていた。思い出すとそれだけでぞくりとする。


「誰がエスメラルダ様を穢したのです!? その家の者に正式な詫び状を書かせなくてはいけません! 私のお嬢様がそのような目に……さぞ、恐ろしかった事でしょう!」


 マーグは叫ぶが、エスメラルダは首を左右に振った。


「マーグ、わたくしは穢されてなどいなくってよ。恐ろしくは……あったかもしれないけれども。でも、お前、忘れているのではない? ランカスター様がお亡くなりになられた事。わたくしは寡婦にすらなれなかったのよ。ランカスターの姓を名乗ることは許されなかった。解る? わたくしは何の身分も持たない。ローグ家を継いだ訳でもない。ただあの方が十分な財産を残して下さったというだけ」


 マーグは口ごもった。


 確かに今のエスメラルダの身分は平民としか言えない。彼女が女でなければ、ローグ子爵であっただろうに。女であれど、アシュレが婚姻前に事故で儚くならなければランカスター夫人であっただろうに。


 女の身分とは、そんなものだ。

 容易く失われ、また男次第で容易くのし上がることもまた、可能。


「さぁ、髪を梳いて頂戴。遅刻したらレーシアーナに怒られるわ」


 今日はレーシアーナが初めて主催する茶会の日だった。

 敵達が美しいドレスで着飾りながらレーシアーナを侮辱しようと集る日だ。

 だが、レーシアーナはその娘達の上に女王として君臨せねばならない。王弟に是非にと望まれ、来年の春の善き日に華燭の典を挙げることが決まった娘として。


婚姻の為の準備は滞りなく進んでいるという。日にちが問題だが天候と相談して最初の鍬入れの一週間後にしようと決まった。

 鍬入れの日には、国王自らが鍬を手に取り、豊穣を願い最初の一撃を硬い地面に突き立てるのだ。

 その日は皆、誰も彼もが忙しい。貴族達も領民の前で鍬入れをするのが慣わしであるし、農民達は儀式が終わった後必死で田畑を鋤く。一日で鍬入れが終わるはずも無く何日もかかる。だけれども、その一週間後なら農民達にも疲れが出る頃合であるし、祝賀の為の休日を設ける事は良い事だと決まった出来事であった。


 エスメラルダは、緑のドレスを着た。

 ランカスターがエスメラルダに余り着せたがらなかった色である。理由は似合いすぎるから。美しすぎて怖いのだと言われた時、エスメラルダはこの人はどうかしてしまったのだろうかと思った。

 だけれども、ランカスターは緑の色のドレスを沢山作ってくれた。そして、特別なイベントごとには他の色でなく緑のドレスを着せた。


 緑の衣装はエスメラルダの戦闘服のようなものだった。


 長く裾を引く絹のドレスは美しかった。胸元が少し露出し過ぎのような気がしたが、これが今年の最新流行であると言う。

 レーシアーナは醜聞に塗れた自分を茶会に呼んでくれたのだ。更に醜聞が広がるような真似がどうして出来ようか。流行遅れのドレスなどで彼女に恥をかかせる訳には行かない。


 エスメラルダは、彼女の戦場に向かった。





◆◆◆

「遅かったじゃない、エスメラルダ」


 レーシアーナは唇を尖らせた。だけれども目は笑っている。すごい胆力だとエスメラルダは思う。


 王弟妃となるレーシアーナが開く茶会には、王族に連なるものや大貴族、神殿の権力者の妻や娘が集まる事になっている。

 表向きは祝いの言葉を述べ未来の王弟妃との親交を深める為のそれは、実際には幼い頃、ブランシールの無聊を慰める為だけにレイデン侯爵家から買われたレーシアーナを好き勝手に批評する為のものになるだろう。


 『ポニー』の逸話は隠されている。

 その話はエスメラルダですら本人に聞くまで知り得なかった事実。

 だが、長年レーシアーナが『侍女』であった事実は今更どうしようもない事だ。


 しかし、レーシアーナは動じない。その表情は余裕すら窺える。


 茶会が始まるまでまだ間があった。

 開始より一時間半前である。


「遅くなってしまってご免なさい、レーシアーナ。貴女、それにしても、綺麗になったわ」


 エスメラルダは素直な賛辞の言葉を送った。


「有難う、エスメラルダ。貴女にも好きな方が出来る事を祈っているわ」


 エスメラルダはきょとんとした。


 好きな方?


「それが綺麗になる事と関係あるの? だってレーシアーナ、初めてわたくし達が顔を合わせた時から、貴女、ブランシール様がお好きだったじゃない」


 エスメラルダの言葉にレーシアーナは苦笑する。


「あのね、好きな方が出来てね、その方と肌を重ねると良いと言いたかったの。男を知ると女は変わるわ。わたくしも毎晩感じるもの。日に日に自分が変わっていくのを」


「毎晩? ……なの?」


「墓穴を掘ったみたいね。毎晩に近いわ」


 レーシアーナの顔が赤くなるのを見て、エスメラルダは羨ましくなる。


 わたくしにも好きな方が出来たら。


 その時、不意に初夏の夜の庭園を思い出した。あの時、『花を摘まれた事』。


 エスメラルダは怒らなかった。

 相手がやんごとない身分の者だからではない。単純に腹が立たなかったのだ。


 どうしてだろう。

 憤って平手の一撃でも食らわせてやってもおかしくない出来事だったのに。

 何度思い返しても、自分は『受け入れた』としか言えない。


「ねぇ、レーシアーナ。『花を摘まれて』、でも腹が立たないってどういう事かしら?」


 エスメラルダの素朴なその問いにレーシアーナは目を丸くした。


「貴女、それって……恋しているって事じゃないかしら? だって好きでもない男との口付けなんて」


「恋なんてしていないわ」


 エスメラルダは言い切った。


「胸がどきどきする訳でもないの。どちらかと言うとわくわくしたりもしないわ。ただ、憂鬱に思うの。どうしてあの時、キスを許してしまったのかしらって。そして同じ事が起きたら、わたくしは、きっとまたキスを許してしまうのだわ」


 それは立派に恋の範疇に入るとレーシアーナは思った。だけれども、指摘はしない。恋は甘いだけでなく、時に苦いものである事をレーシアーナは熟知している。憂鬱を覚えることもあると解っている。

 だけれども、レーシアーナはエスメラルダにそれを指摘するつもりは無かった。


 エスメラルダは良い娘なのだけれども、でも、頭でっかちなところがあるわ。それに頑固で手がつけられない事も。


 指摘しても反論が返ってくるだけであろう。

 しかし、何処の誰がエスメラルダの唇を奪ったのか。レーシアーナはそっちの方に興味がわいたが聞かないでおいた。蛇が飛び出るかも知れぬ藪などつついてたまるか。


「ねぇ、レーシアーナ。恋だの云々はもういいわ。あのね、本当にわたくしがいても大丈夫なの? 敵に余計な隙を与えないかしら? 母もランカスター様も宮廷でのしきたりは何一つ教えて下さらなかったわ」


 エスメラルダを愛した二人は彼女が宮廷だなどという所に行く事など完全に有り得ないと思っていたのだ。

 そこは魔窟だから。


「大丈夫よ。普通にお茶を楽しめば良いの。まぁ、敵陣の中でたった二人、どう楽しめって言うのかって感じはするけれどもね。でも、普通で良いのよ。しきたりだなんだとか言っても皆、全部把握している訳ではないもの。それだけ煩雑に過ぎると言うことね。だから幾らでもごまかしは利くの。それにしても綺麗なドレスね、エスメラルダ」


「武装のつもりよ。短剣の代わりにレースを。鎧の代わりにリボンを」


「ちゃんと解っているじゃない。宮廷での戦い方。あら、もう三十分しかないわ。一時間お喋りしていた事になるわね。庭園に出ましょう。お茶会は庭園で行うの」


 踊るような足取りのレーシアーナをエスメラルダが追う。エメラルドの耳飾りが揺れる。


 耳で揺れるそれはエスメラルダの気分をしゃんとさせた。


 ランカスター様はいつも仰っていた。

 泰然と構えろと。

 怯えてはならない。恐れてはならない。

 毅然として、顎をひいて、背筋を伸ばして、えくぼを刻んで。


 近衛兵達が未来の王弟妃とその友人をエスコートする。彼らは口にこそ出さない分別があったものの皆、驚いていた。


 エスメラルダといった、少女。

 先程まで萎れていたくせに、今は頭をもたげて芳香を漂わせるように、まるで花のように。


 耳飾りが重い。


 エスメラルダはそう思ううちは自分の覚悟が足りないのだと必死で自分を叱咤した。

 そして庭園へ降りて、すっかりお茶の用意が整った大理石のテーブルを見て、何となく既視感を覚えた。


 同じことを考えていたのだろう、レーシアーナがくすくすと笑う。


「貴女との最初のお茶も庭園で頂いたわね」


「そうだったわね。レーシアーナ。わたくし、あの時緊張のあまり足が震えていたのよ」


「今は足が震えて?」


「いいえ、まさか!」


 エスメラルダは言い切った。


 近衛の一人が引いた椅子にレーシアーナが座る。そしてその左隣の椅子を別の近衛がエスメラルダの為に引く。


 主人の次に上席だった。


 エスメラルダはエメラルドの瞳を大きく見開いた。驚いているのだ。彼女は、レーシアーナの真正面の席に座るものだとばかり思っていたから。


「いいの? わたくしがこの席で」


 エスメラルダは暗に席を変えてくれるようにレーシアーナに言った。席次の問題は厄介だとエスメラルダはよく知っている。

 母の教育もありランカスターの訓育もある。

 十一、十二で両親の葬儀の参列者をどこに座らせるか、指示を出す事が出来るよう育てられていた。それ故に、気になるのである。


「いいのよ、これで」


 レーシアーナは笑った。しかし、海の色の瞳は笑っていない、強固な意志を湛えている。


「だってね、わたくしの友達なのよ? わたくしの隣に座るのが当然だわ。それが気に食わないと仰る方にはわたくし、二度と招待状を書かなくってよ」


 友達だからこそまずいのだとエスメラルダは思う。上の者を立てる事をしなければ反発が凄い事も想像出来る。レーシアーナは王弟妃になるのだ、こんなところで躓いては駄目なのだ。


 だが、エスメラルダはレーシアーナの隣の席に座った。

 レーシアーナは恐らく一歩も譲らないであろう。それが解ってしまう。


 わたくしが我を張れば、最悪、レーシアーナの性格を考えればお茶会自体を止めてしまうかもしれない、それは絶対に駄目だわ。


 結局、二人は似たもの同士なのだがその事に気付いていない。譲る事が出来る事は何処までも譲るが、自分にとって冒されたくない領域を持っていて、それは命がけで守られているものだ。

 尤も、当の本人達はその事を自覚していないのだが。


「もうそろそろやってくる筈よ。敵が」


 エスメラルダは無意識に拳を握った。

 それを見て、レーシアーナは、その小さな拳に自分の手を乗せる。エスメラルダの拳を包み込むように。


「大丈夫。敵と言っても棍棒や槍や大剣や弓矢や魔法の杖を持ってくる訳ではないわ」


「恐れてはいないわ」


 エスメラルダは言った。だが、その後にすぐ打ち消しの言葉を連ねる。


「いいえ、嘘よ。恐れているわ。凄く凄く恐れているわ。わたくしが醜聞に塗れる事は構わないの。そんな事は一欠片も恐れていないの。でも、貴女に恥をかかせたらと思うと怖くてたまらないわ」


「可愛い人ね」


 レーシアーナは笑う。


 その時、鈴が盛大に鳴り響く音がした。

 客人来訪の合図だ。


 エスメラルダは思わず身体をすくませる。

 そんな親友の拳を包んでいた手を自由にしてレーシアーナはエスメラルダの耳に囁く。


「最初のお客様のご登場よ、エスメラルダ」


 今日の茶会の客はエスメラルダを抜いて五人。少ない人数だが、つまり本当に足蹴に出来ない淑女達がまず、招かれたという事だ。


 エスメラルダにとって、本当のことを言うとその場にいるだけでも辛い。場違いという言葉がこれ以上当てはまる存在もないと思うのだけれども、後にレーシアーナに感謝することになる。


 鈴の音と共に顕れたのは金髪に緑の瞳の淑女だった。


 レーシアーナもエスメラルダも立ち上がらない。茶会では本来の身分より招いた者の方が身分が高いとされる。


 エスメラルダはその淑女を見た途端に胸が高鳴るのを感じた。


 何だろう? 何だろう?

 ああ、こんな事なら、城内に放ってある間諜に今日のお茶会のお客様リストを書き写させるのだったわ。何故わたくしはそうしなかったのかしら? 怪しい者が呼ばれる筈がないとたかを括っていた自分を殴ってやりたいわ。浅はか過ぎるわ。愚か者の謗りを免れないわ。


「マイリーテ・ラスカ・ダムバーグです。本日は未来の妃殿下にお招き頂いた事、感謝の念に耐えません」


 ダムバーグ!


 心臓が止まってしまうのではないかというほど驚いた。

 それはエスメラルダにとっては忘れられない名前であるから。


 何も知らないレーシアーナはマイリーテをエスメラルダの真正面に座らせた。


 エスメラルダは思い出す。

 たった一度だけ聞いた母の昔語り。

 母は心から自分の母を、エスメラルダの祖母を敬愛していた。


 胸の鼓動を、ダムバーグ夫人マイリーテに聞かれていないか、エスメラルダは震えそうだった。


 誰かここから連れ出して頂戴!


 エスメラルダは叫び声をのみこむ。


 また鈴の音がした。

 誰かが入ってくるのだろうが、エスメラルダには誰がどうしようが関係なかった。

 失敗を恐れる事さえなくなった。


 ただ、マイリーテの方を失礼にならない程度に見つめた。

 綺麗に手入れが施された爪、ぴんと伸びた背筋、エスメラルダと同じ緑の瞳。

 だが、この夫人は若々しく見えた。


 血族であっても、お祖母様ではないかもしれない!


 エスメラルダはそう思った。四十台にしか見えないマイリーテ。そうだ。お母様のお母様ならもっとお年を召してらっしゃる筈だ。


 お茶の席が賑やかになる。


 エスメラルダは深呼吸しながら周囲を見回した。

 誰が誰だかさっぱり解らなかった。だが、まぁよいであろう。名乗る声は聞こえていたのだが、今のエスメラルダに常のような理解力はなかった。


「皆様」


 全ての椅子が埋まってから初めて、レーシアーナは立ち上がった。


「この度はわたくしのお茶の時間にお付き合い下さるとの事、誠に有り難く存じます」


 人々の視線を浴びて、しかし、レーシアーナは物怖じする様も見せない。


「皆様の貴重なお時間を頂いてのお茶会です。少しでも楽しんで頂けますよう努めます」


 そう言うとレーシアーナは再び席に着いた。

 給仕達がカップに熱いお茶を注ぎいれる。


 その香りに、酔わない者が二人だけ居た。


 エスメラルダとマイリーテである。


 この小娘が、宮廷の白水仙、レイリエ様からランカスター公爵を取り上げた娘?

 何処かで見た気がした。

 忘れてはいけない、忘れたい記憶がマイリーテを苛む。


 リンカーシェ。


 娘が赤ん坊だけでもいいから見てやって下さいと門扉を叩くのを、マイリーテは無視した。夫の言葉に逆らえなかったのだ。

 どれ程抱き締めたかったであろう。

 悪いのは誑かした男ではないか。

 リンカーシェにどれだけの罪があるというのだろう。ましてや赤子に!


 だが、結局マイリーテは夫に従った。妻であり女である自分が夫であり男である相手に逆らう事など出来る訳がなかった。少なくともマイリーテの狭い世界で培われた常識では。


 名前だけでも聞いておきたかった。

 赤子の名前はなんと言うのだろう。


 だが、マイリーテはその事を話題に持ち込む事は出来なかった。家の恥である。


 それに緊張ゆえに饒舌になったエスメラルダの所為でもある。


 エスメラルダは、元から良い話し手の素質を持っていたが、ランカスターの教育が見事にその才能を開花させていた。

 彼女は万事控え目で決して目立たなかった。だが、彼女の言葉が鍵となって、話題の主役たる淑女は決まる。

 それも誹謗中傷嫌味の対象ではなく、尊敬すべき隣人として人々の注目を集めていたのである。

 そしてその注目は、一人の人間が独占する事は無かった。いつの間にかさっきまで斜め前の人間の事を喋っていたのに今は自分が話題にされていると言った風に話題はくるくると回った。


 レーシアーナは内心舌を巻いていた。


 この娘なら王妃にだってなれるわね。


 そんな事を思いながらレーシアーナは専ら、ケーキやクッキーやサンドイッチ、お茶に気を配る。


 レーシアーナが目上の者と喋るのに気後れしないのは、常にブランシールの側に居たからだが、エスメラルダにはきっと、天性の才能があったのだろうと彼女は思う。そしてこれはレーシアーナの美点なのだが、羨んだりすること無く心の中で賛辞した。


 それにしても、エスメラルダがいてくれて助かった。一人でなくて良かった。


 エスメラルダを呼ぶように言いつけたのはブランシールである。何故そんな命令を下されたのか解らないけれども、レーシアーナは従った。


 あの方はこうなる事を見越してらしたのかしら? そう、レーシアーナは思う。


 もうブランシールがエスメラルダを想っているなどとはレーシアーナは思っていない。いや、愛していると言ってくれる最愛の男をただただ信じたいだけかもしれないけれど、それでも、毎夜のように自分を腕に籠めて眠る男のその幸せそうな満ち足りた表情を見ると、信じたいと思うし、もう、信じている。


 そして茶会は済み、皆、満足そうな顔でその場から退出した。


 マイリーテ・ラスカ・ダムバーグを残して。

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