エスメラルダ

古都里

第1章 王はただ一人を追い求める

第1話 喪服の少女

 エスメラルダ。

 その名は四年前にも激しく囁かれた。

 女嫌いのランカスター公爵の心を奪った女……否、少女として。


 エスメラルダ・アイリーン・ローグ。


 彼女はその時僅か十二歳だった。その幼さで、彼女はアシュレ・ルーン・ランカスターという男の心を征服したのだ。

 

 あれから四度、四季が巡った。

 

 そして今宵、春の香がようよう漂い始めた三月中旬の夜会にて。

 その夜を、その夜に集った総ての人間を、エスメラルダは征服した。

 

 豪奢なシャンデリアに照らされたホールで、淑女達のドレスの色彩が褪せて見えたのは、気の所為ではなかった。

 黒いドレスが人々の目を奪い、放さない。

 それは喪服だった。

 乳のように白い肌を引き立てるのはその黒繻子。レースもフリルも飾り紐も付いていない、肌の大半を覆い隠してしまう地味な喪服は、しかし、エスメラルダの美貌を引き立てこそすれ、損なう事はなかった。

 

 小さな足がステップを踏む。

 黒い喪服の裾が揺らめくが、エスメラルダの足は靴先しか覗かない。淑女というものは、嫁ぐ相手にしか足を見せないものだといわれているが、実際に生活していればそれがどれ程困難な事か解るであろう。

 黒い髪は揺らがない。上品にまとめられた髪はさらにネットで丁寧に押さえつけられている。

 だが、この国、メルローアの二人の王子はエスメラルダの髪が解けば踝まである事を知っていた。波打つ緑の黒髪の豊かさを知っていた。

 まだ、黒髪を解いたその姿を実際に目にした訳ではなかった。だけれども、間違いなくそうだと二人には言えたのである。

 

 今、腕にエスメラルダを抱いているのは第一王子、フランヴェルジュだった。曲が変わるたびに、エスメラルダは二人の王子の腕の中を行ったり来たりする。

 フランヴェルジュは、エスメラルダに激しく心揺さぶられていた。エスメラルダのような女は、彼にとって初めてだったのだ。

 

 叔父上が夢中になられたのもよく解る。

 

 彼と彼の弟、ブランシールの憧れだったランカスター公爵。

 社交的で快活だったその人が領地の緋蝶城にこもって四年経った。そして……。


 叔父上、貴方は、幸せでしたか?


 エスメラルダの顔に、フランヴェルジュは視線を集中させた。

 エスメラルダはフランヴェルジュが踊り慣れているほかの淑女たちのように目を伏せたりはしなかった。本音を隠してハンカチーフや扇の陰から恥じらいを装った誘いを投げかける事もなかった。

 エスメラルダは、ただまっすぐにフランヴェルジュの金色の瞳を見つめ返す。

 その目は猫のように大きく、微かにつりあがっており、長く濃い睫毛に縁取られていた。色は緑。まるでエメラルドのような。

 フランヴェルジュはその瞳に吸い込まれそうだと思う。

 エスメラルダの、紅を引かない唇の両端が微かに持ち上げられた。微笑み。だが、瞳に浮かぶのは挑戦的な色だった。


 あなたがわたくしをその身分で自由にしようとしても、わたくしの心までは自由に出来なくってよ?


 まだ心静まらぬうちに第一王子――王太子直筆の夜会への招待状が届いた時、エスメラルダ自身には断る権限さえないのだと思い知らされた。それ故に好戦的になってしまうのかもしれぬ。

 エスメラルダは、ただ静かに日々を送りたかったのだ。それだけが彼女の願いだった。

 人からの好奇の目線など気にせず、静かに。

 今は他人から寄せられるどんな感情も辛い。


 けれど、エスメラルダは心の痛みを表情に出すことなく、笑みを浮かべたままフランヴェルジュを挑戦的に見つめる。

 フランヴェルジュにエスメラルダの笑みの意味も心に思う事も、解らない。彼女のような女は知らない。知らないけれど、知りたい。

「耳飾りを誂えさせよう。その瞳に似合うエメラルドの耳飾りだ」

 フランヴェルジュは何とかしてエスメラルダの歓心を買いたいと思い、そう口にした。

 そこでフランヴェルジュがよく知っている女達ならば、恥らうそぶりを見せ、実は与えられる事に対しては非常に貪欲なのであるが。

 

 だが、エスメラルダは違った。


「頂くいわれがありませんわ」


 にっこりと、エスメラルダは笑みを浮かべたまま、一瞬のためらいもなく切り捨てる。

 腕の中、抱いた少女の発言が、最初、フランヴェルジュには理解出来なかった。

 王太子の贈り物を断ると?

 そんな女がいようとは信じられなかった。

 だが今まさに拒絶されたのだ!

 どうして?


 その時、フランヴェルジュは気付いてしまった。自分が今、まさに道化に成り下がった事を。


 王太子であるという驕り故に断られるはずがないと思っていた贈り物。

 羞恥に、フランヴェルジュの頬に朱がさす。


 エスメラルダは溜息を微笑で隠した。

 わたくしはそんなに安い女ではないわ。耳飾りの一つでわたくしの歓心を買えると思うなんて、なんておめでたい脳味噌の持ち主でいらっしゃるのかしら?


 そしてエスメラルダはフランヴェルジュの頬が紅潮している事に気付き、後悔した。彼女は、自分への怒り故に頬を染めたのだと思ったのだった。

 王太子の不興を買った事を後悔しているのではない。ただ、面倒くさい事が起きるのではないかと、一瞬心に走ったその思いがエスメラルダを後悔させた。


 夜会など、死んでも出るのではなかったわ。


 出たくなかったというアピールが喪服なのだけれども。

 それでも、来るべきではなかった。


 曲が変わり、エスメラルダは第二王子ブランシールの腕に抱かれた。

 ブランシールは寡黙な人柄だった。だが、エスメラルダはブランシールを好ましく思う。


 フランヴェルジュは、疲れる相手だった。

 それが、エスメラルダと同じく炎の気性をもつが故であることにまで考えは及ばなかったが、ブランシールにはくつろげる何かがあった。


 それに、ブランシールは懐かしい人に面影が酷似していた。

 ブランシールの長い銀髪。首筋で紫のリボンで縛り、揺らせている様。あの方の銀髪は短かったけれども、色はまさしく同じだ。

 そして氷のような青い瞳なのに垣間見える情熱。赤い炎より青い炎の方が温度が高いのだと教えてくれたのはアシュレだった。


 あの方を思い出すわ。


 実際、業火に焼かれるような情熱に、エスメラルダを翻弄させたあの人。アシュレ・ルーン・ランカスター。


 記憶は甘いだけではなかったけれども。

 それでも大切な記憶だった。


 ブランシール様も、あの方のような情熱をお持ちなのかしら?

 優しい匂いが漂う。雑多な香水や香油の中から、その匂いがブランシールから漂ってくるものだと知ってエスメラルダはエメラルドの瞳を大きく見開いた。


「『夜明けの薔薇』」


 思わず声に出して言うとブランシールは淡く微笑んだ。


「貴女に解る程匂っているのならつけすぎだね。兄上は香水など男の付けるものではないと仰るのだが、貴女はどう思う?」


「わたくしは好きですわ。この香り、わたくしにとっては懐かしいものなのです」


 それはアシュレが愛用していた香水であった。


「ランカスター公爵は、僕達兄弟の憧れでね、僕は香水も髪型もみな真似している」


「でも、ランカスター様の髪は短うございましたわ」


「若い頃の肖像画では長かったんだ。紫のリボンも叔父上の真似なんだよ、実は」


「そうでしたの……」


 確かに、ブランシールはアシュレを若くしたらこのようになるのではないかと思われる。近い血だから、だろうか。


「兄は自分をしっかり持った人だからね、誰かの真似をする必要がない。僕は弱いから、尊敬と崇拝の対象に少しでも近づきたかったんだ」


 そう言いながら唇に笑みをはいているブランシールを、エスメラルダは抱き締めたいと思った。

 

 なんていたいけな方なのだろう!


 ランカスター様に憧れる方。


 比べてフランヴェルジュは、フランヴェルジュ自身としか言いようがなかった。

 フランヴェルジュは豪華な金髪をしている。目にまぶしいその色。精力的なその様子は外見は全く違うとはいえ、何故か何処か思い出の人に似ていなくもなかったけれども。


 でも、きっと、もう。

 嫌われている。


 曲が変わる。エスメラルダは再びフランヴェルジュの腕の中に戻る。

 フランヴェルジュを前にするとどうしてか征服したいという強い欲求に駆られるのだった。だけれども、エスメラルダは女の手練手管を使わない。そんなもの必要がなかったのだ。今までは。

 そして、きっとこれからも必要がないであろうとエスメラルダは思う。


 エスメラルダの生家は子爵位を金で買った商人の家であった。


 王宮の夜会に、そんな身分の卑しい娘が呼ばれたのは……考えて、エスメラルダは唇を舐める。

 多分物珍しかったのでしょうね。

 アシュレの心を奪ったという女が。


 エスメラルダに、視線が集中する。

 嫉妬、羨望、憎悪、憧憬。

 当たり前だとエスメラルダは思う。たった二人しか居ない王子を独占しているといっても過言ではないのだから。


 エスメラルダには痛い視線だった。


 わたくしが望んでお二人を独占しようとしている訳ではないわ。


 心の中でそう叫んでも意味がない事が解らぬ程エスメラルダは馬鹿ではない。事実金と銀の兄弟を独占している事実は変わらないのだから。欠片も望んでいないと誰が信じてくれるだろうか。信じてくれたとて、誰がエスメラルダの味方になってくれるだろうか。


 此処は嫌だ。


 ランカスター様。

 エスメラルダは思う。

 帰りとうございます。


 その思いが顔に出たのだろう。

 エスメラルダの瞳に膜が張る。涙の膜が。

 フランヴェルジュの胸が、針を突き刺されたかのように痛んだ。

 自分と踊る事は涙を浮かべなくてはならぬ程、辛いことなのだろうか? そう誤解して。


 エスメラルダは必死で涙を堪えた。

 あの方はこんな風に泣く事を、決して好ましくは思われないわ。


 帰れない事は誰より良く知っていた。

 何故ならアシュレは。

 あれはエスメラルダの誕生日の二日前。

 雪嵐の中、花嫁のヴェールを取りに行ったアシュレの乗った馬車が雪に車輪を取られ。


 あの方は死んだのだ。


 そうして、あとには、十六の誕生日に華燭の典を挙げる約束をしたエスメラルダただ一人が、取り残されたのである。




◆◆◆

 アシュレ・ルーン・ランカスターとエスメラルダ・アイリーン・ローグの出会いは偶然だった。

 エスメラルダは十二になる直前だった。


 真冬の、それも雪嵐の中、アシュレは身分を隠してメルローアの首都、カリナグレイの酒場で酒を飲んでいた。その酒場の女主人はアシュレの正体を知った上で彼をもてなしていた。店の中でも、ベッドの中でも。

 だけれども美女として名高い『金魚亭』の主人にもアシュレは夢中にはならなかった。便宜を図ってくれる謝礼代わりに金貨とベッドでの時間を与えているに過ぎなかった。


 アシュレが夢中になるのは自然だけだった。緑の木々、赤や青の花、小川のせせらぎ、土の匂い。

 だから緋蝶城がある彼の領地、エリファスに帰っているときの彼は本当に活き活きとしていたのだが、陽気な『金魚亭』の仲間はそんな事は知らない。


 『金魚亭』の仲間は皆、身分を隠した貴族達だった。そこにエスメラルダの父もいたのである。

「今夜は皆泊まって行く?」

 気怠げな女主人の問いに皆が頷いた。外を見るまでもなく、風の唸る音が外の嵐の強大さを物語っていた。


 そんなところに突然少女が現れたのである。扉を両手で押し開けて、雪と共に。

 少女、エスメラルダの髪は雪が積もって真っ白だった。だが、その瞳の緑はなんという鮮やかさである事か。


 それは、思わずアシュレが目を奪われる程。


 少女の総てが、アシュレの何かに符合した。鍵が合うように、ぴったりと。


 そのエスメラルダはすぐに扉を閉めると一瞬ふらついて、だけれども、すぐ背筋を伸ばして父を探し始めた。

 紫色の唇で父を呼ぶ。


「父様! 父様!! どちらにいらっしゃるのですか!?」


 ローグは娘の声に振り向くと、ほっとした顔で駆け寄ってきた娘の襟首を掴んだ。


「馬鹿野朗! 何処の淑女が酒場になんか入ってくるというんだ!?」


「ご……ご免なさい! だけど、母様が……!!」


「リンカになんかあったのか!?」


 父親は急に娘の襟首から手を放した。


「先にお医者様のところに寄りました! 血を流してらっしゃるの!」


「解った。エスメラルダ、帰るぞ! 皆」


 『血を流す』で思い当たる事があったローグ家当主は『金魚亭』の皆に笑って見せた。


「娘は大袈裟なんだ。今日は俺の驕りだから遠慮なく飲んでくれ! 中座の詫びだ!」


 案ずる声と小さな歓声が入り混じる中、父と娘は家に急いだ。

 馬車が通れないくらいの雪。

 二人はここまで雪を恨んだ事はない。


 エスメラルダの母、リンカは妊娠していた。だが、出産まで幾らかまだ間があった筈なのだ。生まれるのは春の盛り、母はエスメラルダにそう教えてくれたのだから。


 何があったのか、歯の根も合わぬ程震えながらエスメラルダは父に説明した。

 いつもどおり暖炉の前のゆり椅子で編み物をしていた母は突然立ち上がった。その足元に見る見るうちにピンク色の水溜りが出来た。と、思うと鮮血! ピンクの水溜りは一瞬で真紅に染まり、そして、ぐらりと母の身体が傾いだかと思うとそのまま倒れたのだ。


 エスメラルダは必死で、まだ意識のあった母を立ち上がらせると。自分が座っていた長椅子に横たえた。

 そのまま外套一枚羽織って医者を呼びに向かい、そして『金魚亭』に急いだのである。


 だが、遅かった。


 雪さえ降っていなければ、臨終には間に合ったかもしれぬ。

 母は、二人を待たずに黄泉路をたどった。


 葬儀はエスメラルダの誕生日の前日に行われた。愛妻家であった父は酒でふらふらになっており、ローグ子爵としての一応の体裁は整えてあるが、為すべき事の殆どはエスメラルダが行っていた。それも幼い少女が出張ったという印象を与えずに父親を立てるように。


 おろおろする使用人達を宥めるローグ家の力の塔は母たるリンカだった筈だ。だが、その地位は幼すぎるエスメラルダに言葉もなく受け継がれたのだった。


「さぁ、泣くのはおよし、お前達。母様が心配なさるわ」


 小声でそう侍女達を労いながら黒砂糖の塊を与えて、次々と指示を出す。


 ローグが子爵になる前からの商人達と、貴族達の席を一緒にする訳にはいかなかったし、だからと言って歴然たる差をつける訳にも行かない事をエスメラルダは理解していた。


 父に頼りたかった。

 だが、父はまるで廃人だ。


 役に立たない父にエスメラルダは溜息を噛み殺した。自分がどれ程父を頼りにしていたかを痛感した。


 幸いな事に母方の親戚は誰も出席しなかった。当たり前だといえば当たり前なのだが。リンカは家を捨てた女であるから。


 泣きたくなりながらも、エスメラルダは毅然としていた。泣き腫らした目をしながら、しかし、人前では決して涙を零さなかった。

 涙を流す事が恥だと思ったのもある。だがそれよりなにより、自分が泣けば葬儀の全てが滞ってしまうのだった。父に頼れない以上、愛する母の天上での幸せの為に、エスメラルダが葬儀を完遂させなければならなかった。


「お前達、弔問にいらして下さった方々はここに記してあります。礼を失する事がないように。暫くここを任せます。母様が愛していらっしゃった胡蝶蘭を取りに行ってきます。何かあったら勝手な判断はせずにわたくしに報告するのですよ?」


「はい」


 十一の娘とは思えぬ頼もしさである。

 だが、エスメラルダはそう育てられた。


 商人に嫁ごうが貴族に嫁ごうが恥ずかしくないよう、そう、育てられた。

 あくまで影に徹して。

 あくまで主人を立てて。


 その気配りに気付いたのは『金魚亭』の仲間を代表して、というよりは率先して名乗りを上げて葬儀に参列したアシュレしかいなかった。


 あの子供の、不思議な力は何だろう?

 まだ本当に幼い娘でありながら、葬儀を動かす、ローグ家を動かす力の塔。


 商人の家に生まれ育ったというのに品があった。それは躾や何かで表面的に焼き付けられているものではなく、本物の気品だ。昨今の貴族の令嬢にも見出せない本物の気品。

 だが、貴族の令嬢達のような奔放さも我儘さも儚さもなかった。強い力を感じた。背筋に電流が走るのを止められなった。きっとこの娘は、麦のように、踏まれてもなお、頭を持ち上げるであろう!!


 絵にしたい、と、アシュレは思った。


 アシュレの趣味は絵画だった。いや、趣味というよりは生きる意味か。

 芸術の国メルローアで第一級の画家として名を連ね、希代の天才の名を欲しいままにするランカスター公爵は、しかし、今まで人物画を書いた事がなかった。

 何故なら生きている人間に真実、魅力を感じたことがなかったからだ。


 だが、エスメラルダは。


 染め粉で黒く染めた、質素なモスリンのドレスを着た少女。何処にでもいそうで、何処にもいない、そんな想いを抱かせ、アシュレの右手を疼かせる。心を疼かせる。

 その時、喪服の少女とアシュレの目が合った。


 その時が最初の邂逅といっても良いかもしれない。


 エスメラルダの緑の瞳と、ランカスターの青の瞳。


 一瞬で絆は構築された。

 遠い日から、お互いを求めて今まで生きてきたのだとアシュレは思った。

 未来への扉を押し開けてくれるのがこの男だと、エスメラルダは知っていたような気がした。


 二人は出会うべくして出会ったのだった。


 だが、二人は会釈を済ませると、すぐに視線を逸らした。

 エスメラルダがしっかりしていないと葬儀が進行しない。

 アシュレは故人への敬意を表するのに来た客だ。


 だが、アシュレは何としてもエスメラルダを、その時は名前しか知らなかった少女を手に入れると誓った。たとえどんな手段に出たとしても。


 黒いモスリンが揺れている。ちゃんとした喪服を作る余裕がなかったエスメラルダ。まさか母親が死ぬなど考えもしなかった幼い少女は、自分の手で服を黒く染めた。

 あの格好では寒いであろうに。可哀想な娘。


 手に入れたい。


 もし自分のものになるのであれば、アシュレはどんな贅沢も許すであろう。


 そんな事を考えながら、アシュレは理由をつけてローグ家に泊まる事にした。

 少女と少しでも長く一緒にいたかったのだ。


 しかし、ローグ家に足を踏み入れたアシュレは正直、驚いていた。

 趣味が洗練されているのである。

 商人であったローグ子爵が金持ちであるという事は有名だったが、成金独特の卑しさはなかった。

 通された部屋の燭台やテーブル、棚まで何もかもがほこりを被るでなく美しく整えられていた。磨きぬかれた胡桃材の家具は、その手入れにより価値が上がった。

 欠点があるとすれば、それは完璧すぎる事だった。少しのだらしなさも許さない、そんな潔癖さだった。


 自分はローグ子爵を見誤っていたのかもしれない。飲み友達としか考えていなかった男の家族の意外な一面に触れて、アシュレは不思議な思いがした。


 だが、すぐに思考は切り変わる。

 どうすればエスメラルダを領地のエリファスまで連れて行く事が出来るであろう?

 彼女が木々と戯れる様はきっと妖精が遊ぶようだろう。その姿を写し取りたい。


 正餐に呼ばれ、ランカスターはその時初めてエスメラルダと会話した。

 瞳を伏せるような事は、エスメラルダはしなかった。ただ、エスメラルダはまっすぐアシュレを見る。

 エスメラルダは優れた話し手だった。

 相槌を打ち、相手の瞳から目を逸らさず、解らない事があれば知ったかぶりをせず素直に教えを乞うた。それは新鮮な会話だった。媚びもへつらいもない会話。

 葬儀の日だと言うので話題は何を話していても自然と黄泉路を辿った夫人の事になった。

 ランカスターは話題を上手に逸らすのだが、エスメラルダの充血した瞳が痛々しかった。それなのに自分を見つめ返してくる胆力の在る瞳だった。


 これが十一の少女の瞳だろうか?

 何と力強い瞳である事か。母を亡くしたばかりだというのに。

 泣き喚くでもなく、失神するでもなく。


 アシュレの知らない女がそこにいて、側に居れば居るほど、アシュレは魅了されていく。ただ魅入られていたと思っていたのに、気が付くと彼女が欲しくて気が狂いそうになっている自分をアシュレは発見してしまう。


 親子ほどの年の差の娘に、恋をしたのだと、アシュレは漸く知った。


 時計の音が、夜の十時を告げた。

 父がその日、初めてはっきりした言葉でエスメラルダに命じた。自室で眠れと。

 その瞬間エスメラルダの目に安堵と誇りが煌めいた。


 父様が……!


 明日からはいつもの父様に戻って下さるかもしれない。きっとそうだ!

 エスメラルダは希望にしがみつき、父と客人に礼を取り、寝室へと下がった。

 そして泥のように眠り込んだ。疲れていたのだ。リンカの教育があってもエスメラルダは十一の少女にしか過ぎないのだから。

 明日は良い日でありますようにと、エスメラルダは神と天国の母に祈った。


 その日が、エスメラルダにとって運命の残酷さから目を逸らす事が出来る最後の夜となるとも知らずに。


 アシュレはその夜、遅くまでローグと飲んでいた。ザルどころかタガであるランカスターは酔いつぶれていくローグに苦笑する。

 余程、奥方は魅力的な人間であったのであろうな。

 何せあのエスメラルダの母なのだから。

 だらしなく酔いつぶれ、涙と鼻水を垂らし妻の名を呼ぶローグがアシュレには哀れであった。


「リンカ……リン……」


 ローグのブラウスは零れたワインで紫色に染まっている。洒落者で有名なローグが。

 そのローグに残されたのはエスメラルダだけ。

 そう思うとエスメラルダをさらってしまうのはこの男に余りに酷な気がした。

 

 しかし、エスメラルダをエリファスに連れ帰るのはアシュレが思ったよりも遥かに容易かった。


 それは余りに残酷な事であったが。

 神の深慮か、悪魔の気紛れか。


 翌朝、アシュレは絹を切り裂くような悲鳴で目を覚ました。

 父を起こしに来た娘は、父がタイで首をつり母の後を追ったのをその目で見たのである。

「あああああああああああああああああ!!」

 叫び続けるエスメラルダを、寝間着のまま飛び出してきたアシュレが抱き締めた。

 その途端、力が抜けたのであろう。

 昨日と同じ喪服を着たエスメラルダは彼の腕で意識を手放した。

 皮肉な事に、その日はエスメラルダの十二歳の誕生日であった。

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