第43話 憂懼に溺れる

「生きている……と?」


 ファトナムール王太子ハイダーシュの首を塩漬けにする為に近くの兵に委ねたフランヴェルジュは、何を言われているのか最初理解出来なかった。


 自分の前に跪いている老兵は何を言っているのだろう?


「確かですか!?」


 エスメラルダが、驚愕と喜色の混じった声を上げた。


「確かに。まだ、息をしておいでです。傷口は浅く、希望はあるかと。独断で、御典医を呼ばせました。勝手な判断をお許し下さい」


 老兵が頭を垂れながら、一言一言噛み締めるように言う。


「陛下!」


 呆けているフランヴェルジュにエスメラルダは声をかけた。


「ブランシール様が、まだ、生きていらっしゃると!! まだ希望はあると!!」


 ブランシール。

 その名前だけが、フランヴェルジュの耳に届いた。ブランシール。生きて? 生きて?


「エルロフ、フォトナス、王をお連れしなさい。お部屋まで。湯浴みをさせて、薬湯を飲ませ、お休みいただきなさい」


 凛とした声が響いた。

 アユリカナである。

 血臭むせ返る中、庭に降り立った美しい王太后は、喪服の裾を捌きながら顔を持ち上げ、その場の空気を一度に変えた。


 名前を呼ばれた二人の騎士が跪礼を取り、胸に拳を当て、返事をするとフランヴェルジュを支えるようにして歩き出す。


 エスメラルダの手は、意識しないうちに解かれていた。アユリカナの声が、そうさせた。ただ彼女は、愛しい男の様子をじっと見やる。


 フランヴェルジュ様……!!


 戦争は避けられない事だった。

 様々な要因からそれは決定事項といっていいものだった。

 そしてブランシールが殺された、否、殺されようとした時点で、それは揺るぎのないものになった。


 だが、ハイダーシュを殺めた事は果たして正しかったのだろうか?

 少なくとも、死体への辱めは、正しい事ではない。

 だが、間違っていると言えるのか?


 メルローアに、他国の王太子に王位第一位継承者が殺められんとした時の裁き方を記した法など存在しない。


 この場合に該当する国際法も存在しない。

 正誤を決める基準は存在しないのだ。


 しかし、それでも、首をはねたその後の辱めはフランヴェルジュという人間らしくなかった。

 エスメラルダは、ハイダーシュの尊厳の為ではなく、この先一生、フランヴェルジュが背負う罪となる事を、それにフランヴェルジュが苦しめられかねない事を、それらを考えるからこそ、何としてでも止めたかったのだ。


 宰相が牢に籠められ、ブランシールが重傷を負っている今、フランヴェルジュをとめられる者はアユリカナか───エスメラルダしかいなかった。


 それなのに、と、エスメラルダは思う。

 何故わたくしはもっと早くにお止め出来なかったのであろう。


「良い報告です。そなたの判断も妥当なものでした。キュラスト」


 アユリカナが老兵の名前を呼ぶのを聞いて、エスメラルダははっとした。


 ぼうっとしている場合ではない。

 事態をきちんと把握しなければ。


「はっ!!」


 キュラストと呼ばれた老兵は胸を拳で叩く。


「王はお疲れですが、後に必ずやお褒めの言葉をそなたは賜る事でしょう。ブランシールの容態を話して下さい」


「剣での傷は浅いものでございました。しかし……私は医師ではございませんので……」


 キュラストの言葉に、アユリカナは片眉をあげる。握りしめた白い小さな拳が、震えていた。


 ああ、とエスメラルダはうめきそうになる。

 アユリカナ様は、本当は今すぐにでもブランシール様の許に向かわれたいのだわ。


 身分ゆえに、軽々しく動けない事を知っているアユリカナ。

 彼女が堂々として慌てず騒がなければ、人々は安堵するだろう。他の者がそうしたなら情のないことだという謗りを免れないだろうが、メルローアの人間はアユリカナを大地のようなものだと信じてきた。

 決して揺るがぬものだと。


 それは信仰に近いものがあったかもしれない。

 それを知っているからこそ、アユリカナは走れない。息子の許に走れない。


「キュラスト。わたくしは今、そなたの意見を聞いているのです」


 アユリカナの声は、静かだった。


「……おつむを打っておられるようでした。血が……流れておりましたが、とりあえず、応急処置を施し、御典医を呼びに」


「頭を……医宮に運ばれるのですね。わたくしもそちらに向かいましょう。エスメラルダ、ついてきてくれますか?」


 エスメラルダは頷くしか出来なかった。

 何故、血は流れるのだろう。一体何故?




◆◆◆

 エスメラルダは新しく与えられた部屋で溜息をついた。

 マーグが手早くエスメラルダの衣装を脱がせ、湯浴みの準備を整える。


 此処は『真白塔』。


 葬儀の直前までエスメラルダはレーシアーナの側に居た。そして、レーシアーナの棺が運ばれると、エスメラルダは居場所をなくした。かつての部屋は封鎖されていた。花嫁の出戻りは不吉だという風習ゆえに。


 だからといって、フランヴェルジュとエスメラルダの新婚生活の為に誂えられた部屋は使えない。あの場所は王の後宮、王と妃の為の場所。だが、エスメラルダは未だ『王妃』ではない。


 エスメラルダは密かに王城を辞そうかと思っていた。フランヴェルジュの妻になる事がたまらなく……。



 恐ろしかった。



 何故なら更に血が流れるかもしれないから。


 その血を見たくないが故に、エスメラルダは此処から出て行くべきだと思う。

 しかし、アユリカナはエスメラルダの考えを読んでいたようだった。


「わたくしの塔へ。貴女は次の『王妃』なのですから……反論は許しません」


 他の者ならばともかく、アユリカナに反論など出来よう筈があろうか。

 医宮にて。ブランシールの身体に触れ、ただ一筋の涙を流した人の言葉に。『母』と呼ぶ事を切望した人の言葉に。


 だけれども、わたくしは不吉な事しか運ばない。禍事ばかり運ぶ不吉な女。

 その想いは冷たく重く、エスメラルダにのしかかっている。


 しかし『血杯の儀』は済んでいる。

 ならば、とエスメラルダは思った。


 ルジュアインの妻となる女か、いや、フランヴェルジュが《正式に》婚儀を済ませて娶った女を後継とすれば……


 女? フランヴェルジュがエスメラルダではない女を娶る未来?


 途中まで考えて、エスメラルダは吐くかと思った。


 フランヴェルジュが他の女を求め娶り愛するという事。

 あの唇で愛を囁き口づける未来を自分は容認するのか?

 嫌だ、そんなのは嫌だ。それ位ならいっそ死んでしまいたい。


 けれど、逃げるというのはそういう未来を意味する。

 そんな事はエスメラルダには耐えられそうにない。


 しかし耐えなくてはならない。

 ランカスター、レーシアーナ、そして意識不明の重態のブランシール。


 『エスメラルダの結婚』という言葉が絡んで、喪われたか、その手前にあるもの。


 わたくしの所為だ。

 わたくしが幸せになりたいなどと願ったから。愛する人と結ばれたいなどと願ったから。

 わたくしは一生寡婦として生きるべきだったのだわ。


 衣服を脱がされたエスメラルダは、誘われるまま湯煙の中の浴室に足を踏み入れた。

 湯を浴びて、浴槽に身体を沈める。

 浴槽のタイルを指でなぞった。

 紫水晶で象眼された豪奢な浴槽。

 その豪奢さにいつの間にか慣れていた。だけれども。


 わたくしは此処にいてはならない。

 だけれども、何処にならいけるというのか。


 エスメラルダの顔はメルローア中の民が知るところ。

 そして他国でも、彼女の顔を知っている者は決して少なくはない。


 そして豪奢な生活に慣れた自分が果たしてどうやって生活していくというのか。


 更に言うならば、彼女の愛した男は壊れてしまいやしないだろうか。


 そう、それが一番怖かった。


 侍女たちに促されて一旦湯から出て身体を洗う。鷹揚に、エスメラルダはその身体を洗わせる。普段なら自分でする事が、考え事をしている時にはとてつもなく億劫だった。

 蜂蜜石鹸の泡が、エスメラルダの身体を包む。


 出て行くべきだと思う根拠を挙げた。


 自分がいると他人が不幸になる……次はフランヴェルジュやアユリカナの番かも知れなかった。


 此処にいるべきだという根拠を挙げる。


 自分はフランヴェルジュを愛していて妻になりたい。

 今のフランヴェルジュにはストッパーが必要だ。

 『血杯の儀』を受けた。


 それから……、それから?




 ルジュアイン!!




 ざっとエスメラルダは立ち上がった。

 侍女達が驚いて主人を仰ぎ見る。




【『義姉上』、ルジュアインを『頼みます』】




 ブランシール様……、貴方は何もかも解っておいでで、そうして楔を打たれたのね。


 これでは、逃げ出す事など出来やしない。

 では一体どうしたらいいのだろう?


 悶々としながら湯浴みを終えると、アユリカナが『真白塔』に戻ってきた。

 喪服を着て、エスメラルダはアユリカナを出迎えたのだが、かの人の白磁の顔には隠しようのない疲労の色が在る。


「今夜が峠ですって」


 ぽつんと、アユリカナが言った。

 『浅い』、と言われたブランシールの負った傷、その『浅い』は即死させるには至らないという、そんな意味だったのか。


「……御側についていらっしゃらなくとも?」


 エスメラルダの問いにアユリカナは首を振る。


「駄目。駄目よ。わたくしはどちらに転んでもきっと気を失ってしまうわ。今、は駄目。フランヴェルジュが頭を冷やしてくれたなら良いのだけれども。エスメラルダ、次の王妃である貴女はよく覚えておかなくてはならないことです。王族が皆我を忘れて恐慌に走れば、民はうねりに飲み込まれる。それはあってはならないの……」


「アユリカナ様、わたくしは……」


 何を言おうとしたのかエスメラルダには解らなかった。

 ルジュアインの事がある限り自分は此処にいなくてはならない。だが、しかし。


 困ったような顔で言葉を失った少女の頭を、アユリカナは優しく抱き締める。

 エスメラルダの鼻腔に血の臭いと薬の臭い、そして『砂上夜夢』の香りが沁みた。


「貴女の混乱は想像出来ますよ、可愛い娘。ですが、貴女には可哀想だけれども、わたくしは貴女に逃げ道を用意するつもりはありません。可愛いエスメラルダ。いい子だから聞いて頂戴。わたくしも、レンドルの妻になるのが怖かった。味方はレンドルとアシュレだけだったわ。色々とあったの。色々とね。わたくしは人を不幸にするしかないって思ったわ。わたくしとの婚姻がレンドルにもたらすダメージを考えると、怖くてたまらなかった」


 エスメラルダは驚いたように目を見張る。

 アユリカナという女性ひとが抱いていた思い。


「でもね、どんな中傷を叩かれようが……下らない女を妻にした、位ならまだいいわ、不作の年などはわたくしの事を神がお怒りだと言う馬鹿もいた……でも、わたくしの過去にどんなにおぞましい醜聞があろうが、レンドルにとってはわたくしがいないという事に比べたなら、なんと言うこともなかったのよ。レンドルはわたくしを守ってくれた。力の限りでね。わたくしは必死にそれに応えようとした。結果的にリドアネ王の御世より治世は安定したわ。そしてわたくし自身も、民にも貴族にも外国人にも、メルローアのレンドルの妻として認められた」


「アユリカナ様……」


「貴女は、主がレーシアーナを奪い、そしてレイリエを死なせ、ブランシールをして重傷を負わせたとでも思っているのかもしれないけれども、違うわ。貴女の事だから不幸の引き金を自分だと思っているのかもしれない。貴女を貶める為の毒が貴女にも回って、貴女が不幸を運ぶ不吉だとでも思っているのかもしれない。でも違うの。全て人為的なものよ。神殿のシャンデリアには仕掛けがしてあったそうだわ。ブランシールは、レイリエが犯人である証拠でも握ったのではないかしら?」


「し……かけ?」


 それではレーシアーナは殺されたというのか。この自分、エスメラルダを殺めんとした者の手によって。


「そう、主ではなく、全て人の足掻き。貴女の所為ではないの」


「でもランカ……アシュレ様は……」


「事故よ。ヴェールなどなくとも式はあげられるのにね。彼の融通の利かなさが起こした事故。吹雪の中馬車を出して死なないほうがおかしいわ。エリファスはメルローアの中でも道路事情が悪い。自然を自然のままでおいておこうという意識が高かったから。だから、貴女の所為ではないの」


 ぺたん、と、エスメラルダはその場に座り込んだ。


 では、わたくしは幸せを望んでも良いのだろうか?

 自分の幸せを。


 その時、上の階でけたたましい泣き声が響いた。

 ルジュアインである。


 乳母のラトゥヤもまた、『真白塔』に部屋を与えられたのであった。

 エスメラルダは座り込んだまま天井を見詰めていた。何かに呪縛されたように身体が動かなかった。


「貴女を呼んでいるのではないかしら? 赤子という物は敏いもの。行ってやって頂戴。わたくしは湯浴みをして、眠ります」


 つい、とアユリカナはエスメラルダの肩を押した。

 エスメラルダの身体の呪縛がその途端に解ける。彼女はよろよろと立ち上がると、アユリカナに礼をした。


「早く行ってやって。明日からは忙しくなりますよ。宣戦の書は議会が用意しました。戦の準備が始まります。きっと、忙しくなるでしょう」




◆◆◆

 最後にした事は、思いっ切り国璽をついたことだったと、ぼんやりとフランヴェルジュは思う。


 湯浴みの後、ガウンだけを羽織ったフランヴェルジュの前に広げられた書類。

 あれは宣戦の布告書だ。

 フランヴェルジュは酷く落ち着いた気持ちで、羽ペンを躍らせた。

 そしていつもより流麗な署名の下に国璽をついたのだった。


 ついた瞬間に、文官がひったくるようにその書類を手にし、鉄砲玉のように飛び出していった。ファトナムールに、使者を遣わし、転移を繰り返して届け、通達する。


 使者の役を買って出たのがまだ若い騎士だった事を覚えている。

 生きて帰れるか定かではない使者の役に、あの若者は何を思って立候補したのであろう? 尤も、フランヴェルジュよりは年上であったが。


 新婚の部屋、つまり後宮ではなく、いつもの部屋で目を覚ましたフランヴェルジュは、頭が酷く痛むのを感じた。天蓋から下がる緞子と紗のそれぞれの帳を開こうと思うのに、何だか酷く億劫で。


 身体が酷く重かった。

 呪いかも知れないと、フランヴェルジュはぼんやりと思う。


 この手は朱に濡れている。

 熱くぬめりのある朱……血に。


 今まで人を殺めた事などなかったのに、彼はそうした。躊躇うこともなくそうした。

 周囲の者は彼が激情に駆られて狂ってしまったと思ったかもしれない。


 それは半分は当たっていたが、半分は外れだった。


 あの時、頭の中に冷静な自分が確かにいた。

 どうせ、戦争は避けられないのだから、と。

 それならこの愚か者一人の死が増えようが変わりあるまい? と、そう囁いた悪魔がいた。


 ひたすらに自分からブランシールを奪った男が憎かった。


 仮にもう一度同じ機会が与えられるのなら、やはりフランヴェルジュは躊躇わずに弟の仇をとるであろう。何度その機会が与えられても、フランヴェルジュの選択は変わらない。


 しかし、一国の国王としてはやり方を間違えたと知っている。とんだ暗君だ。

 だが、やってしまった事はもうどうしようもないのだ。

 今考えなければいけないのは先のこと。昨日の過ちではない。


「エスメラルダ……」


 愛しい少女の名を呼んだ。

 彼女の為にも、やるべきことをやらねば。


 感覚がなくなって丸太のようになった腕を必死で持ち上げる。そして、眉間のこりを揉み解そうと努力した。


 数学が、フランヴェルジュは嫌いだった。

 だが、なんとなくそれを思い出した。


 公式が目茶苦茶で間違えていても、考え方一つ変えた途端に正解に結びつく事もあるあの学問が、ブランシールは大好きだった。


 それと一緒だ。

 今のやり方がまずくても、最終的によい結果、『正解』を出せば、それで問題ないのだ。


 腕をおろして、ぐっと力を込めた。

 羽毛で膨れ上がった布団に肘が沈む。

 そのまま、フランヴェルジュは身体を起こした。


 紗を開く。緞子を開く。

 外の様子はカーテンを開けなければ解らなかった。人を呼べばいいがそういう気分でもなく、フランヴェルジュはそっと右足から床に下ろした。


 上履きを蹴り飛ばし、裸足のままフランヴェルジュは足を進める。

 濃紺のカーテンを開いた。


 夜明けだった。


 何もかもが変わり行く中、それでも世界は生まれ変わり続ける。

 朝は全ての人々にキスをして、『真新しい明日』の到来を告げるだろう。


 そして、一日が始まる。


 今日は昨日とは違う一日なのだ。


「神様……」


 あとはもう、声にならなかった。

 レーノックスの自害をフランヴェルジュが知るのは、この直後の事である。

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