第27話 花結び

 フランヴェルジュのせわしない生誕祭の後、王弟とその妃になる娘の華燭の典は厳かに執り行われた。


 フランヴェルジュが意図したように、華燭の典の準備を任せられた者達は生誕祭に負けてなるものかと精一杯の努力をし、そしてそれは実を結んだようである。


 花嫁であるレーシアーナは、美しかった。

 真珠とレースで飾られた美しい花嫁。


 その頬は薔薇色であり、唇は熟れたさくらんぼであった。額の真珠が少し重たげに見える。白くて細くて少し長めの首が、重さに傾いだかのように見えて、その様は花嫁を益々愛らしく見せていた。

 他の誰が作っても、他の誰が着ても、ピエロになったであろうエスメラルダのつけた注文を反映したウェディングドレスは、完璧にレーシアーナを美しく見せた。レーシアーナは己が着飾る事にあまり興味は無い娘だがそれが勿体なく思える清楚な美しさを持っている。それに加え、幼い頃からずっと想っていた男との婚姻、ただ一人との未来を誓う喜びは、更に彼女を美しく見せた。


 澄んだ美しさ、そういう言葉が似あう花嫁を見た民衆は心から幸せを祈る。誰もが、この女性ひとを泣かせたくないと、ごく自然に思ったのだ。


 花嫁の隣に立つ男については民衆は見慣れている。

 それでも、華燭の典というものは不思議なもので、見慣れている筈の王弟が今まで晒す事のなかった表情を時折見出す事になる。


 一対の人形のようだ、そう後に人々は噂をする事になる。

 綺麗な、一対の金と銀の人形。


 ブランシールは秋の空色のサッシュに剣帯を身につけ、左胸に階級章を飾る軍人礼装である。纏う色はサッシュ以外はひたすら黒。だが、その黒のマントは銀糸で縁取られ、大変艶やかであった。


 似合いの二人組。

 そんな言葉がしっくりくる二人を見詰め、エスメラルダは小さく溜息をついた。


 王都カリナグレイは雪化粧に覆われている。

 昨日の嵐の名残が道路の両脇に高く積み上げられた雪であった。


 メルローアは道路の建設に多大な力を込めている。占領した国があったならまず道路を引いた。そして、メルローアの道路は全てカリナグレイの王城への道路に繋がっている。


 カリナグレイ中央門から真っ直ぐに王城に繋がる道は『彩季さいきの道』と呼ばれていた。

 所々に植えられた木々が四季の移ろいを見事に表してくれる美しい道である。

 だが、今はその木々も雪に覆われていた。


 『彩季の道』を開通させなければ他の道路も意味がない。こういう時、軍人達は子供達に銀貨一枚で雪を道の端に退かせた。『彩季の道』に繋がるほかの道路も同様である。

 決して軍人たちはサボっているのではない。その証拠に子供達の働きをつぶさに観察し、良く働く者には更に銅や飴が与えられるのだ。


 これは子供達にとって、大きな副収入になっていたのである。


 メルローアでは昔から子供達を仕事に使う風習があった。流石に貴族の子弟でもない限り戦場にまで連れて行かれることは稀であったが、カリナグレイなりエリファスなリ、何処の子供も重要な労働力として見られていた。


 子供に仕事をさせ、その仕事が決してただ働きではなく報酬が発生するという事で、子供達はメルローアの為に、『祖国の為』に、何かを成すと言う事を学んだのである。


 雪かきは夜明けと共に行われており、只今現在朝の九時、それは綺麗に片付けられていた。勿論、消えてなくなるわけではないので道路の両端には積まれてあったが。


 今日が王弟殿下と侯爵令嬢の婚姻の日である事は、子供達の間でもずっと話題になっていた事であった。


 雪の所為で早起きを強いられたが、昼からのパレード目当てに店を並べる露店では自分達の労働に相応しい菓子や玩具が手に入る筈。

 子供達は、うきうきしながら、昼までのひと時をまどろむ事に決める。

 パレードまでもう少し。手はかじかんで冷たいけれども心は熱い子供達であった。




◆◆◆

 そのパレードの前に神殿『純潔の白き宮』にてブランシールとレーシアーナは大祭司マーデュリシィの祝福を受ける事になっていた。


 王族の婚姻、戴冠、死亡、その時だけがこの『純潔の白き宮』が外国からの使節を受け入れる時であった。

 美しい建物に人はまず吃驚し、次にそこに君臨する大祭司の絶対的なまでの美貌に人は心うたれた。主と呼ばれる神の中の神たる方の愛娘、愛の女神ルシュラにも負けない美貌だと人は誉めそやす。


 だが、今日、マーデュリシィは鬱陶しいまでの視線の集中攻撃に遭わずほっとしていた。

 メルローア王家の末席にエスメラルダが座っていたからである。


 エスメラルダの美貌はマーデュリシィの美貌とはまるで違った。マーデュリシィの美しさは畏怖を持って語られるべきものだが、エスメラルダは、その炎のような情熱を、きちんと結った髪と伏せ目がちな視線で隠した、否、隠したつもりでいるのだが隠しきれていない活き活きとした少女であった。

 昨日婚約が発表されたというので、人々の耳目は自然エスメラルダに向かう。

 末席とはいえ王家の席に連なる事を許されているなら、昨日のフランヴェルジュの言葉は冗談や戯言ではなく本気であった事が解る。


「杯を」


 マーデュリシィの朗々とした声が響き、列席を許された者達は慌てて新郎新婦の方に関心を戻した。いよいよ儀式の最後である。


 杯に水が満たされる。ホトトルの湧き水だ。それを受け取ったブランシールは三口、口に含むと花嫁に口移しでその水を飲ませた。


「主よ、祝福を垂れ給へ」


 そして神殿での儀式は終了する。


 儀式が終り、昼食の後はパレードである。

 食事中は重要な外交タイムであったが、ブランシールは敢えて兄の手伝いに出ることはなく、身重の身でありながら儀式に臨んだレーシアーナを労った。


 ブランシールは怖かったのだ。兄に近づき過ぎる事が。

 また嵐の海に溺れるように兄への想いに溺れたくはなかった。


 ブランシールはただ、レーシアーナの為に生きたかった。レーシアーナの為だけに。

 それが婚姻の意味ではないのか?


 兄上、私はレーシアーナをただ一人と定めた。貴方ではなく、レーシアーナを。



 フランヴェルジュは、行きかう人々に無難な挨拶と小さな御世辞……御髪が以前より黒くなっていませんか? とか、そう言った他愛無い事……を振りまきつつ、ファトナムール王太子ハイダーシュの姿を探した。


 神殿でその姿を確かに見たのである。名簿にも名がしたためられていた。

 だからこの部屋にもいる筈であった。


 神殿の儀式だけ見て、それで帰るような使節はいない。役目が何にも果たされていないではないか。それにハイダーシュはかなりの頭脳と鍛え上げられた身体を持つ事が、このスゥ大陸の常識であった。


 馬鹿ではないということである。


 このホール『風切り羽根の間』の何処かにいる筈だ、居たら解らぬ筈がない。ハイダーシュの乳色の髪と赤紫の瞳。あの色彩は目立つ。


「フランヴェルジュ様」


 エスメラルダは勇気を掘り起こして自分の婚約者の許に行った。

 今日、カスラに知らされた事をお教えしなくては。ハイダーシュが何を言わんとするか。

 そう思うのだが二人になる機会はまるでない。そもそもフランヴェルジュと過ごす時間はないに等しい。


 エスメラルダはそれが寂しい。いや、寂しさならば我慢出来るが、自分が持っている外交の為のカードを王であり恋人たる男に渡す暇もないというのは、胸がつぶされそうな苦しみを覚えるのだ。


「何だ? エスメラルダ」


 フランヴェルジュがそう言って後ろを振り返った。愛しい少女。フランヴェルジュの宝。


 その時、エスメラルダとフランヴェルジュの立っている位置から丁度斜め向かいの隅に雀蜂の大群でもいるかのような猛烈な音が響きだしたのである。

 喩えて言うならば……ぶ~ん、ぶん、ぶん。ああ、多分それが一番近い音だろう。

 酷く耳障りでこの音を聞くたびにフランヴェルジュはうんざりする。


 淑女達が集っているようだった。


 その中央に乳色の髪を見つけ、フランヴェルジュはエスメラルダの動きを手で制すると、雀蜂もとい淑女達の輪の中に入っていった。


「陛下!?」


「フランヴェルジュ様!?」


 淑女達の悲鳴を無視して、フランヴェルジュは肝心要の相手に挨拶をした。


 やっと、見つけた。しかし大使の自覚はあるのだろうか。この国の王にまず声をかけるのではなく雀蜂達との会話を楽しんでいた男は噂とは違って馬鹿なのか、それともフランヴェルジュを苛立たせるためのこの男なりの戦略か?


「ファトナムール王太子殿下、お久しゅう」


「メルローア国王陛下、お久しゅう。丁度貴方の許に向かおうとしたのですがやんごとなき身分の淑女達に囲まれてしまって……」


 ハイダーシュの口調は困った事だと訴えていたがフランヴェルジュは騙されなかった。赤紫の瞳に、確かに挑むような光があったのだ。ハイダーシュは今年二十五だった筈だ。だがフランヴェルジュより年を重ねていても腹芸は出来ない様子。


 何か、撒いていた。

 淑女達があれほどまでに集るのは、よほどのゴシップか。


 嗚呼、本当に面倒でたまらない。


「淑女を無碍にするなど、ファトナムールの宮廷では許されておりませんので、失礼つかまつりました。改めまして、昨日はご生誕二十一年を数えられた事、誠にめでたき仕儀にございまする」


 二十二になったところなのだが突っ込むことはやめておいた。


 嫌味の心算なのだろうか? それにしてはこちらのダメージが少ない。

 単純に勘違いしていたのではなかろうかとフランヴェルジュは結論付けた。

 噂とは違い頭はよくないのかもしれん、ふとフランヴェルジュは思ったが顔には出さない。


「有難うございます。宜しければハイダーシュ王太子殿下、少し寒いですがバルコニーに出ませんか?」


 メルローアでは、パーティーの際、バルコニーには王、もしくは王太子とその選んだ客人しかいけぬ事になっていた。


「是非お願いしようと思っていたところ」


 ハイダーシュは唇だけで笑んだ。


 エスメラルダは脇の下を嫌な汗が伝うのを止められない。


 伝えられない。

 情報が足りないまま、フランヴェルジュはハイダーシュと向き合わねばならない。ハイダーシュは『あの話』をするつもりだろう。


 エスメラルダの思惑をよそに、二人はバルコニーに出た。


 カスラ。


 唇の動きだけでエスメラルダは命じる。


 話を一言洩らさず聞いてくるようにと。


 バルコニーでは、冷たい風が二人の髪をなぶった。


 肩甲骨まであるフランヴェルジュの金髪。

 後ろ髪は短く切られているが前髪は長いハイダーシュの白髪。


 二人はそれぞれ髪を押さえつけながら何から口にしようかと言葉を捜す。


 先に口を開いたのはハイダーシュだった。


「メルローア国王陛下に申し上げる」


 唐突にハイダーシュがそういったのでフランヴェルジュは吃驚する。だが告げられた内容は吃驚ではすまないものであった。


「先の王妹にして貴方様の叔母上、レイリエ・シャロン・ランカスターを妻とする事をお許し願いたい。レイリエ殿は今我が宮廷におられる。何でも、かの方が仰るには、陛下に私との婚姻を反対された故に国を出奔なされたとの事。私が夫では何の不都合がありましょうや? 先程の淑女達はまだレイリエ殿が静養中だと疑っていなかったとか。ですから私は真実を話しました」


 フランヴェルジュの頭の中には『?』マークが凄まじい勢いで山のように飛び交った。


 レイリエが、生きている……!?


 そう、フランヴェルジュは未だに『真白塔』でレイリエは焼け死んだと思っていたのだった。だから、まずそこから混乱する。

 フランヴェルジュがブランシールの仕事を疑う訳がない。だが、冗談で口に出来る事でもない。


「あの、貴方が仰る女性がレイリエ・シャロン・ランカスターであるという証は?」


 混乱の中で、フランヴェルジュは取り合えず考えうる事の出来る状況全てを当たっておくべきだと判断した。ただ、レイリエの生存を考えた事が無かったからか、その口から漏れた言葉は無防備で、フランヴェルジュは王として相応しい訊ね方ではなかったと思う。

 だが、フランヴェルジュは本当に酷く混乱しきっていたのである。


 『真白塔』の出火に関しては何から何までブランシールが請け負ったのだ。死体の埋葬の手配などでさえ。だからフランヴェルジュは何処にその死体がつい今までフランヴェルジュがレイリエの死体だと信じていたそれが何処に葬られているかすら知らないし、敢えて聞く事はしなかった。


 レイリエが死んだ事が外部に漏れたのだろうか。そしてレイリエという女を仕立て上げているのだろうか?


 だがその可能性は頭の中ですぐに棄却する

 メルローアの王族に生まれた女は継承権を持つが建前でしかない、形骸化されたもので純粋な意味で女が玉座に就いた事はない。一人女王を名乗る存在も過去にはいたのだが、結局彼女は王として葬られる事を拒絶したのだ。

 レイリエはその形式的な王位継承権すらも放棄したのだ。利用価値など殆どない。


 では、本物のレイリエが?

 生きて?


「貴方は必ず証を求められるであろうとレイリエ殿は仰っていた。これが証になるはずだとも」


 ハイダーシュは首筋に手を突っ込むと、一本の銀鎖を取り出した。そのトップは。


「緋蝶城の鍵……!」


 フランヴェルジュは思わず大声を出していた。緋色に着色された蝶々の意匠がその証拠。

 子供の時から見慣れていたその鍵は今はこの世に一本しかない筈であった。


 エスメラルダが持っていた鍵とアシュレの鍵、その二つはアシュレが醒めない眠りに就いた時、棺の中に入れられたのである。


 現存する唯一の鍵の所有者はレイリエだ。

 だが、鍵だけで全面的に信じてよいものか。


「貴方が私達の恋を邪魔なさったというので関税を上げました。本気をお見せしたくて。あの方の想いをお許しくださるなら明日にでも、ファトナムールの関税に対して、誠意を持った対応を取る予定です」


「叔母上に会いたいと思います。全ては……」


「なりません。あの方は陛下を恐れておいでだ。十まで時々おねしょをしていた話を誰彼構わず喋り倒されたくなければ……」


 それは脅迫というものだろう。


 しかし、フランヴェルジュは思い出したくもないその過去の情報故にレイリエが真実生きて牙を研いでいる事を確信した。


 なにせその情けない事実を知る物は殆どいない。

 

 おねしょ布団の始末をしてくれていたのは母、アユリカナである。侍女たちも知らない事実だ。着替えなどもアユリカナが用意してくれた。そして恥じる事はないのだと泣いている自分にいつも言い聞かせてくれたものだ。


『フランヴェルジュは人より過敏に出来ているだけ。神経質すぎるのは良くないけれども王となるのであればそれはまた美質。他人の気付かぬところまで心、配れると言う事ですもの。おねしょはそのうち治ります、大丈夫、きっとだから』


 その事をアユリカナ以外で知っているのはアシュレとレイリエだけである。ブランシールも知り及ぶところではない。弟にそんなみっともない話を知られるのは本気でご免被る。


「叔母上はご壮健であらせられるでしょうか?」


「はい、とても」


 ハイダーシュの笑みは凍るよう。

 流石は『氷姫』を妻に迎えようとする男……とでも言うべきなのか、唇に笑みを浮かべているのにうすら寒い思いがする男だ。


 フランヴェルジュは急いで決断してしまわなくてはならなかった。レイリエが生きているという話で事を進めるか或いは……。


 隣国の金鉱は魅力的だな、とふと思ってしまい、フランヴェルジュは慌ててその考えを頭から振り払った。戦で疲弊するのは所詮民なのだ。今は群雄割拠の時代ではない。フランヴェルジュもこのメルローアを守れたらそれで満足であった。


 身に過ぎた野心は破滅の元。

 そう、教育されてきた。


「で、メルローア国王陛下。私達の婚儀を許して頂けるのでしょうか?」


 フランヴェルジュに否やが言える訳もなかった。必死で無難な言葉を選ぶ。随分とハイダーシュは傲慢な態度の男だが、礼儀を知らない相手にも、フランヴェルジュは礼を尽くす。まぁ、敏い人間ならとんでもない嫌味をにこやかに文句をつける隙も無いように与えられていると気付くものなのだが。

 兎に角、嫌味がどうこうはこの際置いておく。

 ハイダーシュと同じレベルに自分を置く事も無い。


フランヴェルジュは王として完璧な笑顔でハイダーシュに言う。


「反対などしていなかったのです。ただ感性の鋭い人だから誤解なされたのではないかと。どうぞ、貴方の花に加えて下さいますよう」




◆◆◆

 パレードで、くたくたになって帰ってきたレーシアーナとブランシールに更に夜会が待っていた。


 ブランシールは疲れ以上に不思議に思うことがある。


 観察するように冷静な、それでいて突付けば大爆発を起こしそうな張り詰めた視線で自分を見つめるエスメラルダ。


 怒りを孕んだ視線。もしその目が邪眼であるならば、たちまちのうちに射殺されそうなほどの強さ秘めて、自分を見つめるフランヴェルジュ。


 一体全体何だと。


 婚姻の儀の煩雑さにはうんざりだ。それなのにあの視線。疲れが倍増する。


 レーシアーナは平気の顔をしている。

 妊婦であるはずなのにこの体力は何処から出てくるのだろうとブランシールは不思議に思うが何もレーシアーナが丈夫なわけではない。ブランシールの侍女として長い年月培った忍耐という言葉があるだけだ。

 レーシアーナは良い意味でも悪い意味でも甘ったれた貴族のお嬢ちゃんではなかった。


 その彼女は、侍女として仕込んだ娘にドレスの気付を手伝わせている。

 今度は赤いシフォンだった。上から見れば薔薇の花弁のように見えるハイウエストでゆったりとしたドレス。ガーネットを艶やかに飾りつける。


 ブランシールも着替え始めた。

今度は軍人礼装ではなく、王族としての礼装で、帯剣はするがそれは装飾用途の強いレイピアであった。サッシュは赤。レーシアーナのドレスに合わせてあるのである。

 赤い棒タイを結び赤瑪瑙のカメオでとめる。

 ブランシールの青い目に赤は映えないと思っていたが意外や意外。これが丁度良い調和を見せているのである。


「行こうか、レーシアーナ」


「はい」


 レーシアーナはすっかり花嫁の恍惚に浸っている。そんな彼女が愛しいとブランシールは思う。


 誰にも壊されたくない幸せ。


 それでも。あの金の瞳と緑の瞳。

 何とかならないものだろうか?


 そして『舞楽の間』にて夜会が始まる。


 玉座があり、そこにフランヴェルジュが君臨していた。

 その段のすぐ下の段に椅子が三つ用意されている。 座り心地よさそうなブロケード張りの椅子だ。


 フランヴェルジュから見て左にエスメラルダの席、右に弟夫妻の席が用意されている。


 その場にエスメラルダが現れて、フランヴェルジュはやっと一息ついた。


「寂しかった」


「まるで子供のようではありませんか。しゃんとしてくださいまし」


「未来の妻に甘えるのが禁じられるのなら、今すぐ弟に譲位してやる」


 その声が本気である事が怖い。


 フランヴェルジュは奇妙なところで子供っぽい。自分の理屈が間違っていようとも認めない時が、ほんの時たま、ある。

 普段は人の意見を聞く賢君であるというのにだ。どうやらフランヴェルジュはフランヴェルジュなりに譲れるものと譲れないものがあるのだろう。その見極めは非常に難しいが。


 仕方なくエスメラルダがフランヴェルジュの頭を抱きかかえていると、王弟夫妻はやってきた。

 ブランシールは、甲斐甲斐しく妻の身の回りの世話をする。椅子に座らせ、侍従に持って来させたひざ掛けをかけ。

 身重の彼女に踊れという者はいない筈だ。

 だからブランシールはずっとレーシアーナの側についていようと思ったのだが、しかし。


 楽隊が揃い音あわせを始める。


 エスメラルダはブランシールに挑みかかるように言った。


「踊って頂けませんか?」


 フランヴェルジュが目をむく。

 だがエスメラルダはフランヴェルジュを見ていない。少し考え、ブランシールは頷くとエスメラルダの手を取った。


 曲が流れる。スロウテンポの甘い曲。

 音楽の途中、エスメラルダはブランシールの耳に囁きかけた。睦言のような甘さで。


「わたくしがレイリエから毒を盛られ眠っている間に、『花』をお摘み遊ばして?」


 ブランシールは暫しの逡巡の後、答えた。


「ただ一輪」


 エスメラルダの頬は燃え上がった。一体どういうつもりで!? だが尋ねはせず、その代わりブランシールの耳に噛みつき、囁いた。フランヴェルジュからもレーシアーナからも見えない角度で、思い切り。


 仮に見られてもブランシールが騒ぎ立てない限り耳元にただ囁いたように見えるだろう。

 そして、ブランシールが騒ぎ立てる男ではないとエスメラルダは見切っていた。


「花代、頂戴致しまする」


 本当なら耳に歯を立てて思いっきり噛むくらいでは怒りは収まらないが。

 花嫁がわたくしの愛するレーシアーナであったことをお喜びなさいな。




◆◆◆


 夜会も終り、花婿は花嫁の支度が終わるのを部屋で待つ事になる。


 湯浴みをし、香油を擦りこみ、白い夜着に着替えてやってくるであろうレーシアーナをのんびりと待っていたら、フランヴェルジュが部屋の扉をノックした。


「兄上!?」


 ブランシールは驚いて駆け寄る。


 白ワインを持ってきたようだ。


「花嫁の支度にはまだかかるそうだ。俺の為に少しばかり時間を割いてくれないか? 野暮は言わん。レーシアーナが準備整い次第出ていく故に」


「兄上、どうなされたのです?」


「俺がこれから尋ねる事に母の名にかけて真実を答えると誓え」


「何です? いきなり」


 ブランシールは困惑の表情をする。

 だが、すぐに兄の口臭から相当の酒精を体内に摂取している事が感じられたので、大人しくその言う事を聞く事にした。


「誓え」


「はい、我が母、アユリカナの名にかけて」


 鮮やかに、フランヴェルジュの黄金色の瞳が煌く。


「レイリエは生きているのか?」


 ブランシールは硬直した。


 何故今日はめでたい日である筈なのに、自分にとって都合の悪い問題ばかりが持ち上がるのだろう?

 因果応報という言葉の意味を、ブランシールは噛み締める。


「答えよ! あの女は生きているのかと聞いている!!」


「……はい」


 ブランシールは正直に答えた。

 兄は知っているのだ。何故かは解らぬが。


 そして聞いているのではない。

 確認を取っているのだ。


「レイリエは僕が逃がしました。この国に二度と足を踏み入れないのを条件に。何処に行ったかは知りません。御者に信用の置けるものを選びました。三日で帰ってくるように行ってあったのに何時までたっても帰ってこなかった……」


「殺されたか」


 フランヴェルジュは苦々しげにそう言うと白ワインのビンに直接口をつけあおる。


 殺されたか。

 僕や父上のようにのように腑抜けにされたか。


 考えると怖くなる。

 あの女は毒蛇だ。


「あの女がどうなされたのです?」


 ブランシールの言葉に、フランヴェルジュはかいつまんでハイダーシュから聞かされた事を聞かせてやった。


「……殺しておくべきだった!!」


 苦渋も露わに言う弟に兄は問う。


「何故殺さなかった?」


「それは……」


 ブランシールは口ごもる。

 誰が言えようか! 腑抜けにされて完全に溺れさせられて、そしてとりこになってしまったなどと!! 積極的に軽蔑さえ感じるレイリエ相手に。言えよう筈がない。


 最初、レイリエに触れる前に思っていた気持ちのままにレイリエを逃したのであれば……人殺しを厭う兄の心に添いたくて殺さなかったのであれば。


 もしそうならどれ程良かったことか。


「言えぬか……父上と同じ、か?」


 はっと、ブランシールは瞠目した。兄を見詰める。見詰めてその瞳の奥に深い理解の色を見て取って、ブランシールは唇を噛み締めた。知っていたのか。ああ、知って。


 死んでしまいたい。


 そして、ブランシールは頷いた。

 うなだれたといったほうが早いかも知れぬ。


 その弟の身体をフランヴェルジュは抱きしめた。


「なっ……!? あに、うえ……?」


「お前が人殺しでなくて良かった」


 どくん! と、ブランシールの心臓が跳ねた。


 駄目です、嫌です、兄上。

 また貴方の虜になる。

 また貴方を誰にも触れさせたくなくなる。


「叔母を殺せなかったお前だ。死体もどうせお前がやったのではないのだろう?」


 そう、あれは死体置き場から引き摺ってきた。罪もない人間を殺す事は出来なかった。


「……はい、兄上」


 するっと腕が解かれた。


「邪魔したな、新婚初夜だというのにすまぬ。俺は退散する。ハイダーシュの許に居るのが恐らく本物のレイリエ叔母だと確認が取れただけで満足だ」


「兄上……」


「有難う」


 イカナイデという言葉を嚥下するのに酷く時間がかかった。だが、ブランシールは、それでも笑って見せた。笑うしかなかった。




◆◆◆

 カスラの報告を聞き、また質問し、気付けば日付が変わっていた。


「ご免なさいね、疲れたでしょう。わたくしったら自分の都合ばかり」


 エスメラルダが謝るとカスラは首を振った。


「主を戴く身であるという事は幸せな事です。カスラの一族はエスメラルダ様の為なら何でもするでしょう。本来なら命令違反で一族郎党皆死を言い渡されたとしてもレイリエを始末すべきだったのです」


「カスラ……」


「我々の忠誠は貴女様が思っていらっしゃるようなものではないかもしれません。貴女様の望みとはまるで違う事をするかもしれません。それでも、これだけはご理解下さい。我々は貴女様を愛しているのです、エスメラルダ様」


「ええ」


 重い気分を抱えて、エスメラルダは返事をした。


 愛は感じる。だから余計辛い。


 何故そこまでしてくれるの?


「カスラ……」


 エスメラルダは隻腕の女を呼んだ。


「何でしょう、エスメラルダ様」


 エスメラルダは言いたかった言葉を飲み込む。ああ、たった一言であるのに!


『主を戴く身であるという事は幸せな事』


 その言葉を聞く前ならば言えたかもしれない一言。それとも、逃げているだけか?


「……今日はわたくしももう寝ます。お前もお休み。そして明日からハイダーシュから目を離さないで」


「は! 心得ましてございまする。……明日からはさぞかし賑やかになる事になるでしょうね」


「あら? どういう意味?」


「宮廷雀なんて可愛らしいものではありません。雀蜂の大群がロマンスの末に国を捨てたレイリエを持ち上げるでしょうね。あれだけ『氷姫』と忌み嫌っていたにも拘らず、哀れ可憐な姫君と陛下を責めるものが出てくるやも知れませぬ」


「噂好きのクソババァ共の事を忘れていたわ。思い出させてくれて有難う、カスラ。で、その場合はどう対処したら良いのかしら?」


「政治や社交の場では時として沈黙が尤も効果的です。何を言われても顔色一つ変えず、淡々とんなすべき事をなされば宜しいのです。人は時として噂陰口誹謗中傷に悩まされるが余りなすべき事もなせず、信用を失ってしまいます。常に誠実である事も大切な事です」


「有難う、カスラ。今度こそ、本当にお休み」


「は! では御前失礼致します」


 すぅっとカスラが影に溶けた、と、思うと再び現れた。


「どうしたの? カスラ」


 今までにない事にエスメラルダは驚く。


「申し訳ありません、大切な事をお伝えし忘れていました。我々は神殿には入れません」


 カスラの言葉にエスメラルダは息を呑んだ。カスラが入ってこられないところがあるだなんて!? 何故!?


「何故なの?」


「結界が張ってあるのです。マーデュリシィの結界を超える力は、残念ながら我々には」


「でももう神殿に行く事なんてないと思うわ。わたくし達の結婚式までは。だから大丈夫よ」


「そうだと宜しいのですが。くれぐれもお気をつけ下さいまし」


 そう言うと今度こそカスラは影に溶けた。

 エスメラルダは少しばかりその影をじっと凝視する。


 目が痛くなるまでそうしていたが、やがて何度か瞬きを繰り返し、独り言を呟く。


「明日はアユリカナ様との時間を何としてでも設けないとね。アユリカナ様なら他の事も知っていらっしゃるかもしれないもの」


 エスメラルダはそのまま寝台の布団に倒れこんだ。


 結婚式って忙しいものなのね。

 わたくしの時はどうなるのかしら?


 そこでエスメラルダははたと気付く。

 婚約はした。


 だけれども何時結婚するのだろう?


 これも明日確かめなければならないわ。


 フランヴェルジュには、メルローアの王家には、婚姻を急がなくてはならない理由があるのだから。


 何て忙しい一日!


 泥のように疲れていた身体は貪欲に眠りを要求してきた。そしてそのままエスメラルダを飲み込んだ。








 レイリエとハイダーシュの婚姻は二月十九日、レイリエの強い要望でエスメラルダの誕生日に行われた。


 ファトナムールが王太子妃を戴くというその日、フランヴェルジュはエメラルドの指輪と以前から作らせていた首飾りをエスメラルダに贈り、彼女を正妃と迎えるという正式文書を発表、式は五月十日と定められた。


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