第9話 摘まれた花
エスメラルダも、もしかすれば宮廷の花と呼ばれていたかもしれなかった。
もし、リンカの血族の者達が、リンカとジブラシィ・ローグと言う名前の男との結婚を許していれば。
リンカの本当の名前はリンカーシェ・ユグリエル・ダムバーグ。だけれども、それは取り上げられた名前だった。
ダムバーグ侯爵家は王家との繋がりも密接で沢山の娘を嫁がせていた。
名門中の名門。
そして、その体面を保つのに必要なだけの金を持っていた。
リンカ、否、リンカーシェと呼ぼう。リンカーシェは何一つ不自由のない暮らしをしていた。
おもしろい玩具、甘いデザート、ふわふわの天蓋つきのベッド、可愛いペット。牝馬。
リンカーシェはとても優しい性格の持ち主だった。優しく、そして繊細で、だけれども譲れぬものをしっかりと持った、そんな少女だった。
一つだけ、リンカーシェには欠点があった。
それは身体の弱さである。
リンカーシェはそれでも、毎日やるべき事を怠らなかった。使用人の采配も彼女の仕事。やがて嫁ぎ、その嫁ぎ先を切り盛りしていかなくてはならない、その為の手腕を母から習うのも貴族の娘ならば当たり前の事。
そして、神に祈りを捧げ、ダムバーグ家の繁栄を祈り、そして婚約者たるミューレルト伯爵家の青年の為に祈る。
伯爵家の若者は顔も見た事がなかった。
それでも嫁がなくてはならぬというのなら嫁ごうと考えていた。
貴族の婚姻とはこんなものだと諦めていたのだ。何事も、リンカーシェは期待しなかった。その代わりリンカーシェは一身に期待を集める努力をした。そしてその期待を叶え続けてきたのだった。
婚約者についてはこう思っていた。
わたくしが愛せなくともそれは構わない。でも、相手がもしわたくしを愛してくれたのなら、それで充分だわ。
それはある意味酷く傲慢な考え方だった。自分以外の事を切り捨てたも同然の考え方であった。
だけれども、期待すれば裏切られると知っている彼女は、自分は、自分だけは、人々の期待を裏切らない娘であろうと努力した。
愛せなくとも、愛されるように努力した。
可愛い子。
優しい子。
天使。
様々な言葉がリンカーシェには与えられた。
金髪に緑の瞳の少女。
その少女も、漸く髪を上げる事を許され、そして、春の盛りに両親に言い渡された。
「婚礼の日取りが決まったぞ。喜べ。収穫祭の一週間後だ。私は今日にでも、聖アネーシャ修道院に婚礼のドレスを頼むつもりだ」
その日の父の喜びようにリンカーシェはただ微笑みで応える。
婚礼用のドレス。
子供の頃から憧れ続けてきたもの。
しかも父は覚えていてくれたのだ。仕立て屋ではなく修道院でドレスを作りたいと言ったリンカーシェの言葉を。
修道院で作ると割高になるが仕立ては抜群に良くなる。そして、修道院の収益は、貧しい人々や神に仕える人々に分け与えられる。
だから、リンカーシェは本当に嬉しかった。
結婚しなくてはならない事が嬉しかったのでは、決してない。
飢える人々の椀に一杯のシチューかスープが振舞われるかと思うと嬉しかったのである。
メルローアは豊かな国だ。
それでも、飢える人間がいない訳ではない。
リンカーシェは自分だけが豊かであれば幸せであればいいと思える娘ではなく、それこそが彼女の美質と言える。
「お父様、わたくしもお連れ下さいませ。ドレスの採寸が必要でございましょう?」
そう言う娘を父は愛しくて堪らぬもののように見た。実際、彼女は掌中の玉だった。婚姻で手放さねばならぬ事がつくづく惜しい。
しかし、それも娘の為なら、娘の幸せの為なら致し方ない。
本当に幸せになれるのか? そう思ったこともあるがリンカーシェの性格なら大丈夫だろうとも思う。最近の娘のような浮ついたところが殆どない。自慢の娘だ。どれ程自分は娘を愛しているだろう。
「勿論だ。お前がいなければ話にならない。どんなドレスが良いか、じっくり修道女達と話し合うのもいいだろう。何せ一生に一度のことだからな」
リンカーシェが再び微笑む。
金の髪が朝日に透け、輝いている。
こんなに美しく育つとは思っても見なかった。緑の瞳はエメラルドだ。傷一つない宝石。
そうだ。娘には内緒でエメラルドの首飾りを買おう。婚礼祝いだと婚礼の前夜に渡してやろう。
心弾む事を考えダムバーグ家当主は幸せそうに何度も何度も頷いた。
その三日後。
リンカーシェの人生は一変する。
出逢ってしまったのだ。ジブラシィと。
普通の出逢いだった。
友人である伯爵令嬢の家でお針の会があったので、そこで孤児院に送る服をせっせと縫っていると、時計が鳴り響いた。
十七時はこういった若い乙女達の催し物の終わりを告げる時間である。
リンカーシェは、もうあまりお針の会や編み物の会などに出席できない事を悲しく思った。結婚してしまえば、招待されなくなる。お茶の時間などで女主人として人をもてなす事はあるだろう。だけれども、誰かの為に何か出来る時間はもう余りにも少なかった。
帰り際に、リンカーシェと、他に招待されていた合計七人の娘達がこの家の当主に挨拶をしに行った。
そこで、ジブラシィとリンカーシェと目が合った。
合ってしまった、という方が的確かも知れぬ。
その瞬間、世界から何もかもが消え、たった二人だけが残った。
どうしましょう? わたくし達、おかしいわ。貴方はどうしてそんな目で私をご覧になるの? ねぇ。お答えになって。
リンカーシェが言葉にならない声をあげる。だが、誰にも聞かれなかったようだ。
男もじっとリンカーシェを、リンカーシェだけをみていた。
その後、リンカーシェはどうやって馬車に乗ったのか覚えていない。馬車に同乗していたセリヌスに、さっきの男の事を聞いてみると「知らなかったの?」と驚かれた。
「フレッズレイン伯爵家は借金を抱えているのよ。あの男から。あの男はジブラシィ・ローグと言うのよ。実はわたくしの家もあの男に借金しているわ。いえ、今日集った娘の内、借金を抱えていない家は貴女の家位よ」
まさか! と、リンカーシェは叫びそうになった。借金? 今日集ったのは子爵家と伯爵家、そして侯爵家、皆名門と言われる家の出なのに。
リンカーシェは、下手をすれば町人よりも貴族のほうが貧しさを囲っていることがままある事を知らなかったのである。
「では、さっきのローグとやらは町人なの? あんな立派な格好をして、まるで紳士のようだったわ」
「そりゃ、紳士でしょうよ。町人であっても貴族の家への出入りが許されているのですもの。でもそれだけよ。貴族ではないわ。所詮は卑しい男よ。あんな男から借金しないと家の体面が保てないなんて恥ずかしいわ」
セリヌスが唇を噛んだ。
「嫌な思いをさせてしまってすまなかったわ、セリヌス」
リンカーシェは素直に謝った。
でも、と、心の内で囁きながら。
活き活きとして、素敵な
リンカーシェは家に帰ってからも気付けばぼんやりとジブラシィの事を考えていた。
湯浴みの際に身体を洗われている時でさえ思考はただ一度その目にした男の事を思っていた。
本に熱中する事も、あんなに好きだった裁縫仕事も手につかなくなってきた。
母は余り良い顔はしなかったが、父は満足していた。
「アレも嫁ぐと言う意味を噛み締めているのだろう。お前にも覚えがあろう?」
「わたくしは……」
母は言いよどんだ。婚姻前の娘の頃、確かに何も手につかなくなったが、それは期待でなく絶望していたからだ。結婚なんかしたくなかった。家の貧しさと次々に生まれる赤ん坊のおむつの為にダムバーグ家に嫁ぐ事になったのだ。
だから、リンカーシェのように、夢見る表情をしていなかったことだけは確かだと思う。
リンカーシェはもう一度、ジブラシィに出逢うと決め、お針の会や合唱団や、とにかく貴族の家で催し物があるとどれも逃さず出席した。そう決めて動くとジブラシィと出逢う事は簡単だった。
そして。
リンカーシェはジブラシィに恥ずかしげに求婚され、その時になって漸く、彼女は彼に恋している事が解ったのだった。
一目合った時から?
そんな事ありえないわ。普通は……!!
理性が叫ぶのと、リンカーシェがジブラシィの腕に収まったのはほぼ同時だった。
ジブラシィは、子爵位を金で買った事は伏せ、ただエメラルドの指輪を贈った。
「必ずまた会えると信じていた」
小鳥のように細く華奢な少女にジブラシィは囁く。
そして二人は駆け落ちし、リンカーシェは家を捨て、代償に名前を奪われた。
だけれどもリンカは幸せだった。
◆◆◆
「随分難しい顔をしているのね、エスメラルダ。どうしたの?」
レーシアーナの問いかけに、エスメラルダは慌ててえくぼを刻む。そうすると彼女はとても愛らしく見えた。まだ十六歳の健康な乙女。化粧で飾るより、笑みを見せた方が良い。
「何でもなくってよ。ところでレーシアーナ。此処に集っている方々はわたくし、殆ど顔も名前も知らないわ。一体どういう人達が招待されているの?」
エスメラルダの問いかけに、レーシアーナはかすかに眉を寄せると、彼女はエスメラルダの耳に囁きかけた。
「敵よ。わたくし達の敵」
「なんですって?」
エスメラルダが小声で問いを重ねる。
「わたくし達の素性が怪しいと言う者達ばかりが集っているわ、敵だらけよ」
「まぁ」
では何故自分達が招かれたのか理解に苦しむ。あの二人の兄弟は、自分とレーシアーナを笑いものにする為に招待したのか。
このパーティーの事を諜報部員に詳しく調べさせなかったのは自分の落ち度だ。レイリエが欠席すると言う知らせを受けて、それだけで出席を決めてしまった自分の落ち度だ。
「どうしてこの場にわたくし達が?」
エスメラルダは思った事を口にした。
レーシアーナが不敵に微笑む。
「それはね……わたくしと、ブランシール様の婚姻許可が新国王陛下より正式に発表されるからよ」
エスメラルダは大きな目を更に見開いた。
「おめでたい場なのね。でもいいの? まだ前国王陛下の喪中よ?」
「男は腕に喪中の腕章さえつけていれば、妻が死んだその日に別の女性に求婚する事も出来るのよ? エスメラルダ」
「そうね。そうだったわね」
エスメラルダが頷く。
宮廷でのしきたりなどはリンカもランカスターもさわりしか教えてくれなかった。必要ないだろうというのが、二人の考え方だった。
エスメラルダは急に怖くなった。
誰も守ってくれないような気がしたのだ。
この広い宮廷は敵ばかり。
「大丈夫よ、エスメラルダ」
レーシアーナが囁いた。エスメラルダの考えを読んだように。
「わたくしが貴女を守るわ」
そこにあった顔は凛として気高く、美しく。
エスメラルダは味方の存在に、少し、勇気付けられた。
怯えるな、常に泰然とある事を忘れるな。
ランカスターの言葉が頭を走る。
そうだわ。わたくしったら。
その時、鐘が鳴った。
パーティー開始の合図だった。
「皆、よくぞ父の魂の平安と余が治世の安泰を祈り、集ってくれた。このフランヴェルジュ、そなたらの忠義は常に忘れぬ」
そう言う声は朗々として、ホール中に広がった。
フランヴェルジュ様。ご立派ですわ。
エスメラルダの心は玉座から立ち上がり、声を響かせている新たな国王と壇の下に控える王弟にひきつけられる。目が離せない。
「今日はそなたらに発表したい議、あり。我が弟、ブランシールと、レイデン侯爵令嬢の婚約が相整った」
人々の間にどよめきが走る。
「ね?」
レーシアーナは花開くような笑みを浮かべ明るく言った。
「行儀の良い貴族の皆様の噂話といえばわたくしがベッドでの忠義に厚いかどうかよ」
エスメラルダは悔しかった。
確かに手紙にブランシールと結ばれ、求婚されたとあったが、それはつい最近の事だ。
「弟の婚儀に不満があるものがおれば聞こう。余は自慢ではないが気は短い。ざわざわと噂話をされると言うのは非常に不愉快だ」
その場の空気が一気にしんと静まり返った。
フランヴェルジュが発した気の所為である。
剃刀のように鋭く、鋭角的な気は殺気にも似ていた。
「異議ある者はおらぬな。では皆、今日を存分に愉しんでくれ。メルローアに光を!」
フランヴェルジュが高々と葡萄酒が入ったゴブレットを掲げ、一息の元に飲み干した。
人々の歓声が上がる。
「新国王陛下万歳!!」
「前国王陛下の霊よ、永遠に!」
歓声の中、エスメラルダの目とフランヴェルジュの目が再び出逢う。何度目の邂逅であろう? だがエスメラルダは今まさに二人、出逢った者同士のような気がしていた。
だからエスメラルダは、初めてフランヴェルジュに唇だけでない本物の笑みを贈った。
◆◆◆
沢山の男からダンスのパートナーと求められて、エスメラルダの小さなダンス靴は穴が開きそうだった。
ダンスパーティーで靴裏に穴が開いたら大成功だと言う。だが、エスメラルダはそんな成功は欲しくなかった。
曲の合間合間にレーシアーナがエスメラルダの様子を見に来るが、不満を露わにした表情をする訳にもいかず微笑を送ると、レーシアーナは安心してブランシールの腕の中へ戻っていった。
エスメラルダは特定の相手がいるレーシアーナが羨ましく思う。
一番辛いのは踊り疲れてへとへとになることではなかった。ダンスなら一晩と言わず毎日でも踊っていられる。
辛いのは自分のパートナーを取られた淑女達の視線だった。
まるで何人ものレイリエに睨まれているようだと思う。
怖いというのがエスメラルダの正直な感想だった。
レーシアーナは良いわね。
そう思いながら、こっそりと、エスメラルダは夜風に当たろうと庭園に出た。周りの者はエスメラルダがご不浄に行ったのだと疑いもしないであろう。
エスメラルダはレーシアーナの友でありながらレーシアーナの苦しみを理解していなかった。何故ならレーシアーナはそれを伝えようとしなかったから。自分がどれ程の涙と葛藤の末ブランシールに『侍女』ではなく『妻』として仕えようと思ったかなどとレーシアーナは誰にも伝える心算はなく、それ故夫になる予定のブランシールすら理解していない。
庭園の風は涼しかった。
心地良いとエスメラルダは思う。
自然愛好家のランカスターに育てられたエスメラルダである。人混みよりも美しい庭園の方にどれだけ安らぎを見出せるか知れない。
自然のまま、手が入っていなければ言う事もないのだけれども。
その時である。
「エスメラルダ」
それは此処にいてはならない人の声だった。
「国王陛下!?」
フランヴェルジュ・クウガ・メルローア。
この国の王が何故庭園に?
「そんな驚いた顔をするな。俺は嫌われているのだろうかと心配になる」
フランヴェルジュは仏頂面をした。
それは初めてあったときにも見た事がないような素のフランヴェルジュで、エスメラルダは思わず笑ってしまう。
「俺を笑うなどと、そんな事を許すのはお前だけだ。お前は俺で笑うが良い。たまには道化も良いものだ。お前が笑ってくれるなら」
「いえ、失礼しました、陛下」
エスメラルダはそう言うと、正式な礼をとった。
「陛下の行く道に安寧を」
それはこの国の者なら誰でもが国王に言う言葉である。王者の道は険しい。余りにも。
剣先の玉座、茨の冠。
それらを戴き、孤軍奮闘するのが王だ。それは誰にも代わりを務める事出来ぬ役目だ。
「そんなありきたりの挨拶などいらぬ。エスメラルダ・アイリーン・ローグ」
エスメラルダは顔を上げた。
「ありきたりの挨拶がお嫌でしたら、どのような挨拶だったら宜しいのです?」
「そうだな……」
フランヴェルジュは考える振りをして一歩、二歩、エスメラルダとの間合いを詰める。
「今夜は満月か。知っているか? ブランシールの部屋に『望月』がある」
「まぁ」
エスメラルダは驚いた。あの懐かしい絵。
「俺は満月が好きだ。欠けぬところが良い。そんな気持ちを贈りたいと思う」
「?」
エスメラルダは間の抜けた顔をした。
その瞬間、頤を大きな手が掴み顔が迫る。
何が起きようとしているのかさっぱり解らずに、けれど無遠慮に触れた手を払いのけることも出来ずに。
彼女は受け入れる。
口づけ。それは初めての。
人の舌が甘いものだと言う事をエスメラルダは初めて知った。
そして唇が離れる。吐息が絡む。
エスメラルダの緑の瞳が、潤む。
わたくしは嬉しかったの? 嫌だったの?
気持ちは解らない。
頤を掴まれたとき、抵抗するなら幾らでも出来たのだ。相手が国王でも、冗談をかわすように逃げる事など出来ぬ事ではなかった。だが、何が起きるか解ってはいなかったものの、エスメラルダは受け入れたのだ。
それは変わらぬ事実。
フランヴェルジュが袂から小さな箱を取り出し、開けて見せた。
そこには、エメラルドの耳飾り。
一流の職人による品物であることも、そのエメラルドが素晴らしい品質のものであることも、アシュレによって審美眼を引き上げられまくったエスメラルダにはよく分かった。
そして何を考えてそんなものを取り出してきたのか、フランヴェルジュはすぐに答えを口にしてくれたのである。
「お前に贈ると約束していた耳飾りだ」
「わたくしには頂く謂れは……」
「黙って受け取れ」
エスメラルダは頷いた。何故頷いたのか、彼女にも解らなかったのだけれども。
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