第5話 絡まる絆 後編

「でも、どうして、わたくしなの? エスメラルダ。どうして、貴女はわたくしを選んだと、そう言ったの?」


 どうしても解らなかったことをレーシアーナは尋ねる。自分から近づくつもりだとも言っていた。と、言う事は、エスメラルダは訪ねる勇気のある者なら誰でも良かったという訳ではないのだ。

 

 恥らうようにエスメラルダは笑う。


「わたくしは白粉おしろい臭い女は嫌い」


 レーシアーナは思わず自分の頬に指をそわせた。

 白粉など塗ってはいない。彼女は唇に紅はさすがそれとて淡い色だし、化粧と呼べるものはそれだけだ。それすらもう、はげている。お茶を飲んだからだ。


「白粉を塗っていない女は、確かに珍しいかもしれないわね」


 レーシアーナはそう言った。


 レーシアーナは本当は白粉を塗って、目張りを入れて、きちんとお化粧がしたい。

 侮る人間に、わたくしの方が美しいと言ってやりたい。

 それは若い娘なら誰でもがもつ虚栄心だろう。だけれども、レーシアーナは気付いていない。ただ紅を指しただけの彼女が、所謂淑女達よりもはるかに美しい事を。


 客観的になれないのも若さ故か。


 レーシアーナが化粧を施さないのは、ブランシールが嫌うからだ。

 『白粉お化け』、そう言って。

 それがランカスターの影響である事をレーシアーナは知らない。


「わたくしは美しいものが好き」


 エスメラルダは言う。


「あなたは美しいわ、レーシアーナ」


「まさか!? ふざけているの!?」


 レーシアーナの抗議に、エスメラルダは真剣な顔で答えた。


「わたくしは嘘やおべっかはつかない。本当よ。人付き合いをスムーズにするには不便だけれども、わたくしは真実しか語らない。嘘は愚かさの象徴。虚飾はただ空しいもの」


 エスメラルダの緑の瞳が、優しくレーシアーナを見る。つられてレーシアーナもエスメラルダを見つめ返す。

 エメラルドの瞳は何処までも真摯で、どんなに頑張っても嘘どころか汚い心の欠片すら見つけられない。


 レーシアーナは嘘に敏感だった。

 何故ならブランシールを守る為、常に人の言葉の裏の裏までを見極める努力をしてきたからだ。


 そして、重ねてエスメラルダは言った。


「守られてばかりいる甘えた子供も嫌い」


「?」


 レーシアーナは目を見開いた。


「貴女はブランシール様をお守りしている。自分に出来る全てで。甘えた事など口にしないで」


「随分、わたくしに詳しいのね。買い被りすぎだけど。それもランカスター様の遺産?」


 訝るレーシアーナの手に、エスメラルダは自分の手を重ねた。軽く乗せ、拒絶される心配がないと解った途端、大胆に握り締める。


「貴女の事はランカスター様から聞いていたの。とても良い娘だって。心も姿も、とても。あの方がわたくしの前で手放しで美質を称賛するような娘は貴女しかいなかったわ。……そう、それでレイリエが貴女に酷く嫉妬していた。だから」


 エスメラルダの手に力が篭る。


「だから?」


「最初に言っておくべきだったわ。レイリエには気をつけて。多分、大丈夫だとは思うけれども。あの娘が牙をむくというのならまずはわたくしでしょうから。でもね、あの娘は異常よ。妹でありながら、ランカスター様を愛した。そのランカスター様が褒めた者は皆、酷い目にあったわ。ランカスター様が知らないところで」


 レーシアーナはぞっとした。


 レイリエはその美貌で有名だ。兄に妹が抱く事が許される以上の感情を抱いている事も。

 そして噂でしかない事だけれども、残忍な性格をしているともいわれていた。

 男を取られた淑女達の僻みかと思っていたけれど、もしそれ以上の意味があるのなら……。


「何故、ランカスター様は臣籍降下をなされたか、御存じ?」


 エスメラルダの言葉に、レーシアーナは頷いた。


「お好きな絵を描き続けたいと願われる一心でしょう? 実際、あの方に勝る画家は今の世にはいないわ」


「そう、それ以外の全てが、ランカスター様にはわずらわしかった。それ故臣下に下り、兄である国王陛下に姓を賜った」


 それは誰でも知っている事だった。


「でも、何故レイリエまでがランカスター姓を名乗る事になったと思う? アシュレ・ルーン・ランカスター様とは母親が違うのに」


 レーシアーナは閉口した。


「解らないわ」


「はっきりとは解らないのだけれども、レイリエは国王陛下の弱みを握っているようよ。だから気をつけて、レーシアーナ」


「有難う、エスメラルダ」


 何だか背筋が冷たくなるのを感じる。


 エスメラルダは再び頬にえくぼを刻んだ。


「わたくし。貴女に逢えるのを楽しみにしていたわ。きっとお友達になれるって信じていた。ランカスター様が認めた女って、わたくしと貴女しかいないのよ?」


 甘い声を聴きながら、どれくらい時間が経っただろう。

 レーシアーナはいつ、自分に託された手紙を渡そうかと考えながら二杯目の紅茶を味わっていた。やはり、美味だ。紅茶が好きな主人を持ち、なおかつその主人と一緒に紅茶を日々味わっているレーシアーナにも、それは満足出来る味だった。


 エスメラルダは舌も肥えているようね。だけれども、わたくしどうしたら……。

 レーシアーナは茶会に呼ばれたのではない。使者として送り出されると茶会の準備が滞りなく行われていたのだ。


 だから困る。どう対応して良いのやら。


 わたくしは客人としてもてなされているけれども、客人ではないわ。使者よ。


 だけれどもメルローアでは茶会において客人はかくありきといった決まり事があった。

 曰く、もてなす側が主人なのだと。

 主人が話を選ぶ権利を持つ。主人が差し向けた話題に答えを返すのが一般的な茶会の在り方だった。

 だが『使者』であるレーシアーナにはそんな事を言っている余裕がないのだが。

 

 もうすぐ正餐、早くブランシールのもとへ帰らなければ彼は食事を摂らないだろう。

 

 そうよ、わたくし、招かれたんじゃないわ。わたくし自身がブランシール様の命を受けてここまできたのだわ。


「あの……エスメラルダ」


「貴女が何を言いたいか解っていてよ」


 レーシアーナの言葉を、エスメラルダは一瞬のうちに封じてしまう。


「解っているし、貴女がそれを果たせないうちは帰る事も出来ないって、わたくし、知っていてよ」


「それなら何故……!!」


 思わず、レーシアーナは吠えた。


 エスメラルダは悲しそうに微笑む。


「お茶を……楽しみたかったの。だからよ。貴女と二人で政治や殿方がたの思惑に巻き込まれる事なく。そんなものにわたくしは興味ないの。でも貴女を困らせたいんじゃないわ。お友達になってもらいたいと願う貴女を苛めるつもりはないの。貴女の用事は午餐の後に伺うわ」


「午餐ですって!? 貴女、冗談でしょう? 冗談よね? 貴女は知っているじゃない!! ブランシール様がお一人ではお食事をとる事が出来ない事を!!」


 他のどんな問題でも、愛に飢えた目をしたエスメラルダに対してレーシアーナの声を荒げさせることは出来なかっただろう。だがブランシールの問題だけは、レーシアーナの中で全てにおいて優先される特別の出来事だった。

 

 しかもエスメラルダは事情が分かっていて言っているのだ。


 レーシアーナの言葉に、エスメラルダは顔を伏せた。


「わたくしは……」


「見て頂戴! いいえ、見なくてはならないわ!! ブランシール様直筆のお手紙よ!! 畏れ多い事だわ!!」


 レーシアーナは茶会の礼儀を完全に無視してエスメラルダに手紙をつきつける。

 エスメラルダはそのエメラルドの瞳を伏せたまま、手紙を受け取った。丁寧に開封すると、香を焚きしめた便箋が一枚。


 エスメラルダはさぁっと書面に目を走らせると顔を上げぬまま溜息を一つ、零す。


「殿方というものは……どうして道理をわきまえるという事をなさらないのでしょうね。女の浅知恵浅はかさはよく言われたものだけれども殿方の無分別さも手におえないわ」


「貴女、それはブランシール様にむかって言っているの!? 不敬だわ!!」


 レーシアーナの憤る姿に、ようやっと顔をあげたエスメラルダは肩を竦めた。


「独り言よ。怒らないで」


 そしてエスメラルダは花開くように笑った。


「貴女はブランシール様がお好きなのね」


 レーシアーナの頬が紅潮する。


「わたくしは……尊敬しているわ。主ですもの」


「それだけじゃないでしょう? 熱い紅茶をもう一杯如何? そして聞かせて下さらない? ブランシール様の事について」


 エスメラルダのその表情は清々しかった。レーシアーナは反射的に微笑みを返してしまう。


 エスメラルダって、なんて綺麗に笑う娘なのかしら?


 役目を果たした、目茶苦茶な形だけれども果たした、その安堵感がレーシアーナの心を撫でる。後は往生への帰り道を急ぐだけ。少し……少しくらいならブランシール様のことをお話ししてもなんとか正餐に間に合うかしら?


 そんなレーシアーナの心中を知らず、エスメラルダはテーブルの上にある若葉色に着色された蜜蝋に手紙をかざした。みるみるうちに燃えていく手紙を、彼女は空の皿の上に乗せる。炎はあっという間に手紙を舐め尽くし、灰と化した後、燃やすものがなくなり自然と消えた。


 レーシアーナは複雑な思いでそれを見ていた。


 自分が使者にと遣わされる程の大事である。手紙の内容は秘匿せねばならないものであろう。解ってはいるけれども、ブランシールが簡単にあしらわれたようで胸が苦しかった。


 こんなので『お友達』になれるのかしら?


 レーシアーナは無理だと思う。だけれども、さっき手紙を渡したときのように激情に走るのはもうやめようと思った。レーシアーナは友達になれないならその時は『お友達ごっこ』をしなくてはならないと気付いている。この美しい少女を騙すのは嫌だけれど。


 そう思ってしまったのには訳がある。これはブランシールにも伝えなくてはならない事であるがエスメラルダはあまりに宮廷内部に詳しすぎた。

 大体、どんな優秀な諜報部員を忍び込ませているのであろう。自分が来る時間まで把握してお茶の準備まで。


 エスメラルダが席を立った。そして彼女自らレーシアーナのカップに、まだ十分熱いお茶を注ぎ入れる。それから自分のカップにも。


「お砂糖は三つで良かったのよね。ミルクをどうぞ、レーシアーナ」


「あ、有難う」


 レーシアーナはまた驚く。砂糖を三つ。自分からは口に出していない。それだけエスメラルダは彼女を把握しているのだ。


 先程まで茶を飲む時、レーシアーナはエメラルドの瞳に観察されていたのだと知る。


 わたくしに似ているわ。


 ふと、レーシアーナはそう思った。


 ブランシールに仕える自分は彼の先を読まなくてはならなかった。書斎で読み物をしていたらガウンと膝掛けを、喉が渇いていれば夏は冷たい檸檬水を、冬は砂糖抜きのストレートティーを、レーシアーナは命令される前から準備してきた。それがレーシアーナにとって、『このお方に必要なものだと思われたい』という気持ちの発露であった。先手を打つ事、それがレーシアーナなりの仕え方だったのである。

 そしてそれにブランシールが満足している事も、レーシアーナは気付いていた。

 だから更に頑張る。

 嫌われたくない。

 必要とされていたい。


 エスメラルダも笑っているけれども本当は怯えているのではないかしら?

 そう思った瞬間、不意に甘い痛みが胸を覆った。

 レーシアーナは可哀想にと思うのであった。

 そんなに神経を張り詰めなくとも良いのよ。


 でもそれを誇り高いこの少女に言うのは少し躊躇われた。おまけにエスメラルダが切実に望む友情の契りが交わせるかどうか、まだ解らない自分が口に出して良い事ではないと思う。

 だから代わりに、レーシアーナは微笑んでみせる。


「有難う、エスメラルダ」


 レーシアーナがそう言った途端、エスメラルダの顔がぱぁっと明るくなった。まるで雲間から太陽がのぞくように。


 エメラルドの瞳が細められ、レーシアーナを見つめる。

 わたくしこそ有難うを言いたいわ、と、エスメラルダはそう思う。

 だけれども、具体的に何に有難うと言えば良いのか解らないのでエスメラルダは微笑み返すにとどめた。


「ねぇ、レーシアーナ」


 席に戻り座った途端エスメラルダは言った。


「やはり今日の午餐、ブランシール様には諦めて頂かなければならないわ。だってわたくし、お返事を書かなくてはならないのにブランシール様の事について詳しく知らないのですもの。そんな状態で適当にお返事を書くのは礼を失した事だとは思わなくて? だからレーシアーナ、貴女は『使者』としてわたくしにブランシール様の事を語って下さらないといけないわ」


 レーシアーナは返答に困った。エスメラルダの言う事にも一理ある。手紙の内容を知らぬレーシアーナは返事にこう書けば良いのよという事も出来ない。


 それにブランシールは変わり者でもあった。侍女を側に起きたがらない位はまぁいい。だけれども兄を崇拝する姿は同性愛者で近親相姦者なのではないかと噂が立った事すらあった。幸いな事にブランシールとベッドを共にしたやんごとない淑女達がその噂を取りあえずは払拭してくれたが。


 エスメラルダに宮廷に群がる雀蜂の言葉を鵜呑みにされ、レーシアーナの大切な人が間違えた目で見られるのは耐え難かった。


 尤も何故エスメラルダがブランシールのことを知りたがるのか解らなかった。

 それでも、フランヴェルジュという存在を除いて、正しいブランシールの人となりを語れるのはレーシアーナしかいない。


「ねぇ、レーシアーナ、話して下さらなければ駄目よ? 巷の噂話などで計りたくないのよ、ブランシール様の事」


「ランカスター様の遺産でなんとかなるのではなくて?」


 諜報部員という言葉をはっきりと口にはしないが、エスメラルダは隠すつもりはない。

 隠すつもりが相手にないのに、レーシアーナは知らぬふりをするような人間ではなかった。


 しかし、エスメラルダはかぶりをふった。


「ブランシール様は、非の打ち所がない、完璧な王子様なんですって。洗い立ての白い布のように問題点は何処にも見当たらないというのが報告よ。たまに兄君にあたられるフランヴェルジュ様に下町に引っ張っていかれるそうだけれどもとても静かにお酒を召し上がる方なんですって。飲みすぎずはしゃぎもせず、それに……春をひさぐ女達には指一本触れないそうよ」


 その言葉を聞いた途端、レーシアーナの瞳から涙がぽろぽろと滴り落ちてきた。


「良かった、ブランシール様、良かった……」


 時折、安香水の匂いをぷんぷんさせて帰ってくる自らの主を、レーシアーナはどれだけ心配した事であろう。娼婦達などを相手にしていてはどんな病気にかかるかしれないと。


「泣かないで、レーシアーナ……」


 こくこくとレーシアーナは頷いた。だけれども、嗚咽はなかなか止まらない。

 エスメラルダは先程差し出されたものとは違う、自分のハンカチーフをレーシアーナに渡し、優しく背中を撫でてやった。


 レーシアーナはその手が心地良いと思う。ブランシール付きの侍女になってかなり経つが、その間、人の温もりとは縁のない生活をしていた。皆、腫れ物に触るようにブランシールとレーシアーナを扱うのである。ブランシールは意に介さなかったし自分も平気だと思っていた。


 だがそれはなんという誤りであった事だろう!!


 嗚呼、わたくしも、独りは嫌、嫌。


「人には……人の温もりが必要ね」


 そしてレーシアーナは思い出す。ブランシールにはフランヴェルジュという温もりがある事を。淑女達と滑り込むシーツの中にもあったかもしれない。だが自分には何もないのだ。何も、何も!


「……午餐を、ご一緒するわ。そしてわたくしが知るブランシール様の事をお話するわ」

 涙で濡れた頬。だけれども、レーシアーナは頭をもたげはっきりと言った。



◆◆◆

「あの方はとても孤独なお方なの」


 銀器の触れ合う音が微かに響く食堂でレーシアーナは言った。それは囁きといった方が良いのかもしれない。広い食堂で、その言葉は吸い込まれていきそうな程に力なかった。

 レーシアーナの目にも生気は窺えない。これが本当に自分に向かって

『不敬だわ!!』

 と叫んだ少女だとは思えない、と、エスメラルダは思った。泣き疲れた所為かもしれない。


 エスメラルダの困惑に気づくことなくレーシアーナは己の主人のことを語る。


「ブランシール様は幼少のみぎり、お身体が大変弱くあらせられたの。でもフランヴェルジュ様の事をとてもお慕いなさっていたわ。フランヴェルジュ様はブランシール様が望んでも見る事の出来ない『外』の象徴であらせられたのよ」


 昔の事を思い出すと胸に何か澱が溜まっていくような気がして、レーシアーナは溜息をつく。


「やがてブランシール様は自分も外に出たいと仰るようになられたのだけれども、勿論周囲は反対したわ。国王陛下もよ。だけれどもブランシール様には味方が二人、いらしたの。それがフランヴェルジュ様と王妃様よ」


 エスメラルダは懸命に耳を傾ける。本音を言えばブランシールの過去を聞きたい訳ではなかった。だがこれが今のブランシール……メルローア王家に迫る事だと思えば一言も聞き逃す訳にはいかなかった。何より、ブランシールの情報は彼女が友情の契りを結ぶことを切に祈るレーシアーナの情報なのだから。


「フランヴェルジュ様はお外に出られるようになったブランシール様に色々な事をお教え遊ばされたわ」


「まるで見てきたようにいうのね」


 エスメラルダが口をはさんだ。彼女の欲しい情報はレーシアーナ自身が知っている情報だ。他人から伝えられた事の伝言ではない。


 だけれどもレーシアーナは唇だけで笑う。


「見てきたのよ。私はお外に出られないブランシール様の『ポニー』としてレイデン侯爵家から買われたの。私はまだ五つだったけれども体格はすこぶる良かったの。それに比べるとブランシール様の華奢さと言ったら……」


「待って『ポニー』ですって? それはどういう意味? レーシアーナ」


「文字通り『ポニー』よ。父上が考案なさって木馬を差し上げると国王陛下に奏上なさって、献上されたのがわたくし。陛下達は何もご存じなかったのだけれども、わたくしは裸にされ鞍を乗せられ、体のあちこちに馬具もつけられたわ。そうしてブランシール様には鞭が与えられたの。『ポニー』を叩くように。でもブランシール様が叩いたのはわたくしではなかったわ」


 ふふ、とレーシアーナは笑う。今度は唇だけの笑みではない。何処か遠くを見るように笑った。


「私を『ポニー』として連れてきた父上に、ブランシール様は鞭をあてられたわ。泣きながら。そうしてフランヴェルジュ様が馬具を取り払って下さったの」


 エスメラルダは寒気を覚えた。信じられなかった。一人の少女を『ポニー』として扱う人間が。それは許されざる事だ。人として、それは許されざる事だ。

 しかも、それをやったのはレーシアーナの父だという。


「あの時、わたくしは一生をこの方に捧げようと思ったの。ずっとお側において下さいとお願いしたわ。そうしたらブランシール様は微笑んで下さったの」

 そんな過去があるならレーシアーナがブランシールを慕う理由が解った。慕わぬ方がおかしいであろう。


 だがブランシールは? どんな思惑でレーシアーナを側においているのであろう。


「ご免なさい。くだらない昔話をしてしまったわね」


 レーシアーナの言葉にエスメラルダは「いいえ!」と叫んだ。


「貴女の無償の忠誠心の理由が解ったわ。ブランシール様はとても良い方ね」

 

 その言葉に、レーシアーナは心からの微笑みをエスメラルダに投げかけた。十九歳らしい健康な笑みを。


「そうなの。本当に良いお方なのよ。お身体だってちゃんとお鍛えになって立派になられたわ!! 非の打ち所がない方よ」


 エスメラルダは苦笑した。


 可愛い人。ランカスター様がお気に召して調べさせたのも解る気がするわ。


「でも何故『孤独な方』なの? わたくしにはそれがさっぱり解らないわ」


 エスメラルダの言葉に、レーシアーナは顔を伏せる。


「あの方にはフランヴェルジュ様以外見えていないの。周囲にどれだけ人がいようとブランシール様はフランヴェルジュ様以外見るおつもりはないのよ。でもフランヴェルジュ様はブランシール様以外の人間にも微笑みかけられるわ」


 それはなんと悲しい生き方だろう!! だけれども、それ故に自分が灰にした手紙を書いたのだとエスメラルダは理解した。


「貴女の事もご覧になっていると思うわ、レーシアーナ」


 エスメラルダは優しく言った。


「わたくし宛ての手紙は余人が見てはならぬものだった。だから灰にしたのだけれども……ねぇ、レーシアーナ、貴女を信頼なさっているから他の誰でもなく貴女を使者として立てられたのだわ」


 こくこくとレーシアーナは頷いた。



◆◆◆

 結局、その日、ブランシールは午餐にありつけなかった。

 レーシアーナが戻ってきたのが夕方であった為である。


 ブランシールはレーシアーナを叱責する事はなかった。彼女は言葉通り返事を携えて帰ってきてくれたのだ。そして何時までに戻れと自分は命じていなかった。


 人払いをして、手紙にペーパーナイフを入れる。急く心を必死で宥め、便箋を開き。

 ブランシールは溜息を吐く。返事など解りきっていたが、随分思い切りのよいそれが返ってきたものだ。


 真っ白な便箋にはただ一言しか書かれていなかった。

 つまり、否、と。


 暫し憂鬱な気分になるが、とても飲めぬ事を書いた自覚はある。


 焦り過ぎていた。ブランシールは微かな自嘲を浮かべる。


 だから、次は全く違う方法を取ろう。兄の横にエスメラルダを並ばせる、その為にエスメラルダを絡めとる方法を考える時間は、まだある筈だ。

 思考のふちに沈みながら、ブランシールは考え続けた。

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