第11話 麻の如く 後編

「疲れたから一人にして頂戴」


 それが茶会から緑麗館へ帰ってきたエスメラルダの第一声だった。


 仕える者達は皆驚いた。

 自分分たちの主人がこんな乱暴な物言いをする人間ではなかったからである。少なくとも常日頃の彼女ならまず『ただいま』を言ったであろう。そして皆を労ったであろう。侍女も従僕も変わりなく。


 だが、エスメラルダにそんな余裕は無いようだった。

 まるで剃刀のように触れれば切れそうだ。


「お嬢様、足湯を……」


 そういう忠実なマーグにエスメラルダはあっさりと言い放つ。


「必要ないわ。わたくしが呼ぶまで誰もわたくしの部屋に近づかないようにして頂戴。マーグ、お前もよ。独りになりたいのよ」


 そう言うと、エスメラルダは驚く人々をかき分けて自分の部屋にへと突き進んだ。

 ぽんと、ベッドの上に身を投げ出す。


 お母様と同じ緑の瞳。


 一人茶会が終わっても辞去しなかった淑女、マイリーテはエスメラルダに母の名を聞いたのだ。

 エスメラルダはどう答えるべきか迷った。迷った末、墓碑に刻まれているリンカという名を告げたのであるが。


「リンカーシェ! あの娘だわ!! わたくしの、わたくしの愛しい娘。だって貴女も同じ色の瞳だもの!!」


 その言葉に驚いたのはレーシアーナだけではなかった。

 二階の部屋から茶会の進行を見守っていたブランシールもである。


 ダムバーグ家の血を引く娘!?

 それが本当なら、王妃への階段の頂きはもう少しだ。


 ダムバーグ家は先年、当主を失い、今は夫人の息子が後を継いでいる筈だった。確か今年二十八だった筈。

 ダムバーグ夫人の息子への躾の厳しさはよく言われるところだった。それ故、息子は母親の言うなりで、見初めた娘がいたのにも関わらず、違う娘を妻として迎えた。


 ダムバーグ家がエスメラルダを迎えたら?


 ふふ、と、ブランシールの唇から音が漏れる。笑い声。


 後は『審判』だけだ!

 それすら、ブランシールに忠実な未来の妻を使えば容易く実行出来るであろう!!


 ふははははは!!


 ブランシールは笑いを止める事が出来ない。


 茶会の会場まで響かせるわけにいかない故に必死で噛み殺した笑い声は、発作のようにブランシールを蝕む。それがいっそ心地いい。


 兄上。今少しの辛抱でございます。必ず、あの娘を兄上のものと致しましょう!


 再び窓の外を見ると、大騒ぎになっていた。

 エスメラルダが倒れたのである。


 ショックであろうな。


 ブランシールは呟くと、少し、目を細めた。


 レーシアーナが気付薬を用いる。だがエスメラルダは中々目を覚まそうとはしなかった。




◆◆◆


 軽い足音を立ててエスメラルダは走る。走りながら探す。


 母様。

 何処にいらっしゃるの?


 エスメラルダは呼び続ける。

 そして、突然立ち止まる。


 母はいないのだ、そう、気付いて。

 思い出して。


 父様。

 迎えに来て。探し出して、わたくしを。

 かくれんぼは得意でしょう?


 だけれども、座り込んでも父はいつまで経っても迎えには来ないのだ。


 父もいないのだ。そう、気付いて。

 思い出して。


 幼い頃はこの夢ばかり見ていた。うなされていると必ずアシュレがエスメラルダを起こして助け出してくれた。

 だけれども、そのランアシュレも今はいないのだ。


「ダムバーグ家にいらっしゃい。そこが本当の貴女のお家よ。そこにいれば何一つ傷つく事もないわ。お祖母様が守ってあげますからね」


 突然エスメラルダの人生に現れた婦人はそう言った。


 それならば何故、母様を許して下さらなかったの?


 エスメラルダの意識は混乱する。


「すぐに答えをとは言いません。次に会った時に返事を聞かせて頂戴。レイデン侯爵令嬢、次のお茶会もお誘い頂けますわね?」


 レーシアーナは頷いた。ダムバーグ家は敵に回すにはあまりに強大すぎた。レーシアーナに是以外の返事が返せる筈も無かった。


 お祖母様の腕の中は温かかったわ。

 でも、それだけよ。それだけ。


 母のように優しくも無ければ父のように逞しくも無く、アシュレ程のやすらぎもくれない。だけれども、お祖母様なのだ。


 エスメラルダは泣きたくなった。


 だけれども、使用人達に涙で腫れあがった目や頬を見られる訳にはいかなかった。

 女であれ主人である以上、強く賢くあらねばならなかった。


 エスメラルダは今日の自分の態度、自分に仕えてくれている者達への対応を恥ずかしく思う。

 そう思えるうちは感覚が死んでいないので大丈夫だと思われるが、だが、エスメラルダの頭にはただ恥ずかしいと言う言葉しかなかった。


 どんな顔をして皆に会いに行けば良いの? あんなに醜態をさらして。恥ずかしい。


 しかし、急に紅茶にアカシア蜜を垂らしたものが飲みたくなった。

 ぐだぐだ考えるより、エスメラルダは動く事の方が好きだった。


 それに、恥ずかしい思いをしなければならないのなら、早い方が良い。

 時間が経てば経つ程、嫌になるし、皆の前に出にくくなる。


 ぱん! と、エスメラルダは己の頬を叩く。気持ちを切り替えなければ。


 祖母の事ばかりうじうじと。

 大体ダムバーグ家ならリンカーシェがどこに住んでどういう暮らしをしているか位簡単に調べられた筈なのだ。それを今更なんだというのだ?


「ふざけてるわよ、ねぇ」


 口に出していってみたらすっきりした。

 気が晴れぬ原因はこれだったのだ。

 自分が祖母と名乗る女性に愛情を抱けない事、祖母と名乗るのなら何故娘を捨てたのかという事が引っかかっていたのだ。


「ほんっとうに、ふっざけているわ!」


 エスメラルダは決めた。


 ダムバーグ家には行かない。

 ここがわたくしの家だわ。

 静かで美しい緑麗館。

 此処こそが、我が家。


「皆に謝らなくっちゃ」


 がばりと、エスメラルダはベッドから飛び起きた。


 熱い紅茶にアカシア蜜を垂らせて、足湯を使い、髪を梳かせよう。いつもの『エスメラルダ』に戻るのだ。


 決めたらエスメラルダの行動は早かった。

 詫びの言葉も素直に転がり出て、皆がほっとしたのは言うまでもない話だ。

 夜も更けていたが皆、エスメラルダを心配して、眠っているものはいなかった。


 そして、エスメラルダは足湯を使い、髪を解いて梳いてもらい、紅茶を味わった。

 そんな時に飛び込んできたのが、唐突なレイリエの訪れだった。


「レイリエ様が?」


 時計は二十三時である。


「こんな夜更けにいらっしゃったと言うの? まぁ、冗談ではそんな事、言わないわよねぇ」


 緑麗館の者達は皆、レイリエを嫌っていた。

 エスメラルダからしてそうであった。


 だけれども国王の叔母なのだ。そしてアシュレの異母妹でもあるのだ。


「追い返すわけには行かないわね。あら? 何の音? 雨? レイリエ様を客間にご案内なさい。お風邪を召されて難癖をつけられては……いえ、病気療養で都を離れていらした方が戻った途端に肺炎でも患われては困るもの。わたくしの醜聞に新たな一ページが増えるだけでしょうけれどもね。わたくしは深夜なので明日の朝、朝食の席でご挨拶すると伝えて頂戴」


「それが……エスメラルダ様、レイリエ様はエスメラルダ様との会談をお望みです」


 そう告げた侍女に、エスメラルダは射殺すような視線をあてた。


「お前はわたくしに仕えているの? それともレイリエ様?」


 侍女は顔色を失った。


「私は! エスメラルダ様のものです!!」


「じゃあ、大人しく客間に……レイリエ様!?」


 エスメラルダは思わず叫んでいた。


 半分開いた扉の向こうに女がいた。

 エスメラルダが最も苦手とする女が。


 これは、自分に忠実な侍女があのような発言をせざるを得ない訳だ、とエスメラルダは納得する。


 なんという非常識な客だろうか。

 訪れる時間も常識では考えられないが、訪れた館の主人の部屋に勝手に押し入るような真似をするなど本当の本当に非常識極まりない。いや、扉の前でにんまりとチェシャ猫のように笑っている訳だから押し入られた訳ではないのか。しかしそれがすこぶる些細な事に感じられる程にレイリエの訪問は礼儀から外れていた。


 ランカスター様が生きていらっしゃればお許しにならない事だわ。


「御機嫌よう。エスメラルダ。このような時間にお邪魔してご免なさいね。お前達、わたくしに気遣いは無用です。席を外して頂戴」


「レイリエ様、此処の侍女や従僕達は『わたくしの』ものです。命令出来るのはわたくしのみですわ」


 エスメラルダがやんわりと言うと、レイリエは言った。


「では貴女から言って頂戴。外せと」


 エスメラルダは仕方なく了承した。


「どうしてもね、貴女とお話がしたかったの。ほら、わたくし、そう思うと一分でもじっとしていられない性格でしょう? 直さなくてはならないものなのだけれどもね。でも許して頂戴。御願いよ」


 レイリエは甘えるように言う。

 その手には大きなバスケットがあった。


「エスメラルダ? 許して下さらないの?」


 エスメラルダは必死で唇の端を持ち上げた。


 ああ、笑っているように見えると良いのだけれども!!


「許すも許さないもありませんわ。わたくしはそもそも怒ってはいないのですもの」


 エスメラルダは言う。それは真実だった。怒る暇など無い程にレイリエの訪れは突然だった。


「まぁ、優しいのね。エスメラルダ。貴女、今、眠くて? わたくしの話を聞いて頂きたいのよ」


「構いませんわ、レイリエ様」


 エスメラルダは引きつった笑顔のまま、答えた。


 足湯を使っていない時でなくて良かった。レイリエが来る一瞬前に片付けられたのだけれども。

 レイリエにわたくしの足を見られなくて良かった。しかも着替えの前でよかった。


 エスメラルダは今もってあの緑のドレスを着ていたのだ。着替えようとしたらレイリエが押しかけて来たのだ。


 だが、それは幸運だった。


 レイリエはアイスブルーのドレスを一分の隙も無く着こなしている。編まれた銀髪が美しく輝く。青い瞳が煌々として美しい。その瞳は涙を堪えているように涙が盛り上がっていた。


「優しいのね、貴女。わたくし、ワインを持ってきたの。素面だと話せそうに無いから」


「そんなに重い内容のお話ですの?」


 エスメラルダの問いかけに、レイリエは答えない。


「グラスはあるかしら? ブルーチーズをワインのお供に持ってきたの。でも、ご免なさいね、一本しかなかったのよ。ノーブル・ロットは」


 レイリエの謝罪に、エスメラルダは何を謝る事があるのだろうと不思議に思う。

 レイリエらしくない気遣いに驚く位なのに。


「わたくしの部屋にもお酒は常備してありますわ。だから飲みきってしまっても大丈夫ですわよ」


「ノーブル・ロットは無いでしょう?」


「ありませんわ。ノーブル・ロットってどんなワインですの?」


 エスメラルダの問いかけにレイリエが笑う。


 エスメラルダは無知を哂われたような気がした。だが、知っているふりをするより率直に聞いた方が良いに決まっている。少なくともエスメラルダはそう教育されてきた。


 知ったかぶりは恥知らず。


「ご免なさいね、笑ってしまって。貴女が余りにも可愛いからよ。貴腐ワインと言えばご存じ? 白葡萄酒よ。でも黄金酒とも呼ばれているわ。とても気高いものとして珍重されているのだけれど、一本の葡萄の木からちょっぴりしか作れないから余り手に入らないわ。おまけにお兄様好みではないものだから緋蝶城では見かけなかったわね。糖度が高くて濃厚な香りをもつの」


 ああ、レイリエの説明通りのワインなら緋蝶城では見かけなくて当然だろう。

 アシュレは白ワインでいうならばどちらかといえば辛口が好きだった。勿論食事に合わせて甘い白ワインも食卓に登場したが、わざわざ珍しいものを追い求めるほど甘い白ワインには惹かれない性格だ。エスメラルダは甘いものも辛いものも、いや、酒と名の付くものはこよなく愛していたけれどもアシュレは自分なりの拘りを持って自分の好きなワインを食卓に並べるのが好きだった。


「甘い白ワインは大好きです」


「ええ、知っていてよ。だから貴女の為だけに探したの。グラスを出して頂戴」


 エスメラルダはこくりと頷いた。


「居間に行きましょう、レイリエ様」


 そう言って、エスメラルダはレイリエを先導する。寝室続きにエスメラルダの為だけの私的な居間がある。


 居間のテーブルの上に、レイリエは持ってきたバスケットの中から持ってきたブルーチーズとブルーチーズで作られた簡単な料理を並べた。

 酒の肴としては多すぎる量だが、土産をケチるのはメルローア人の恥である。故にエスメラルダは量には驚かなかったが、その量が目の前にどさっと並べられ、しかも全てブルーチーズがらみとなると……少々苦しいものがある。


 南瓜とチキンとチーズのグラタンや、チーズと林檎を合わせたピザ、厚切りのジャガイモにチーズをのせて焼いたもの、そんなものまでよくあのバスケットに入ったものだ。サラダのように、エスメラルダはあっさり食べたいと思うものにまでブルーチーズが添えられている。


 何のいじめだとエスメラルダは思った。決してブルーチーズが嫌いなわけではないし寧ろ好き嫌いは恥ずべきことと母が育ててくれたお陰で食べられない物はないがこれはひどい。


 しかし、エスメラルダはえくぼを引っ込めることなく居間の戸棚からグラスを出す。顔芸が出来なくて貴族の娘は務まらない。もはや貴族とは呼べないが気概はある。


 グラスをテーブルの上に置くとレイリエが栓を抜き、ワインを注いだ。

 甘い香りが立ち上る。

 ブルーチーズに苛立っていたエスメラルダが思わず目を見開くほど芳醇な香りだった。

 ご高説をはいはいと聞いていたが、確かに素晴らしいワインのようだ。


 エスメラルダはレイリエに座るように勧め、自分も座った。

 顔をつき合わせていると、エスメラルダは何を言って良いのか解らなくなる。

 レイリエと喋る事などないし、レイリエだとてそうだと思っていた。


 だが、レイリエは上機嫌だった。


「乾杯しましょう」


 レイリエの弾んだ声にエスメラルダは驚いた。


 まるでランカスター様が生きていらして、そして微笑んでらっしゃる時のようだわ。


「何に乾杯すると? レイリエ様」


 早くワインのその味を口の中で味わい愛でたいのだが形は形。エスメラルダが尋ねると、レイリエは困ったように顔を伏せた。


 そういえば、と、エスメラルダは思い出す。

 ランカスター様だったわ! いつも乾杯の音頭を取っていらしたのは!!

 だからレイリエもエスメラルダも、乾杯の音頭を取る必要が無かったのだ。


 俯くレイリエを見て、エスメラルダは何とかしなくてはならないと思い思考を忙しく働かせる。


 だがレイリエはすぐに顔を上げた。


「『過ちの終わる夜に』では駄目かしら?」


「過ち?」


 エスメラルダに、レイリエは微笑を投げた。


「わたくしと貴女との間にあった行き違いや誤解を払拭するの」


 そして乾杯する。


 エスメラルダはゆっくりと香気を吸い込むとそっとワインを口にした。


 蜂蜜かしら? アプリコット? 桃? なんてユニークで馥郁たる香りのワインかしら。しかも甘いだけの安物ではないわ。気持ちのいい酸味。

 エスメラルダはうっとりとワインを飲み込む。もう一口と心が急く。

 そして料理がブルーチーズだらけなのも理解した。この甘みと恐らく相性が良いだろう。

 ナッツなどもエスメラルダなら準備する。後は香料を効かせまくった外国料理も、きっと合うに違いない。


「貴女に謝らなくてはならない事が沢山あるのよ」


 レイリエはちびりちびりと、舐めるようにワインを飲んでいた。それに気付いたエスメラルダは「あ!」と声を上げる。


 仮にも四年間一緒に暮らしていたのに! 目の前のワインの旨味で大変なことを忘れていた。


「ご免なさい、レイリエ様! 貴女がお酒を召し上がらない事を忘れておりましたわ!! 一寸お待ちになって。誰か!」


 エスメラルダが呼ぶとすぐに誰かが扉を叩いた。


「お入り」


 女主人の言葉に、侍女はすぐに従った。


「何でございましょう? エスメラルダ様」


「お前、すまないけれども林檎ジュースを持ってきて頂戴」


「承りましてございます」


 侍女はすぐに退室した。


「ご免なさいね、気を遣わせてしまって」


「いいえ、私の配慮不足です。レイリエ様は林檎ジュースはお嫌いではありませんでしたわよね? 林檎より桃の果汁をお好みだったのは覚えておりますが桃の果汁は……その、ある分をリキュールに作り変えてしまったところなので」


 酒好きなあまり桃の果汁をすべてリキュールに変えた自分を殴りたいとエスメラルダは思った。この館に桃のジュースが必要な客が来る事など全く想定外だったのだ。

 林檎の果汁もないが林檎はある。摺り下ろしてガーゼで包み絞ってジュースを作る。単純な手順だがもう本来なら眠っている筈の侍女にそれをやらせるのは心苦しい。後で何かご褒美を考えよう。


「有難う、わたくしは桃と同じくらい林檎のジュースが好きよ」


 レイリエはにっこりと笑う。

 その言葉を聞いて、エスメラルダはふとグラスを見た。


 客人が飲めない物を飲むのはマナー違反ではなかったかしら? いえ、とてつもない違反だわ。


「構わないわ、エスメラルダ。お飲みになって。飲んで頂く為に持参したのですもの」


 心を読んだかのようなレイリエの言葉に、エスメラルダはほっとしたように微笑んだ。


「有難うございます」


 エスメラルダはグラスを手に取ると、くいっと手首の返しだけでその酒をあおった。アシュレが生きていたら眉をしかめる光景だ。しかし、上品ぶって味わうには少々、居心地が悪いのだ、自分を憎んで憎んで憎みぬいていたはずのレイリエと楽しくお酒を味わう、などと、想像したこともなかった。

 ただ、大変珍しいらしい一級品のワインであることを考えると内心やらかしたと思わないではなかったが。


「美味しいですわね」


 エスメラルダが笑う。笑っていなければやっていけない。


「喜んで頂けたなら良かったわ。貴女の飲みっぷりは気持ちがよくて好きよ。注がせて頂戴」


 レイリエが微笑みを返す。そして、ワインのボトルを手に取りエスメラルダのグラスに注いでやる。

 エスメラルダは素直に礼を言った。

 レイリエは思い通りに物事が運ばないと殊の外厄介な性格の女だ。酌をしたい気分なら、礼儀にのっとって断るより受けた方がいい。


 エスメラルダは目を細めた。

 何か忘れているような気がするけれども、何だっただろう。


 だが、エスメラルダは思った。

 思い出せないのならきっと大した事ではないのだ。


 こんこん、と、扉を叩く音。


「エスメラルダ様。お持ち致しました」


「お入り」


 侍女は氷の浮いた林檎ジュースをポットに一杯入れて、持ってきた。

 短時間で随分林檎を絞ったようだ。一人の仕事ではないだろう。

 緑麗館中の侍女やら従僕やら、レイリエの急な訪いに混乱していない者はいないだろう。

 エスメラルダは仕える者全員に何か褒美を与えようと決めた。


「有難う。お下がり」


 侍女が礼を取り下がるのを見て、レイリエは言った。


「お兄様は本当に貴女を愛していらしたのね……心から、愛していらしたのね」


「何ですの? レイリエ様」


 その話題は避けて通れない道だ。二人の間では。


「ご免なさい! エスメラルダ!! わたくしは子供だったの。何の分別も無かったわ。だから貴女に酷いこと言ったりしたりしたわ! でも、解って頂戴。今は心から済まなく思うの。でも自分の自尊心が邪魔をして貴女に謝る事が出来なかった。わたくしをどうか許して頂戴!」


 エスメラルダは心底吃驚した。

 レイリエが頭を垂れている。アシュレ以外に。このエスメラルダに!


「レイリエ様、どうかお顔をおあげになって」


 エスメラルダは懇願するように言った。

 すると、レイリエは立ち上がり向かいに座っていたエスメラルダの足元に身を投げ出した。そしてエスメラルダのドレスの裾にキスをする。


「レイリエ様!? おやめになって!!」


「許して下さらないといけないわ。御願いよ」


「許します! だからおやめになって!!」


 レイリエは顔を上げた。


「本当に?」


「ええ、本当に」


 エスメラルダの言葉に、レイリエは笑った。

 それは綺麗な笑顔だった。


 宮廷の白水仙と呼ばれていたレイリエ。

 その訳が今なら解ると思う。


「今夜は過ちの終わる夜ですもの」




◆◆◆


「過ちの終わる夜」


 レイリエは呟いた。揺れる馬車の中で、その言葉は誰にも聞き取られる心配が無かった。


「総ての過ちは終わるの。でも、お兄様、ご免なさい。わたくしがもっと早くこうしていたら、わたくしが……」


 身体が震えた。

 心から、震えた。


「これは罪ではないわ」


 レイリエは囁く。


「わたくしは誰にも裁かれる事はない」


 自分に言い聞かせるように呟くと、レイリエは笑った。








 エスメラルダは倒れた。

 レイリエを送り出したけれど、彼女のもたらした衝撃はエスメラルダから睡眠欲を一時的に奪ったのである。

 そして手元には好みの味のワインがあった。

 眠れぬままに、エスメラルダはただワインを楽しんでいたのである。


 飲んでいれば眠気も訪れるかしら? そんな考えもあったけれど、まさか倒れて意識を失うなどと考えもしなかった。酔って前後不覚になったことがないゆえだろうか。


 意識の糸が切れる瞬間は余りに突然で前触れさえなかった。


 グラスや皿の割れる音が、遠くに、聞こえた。

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