第6話 絡まる吐息
ブランシールはレーシアーナが返事を携えて帰ってきたその日から、特に何事も変わった様子は無いように思われた。
少なくともアユリカナもレンドルも、そしてフランヴェルジュまでもがそう思っていた。
ブランシールは胸の中、たぎるような青い炎を燃やしているというのに。
レーシアーナだけが、その事に微かなりとも気付いていた。
わたくしは言いつけられた事をちゃんとこなしたわ。本人に手紙を渡して、返事も書いてもらった。これ以上わたくしにはどうしようもない事だわ。
そう、レーシアーナはブランシールが受け取った手紙の内容を知らない。
一体ブランシール様はどうなさったのかしら? 何故、ブランシール様の様子がおかしいのかしら? それとも、おかしいと思うのはわたくしの気の所為なのかしら?
レーシアーナには判別つかなかった。
ただ、一つだけ思い当たる節があるとすれば、エスメラルダとレーシアーナが少女の清らかな友情を育んでいた事であろうか。
エスメラルダに執着していらっしゃる、ブランシール様。
少なくともレーシアーナの目にはブランシールは兄を見つめるようにエスメラルダの絵に魅入っているように見える。
それを思うと、ブランシールの不興を買うことを恐れる自分がいた。
たかだか侍女が、主人の想い人を敬称もなしに呼び、手紙のやり取りをしている。
それが、ブランシールにとって、堪らなく不快なことであればと、想像するだけでも恐ろしい。
だけれども、もう既にエスメラルダはレーシアーナにとってはなくてはならない人物になっていた。
最初はこんな風に愛するつもりではなかったのだ。自分の心の全ては一欠片余さずブランシールのものである筈なのだから。
それに友情の契りを結んだ時にレーシアーナの中にあったのは完璧に綺麗な感情とは、言えなかったのだ。
王宮の事に詳しすぎるエスメラルダ。だから、『お友達』として、エスメラルダがブランシールに害意を向けないよう、向けることがあったらそれとなく気付くよう、エスメラルダが切実に望んでいた友情の契りを交わしたつもりだった。つもりだったのだけれど。
罪深い事だといわれたならそうかもしれない。少女の純情を弄んでいるといわれるかもしれない。
だけれども。
当初のあれやこれやを事実として覚えていても、レーシアーナはもうその感情を思い出すことなどできなかった。レーシアーナはとっくにエスメラルダに魅了されつつあった。いや、愛していた。
エスメラルダがレーシアーナを初めての友人と呼んだように、レーシアーナにとっても相手は初めての友人だった。
今更失えるものではない。大切な大切な存在。
エスメラルダという少女が自分の人生に現れた事で、レーシアーナはやっと自分が独りだという痛みから逃れる事が出来たのだ。
もうレーシアーナにとってエスメラルダを手放す事は出来ない。
毎日のようにエスメラルダからは手紙が届く。その手紙はいつも焚き染められた香の所為か良い香りがした。そして迷いのない筆跡で大胆に綴られた言葉達。その言葉に触れるだけでレーシアーナは元気になれるような気がした。事実、ブランシールがただ一人気を許す存在ということでブランシールの知らない間にそれなりの嫌味やらなんやらは他の侍女たちに好き勝手に言われていたが、今はそんな事気にもしないどうでもいいという、そんな強さをレーシアーナは身に着けていたのだ。
もう、わたくしは独りではない。
その思いは強さにつながる。
エスメラルダはマメであった。
レーシアーナは忙しい。
フランヴェルジュには侍女が四十人いるのだが、レーシアーナはたった一人でブランシールの日常が滞りなく行われるように手配しなくてはならないのだ。
エスメラルダからの手紙はこの上ない癒し、だから自分もちゃんとした文章を綴りたいが忙殺される毎日の中、返事を書くのは必死だった。だがそれすら愉しめる自分がいる事に、レーシアーナ自身が驚いた。
エスメラルダに会いたい。
レーシアーナはそう思う。でもそれは叶わぬ事だ。レーシアーナは侍女なのだから。
それはそれで仕方ないともレーシアーナは思うのだった。
エスメラルダの事を友人として愛し始めている。いや、とても愛している。
それでもブランシールは特別で、彼の一番傍近くに仕えるこの喜びは投げ出せない。
そう。
うら若い乙女が抱けるだけの感情全てを持って、レーシアーナはブランシールを愛していたのだ。
ただの忠誠心だけではなかった。
浮ついた恋などとうに卒業していた。
今は気が狂いそうになる程彼を想い、慕い、口に出すには畏れ多いことだけれども女として彼を愛している。
だからこそ、ブランシールが何か隠している事にも、レーシアーナは気付いてしまう。
ブランシール様。
憂うお顔はエスメラルダを想っての事でしょうか。
画布に閉じ込められたエスメラルダよりも現実のエスメラルダの方がもっと美しいのですよ。
希代の天才にも、エスメラルダは描ききれなかった。
そんな風に思ってしまい、故人に対する冒涜だと、慌てて天上の魂に祈りを捧げるレーシアーナだった。
それでも毎日は平凡に過ぎていくように思えたのに――転機は唐突に訪れた。
ある昼下がり。少し気温が上がって来たのを感じてレーシアーナはブランシールへの飲み物に何が相応しいかを考えた。しかし、昨日あれほど肌寒かったのに天候とは不思議なものである。
そろそろ何か飲み物をお運びしないと。レーシアーナはブランシールが口に出す前に求めるものを差し出したいと思うから、もう勘のようなものが身についてしまっている。もう少ししたら恐らくブランシールは喉の渇きを覚えだす頃だろう。
彼が好む砂糖抜きのストレートティーを考えたが、悩んだ末レーシアーナは檸檬水を選択する。
暖かいもののほうが胃には優しいと解っているけれど、氷をふんだんに入れた檸檬水をお持ちして、それでブランシール様が紅茶を求められたら、またお持ちすればいいのだわ。
飲み物を二度用意する、そんな事はレーシアーナにとって手間でもなんでもなかった。
銀のトレイに氷とともに檸檬水を湛えたクリスタルのグラスを乗せて、レーシアーナはブランシールの部屋に入る。自由に出入りしていいのは、仕える者の中ではレーシアーナだけの特権。
王族の場合、部屋といっても一部屋ではない。いくつもの部屋が続く中で、レーシアーナは迷うことなく居間に向かった。
ところが、そこにいない。
いつもそこで学問に励んでいるのに。書斎より過ごしやすいと言いながら、自由時間の全てを、将来、兄を支える為の力とする為の知識の吸収に勤しんでいるブランシールなのに。
ブランシール様?
お加減でも悪いのかしら? 午餐の時は特に変わったご様子は見受けられなかったのだけれども。
レーシアーナは続く部屋の数々を見て回り、段々と焦った。
ブランシール様は、何処?
他の部屋は全て回った。後は、寝室だけ。
ブランシールの着替えの手伝いをする事がある。滅多にないことだけれど普段よりブランシールの目覚めが遅ければ起こしに入る事もある。
寝室を暴くことさえ、ブランシールはレーシアーナに許してくれていた。
与えられた居室の何処かに、ブランシールがいないとは考えられなかった。ただ一人でブランシールの身の回りのことをすべてやってのけるレーシアーナにはブランシールの予定が一週間先まで叩き込まれている。
だからブランシール様はここに、寝室にいらっしゃるに違いないけれど……本当にお加減がお悪いのかしら?
レーシアーナの知るブランシールは、昼間から怠惰を決め込むような人間では決してない。
不安な心のままに扉をノックし、返事を待たずにレーシアーナは扉を開け、寝室へ足を踏み入れた。
この手の無礼をブランシールが咎めることはない。それより、ただただ心配で。
果たしてそこに、ブランシールはいた。
天蓋付きのベッドは中途半端に帳が引かれているが、そこに気配を感じたかと思うと、ブランシールその人がレーシアーナを呼んだ。
「こっちへおいで、レーシアーナ」
「大丈夫ですか!? ブランシール様、何処かご加減でも?」
ブランシールは帳の影で姿は窺えない。影だけだ。
レーシアーナは急ぎ足で、無防備にベッドに近づいた。許しを得ずに帳を開ける。体調が悪いのなら、すぐさま御典医を呼ばなくてはならない。
そう思ってやっとブランシールの顔を見出した途端、強く右の腕を掴まれた。左手で支えていた銀のトレイが滑り落ち、檸檬水が零れる。クリスタルのグラスが澄んだ音を立てて割れる。
な……に? なんなの?
レーシアーナはパニックを起こしかける。事態が把握できない。
気づいたら、唇を奪われていた。
レーシアーナにとって初めての口づけ。
けれど、優しさは感じられなかった。
まるでそれは溜め込んだ鬱憤のすべてをぶつけるような、そんな口づけ。
なんて乱暴な……キス。
頭がくらくらする。ブランシールの甘い舌がレーシアーナの震え慄く舌に乱暴に絡みつく。
いつの間にかレーシアーナの華奢な身体はベッドに引っ張り込まれ、組み敷かれていた。
咄嗟にレーシアーナは逃れようと身をよじった。けれど、男の強い力にどうやって抗う事が出来ようか? それは無理というものだった。身体の自由は殆どなかった。
だけれども、レーシアーナは精一杯抗った。
本当はエスメラルダがお好きなくせに!!
そう、レーシアーナを突き動かしているのは怒りだった。自分を純粋に求められたのなら、レーシアーナはどんな事をされても従ったに違いないのに。
死ねといわれれば死ぬ覚悟はあった。それ位にレーシアーナにとってブランシールは絶対だったのだ。
だがそれでも、想われることもなく戯れに花を散らされるのは嫌だった。いや、想われてなくとも雄の衝動の処理として求められたのならば、レーシアーナはきっと割り切れた。
どういう形であれ彼が『レーシアーナ』を求めるのであれば彼女は何をされても喜んで受け入れるのに。
それでも。
愛する男が、他の女を想いながら自分を組み敷き、抱こうとしている。
それだけは、嫌だった。許せなかった。
それなのに、ブランシールは残酷な事を言う。
「愛している、レーシアーナ」
唇を解放され、耳元で囁く酷い人。その途端、レーシアーナは脱力してしまった。
こんの、大嘘吐き!!
大声で喚きたかった。
だけれども、それが言えなかった。
何故ならその言葉は、レーシアーナが命をかけてでも欲しかった言葉であるからだ。
「嘘じゃない、レーシアーナ」
熱い吐息と共に、ブランシールは囁く。確かに熱を持っているのに、何故だか冷たく思えるのは何故だろう。
「ずっと……夢だった。お前を僕のものにするのを、ずっと夢見てた」
その言葉だけは嘘ではないと、何故かこの状態でレーシアーナは信じてしまった。
何故信じてしまったのだろう? 自分に都合のいい欲しくてたまらなかった甘い言葉だからか?
――過去形なのに。
過去形でも、自分は嬉しいのだろうか?
混乱しながらも、レーシアーナは必死で抗っていたが為に乱れた呼吸を、ゆっくりと整えようとする。
だが、ブランシールはレーシアーナが抗うのをやめたのを自分の求愛を受け入れた証拠と信じ、激しい愛撫を与え始めた。
侍女のお仕着せを脱がすのが面倒だったのか、ブランシールは胸着を破るようにしてレーシアーナの肌を露わにする。
そんな無体な真似をされているというのに、激しい愛撫は、与えられた口づけと違って何処か優しく感じられた。
レーシアーナの唇からくぐもった声が漏れる。声を飲み込み切れない。
乙女の胸に顔を埋めてみると早鐘を打つようだった。火照る身体。かつてブランシールが最も愛したもの。
許してくれなどとは言えないな、お前には。
それは余りに大きな罪であったが為に。
それでも、絶え間ない愛撫を与えながらもブランシールはレーシアーナに許しを請いたかった。
僕は兄上とは違う。
ブランシールは自嘲する。許しを求める資格のない自分を嗤っている。
憧れの対象。遠くには叔父であるランカスター公爵がいた。だが、最も身近で接し、崇拝の全てを捧げたのは兄であった。
姿や仕草は叔父を真似た。
だが、心の中の英雄は美しい兄ただ一人。
フランヴェルジュ。炎、いや、太陽のような兄。焦がれし者を焼き尽くさんとするかの如く。
あの人の激しい性格と子供のような純真さを穢す事無く、あの人の夢を叶えたい。
そんな事を考えているブランシールの下で、レーシアーナは必死で声を堪えている。
ブランシールの知る淑女達は皆、声を上げてもっともっとと強請るものだった。
そう考えればレーシアーナのこの反応は新鮮なのだが、ブランシールはどうしても集中出来ない。
罪を犯している最中に、理性が生きているのはひどく厄介だ。
エスメラルダ。
もし、自分が組み敷いているのがあの緑の瞳の娘だったならばと考える。だが、否だ。
兄と同じ炎の気象を持つ娘は、たまらなく魅惑的だが、愛してはいない。
そして、あの娘は兄上のもの。
兄上が初めて自分から望んだ娘。
兄上と共に並ばせ立たせればどれ程美しく映るだろう。
そして、ブランシールには、ブランシールだけには、それを実現させる事が可能であった。
何故なら父王レンドルの秘密を知っているからである。ブランシールはただ……。
そう……ただ、それをネタに優しく脅迫すればいい。
容易い事だ。
後はエスメラルダが審判の儀式さえ受けてくれたならば、それは本当に容易く、簡単な事なのだ。
エスメラルダ。
またその名を思い浮かべてしまったブランシールは歯がゆさに負けてレーシアーナの肌に歯を立てた。レーシアーナが思わず声を上げる。
その声が聞きたかったのだ。他の誰でもない、レーシアーナの甘い声を聞いて溺れたかったのだ。
そればかり望んでいたのに、自分は愛する者に言葉にできないほど酷い事をしようとしている。いや、現在進行形で既にしている。
それでも、欲してしまった心が口をついた。
「もっと啼いて。……お前の声が聴きたい」
レーシアーナは涙を流しながらいやいやをするようにかぶりを振った。
何故、涙?
それはレーシアーナ自身にさえも解らない事であった。
レーシアーナの涙は、心に痛い。
現実から逃げるように、ブランシールは知る限りの方法でレーシアーナを可愛がることに専念する。
ブランシールの中で、残っている、たった一つの正しいこと。偽りない本音。
抱きたいのは兄と似た輝きを持つ緑の瞳の娘ではない。気が遠くなる程思っていたのは今自分が可愛がっている娘だ。
ずっとこの娘を求めていたのだから。
ただ、純粋に愛するだけの行為ではないという事が、打算が入ってしまう事という事が、そして彼女の愛情を利用してしまうという事が、痛い。痛くて堪らない。
この罪を、誰も許せるものはいないだろうし神が降臨し許すといってもブランシールは断る。
レーシアーナを愛していた。
いや、今も彼女が愛おしい。
だから、許されたくなどない。これはブランシールの罪で一生背負うべきものだからだ。
日差しが窓から斜めに入ってくる頃、漸く狂乱の時は終わった。
裸のまま、ブランンシールはレーシアーナの頭を肩にのせると少し掠れた声で優しく告げる。
「今日の正餐で、僕は父上に申し上げるつもりだ。レイデン侯爵令嬢レーシアーナ・フォンリル・レイデンを妻に娶るつもりだと。勿論、正妃として。ただ一人の妻として」
レーシアーナは瞠目する。
「せ……いひ? だって貴方が愛しておいでなのは、エ……!!」
「お前だ、レーシアーナ」
続く言葉の先を、奪う甘い接吻。
レーシアーナの唇をブランシールの舌が割る。甘い舌はレーシアーナの舌に絡みついたかと思うと優しく吸い、そして歯茎をなぞる。
レーシアーナは噛み切ってやりたいと思う。だけれども、ブランシールのキスはレーシアーナを狂わせる。頭の芯がとろとろにとろけてしまい、何も考えられなくなる。
酷い方。本当に愛おしい酷い方。
正妃。ブランシールの正妃。
どれ程望んだ事であろう!
そう、望んでいた。
ただ一人の妻として、ブランシールに望まれることを泣きたくなるくらい願っていた。
だけれども、こんな形ではなかったような気がする。
ならばどんな形だったというの? レーシアーナ。本当は求められてブランシール様の女になれて、嬉しくて嬉しくておかしくなりそうなくせに。
唇が、唾液を引きながら離れた。
それがレーシアーナにはひどく名残惜しかった。噛み切ってやりたいとさえ思ったくせに、なんという矛盾だろう!
ブランシールはレーシアーナの目を見つめて、ゆっくりと問うた。
「……承知、してくれるね?」
その声は、何処までも優しい。
答えようと口を開くと、かすかな溜息が漏れた。愛された余韻が身体に残っている上に、キスで与えられた快感が身体を支配している。
認めなさい、レーシアーナ。お前は愛する男に抱かれて、ただただ悦んでいた、そんな女よ。
頭の中の声を無視して、レーシアーナは今度こそ溜息ではなく言葉を紡ごうとする。まだ口を利くよりこの身体の倦怠感を大事にしたかったけれど、主君たるブランシールが訪ねたのなら……答えなくてはならない。正直に。欠片の嘘もなく。
そしてレーシアーナは嫌です、そう言おうとした。
それなのに。
「……はい」
唇から転がり出た答えは是であった。
何故といわれて、レーシアーナは答えられないだろう。
是と言った事ではなくて、否と言おうとした事。本当に、何故、拒絶の言葉を自分は一瞬でも口にしようとしたのか。
レーシアーナは求めていた筈なのに?
レーシアーナは愛している筈なのに?
「……ブランシール様……」
口の中でその名を転がすようにして、レーシアーナは最愛の人を呼んだ。
「何だい? レーシアーナ」
答えるブランシールはいつものブランシールに見えた。
心の中に安堵と物足りなさが広がる。
演技かもしれないけれど、肌を重ねている時のブランシールは思わず愛されているのではないかと
錯覚させる程求めてくれたから。
でも、いつも通りが良いのだわ。
美しく、綺麗なレーシアーナの王子様。何があっても汚れない、優しい王子様。
そう、もういつものブランシール様だわ。
レーシアーナは身体をよじった。いつものブランシールであるのならば、自分達が裸で肌をくっつけてベッドにいるのは、とてもおかしなことだ。此処から、ブランシールの腕の中から逃れ、少しでも頭を整理したい。
全部、全部夢なのではないかしら。
ごくんと唾液を嚥下して、レーシアーナは言う。
「部屋に下がらせて下さいませ。少し、考えたき議が御座います」
「……今更、返事を撤回するというのなら、僕はこのベッドに君を閉じ込めてしまうよ?」
「違います!」
思わず大きな声を上げて、レーシアーナは否定した。
男というものは! 本当に!! 頭があるのだろうか!?
「わたくしとて、女にございますれば! このようなお申し込みを受けた時は一人になりとうございます!!」
レーシアーナのその台詞に、ブランシールは漸く目が覚めたようだった。
「ああ」
自分の気持ちに浸りすぎていた事をブランシールは恥じる。繊細な女性の心の機微にまで想いがよらないほど、ブランシールは自分の中の考え事に酔っていた。
「レーシアーナ、退室を許す。明日の朝まで休みを取らせる。その代わり、正餐の支度をする為の侍女を手配しておいてくれ」
「承りましてございます。ブランシール様」
硬い言葉つきのレーシアーナの頬をブランシールは撫でた。そして今日一番正直な気持ちで、何の思惑も抱かずに言う。
「お前は可愛い」
レーシアーナの顔が熟れたように朱に染まった。
けれど、そのまま聞かなかった振りをして、レーシアーナは乱暴に脱がされた服をかき集めた。しかし、上着と胸着は引き裂かれ散々な有様だ。
どうしよう? お部屋から退室して自室に戻るまで、どうやってこの姿を、口づけの後の残る胸を隠そう?
そう思ったレーシアーナにブランシールは自分の絹のブラウスを羽織らせた。
レーシアーナは身体を強張らせる。
「いけませんわ! 王族の衣装を下賜されるという事は……!!」
それ即ち、『王族に準ずる証』。
「構わない。お前は僕の妻となる娘なのだから。さぁ、早くお休み」
ブランシールは優しくそう言った。
レーシアーナは抗議しても無駄だと悟る。ブランシールは優しい時程扱い辛いのだ。いつも傍にいるレーシアーナでさえ、こんな時のブランシールは手に負えない。
何とか服を着て、ブラウスを羽織り、彼女は静かに退出する。
扉の閉まる音が響くのと同時に、ブランシールは溜息をついた。
レーシアーナを妻に。
昔から考えていた事なのに、意味は今と昔では全く違う。
エスメラルダをこの宮廷に馴染ませる事、それが今このタイミングでレーシアーナを求めた理由であった。
第二王子の妃の親友。
それはメルローア宮廷では大きな信用状になりうる。それに、正妃となったレーシアーナは宮廷の作法通りに頻繁に茶会を開く事となるであろう。その席には王宮でも最も重きを置かれる淑女達が顔を揃える事になるだろう。その場にエスメラルダを呼ぶ事、フランヴェルジュを呼ぶ事。
エスメラルダにまともな身分がなくとも、そんなことは些細なことだ。
そんなことで、兄が初めて恋した娘を諦めさせてたまるものか。
ブランシールはレーシアーナがあの緑の瞳の娘に一途な想いを傾けているのを知っている。
そして同じくらいの激しさで、エスメラルダにとってもレーシアーナはなくてはならない物になっているだろうと思う。一割の勘、残り九割の肯定はエスメラルダからの手紙を読むレーシアーナの顔を見て得た感覚だ。
恐らくはレーシアーナが誘うならば、エスメラルダは嫌でもこの宮廷で咲き誇ることになるだろう。
レーシアーナを通して、ブランシールは不器用な兄にエスメラルダの心を勝ち取らせようと画策していたのだ。そして先に述べた淑女達からの信用状も取り付けようとした。
後は『審判』を受けさせればいい。
淑女達の誰かにエスメラルダを養女とさせる事が出来たらそれは完璧だ。
身分の定かでないものが貴族の養女となりそれなりの婚姻を果たした例など枚挙にいとまがなかった。エスメラルダの場合はそれなりではなく、至尊の位を目指してもらうことにはなるが。
それは決して難しい事ではない。
エスメラルダ自身の魅力がそうさせるであろう。兄に似た、何もかもを焼き尽くす業火でありながら人をひきつけずにいられないあの娘ならば。
夜会で何度か腕に抱いた。あのエメラルドのような瞳の魅力をブランシールはよく知っている。
兄上と恋に落ちてくれたら、審判を受けてくれたら。
難しいのはこの二つしかなかった。
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