第28話 氷姫の婚姻
二月の終わりにアユリカナは王都カリナグレイに戻ってきた。二月十九日のレイリエとハイダーシュの華燭の典に出席するため、アユリカナはファトナムールの王都にまで出向いていたのであった。
王族とはいえ、王位継承権も放棄し、尚且つ国を捨てた女の婚姻の為にフランヴェルジュもブランシールも動かなかった。否、動けなかったといったほ方が正しいか。
そして更に付け加えるなら、フランヴェルジュもブランシールも、レイリエの為に指一本動かすのすら嫌だった。
それに、レイリエの婚儀の日、つまりエスメラルダの誕生日は忙しかったのだ。
フランヴェルジュは発表こそエスメラルダの誕生日にすると決めていたが、式までに時間がない事もあり、人々を急かしていた。
こんな僅かな期間の婚約も、こんな急いだ日程の華燭の典も、メルローアの長い歴史を紐解けば似たような例はあったものの、やはり異質で。
そんな毎日を送るフランヴェルジュは王としての執務の他に細々とした事に気を遣わなければならず、周囲や家族の心配りがあっても中々大変であったのである。
そんな中、ファトナムールに行くと主張したのはアユリカナ自身であった。
フランヴェルジュとブランシールは反対した。当然の如く反対した。
もうレイリエは、メルローアとは何の関係もない人間だと言って。適当に使節を送るだけで充分だと言ったのだが、だが、しかし、こういうところは流石はフランヴェルジュの母親というべきであろうか。最後には自分の主張を通してしまったのである。
柔和な笑顔を湛えつつ、決して折れないのがアユリカナという女性だった。
そして式に出席して帰ってきたところ、息子達と娘、そしてこれから娘になる少女に熱狂的に迎えられたのだ。
アユリカナは静寂を必要としていた。
だが、そんな様は微塵も見せず、子供達の声に応える。
メルローアからファトナムールへの旅を共にしてきた御者や侍女、従僕、その他召使達に労いの言葉をかけるとアユリカナは旅の疲れも見せずに微笑んでさえ見せた。
そしてフランヴェルジュのエスコートで『真白塔』に向かう。
ブランシールもレーシアーナも、勿論エスメラルダもついていく。
フランヴェルジュの王としての執務は、今日の分は終っていた。母の帰城の日を把握したフランヴェルジュは全力で取り組んだのだが、素晴らしい集中力であり、執念であるとしか言いようがない。
塔の中につくと、テーブルの上にはお茶の準備が、滞りなく済まされていた。
エスメラルダとレーシアーナの計らいである。アユリカナの馬車が着く寸前にエスメラルダが焼き上げたスコーンはまだ温かかった。
「素敵ね。わたくし、ちょうど甘いものが食べたかったの」
アユリカナは息子が引いた椅子に腰掛けるなりそう言った。
「味の保障は出来ませんわ。見た目は良いのですが。味見をしようと思ったらアユリカナ様が帰っていらしたとの報せを受けてスカートたくし上げて走りましたもの。淑女だとは思えませんわね」
エスメラルダは笑う。
「貴女が手ずから焼いてくれたの? それではゆっくり味あわなくてはね」
アユリカナの言葉にエスメラルダの頬は染まった。
ブランシールが紅茶を温めてあったカップに注ぐ。アユリカナは砂糖ではなくアカシア蜜をその中に垂らした。席に着いたエスメラルダとレーシアーナもそれに習う。
茶会のような和やかな空気が流れていた。
アユリカナはスコーンに生クリームとジャムを塗る。その仕草が余りに色っぽいので娘達はどぎまぎしてしまう。色気の元は洗練だった。完璧に作法をこなしていながら、何事もないように振舞うその姿が艶かしかった。
エスメラルダとレーシアーナが幾ら美しいとはいえ、それは真似できる事ではなかった。年月がアユリカナに刻んだ美であったから。
スコーンを口に運んだアユリカナはゆっくりと咀嚼し、笑った。
「流石はわたくしの未来の娘ね」
エスメラルダの頬は茹でたように最早真っ赤だ。でも嬉しかった。そしていつか、というよりも五月の十日以降『母』になる人に認められたという誇らしさがあった。
「母上、エスメラルダはクッキーやパンも焼くのです。良い妻になると思われませんか?」
エスメラルダの隣の席に座るフランヴェルジュの言葉にアユリカナは声立てて笑った。
「貴方には勿体無い嫁かもしれないわね」
フランヴェルジュが頬を紅潮させた。
「母上!!」
「おお、怖い。ほんの冗談だわ」
ブランシールとレーシアーナは口をつぐんだままだった。ただ静かにお茶を飲み、スコーンに無闇に生クリームを塗りつけている。
誰も壊したくないのだ。この和やかな雰囲気を。だから沈黙する。
ただ、いつまでもそうやって逃げられるものではない事をその場の誰もが知っていたが。
そう。アユリカナも。
だから彼女が口火を切る。
話の導入の為にやんわりと話題を転換する。
「ハイダーシュ王太子殿下とレイリエの婚姻は見事なものでしたわ。わたくし達、決して遅れを取るわけにはいかなくってよ。建国二百年そこそこのファトナムールに負けてなるものですか。メルローアは芸術の国として名をはせているのですからね」
「そうですわね。今年七百四十七年目を数える我が国の威信にかけて」
レーシアーナがそう言った。
侍女として、今までブランシールの世話だけしていればよかった少女は突然、目の前に広がった世界に飲みこまれるようだった。王弟妃という立場は、レーシアーナが今まで見た事のない視点で世界を見る事を要求し、ただ一人の為ではなく国の為に、公務を割り振られるようになった。
そして、夜会になどでる機会が増えたレーシアーナは今この国が抱える問題を正しく把握していた。
国王の正妃として選ばれた娘が元は商人の娘である事を、年寄り共は見下し罵り、彼らの子供達自分の娘が選ばれなかった事に一通り文句を言うと面白いゴシップとして処理し、そして少女の年代の者はロマンティックな恋愛として噂した。
レーシアーナはそっと下腹部に手をやる。
お腹の子供は男であれ女であれ王位第二位継承権を持つこととなる。エスメラルダが婚儀をつつがなく終らせ、子供を産むまでは。
フランヴェルジュが婚姻を急がせ、婚約発表からたった四ヶ月しか準備期間を用意しなかったのもその所為である。
肝心の華燭の典の日時の発表からは三ヶ月もなかった。それがどんなに異常な事なのか今のレーシアーナには手に取るように解る。
ブランシールやその子を政争の道具にされたくないのだ、フランヴェルジュは。
そのためには一刻も早く婚姻を済ませ、エスメラルダを社交界、後宮、政治、外交、その他にも考えられうる全ての物事に対応させ誰もが異議を挟めなくしてしまうしかない。
ブランシールの子供を担ぎ出すものが現れる前にフランヴェルジュとエスメラルダ、二人の組み合わせを磐石にしておきたいのだ。
そして二人の間の子供が国を継ぐように。
「レイリエ様は、さぞお美しかったでしょうね」
エスメラルダはそう言うと上品にお茶を一口、啜った。
「美しかったですがやはり田舎ですね。ドレスがレーシアーナのものと比べれば幾分、野暮ったく感じられました」
アユリカナの答えを聞き、エスメラルダはカップをソーサーの上に置いた。
生きていただけでなく、未来の玉座まで用意されたレイリエに、エスメラルダは何となく嫌な予感がする。
牙がまた生えた。
歯が抜け替わるなんて、赤子ではあるまいし気味の悪い事。
普通の女なら、歴史は母国より浅いとはいえ一つの王国の玉座に座すことが決まった時点で、野望は達成されるであろう。
後は、贅沢三昧に走るなり慈善事業に駆けずり回るなり好きにすれば良い。それだけの権力を己の美貌と本能で勝ち取ったのだから。
だが、レイリエは権力だけに執着しているようにはエスメラルダには思えないのだった。
もし、アシュレ・ルーン・ランカスターが手に入るなら、レイリエはそんなものは壊れた玩具のように捨て見向きもしないであろう。
だが、アシュレは既に神の国にいる。
ならば何故ファトナムールの王太子に取り入る必要があったのか。
まさか恋をしたというのでは?
エスメラルダは楽観的に考えようとして、すぐにやめた。
レイリエがランカスターを愛したように男を愛せる女をエスメラルダは知らなかった。
エスメラルダは確かにフランヴェルジュを愛しているがレイリエと比べると自分の愛情が矮小な気がするのだ。
エスメラルダは毎日、心を雑巾のように振り絞り、泣きたい気分で、フランヴェルジュに愛していると言う。
愛しすぎて苦しい位なのだ。
手が触れただけで顔が赤くなる。目が合っただけで胸が高鳴る。抱き締められたら、窒息しそうになる。口づけを交わせば、脳が解けてしまったのではないかと思われるほどの快楽に翻弄される。
だけれども、それでも、レイリエの狂愛には勝てない気がするのだ。
何がそう思わせるのかエスメラルダには解らなかった。だけれども本能的に知っていた。
エスメラルダの愛が少ないというのではなくレイリエの愛が異常なのであろう。それに愛の形は人それぞれ違う。
そう思っても何処か納得の行かないところがあるのだ。
あんなに誰かを愛して、そう、魂削るように誰かを愛して、他の男を愛する心なんて残っている筈ないわ。
「レイリエ叔母は、何故ハイダーシュに嫁いだのであろう?」
エスメラルダが疑問に思っていた事を、フランヴェルジュはあっさりと母親に尋ねた。男性特有のデリカシーの無さが今のエスメラルダには羨ましかった。
「それは、簡単な事だわ。レイリエは誰にも頭を下げたくなかったのよ」
アユリカナはあっさり言う。
「……それは、どういう事ですか? 母上」
今まで一言も発さなかったブランシールが死人のように青褪めた顔をして尋ねた。
「貴方、具合が悪いのではなくて?」
アユリカナが心配そうに声をかける。
ブランシールはいやいやをするように頭を振った。
「僕は大丈夫ですから」
「レーシアーナ、夫の体調管理も妻の役目よ。ブランシール、これ以上何かを言う事は許しません。フランヴェルジュ、貴方はブランシールを寝室に連れて行って念の為御典医に見せるよう手配なさい。今日の話はたかだか結婚式の噂話です。政治的な談合ではありません。それでも退出した後の話の内容が気になるというのなら、自分のパートナーに聞きなさい」
ぽんぽんと、アユリカナは言った。
「母上、ファトナムールの国情などエスメラルダに伝えておいて下さい。ブランシール、行くぞ。肩を貸そうか? 抱いていってやろうか?」
「ひ、一人で歩けます!!」
ブランシールの声が裏返った。
その声を聞いてフランヴェルジュは弟の容態は思ったより悪いのではと心配になった。
息子達は母親には絶対忠誠である。
話が聞けない不満をとりあえずおいておいて、アユリカナの指示を守る為、退室した。
そして、表の門が閉まる音を聞くなり、アユリカナは盛大に溜息をついた。
「どうかなさったのですか? お義母上様」
「アユリカナ様?」
少女達の案じる言葉の前に、アユリカナは力なく笑ってみせる。
「平気です。あの子達がいなくなってほっとしただけ。あの子達ったらわたくしがからくり仕掛けの人形でないのを時々忘れるのよ。笑顔が崩れると駄目。言葉に詰まると駄目。駄目駄目だらけ。わたくしは完璧ではないのにあの子達はわたくしに完璧を求めるから疲れてしまうの」
エスメラルダとレーシアーナ、二人がアユリカナの弱った顔を見るのはこれが初めてだった。
「さて、男達がいないと遠回しの言葉を使う必要はないわね。気楽で良いわ」
子供達が聞いたらぐれそうな事をあっさりとアユリカナは口にする。
「レーシアーナもレイリエの事については色々と知っているでしょう? 相変わらず雀蜂たちは唸っているのかしら?」
アユリカナの言う雀蜂とは社交界のやんごとなき淑女たちをさすのだと知っているレーシアーナはこくり、頷いた。
「婚姻がすみましたし、もう少ししたら落ち着くのではないでしょうか」
エスメラルダの言葉にアユリカナは首を傾げた。
「どうかしらね。レイリエはまだ何かを企んでいるわ。ハイダーシュにはそこら辺は解らないのでしょうね。政の才は持っていても、女心まではわからない様子。ええ、それも相手がレイリエなら仕方のない事といえるかもしれませんが。わたくしも一瞬、レイリエはハイダーシュを愛しているのではないかと思いましたもの」
「愛の無い結婚なんて、虚しいだけなのに」
レーシアーナの言葉にアユリカナは笑った。
「レイリエの心は墓場よ。肉体は何か問題があって墓の下に入っていないみたいだけれども、その何かが無くなれば墓穴に飛び込むでしょうよ」
その通りだとエスメラルダは思った。
そして、恐らくレイリエをこの世に引き止めているのは自分だとも思う。復讐の二文字。
「ハイダーシュはレイリエにすっかり心奪われた様子だったわ。片時も側から放さないの。まるで肉をくわえた犬のように。レイリエの魔性のとりこになってしまったのね」
その時、またエスメラルダは嫌な予感がした。片時も放さないのならハイダーシュはメルローアにレイリエを伴ってくるかもしれない。そしてその時、エスメラルダが王妃となっていたなら相応の敬意を持って対応しなくてはならないのだ。
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