第7話 無花果

 その日、ベッドの上で、狂ったような時間を過ごしていたのはブランシールとレーシアーナだけではなかった。


 国王レンドルは何故こうなってしまったのかと深く恥じる。だが、彼女の肉体がないと駄目なのだ。何故かはしらない。理屈など解らない。

 ただ欲しくて、欲しくて堪らなくて、耐えきれず彼女を自分のものにした。


 彼女を初めて抱いたのは、彼女がまだ初潮すら迎えていない頃であった。


 くすくすと彼女は笑う。

 初めて抱いた時ですら、彼女は笑っていた。性愛の意味を知っていた彼女は、レンドルに恐らく娼婦とはこのようなものではないかと思わせるに十分な媚態を示した。

 その時、処女であった事は間違いない。印を見たのだから。


「お兄様」


 くすり、と、彼女が笑った。


 レイリエ・シャロン・ランカスター。

 レンドルの歳の離れた妹だった。親子ほど年の離れた、母と同じ顔の妹。


 母を同じくする妹というのなら、レンドルにはレイリエだけだ。母は自分とレイリエを生む、それだけで精一杯だった。

 出産に到底耐えられぬと周囲に言わしめた母、彼女は文字通り、レイリエを生むのに命をかけて黄泉路を辿った。


 父上、母上、何故この身は犯したくもない罪を犯しているのでしょう?


 苦悩の表情を浮かべ、レイリエから目を逸らす兄の髪をレイリエは優しく梳いてやる。


 そうしながら、溢れるくらいに毒を垂れ流す。男を虜にし、廃人とさせる毒。

 レイリエは何時の頃からか自分の不思議な力を知っていた。特に何もせずとも男達は容易く跪き、戯れに身体を許すと、麻薬か何かの中毒患者のようになる。


 思い通りにいかなかったのはアシュレだけ。

 愛しい愛しい兄だけが思うままにならなかった。

 本当に愛した男に対してのみレイリエは無力だったのである。


 けれど、アシュレ以外の男で自分を、そして自分の唇から零れる頼みを断れるものは恐らくいないだろう。


 だからレイリエは優しく強請る。


「ねぇ、御願いですわ、お兄様」


 それは、甘い歌声のようだった。


「わたくしを、お兄様のお力で王太子妃に」


「それは出来ん」


 レンドルは、妹の顔から視線を外して言った。顔を見れば、是と言ってしまう弱い自分がいる事をレンドルは知っていたのだ。


 それでも、レイリエには驚きだった。この、弱く、欲に一溜まりもない兄が……このわたくしに『出来ない』と言った?


 意外なことというものは、腹が立つよりも寧ろ面白いものなのだとレイリエは知る。


「何故ですの? ねぇ、お兄様。お顔をこちらに向けて下さいまし。わたくしは知識、教養、礼儀作法、王太子妃として必要なものはみな持っていますわ。母様から受け継いだ美しさも」


「お前はアレの叔母に当たるのだぞ!?」


「そんな事」

 

 からからとレイリエは笑った。


「さっきまで私の身体の上で喘いでらしたのはどなた? わたくしの実のお兄様ではありませんか」


 それを言われると、レンドルとて返す言葉がない。返す言葉がないが、自分がどうなろうと罪を犯した事実は消えない、どうでもいいのだが……子供達は駄目だ。


 愛しいアユリカナの子。


 本当の本当に愛した女の子供。


 その人生を狂わせることは、今ここで自害してでも止めなくてはならない事。

 アユリカナを泣かせるくらいなら死んだ方が遥かにマシであった。


 レイリエはそんなレンドルのそんな悲痛な思いに気づかない。

 ただ甘く優しく、真綿で絞殺すようにレンドルに囁きかける。


「法など、変えておしまいになって。王であるお兄様が望めば、全てが全て些末事。とても簡単な事ではありませんか」


 レイリエの言葉は蜂蜜よりはるかに甘い。

 だがその声が甘ければ甘いほど、レンドルには脅迫されているように感じるのであった。そして事実。そうであった。


 じりじりと、レイリエはレンドルを追い詰める。


 狂っている、そうレンドルは思った。

 実の妹を抱かずにいられない自分も、実の兄を利用し既に墓の下の異母兄をひたすら慕い続けるレイリエも、正気の沙汰とは思えない。


 メルローア王家は、昔は血族婚が盛んであったのだという。血の純潔を尊ぶようなところがあった。姉弟、もしくは兄妹が平然と結ばれていたという。


 だが、濃すぎる血は次第に衰退を招く。

 段々、メルローア王家の血を引く者のの寿命が短くなり、病に伏せることが当たり前になった。


 メルローアの中興の祖、トランカト王は弱まっていく王の血脈を心の底から案じた。そして、大陸中から集めた事例を判断材料にし、ついに諸悪の根源は血族婚だと気づき、勇気ある王はその近い血で結ばれる婚姻を禁じた。そして、自ら下級貴族の娘を正妃として迎え、メルローア王家の血に新鮮で瑞々しい血を注ぎ込んだのである。


 しかし、先祖返りのようにメルローアの王家には兄弟姉妹に異様な情を、有体に言えば恋愛感情やら肉欲を抱くものが高確率で生まれてくる。恐ろしいことにそれは同性であれ異性であれ、当たり前に起こることであった。


 レイリエもそんな女なのだろう。

 

 病的にアシュレを愛したレイリエ。いや、いまだ愛し続けるレイリエ。


 哀れな娘だ。


 アシュレはレンドルのような間違いはしなかったはずだ。異母弟の事は、よく知っているつもりだ。


 返事をしないレンドルに、レイリエは拗ねたような声を出した。けれど、可愛い声音が紡ぐのはやはりレンドルに告げる罪状。


「ねぇ、お兄様、わたくしとお兄様は歳の離れた、母親を同じくする兄妹。表沙汰になればどのような事になるかお考えになって」

 

 優しく蜜の味の毒を飲ませるように、レイリエは脅迫を続ける。


 表沙汰になれば。


 それはレンドルにとって恐ろしい事だった。


 自分は塔に幽閉され死ぬまでそこで暮らす事になるだろう。

 それは仕方のないことだ。自分は罪を犯している。いっそ幽閉されて完璧にレイリエから離れることが出来たら……もう過ちを犯さずに済むのであれば、……幽閉というのはひどく慈悲深い裁きだとすら思う。


 しかし、自分の心に安寧がもたらされたとしてだ。

 自分の愛するアユリカナや子供達はどうなる?


 アユリカナ。

 愛しいアユリカナ。


 なかなか求婚を受け入れてくれなかったアユリカナ。

 自分も彼女も苦労に苦労を重ね、そしてやっと彼女は自分とともに玉座に昇ることを受け入れてくれた。

 そんな彼女に、自分は誓ったはずだ。


 私はそなたを永久に裏切らない。


 言葉とはなんと軽いのだろう。


 本気の決意で口にした言葉を裏切り、さて何年が経つだろうか。


 アユリカナを守らねばならない。しかし、一体この身に何が出来ようか。


 半身を起こし、ベッドに横たわる妹を見ていたレンドルは薄ら寒い気がした。


 確かに同母の兄妹が睦み逢う事を考えたら、叔母と甥が結ばれる事の方がマシだろう。

 それでも、自分の身勝手さで、アユリカナが必死で産んだ息子の人生を閉ざす事など出来るものか。


 こんなにもくだらない女の為に。


 そもそも、レンドルはレイリエを愛してなどいなかった。

 愛しているのはアユリカナだ。彼女だけなのだ。


 それでも、身体はレイリエを求めてしまう。

 最後にアユリカナを抱いたのはいつだっただろう?

アユリカナの身体では駄目なのだ。それは老いが原因ではない。今でも愛しい。アユリカナに対して不満の一欠片もレンドルは持たない。

それなのに、自分の中の悪魔が、レイリエを求めてやまないのだ。

 だが、苦悩し、両手で顔を覆ってしまったレンドルに、レイリエは優しいとさえ言える仕草で触れた。


 レンドルが顔から手を離し、妹を再び見つめた。すると聖母のように慈悲深い笑みを浮かべてレイリエは自由になったレンドルの右の手を捕まえると自らの下腹部に当てる。


 武人として鍛え上げた、日に焼けた肌と、レイリエの白い餅のように滑らかな肌。けれど、今は肌色の対比などどうでもいい。


 レンドルはレイリエが何を言うか理解してしまった。


 いやだいやだいやだ、まさかまさかまさか。

 神よ、そんな残酷な事が現実にこの身に訪れることはあるのでしょうか?


「レンドル・トロアト・メルローア陛下に申し上げたき議、此処にあり」


 ゆっくりと、誇らしげに言う女に、レンドルはそれがまぎれもない真実だと直感する。


「陛下の和子、此処に」


 覚えたのは眩暈なんて可愛らしいものではなかった。

 世界が真っ黒に塗りつぶされるような、そんな錯覚をレンドルは覚えたのである。



◆◆◆

 正餐の席で、ブランシールはレーシアーナを妻としたいと父である国王に正式に乞うた。

 アユリカナはにっこりと微笑む。


 二人が結ばれることを、アユリカナは望んでいた。レーシアーナも家格自体は高いし、何より子供の時から見ていて、性格も素直だ。


 更に言うならば、アユリカナにとってレーシアーナの亡き母は親友だった。共にメルローアの社交界に君臨していた美しい女性。

 彼女の娘が自分の息子の花嫁になる。


 何の異議も、アユリカナにはなかった。


「よく言ってくれたわ、ブランシール。母はこの日を待っていましたよ」


 アユリカナが満足そうに言うのと、フランヴェルジュが弟の肩を叩くのは同時だった。


「やったな! 終に覚悟を決めたか!! 俺より先に相手を決めやがって!!」


 フランヴェルジュの声は弾んでいた。心から弟の決断を喜んでいたのだ。


 フランヴェルジュにとってもレーシアーナは好ましい娘だ。あの娘が自分の義妹になる日をずっと待っていた。

 ブランシールがレーシアーナに出会って間もなく、彼女をいつか娶る決意をしたのをフランヴェルジュは知っている。


「婚儀は叔父上の喪が明けてからのほうがいいだろうな。収穫祭の頃など丁度良いのではないか? ねぇ、父上、どう思われ……誰ぞ!! 誰ぞある!!」


 父に話を振ったフランヴェルジュは食卓で上げるには余りにも大きな声を上げた。料理長が慌てて飛んでくる。


「何か、本日のメニューに……陛下!?」


 料理長は事態の異様さに瞠目した。


 自分に向かって倒れ掛る大きな身体、武人でもあった父をブランンシールは咄嗟に抱きとめていた。重いとブランシールは思う。何故自分が父を抱いているのだろうと混乱する。


 何の前触れもなく、国王レンドルは口から泡を吹き出し、意識を失っていた。


「お前などに用はあるか! うつけが! よい、俺が運ぶ。ブランシール、肩を貸せ。抱き上げるのは流石に無理そうだからな。母上、御典医の手配を……」


 フランヴェルジュは料理長を一括する。突然のことに我を忘れている自分に気づきもせず、ただ父が心配でならなかった。


 未だ逞しい身体つきのレンドルを運ぼうとする。が、そこにアユリカナが言葉を挟んだ。


「専門のものに任せなさい! 軽々しく動き騒ぐことは許しません!! お前達」


 アユリカナはゆっくりとその瞳をめぐらせ、食堂に集っている全ての人間を見つめた。

 金色の視線で縛る。自分の言に逆らうことをさせぬと、強い意志をその視線が全てを縛り上げる。


「陛下は睡眠不足でお疲れです。今日は食事をおとりにならず、部屋に戻られます。王妃たるわたくしが、陛下につき従います。ジューン! フロッド! 輿を用意して頂戴。輿で国王の寝室へ陛下を運びます」


 アユリカナはレンドルの懐刀とも目される二人の側近の名を呼んだ。

 二人の敏捷な近衛はすぐに動いた。


 その手配の見事さに、二人の息子はただただ、目を奪われる。


 そうだ、国王がいきなり倒れたと大騒ぎをして、良いことなどあろうか。王はメルローアを支える支柱なのだから。


「わたくしとて、ただ冠を戴いて玉座にあるのではありませんよ、二人とも。いざとなれば、どう動くべきか、わたくしにも解っております。食事が終わったら、寝室へ。良いですか? 『普通に』食事をするのですよ? それからいらっしゃい」


「輿の準備が出来ました!」


 ジューンがアユリカナの前で跪いた。


 ブランシールが支えているレンドルの身体を、フロッドが抱きとめた。



「陛下。よくお眠りのようで」


 その声が微かに湿り気を帯びる。明らかにおかしい顔色などにフロッドは言及しなかった。料理長にも給仕にも侍女にも、此処にいる者達全てに、あくまで過労で倒れたという認識を持たせる為に。


 そして国王と王妃は食堂から退室した。


 広い正餐の間に、沈黙の帳が落ちる。


 静けさが一時間以上その場を支配したような気持がした。だが実際は五分と経っていない。頑健な父が唐突に倒れた衝撃はとても重い。

 そして、言葉に出来ぬ不安が、静かに心と身体を食い荒らす。


 沈黙に耐えかねて言葉を発したのはフランヴェルジュだった。



「父上は……どうなされたのだろう」


「政務の厳しさゆえの過労かな?」


 ブランシールはつとめて明るく答える。


 が、フランヴェルジュの顔は暗いままだ。


「父上は……手抜きの天才でもあられる」


「はぁ?」


 情けない顔をした弟に、兄は苦笑いして言った。


「国王の採決を待つ書類が何通も俺のところに回ってきている。幾ら抗議しても、やがては俺の仕事になるのだから、と」


 そんな無茶な話があって良いのだろうか?

 ブランシールは眉を寄せた。


「なぁ、ブランシール」


「何です? 兄上」


「お前の婚姻。来年になるやもしれぬ」


「兄上」


 ブランシールは唇を噛んだ。


「言葉にしてはなりませぬ。言霊が宿ります。何処で神が気紛れを起こすやも知れぬ」


「取り合えず、俺たちがやらなければならないのはいつも通り振舞うことだ」


 食欲などとっくになかったが、フランヴェルジュは皿の上の料理にカトラリーを持った手を伸ばした。

 ブランシールもそれに倣う。


 平然としている事、それが混乱を呼ばぬ為に必要なことだ。

 料理の味は解らなくなっていた。


 早く父の容態を確かめるためだけに二人の王子は飲み込むように食事を摂る。

 嫌な予感が離れなかった。



◆◆◆

 その夜。

 二人の王子が国王の寝室へ入室を許可されると、ベッドに横たえられたレンドルは大きく目を見開いていた。

 

ここに呼ばれていなければならない御典医の姿は見えない。


「父上!」


 駆け寄ってくる息子達にレンドルは何とか言葉を紡ごうとする。


「父上! ご無理はなりませぬ!!」


 言うフランヴェルジュを視界の端で捕らえるとレンドルはごほごほと噎せた。


 口元を抑えるその手が、いや、指の爪が青く変色している事で兄弟は何故御典医が呼ばれなかったのかを知った。


 竜牙草からとれる毒を呷った症状。

 青い爪紅など存在しない、けれど竜牙草の毒を摂取するとそのように毒々しいほど鮮やかに青く爪が染まる。


 遅効性のその毒は、症状が出てからではいかなる薬も意味がない。症状が出る前に火雫草で作った薬を飲む以外に助かる方法はない。


 倒れた時に、既に死は決していた。


 アユリカナは気づいたのだろう、レンドルが倒れたその時に。

 故に混乱を避け、逃れられない死を、せめて安らかに迎えられるようにと願ったのだろう。


「父上……!」


 レンドルの瞳は焦点を結んではいなかった。開ききった瞳孔で、それでも王者の気概か、その目を閉じることなく声のする方向を見る。自分の名を呼ぶ息子たちの方を。


 視力は既に失われていた。

 なのにレンドルには初めて会った時のアユリカナの姿が見えるような気がした。


 だから、言わなければならない。アユリカナの生んでくれた息子達に。

 ちゃんと話すことから逃げた自分ではあるけれど、それでも、今更だけれども一言だけでも。


「気を………つけ……お、り……ひめ……」


 最期の言葉は血泡と共に吐かれた。



◆◆◆

 レンドルの死は一ヶ月間伏せられた。


 その間、フランヴェルジュがアユリカナの導きのもとに、各国に、そして自国の領土の隅々に至るまで間諜を放った。


 レンドルの死は余りにも唐突であった。


 最期を看取った直後、母は泣き叫ぶでもなく子供達に火雫草で作った薬を飲ませたが、フランヴェルジュは自分にも弟にも母にも、その薬が必要でないことは何となく解っていた。


 父以外が、自分達が、毒を摂取した可能性があるのであればアユリカナはすぐさま自分達に毒消しの薬を飲ませたであろう。

 アユリカナはレンドルが息を引き取るまでひたすらレンドルだけを見ていた。

 火雫草の薬は、思い出したから取り合えず形として服用させたようにしか見えなかった。


 母は何かを知っていて、しかしそれを口にする気は欠片もないらしい。


 口を閉ざすと決めたアユリカナから望む言を引き出すことはほぼ、不可能。


 フランヴェルジュは解っているから余計なことを口にせず、父の死を作った存在を探すことに専念する。


 毒をもったのは自国の誰かかもしれなかったが、もし他国の暗殺者がそれを行ったとすれば……その可能性は捨てきれない。もし今、メルローアが戦を仕掛けられた時の事も考慮せねばならなかった。


 実際、自国の誰かという線はとても薄い。国は安定していたし、どんなに頭をひねっても内乱を起こすための材料が思いつかない。

 レンドルの死がメリットになるであろう人間がメルローアにいるとは思えなかったのだ。


 しかし、何処の国にも、また自国内でも不穏な動きはなかった。


 原因は不明のまま、ひと月が過ぎた。

 レンドルの死を隠し通すのにも限界がある。これ以上は無理だった。密かに防腐処理を行わせた父の遺骸の爪は既に平常の色を取り戻している。竜牙草は証拠の残りにくい厄介な毒だが、今回に限っては好都合だった。爪の青さは大体二十四時間程度しか残らない。レンドルが毒を口にした事は遺骸を見る限り誰にも解らないだろう。


 実はフランヴェルジュは毒を持った人間に一人だけ心当たりがある。

 というか、そうであれば全ての辻褄が合うのだ。


  国王レンドルが自ら・・毒を呷ったならば。


 動機が解らない、否、フランヴェルジュ・・・・・・・・は動機を知っていては・・・・・・・・・・ならない・・・・

 だからその可能性をフランヴェルジュは無視し、出来る事だけを行った。


 国葬は、六月、しめやかに行われた。


 泣き叫ぶ民衆はレンドルが良き王であり良き治世を行っていたことを示すようでもあった。


 アユリカナは白いドレスで白百合の花冠を戴き、国王の棺と共に『真白塔』に入った。他者の前で決して涙を流すことのなかったアユリカナは、人知れず流した涙で荒れ果てたボロボロの顔を器用に化粧で隠しているだけ。


 誰も知らぬところで泣いて泣いて、ひたすら泣き続けたアユリカナは、レンドルとの永遠を願い、しかし後を追って自害する道を選ばなかった。


 彼女の生涯はこの『真白塔』で終わる事となる。

 国王レンドルの妻という生を全うする事、それがアユリカナの選んだ永遠。


 息子達は反対した。

 これからの数十年を幽閉同然に過ごす事を。


 だが、アユリカナは笑顔で言った。


「常にレンドルと共にある事、それがわたくしの喜びです」


 アユリカナのその態度に打たれた子供達は何も言えなかった。

 母がどれ程父を愛しているか、息子達はよく知っていたのだ。


 しかし、アユリカナにとって理由はそれだけではなかったのである。


 アユリカナは罪を犯した。


 どうしても許せぬものがあった。


 復讐ではないとアユリカナは思う。本当は、殺してくれと懇願されるまで痛めつけて慈悲を垂れるように殺してやりたかった。


 それを思いとどまったにせよ、罪は罪。

 後悔など欠片もしてはいなかったが、アユリカナは自分の影響力を知っている。感情のままに罪を犯しそれに罪悪感を抱けない自分は表舞台から退かなくてはならないと、そう思ったのも『真白塔』に入った理由の一つではある。


 レンドルの死を伏せている間に、アユリカナは無花果をレイリエに届けさせた。そして、王妃の離宮に秘密裏にレイリエを招待したのである。


 レイリエは行きたくなかった。

 アユリカナの事は生理的に嫌いだったのだ。


 愛する兄の、アシュレの初恋の人であるからかも知れぬ。叶わぬ想いに焦がされ、それからアシュレはアユリカナから逃げる為に臣籍降下を願い出た。手に入らぬのなら、傍にいることは苦痛でしかなかったからだ。

 それ以降アシュレという男はひどくとっつきにくい男になり、誰かが言い出した『女嫌い』という言葉が彼を示す言葉になった。


 あの女の招待なんて無視してやりたいけれど。

 レイリエは唇を噛む。


 それでも、レイリエに断る事は出来なかった。王妃の離宮への招待を断れば、社交界から排斥される危険があったからだ。

 それは好ましくない。


 それに、レンドルの死をまだ知らぬレイリエは少しばかり残酷な気分になっていたのもまた事実。


 貴女にお兄様は欲情しないけれども、わたくしの腹の上では大層良い声をおあげになるのよ?


 母親程に歳が違うといっても、やはり女であることに変わりはない。それに砕いた真珠のパウダーと、エメラルドやサファイア、ルビーなどの宝石を惜しげもなく砕いて、砂金と混ぜて目元を飾る義理の姉は美しかった。若さではレイリエが圧勝するとしても、女としての馥郁たる香りは、まだ、レイリエが持ち合わせないものである。


 いっそアユリカナが三人の子持ちであることに相応しく草臥れた、つまらない、美しさの欠片もない女であれば良かったのに。


 お兄様を二人も奪われたのだわ。


 レイリエの恨みと、虚栄心と、妬みと、復讐心は入り混じりすぎて元の色彩が解らない。


 でも、何故無花果なのかしら?


 メルローアにはない果物、輸入品である。


 馬車の揺れに身を任せながら、レイリエは不満だった。

 臣籍に下ったとはいえ、義妹である。

 その招待に高級品ではあるとはいえ、アユリカナの一度の化粧代にも劣る果実で招待をする神経が理解出来なかった。


 あの女は常識を知らないのだわ。


 やがて、馬車が離宮に着くと、侍女達から王妃の命令であると、着替えをさせられた。濃紺の絹に蒼のリボン。品の良い美しいドレスにレイリエは少しだけ気分を良くする。身体検査を兼ねてものだとはレイリエは気付かなかった。


 着替えが終わったレイリエは侍女に促されるまま、アユリカナの待つ部屋に足を運ぶ。

 そこに通されると、そこには侍女たちも誰もいなかった。自分を案内した侍女も丁寧な礼と共に辞去する。


 なんなのかしら? 随分厳重な人払いだこと。

 そもそも、自分を案内した侍女以外に人はいるのだろうか。着替えを手伝ってくれたのもあの女だ。

 奇妙だとレイリエは思ったが、すぐに笑いそうになった。


 王城で『王妃』であるアユリカナに従うものは多くてもプライベートな離宮で使えようとする者はいないのかもしれない。

 嫌いな女に人望がないかもしれないと思ったレイリエは本当に笑いそうだった。


 レイリエという女は何処までも単純で、賢さというものを持ち合わせてはおらず向けられる好意にのみ敏感、そんな女であった。


 だからレイリエは何も気付かず、これから起こることも避けられない。


 アユリカナには全て計算づくであったけれど。


 アユリカナは豪奢な椅子に腰かけたまま、窓の外を見ていた。窓辺で晩春から初夏への移ろいの香を愉しんでいるその姿は一種冒しがたい雰囲気に包まれていたが、新月の夜にぼんやりと外を見て何か考え事をしているかのようなアユリカナの心のうちは、レイリエにはさっぱり読み取れない。


 一体この女はわたくしに何の用があるというのだろう?


 考えても解らないままだが、ただ、このままでは埒が明かない。

「お久しゅうございます、王妃様」


 お義姉様ではなく王妃様とレイリエは呼び、その声にアユリカナはやっと視線をレイリエのほうに転じた。


「ようこそ、レイリエ。お久しぶりね」


 アユリカナは嫣然と笑ってみせる。


「この度はお招き下さり……」

「無花果はお召し上がりになって?」


 レイリエが挨拶を終えぬ間に王妃は言う。

 その一種高慢な態度がレイリエを激しく苛立たせた。


 それでも苛立ちを嚥下できたのは、目の前のいけ好かない女の最愛の男の子供を身ごもっている余裕だろうか。


「いいえ、せっかく頂きましたけれども、わたくし、あの果物は苦手ですの」


 お前の寄越したものなど口にしたくないという本心を隠しながらレイリエは言う。


 アユリカナはまた笑った。


「そう、残念ね。貴女とレンドルにはぴったりの果物だと思ったのだけれども。花をつけぬまま実を結ぶのよ、無花果は。愛情がなくとも子が生まれるのと同じね」


 その瞬間、レイリエはぞっとした。


 アユリカナは知っているのだろうか?


 レンドルが口にするとは思えなかった。アユリカナの愛を失うことを何より恐れるレンドルが口にしたのでなければ、では一体?

 単なるカマかけか?


 アユリカナは静かに立ち上がるとレイリエに向き合った。一歩、二歩、自然な歩みでレイリエの方に向かう。


「わたくしも無花果は嫌いよ、レイリエ」


 その言葉と共に、アユリカナは一瞬で義妹との間に広がる残りの距離を詰めた。

 そして、驚き、硬直するレイリエのその下腹部に強烈な一撃を拳で叩き込む。


 華奢で儚げであるアユリカナだが、王妃としてある程度の護身術は身に着けていた。

 ただ、それを暴力に変えて人にふるう経験は今までなかったけれど。


 レイリエが倒れる。悲鳴を上げる暇もなかった。何が起きたのか把握していたかも怪しい。


 やがて絨毯を赤いしみが濡らす。面白いように流れる血。


 無花果はわたくしも、大嫌いよ。


 アユリカナはただそれを見ていた。

 泣くでも笑うでもなく、ただ、見ていた。

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