第34話 『血杯の儀』

 五月九日、月と星が天空の長として君臨する時間。


「エスメラルダ様、失礼致します」


 そういって、マーグはエスメラルダの衣装に手をかけた。


 リボンを解き、胡桃ボタンを外し、素晴らしい手際でその衣服を脱がせるマーグの感慨は、とても深い。

 エスメラルダが十二の時よりずっと見守り続けていた。


 エスメラルダをアシュレ・ルーン・ランカスターが緋蝶城に迎え入れたその時に、マーグはアシュレのものではなくエスメラルダのものになった。

 それはアシュレが直々に命じたからという理由だけではない。

 少女のくせに、痛々しいまでに張り詰めた幼いエスメラルダに、胸の中からふつふつと湧き上がる愛を覚えたからだ。


 そう、マーグは命令ではなく愛ゆえにエスメラルダに仕えた。


 そのエスメラルダが花嫁になる。


 日付が変わると、五月十日。

 メルローアの国王が花嫁を得る、華燭の典が行われる日が来る。


 政略の為ではなく、ただ恋の情熱と、それをも上回る愛の為に選ばれたのが、マーグの大切なエスメラルダ。


 なんという喜ばしい事であろう。


 マーグは国王という肩書きをもつ男がエスメラルダを求めたから、『喜ばしい』と感じているのではなかった。

 フランヴェルジュがエスメラルダを真剣に愛するが故に、そしてエスメラルダがその愛に己の心の全て、もてる愛の全てで応えようとするが故に、マーグは『喜ばしい』と感じているのである。


 思えばアシュレは、エスメラルダに多大な影響を与えながらも、エスメラルダの愛を得る事が出来なかった。

 アシュレの愛が足りなかったのではなく、エスメラルダが親愛と敬愛以外の愛を知るには、アシュレでは駄目だったのだ。


 フランヴェルジュでなくては、駄目だったのだ。


「マーグ……、大好きよ」


 エスメラルダは囁くように言うと、衣服を脱がし終えた忠実な侍女の手を取った。


 マーグの下に何人もの侍女がついている。

 だからマーグは本来なら、その沢山の侍女達の監督だけをしておれば良い立場である。

 それでも、エスメラルダの衣服を脱がせ髪を梳るという役目を、マーグは誰にも譲らなかった。


 その、荒れてはいないが無骨で大きな手を、エスメラルダは愛おしむように両手で挟む。


「お母様のように、愛しているわ」


「勿体無いお言葉にございます……!!」


 マーグの膝は崩れ折れた。そのまま、彼女はエスメラルダの正面に座り込む。


 しくしくと泣くマーグに、エスメラルダは胸が熱くなった。


 わたくしはこんなにも愛されている。


「わたくしは、いつまでもお前のエスメラルダよ。フランヴェルジュ様の妻になっても、それは変わらないわ」


 エスメラルダの涙腺が緩んだ。

 だが、泣かない。


 今、時計は二十二時を指している。

 日付が変わるまで、後二時間しかなかった。


 ここは神殿の一室、『白華の間』。

 そこで、人の妻となる前の最後の夜をエスメラルダは迎えていた。


 日付けが変わったら、エスメラルダは霊廟に赴き、メルローアの王族に連なる事を、偉大なる王達に報告せねばならない。血を継いで行く事を、誓わなければならない。

 それが国王の正妃のしきたりなのだという。

 尤も、メルローアの王は生涯ただ一人しか妻を娶らぬがさだめなのだが。


 だが、それらは勿論、身を清めてからの事。

 隣の浴室には湯が既に張ってある。


 鐘の音が聞こえた。


 その音に、涙をこぼしていたマーグは慌てて立ち上がると袖で目尻を拭った。

 そして、エスメラルダを浴室へ導き、巫女達に委ねる。


 潔斎の手を貸すのは、俗世のものには務まらぬ役目であるが故に、マーグは、痛恨の想いで最愛の少女の手を離す。

 その想いが解るエスメラルダは、唇を噛みながら、巫女達の手を取り、誘われ、浴槽に身体を浸した。


 霊山ホトトルの水を沸かして、その中にホトトルの麓の樹海で取れる香草と花を一杯に入れた大理石の浴槽は、少し、エスメラルダの神経を昂ぶらせる。

 けれど、その湯は『審判』を受ける際に入浴を命じられた湯のような凶暴さはない。



 これからの事を考えると、マーグの温かい手の中に戻って行きたい気がしないでもない。

 だが、やはり、フランヴェルジュの花嫁になりたいと思う。


 溜息を吐きながら、エスメラルダは浴槽に浮かんだ花を気紛れに手ですくう。その花の香りで頭が朦朧としそうだった。

 浸かってまもなくだというのに、汗の量がとてつもない。控えている巫女が、手巾でエスメラルダの顔を拭くが、それでもどんどんしたたっていく。


「この御湯は老廃物の排出を促します」


 エスメラルダにとってはどうでもいい事だ。


 身体を二回洗われ、髪を三度洗われた後、体中を塩で清め、香油を擦りこまれた。

 香油のボトルは恐ろしく小さい。

 子供の手でも掴めるその香油の容器はプラチナとエメラルドの細工。だが、この容器よりも香油の方が価値が有るという。


 馬鹿馬鹿しいと思うが、良い匂いだった。

 この日の為にフランヴェルジュが調合させた香りだという。花嫁に香りを贈る、それはメルローア王家の長男の慣例なのだそうだ。


 香油は、甘いのにくどくなく、さっぱりした香りのものだった。だけれども、何故か記憶に刻み込まれるような匂い。


 エスメラルダの為だけに作られた香油を、巫女達の指や掌がエスメラルダの裸の肌に触れて、擦り込む。

 一年目の結婚記念日に、妻になった娘がその香油に名前を付ける。それまでは名もない香油だが、エスメラルダは既にこの香りが気に入っていた。


 巫女達は何人もいて、エスメラルダは途中で数える事を放棄したのだが、皆、マーグほどではないが手際が良かった。


 だからエスメラルダは全て任せ、取り留めのない思考に沈んで行く。


 うつぶせに眠っているエスメラルダの髪も梳られ、たっぷりと香油が擦りこまれている。

 それは身体に擦りこまれた香りと同じ質のものでありながら、少し淡く作られている。

 緊張も極限に達しようとしている花嫁が、自分の香油の匂いに酔ってしまったら大変だからである。

 もし酔ってしまって倒れたら、いや、倒れずとも常に顔色が悪かったりしたら、陰で何を言われるか解らない。


 それはエスメラルダの恥であるだけでなく、エスメラルダを選んだフランヴェルジュの恥ともなる。


 しかし、エスメラルダの顔色は既に悪い。

 香油で酔ったわけではなかった。そして、緊張の為でもなかった。

 倒れる事を思い浮かべてしまった時、ついうっかり、式典の参列者の事を考えてしまったが為である。


 全ての人間がエスメラルダを祝うわけでもなければ、エスメラルダ自身が『祝って欲しくない』と思う人間もいる。

 その人間、否、その夫婦を思い出してしまったのだ。正直、かなり気分が重い。


 今夜、エスメラルダが『白華の間』に足を運ぶ直前という常識外れの時間に、常識を知らない男がやってきて、明日の式に参列すると宣言した。

 国が荒れているというのに、妻に会いたい一心で、ファトナムールからはるばると、ハイダーシュはメルローアの王城を訪れたのだ。


 愚昧なる王太子だとエスメラルダは思う。

 賢いという噂を流したものは相当の大馬鹿者かファトナムールに懐柔されていたものなのだろうか。


 今はレイリエと共に神殿にいる筈である。

 だが、今どんな状態になっているのかはカスラの一族が神殿に潜り込めない以上、エスメラルダに知る術はない。


「エスメラルダ様、御召しかえを」


 巫女の中の一人が、声をかける。


「ああ、あ、そうね」


 エスメラルダは不意に現実に戻されて混乱してしまった。


 ああ、だけれどもたとえレイリエでも、式の最中に何かする事は出来ないでしょう。


 大体真っ向から何か仕掛けて、戦争を起したとして、ファトナムールは必ず負ける。


 ではファトナムールが勝つ、もしくはメルローアに多大な恩を売るとすれば?


 ふと思いついた考えを、エスメラルダは必死で頭の中から振り払おうとする。


 その合間にも、エスメラルダの身体に衣服が着せ掛けられる。

 黒いドレス。飾りも何もついていない、木綿のドレス、いや、ワンピースといった方が正しいかもしれない。


 それを身に纏い、霊廟に赴き、零時の鐘を待つ。国中の鐘が鳴る、その時を待つ。


 鐘の音が響いた。


 エスメラルダは靴を脱ぐ。それがしきたり。


 尊きあなたのまします所に穢れなど持ち込みません。それを主張する為に。


 霊廟の入り口の所で、既にアユリカナが待っていた。導き手は、王の母と決まっている。


「わたくしが案内しましょう、娘」


 にっこりとアユリカナは笑う。

 その足も素足であり、着ている物もエスメラルダと大差なかったが不思議な威厳がある。


「さぁ。過去の偉大な王達に挨拶をしに行きましょうね」


 そう言うと、アユリカナはエスメラルダの手を取り、霊廟の奥深くへと導いた。


 春だというが、石の床は冷たい。

 そして此処には魔法が働いている。

 幾ら防腐処置が施されているとはいえ、遺骸に熱はよくない。故に、春の肌寒さ以上に寒い。


 ぺたぺたと、素足が音を立てる。


 アユリカナは、緊張していた。

 レーシアーナを娘に迎えたときには、霊廟への礼拝にアユリカナは立ち会わなかった。

 若い夫婦が二人で、先祖の霊に拝したのだ。


 だが、エスメラルダは次の国母になる娘だ。

 自分と同じく。

 それ故、エスメラルダには儀式が待っている。アユリカナが乙女の頃に、先代の王妃ルーニャによって導かれたように、今度はアユリカナがエスメラルダを導かなければならない。


 たとえエスメラルダが石女うまずめであれど王妃という地位を廃される事はない。

 それがメルローアの掟。女の機構。


 もしエスメラルダに子供が生まれなければレーシアーナの子供が次代となるであろう。

 だが、国母と呼ばれ、その子供の妻を導くのはエスメラルダの役目だ。


 そして、もし仮にフランヴェルジュが他の女性との間に子をもうけようとも、その子供が跡継ぎとなる事は決してない。


 先々代の王、リドアネは沢山の妻をもっていた。その時、『妾妃』という言葉がメルローアにも生まれたのであるが、子を成せどその夫人達の名前が歴史に残る事はない。

 『妾妃』という言葉はあくまで表向きのものであってその存在は認められた物ではないのだ。

 神殿の記録に残る名前は王妃一人であり、王妃の子供以外は生まれを記録されない。

 だからエスメラルダは『妾妃』であってはならなかったのだ。


 何故そうまでして一人の妻を重んじるのかアユリカナにも理由が解らないが、メルローア建国以来、他国にはありえない機構であるが確かに存在してきた。

 尤もこの機構を知る人間は数が限られており、今はアユリカナとフランヴェルジュしか知らない。


 歴史には、ただの事実として記されるはずの事。


 ふぅ……とアユリカナは息を吸い、吐いた。


 そして、防腐処理が施された王達の遺骸を見ながら、その王の時代の話を始める。


 それは昔話であった。


 つい最近崩御したレンドルから遡り、物語は少しずつ過去へ過去へと広がっていく。

 果てしのない物語。


 だが、それだけのものでは決してなかった。


 遠い過去の物語と共に、エスメラルダに吹き込まれたのは膨大な量の『知識』と『知恵』。

 頭がそれを理解するのには少しばかり時間が掛かった。

 本当にアユリカナが伝えたいものに気づいたのはレンドル、リドアネと続きリドアネの父、クーシュナの話を聞いているときだった。


 気づいたときには戦慄が走った。


 婚姻という一大セレモニーの前に緊張をしていたエスメラルダは、しかし、一時的に自分の婚姻をも忘れた。

 忘れ、アユリカナの話に耳と心の全てを傾け、エスメラルダは義母になる女性の話を理解しようと懸命になった。自分のものにしようと必死で努力した。


 聞き逃すには、余りに重い内容。

 王の時代の話は、お妃教育で習った。ごくごくわずかな時間しかとられなかったお妃教育。


 だが、それは男達から見た歴史だった。


 アユリカナが伝えているのは、女達から見た歴史だった。

 嫁いでは夫を支え、子供を産み育て、礎となった女達の歴史。


 それは本来短時間で語られるべき事ではない話であろう。

 一生をかけて取り組む事であるとさえ、エスメラルダは思う。


 だが、エスメラルダが始祖王バルザの遺骸の前に辿り着いた時、アユリカナは言ったのだ。


「これが全てであり、欠片の一つでもあります。貴女が生きているうちにわたくしも過去となり、貴女は新しい歴史を紡いで行く。そして子供の妻にわたくしがしたように歴史を継いでいく事でしょう」


「アユリカナ様、わたくしはちゃんと学びたいと思います! 歴史の授業では習わなかった事が沢山……!!」


 大きな声を上げそうになったエスメラルダを、アユリカナは微笑みで制する。


「口伝はこの場で、婚姻の朝、ただ一度きり。大丈夫、貴女はわたくしの話した歴史を決して忘れません。一言一句違わず、次の代につないでいけることでしょう」


 エスメラルダは混乱した。

 ただ一度きり?


 覚えていられるはずがない。覚えていられるはずなど……。


「大丈夫。この口伝は口にする事はただの一度しか許されていないけれども、特別な予言と同じもの。貴女が必要だと思った時にこの物語は夢を訪れる。その為に、女は生き残らなくてはならないのです。男が馬鹿をして、道を踏み誤った時、まごうことなく手綱を取る事叶うように。男は本当に可愛いお馬鹿さんで、それはどの時代の王も、賢君と呼ばれた王ですらも、一緒なのです。実際始祖王バルザは、強く、賢く、野心家であり、人々は畏敬の念で従っていたそうですが、最愛の王妃には決して逆らえなかったそうです。周囲は王妃ディケナがバルザ王に従順に従っているように見えたそうですがね」



 そういうと、アユリカナはバルザの遺骸を見詰めた。

 しわくちゃの老人は優しそうな顔で眠っている。彼は一体どれだけの野心を秘め、メルローアと民を守る為に闘争に明け暮れたのだろう?

 果てない戦いの中での安らぎは、ディケナだけであったと伝えられる。


 実際、一国を築き上げ、更に小国他民族を併呑する事に貪欲で各国の王を震え上がらせた始祖王バルザは、ディケナを亡くしてから戦いを捨てた。

 そして亡きディケナの為に、歌を作り、絵を描き、木や石で像を彫った。

 それらは全て一級の芸術品で、国宝として伝えられている。


 もしかすれば、バルザにメルローアという国を作らせたのはディケナの野心だったのかもしれなかった。

 少なくともアユリカナはそう感じる事が多かった。

 ディケナが全ての手綱を握り機構を作らせたのであれば、女性にのみ伝えられるものが多い事が理解できる気がするのだ。


「御優しそうな方に見えますわ、バルザ様。いつかフランヴェルジュ様がお話くださいました。とても優しいお顔をなさっていると。本当に、その通り」


 エスメラルダは、ただ眠っているように見えるバルザに触れてみたいと思った。


 それはなんとなく憚られる事であったが、しわくちゃの老人は、本当に優しげな顔をしている。そのバルザを見ているエスメラルダの顔もまた自然、優しくなっていた。


 その表情を見て、アユリカナは言った。


「話はこれで本当におしまい。もう夜が明けるのではないかしら? 婚礼衣装に着替える時間も考えて、『血杯の儀』を行いましょう」


「『血杯の儀』?」


 エスメラルダが聞き返す。


 頷くと、アユリカナは真紅の生地に金糸の縫い取りがある錦を纏い、宝石と金で飾られた始祖王のその枕元に手を伸ばした。


 そして手にしたのは、ごくごく普通の杯と、金と宝石細工の短剣。杯が却って不自然だった。豪奢な宝物の並ぶ中にはあまりに一般的過ぎて、不釣合い。


 その杯で、短剣で何を……?


「アユリカナ様……?」


 エスメラルダは戸惑う。

 こともあろうに、始祖王の宝に手をつけて良いのだろうか?


 だが、アユリカナはにっこり笑うと、バルザの遺骸の足元に跪けと言う。

 エスメラルダは訳も解らぬまま従った。

 それをみて満足気にアユリカナは頷くと、自身も跪き、短剣を掲げる。


「このメルローアを支えてきた代々の王達よ、御身の器ある場所での儀式、天上より御照覧あれ!」


 言うなり、アユリカナはその短剣を鞘から引き抜く!

 鞘走りの音が遠くに聞こえた気が、エスメラルダには、した。


 まるで何もかもがスローモーション。


 アユリカナの腕に赤が踊る。

 彼女の前におかれた杯にその赤が滴る。


「アユリカナ様!?」


 思わず大きな声を上げ、縋りついてきたエスメラルダに、アユリカナは笑って見せた。


「血を受け継ぐの。何もせずに夢が貴女を訪うとでも思った? 違うのよ、エスメラルダ。口伝は血の記憶。気持ち悪いかもしれないけれども、たった一口でいいから口を付けて。わたくしの役目はそれで終る。貴女という後継を見出した事によって終るの」


 エスメラルダはアユリカナに杯を向けられ、頭が真白になった。


 魔法の力が、この杯には宿っているようだった。

 ただの平凡な杯だったはずが、バルザを飾るどの宝物よりも美しいものに変わっている。


 黄金の杯。これも試練か?

 ごくり、と、エスメラルダは唾を飲んだ。


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