第15話 転換期 前編
「ねぇ」
レーシアーナは唐突に言った。
「貴方の間諜にわたくしの未来の夫についての事を探ってもらえないかしら? レイデン家にはそのような人材的財産はないの」
レイデン家は侯爵家ながら没落している。間諜どころか警護の兵を雇うのですら困難なのではなかろうか? レーシアーナが覚えてる実家というものは、侍女や従僕すら最低限、いやそれ以下だった。
エスメラルダは目を眇める。
ブランシールの事なら既に探らせている。だけれども、その内容をレーシアーナに知られたくなかった。同時に知られたくもあった。その内容こそ今レーシアーナが喉から手が出る程欲しい情報である事も理解しつつ、レーシアーナと出会うまで友を持った事のないエスメラルダは友人と取るべき距離感が解らない上に、レーシアーナが悲しむ顔を見るのが辛くて、そして怖いと思ってしまうのだ。
夏の気配が猛々しいくらいに漲るある午後。
日陰で冷たい檸檬水を飲み、氷菓子を食べる。普段なら他の淑女達も礼儀上、呼ばなくてはならないのであるが、幸いな事に大物と目される淑女達の大半が避暑地に出かけていた。
そして『自分が王都に残らねば政が滞る』と考えている淑女達にはレーシアーナは体調を悪くしたのだと丁寧なカードと花束を贈った。
故にエスメラルダは『お見舞い』に来たわけだ。
本当は庭園の日陰ではなくレーシアーナの部屋に籠るべきかもしれないのだが、レーシアーナは未来の王弟妃として婚約が発表されたその日からつけられた侍女達の事を思うとそれを躊躇してしまった。まだ信頼関係は築けていないからだ。
今、レーシアーナが聞きたい事は人払いしてあってもそれでも他人に聞かれることが怖い事。
強固な結界に守られるが故に警護の兵が最小限、決まったところにのみ配置されレーシアーナにまとわりつくことのない庭園を、だからこそ彼女は選んだ。
仮病を使うことに少し躊躇いがあったレーシアーナであったが、彼女は何としてでもエスメラルダにのみ会いたかった。いや、それはいつもの事だ、邪魔な客人まで招かないとお茶会が成立しないのは本当に鬱陶しい事この上なかった。それでも、自分が愛した男が王弟という身分であり、彼が求めてくれたという事実故に鬱陶しい事を頑張ってこなしていたレーシアーナが初めて自分のやりたいようにやった。
ただただブランシールの為に。
努力する理由も、我を通す理由も、レーシアーナの場合、結局は一人の男に起因する。
「ブランシール様は変わられてしまったわ」
レーシアーナは言った。
「そう、『真白塔』の最上階が焼けた時か、その前後よ。何だかおかしいの。いつも上の空でいらっしゃるわ。陛下だけがブランシール様を元に戻せるの。聡明で思慮深いブランシール様に。でも陛下がいらっしゃらないと駄目なの。……悔しくて堪らないけれど、わたくしでは駄目なの。わたくしと二人の時間も持って下さるわ。でも、二人きりでも虚ろな目で、わたくしの後ろに誰か居るかのように、焦点の合わない瞳で何処かを見てらっしゃるの。陛下に申し上げようかとも考えたけれども、それをしたらブランシール様は一生わたくしを許しては下さらないわ。解るの。ブランシール様は……!」
「もういいわ。レーシアーナ」
エスメラルダはハンカチーフを取り出す。
レーシアーナの頬はいつの間にか涙に濡れていた。
泣き顔を見たくなかったから言うべきか言わざるべきか悩み続けていたのに、結局泣かせてしまった。
きっとレーシアーナは知っているのだわ。
エスメラルダはそう思う。
ブランシールの秘密を。
レーシアーナが未来の王弟妃と決まって、レイデン家は再興された。まだまだ没落貴族と呼ばれる事には変わらないだろう。今はまだ貧しいままの筈だ。しかし、もうそろそろ結納という訳ではないが纏まった金と高価な品々が王家より授けられる筈だ。そしてこの先、事あるごとに王家は金品を授ける。元々の家格が高いそこではこれからの王賜の品々もしっかり計算に入れた打算的な者達が集まり、現在はとても華やかな様相を醸し出していると聞く。
だが、レーシアーナはその実家には寄り付きもしなかった。レーシアーナは自分が幼い頃父親に売られた事を、許す事は出来ても忘れる事は出来ないのだ。
レーシアーナは今のレイデン家がどうなっているのかすら知らないかもしれない。エスメラルダが会話に出す事すら嫌がるレーシアーナが会話の中でレイデン家と口にしたが、本当に必要な時以外家名を口にする事すら、レーシアーナはしようとしない。
レーシアーナは城に新たな部屋の数々を賜った。そしてサロンの一つを。
そこで開かれる茶会。それに何度か出席したエスメラルダは色々な人々の思惑を見る。
そして兄弟揃って顔を出すフランヴェルジュとブランシール。
ブランシールは、兄の後に従うように、背中を守るようにたたずんでいる。
フランヴェルジュは鷹揚に構え、淑女達の微笑を集めている。淑女達は少しでも国王陛下の歓心を買いたいのだ。
サロンでの何気ない会話が夫の、恋人の、父の、兄弟の、出世に繋がるかもしれない。勿論その逆も有り得るが。
エスメラルダは不思議な感じがした。
そして此処は自分の居場所ではないと強く感じた。
わたくしは、素のわたくしでいられぬ場所でなどいられない。
それでも茶会に出席したのはレーシアーナの為であった。少しずつ萎れていくかのような友の為であった。
可哀想なレーシアーナ。
そのレーシアーナは婚約者が変わってしまったと泣いている。
自分がすべき事はどちらであろう?
真実を言うか。
嘘を貫き通すか。
いや、言うべきだ。尋ねられなかったから言わなかったという言葉はもう通用しない。
だけれども。嗚呼、なんとわたくしは弱いのかしら!
「レーシアーナ……おかしいといっても、わたくしは以前のブランシール様を存じ上げないのよ。それに、お茶会に時折顔を出されるブランシール様は普通の方に見え……」
「エスメラルダ! 違うのよ!! 確かにあの方はおかしくなってしまったけれども狂ってしまった訳では……!!」
「ああ、もう!」
エスメラルダは不意に苛ただしい声を上げた。レーシアーナがびくりと体を震わせ、言葉を飲み込む。
言いたくなかったけれど、それは自分が可愛かったからだ、そう、エスメラルダは唐突に気付いた。心からレーシアーナを愛している心算だ、出会って間もない彼女にそうするのは不思議と自然に出来た。当たり前のように愛せた。
だが、その愛する相手を自分は思いやれていただろうか?
そして、わたくしは卑怯な人間だわ。
「貴女は気付いているのでしょう!? で、どうしたい訳なの!? わたくしの古ぼけた頭では答えは出ないわ! 貴女が毒のような真実、貴女自身の疑いについてわたくしから確証を得たいのか、それとも慰めて欲しいのか解らないわ!」
エスメラルダは優しい言葉を選べない。
それは、自分の醜さ、卑怯さに苛立ったのか、それとも、優しい言葉で告げるにはエスメラルダの器が足りない言葉を口にしようとしているからか。
レーシアーナは言った。一瞬も迷う事無く。
「毒のような真実を。たとえわたくしがその毒に負けて死んでしまっても構わないわ。わたくしは貴女を恨んだりしない。だから教えて。本当の事だけを。貴女の言葉から察するに、新たに間諜を送り込まなくとも、貴女は何かを掴んでいるのでしょう?」
「『
間髪おかず、エスメラルダはそう告げる。躊躇えば口をつむぐ言い訳を探す己を知っているからだ。
レーシアーナは恨まないと言ってくれた。
もしかすれば、自分が可愛くて今の今まで告げられなかった卑怯な自分が一番恐れていたのはそれかもしれない。レーシアーナの涙より、恨まれてレーシアーナを失う事こそを、きっと一番に恐れていた。
「それから『
レーシアーナのその言葉に、エスメラルダは頷く事しか出来ない。
やはり、と、レーシアーナは思った。
それは近頃流行の水煙草である。しかしただの水煙草ではない。
危険な薬物。
『花蜜水の煙管』は精神を恍惚とさせ、幸せな幻を見せる。
対して『夜月の露煙管』は『花蜜水の煙管』を中和させる。意識を明瞭にし、現つに返し、体中の神経を落着ける。
どちらも、まだ国が麻薬に準ずる毒としては指定していないが、それも恐らく時間の問題だ。法規制ももうそう遠くない、中毒性のある水煙草。
「知っていたのね……」
「ええ」
レーシアーナは頷いた。
「流石にわたくしの目の前で吸ったりはなさらないわ。でもね、幾らミントの葉を噛んでも、少しは匂いが残るものだし……その、口づけの際によ? その際になのだけれどもね、甘い味と共に頭がくらくらする事があったの。それで見当をつけていたのだけれど、そうでなかったら良いなと思っていたのよ。でも」
「でも?」
問い返すエスメラルダの言葉に、レーシアーナは笑ってみせた。頬は涙で汚れてはいるが、もう泣いてはいない。
レーシアーナはエスメラルダの思う何倍も強くて凛とした女だった。
「真実は受け入れるわ。それから何とかして危険な水煙草をお止めになって頂かなくてはならないわ。あれは心臓に悪いのでしょう?」
「あなたが強い人で良かったわ。わたくし、貴女がお友達であるという事を誇りに思うわ。そうよ。あの対の水煙草は毒といってもよい物よ。わたくしの手の者に言わせると強い中毒性があって、最後は廃人になるのだそうよ、でも」
「でも?」
今度はレーシアーナが問い返す番だった。
エスメラルダは俯く。
己が恥ずかしく、そして申し訳なかった。
「貴女に自分からこの話題を持ち出す勇気がなかったの。早くお止めしなければならないと解っているのに……。 わたくしは罪だと感じるわ。見殺しにしていたも同然じゃない。勿論、二人きりでなければ話せない話題だったわ。でも手紙に書くことも出来た筈だわ!」
エスメラルダの叫びは血を吐くようだった。
手紙は、人が見る可能性もあったからとても難しくはあった。それでも、茶会の際にこっそりと人知れず渡すことは不可能ではなかった筈なのである。
「ねぇ、エスメラルダ。いいのよ、苦しまなくって」
レーシアーナはそう言ってエスメラルダの肩に腕を回した。優しい声だった。
「知っていたけれども確信が抱けなくて、わたくしはただただ泣いていたわ。貴女が知っている事を教えてくれた事でこれからどうすべきか、冷静に考えられるわ。有難う。貴女は最高のお友達よ」
「わたくし、そんな風に言ってもらえる資格はないわ」
ふるふると、エスメラルダはかぶりを振った。レーシアーナは肩に回していた腕を一旦離すと、エスメラルダの手を取って自分の腹の上に置いた。
そしてレーシアーナは誇りに満ちた顔で笑む。
その笑みが意味する事に思い当たった時、エスメラルダは全身に電流が走ったように感じた。
男女が結ばれれば、起こりうる奇跡が、レーシアーナにも訪れて何の不思議もないのに考えもしなかったけれど。
「貴女……まさか……」
「解ったのは昨日よ。でもまだ正式な発表はしないわ。安定期に入るまではね」
「赤ちゃん? そう? そうなのね、レーシアーナ!!」
「そうよ。まだブランシール様にもお伝えしていないの。医師に診てもらって解ったのだけれどもブランシール様は会議中だったし、アユリカナ様にだけお伝えしたの。貴女は二人目。赤ちゃんの為にも、ブランシール様には強くなって頂かないとね。禁断症状が強かろうが水煙草とは縁を切って頂かないとね」
エスメラルダは眩しいものでも見るような目でレーシアーナを見詰めた。事実、眩しかったのである。
「レーシアーナ……何だか凄くあなたが強く見えるわ。さっきまで泣いていた娘と一緒の娘だなんて思えないわ」
「母は強し、よ。そうそう、アユリカナ様が貴女にお会いしたいのですって。何時でも良いから『真白塔』の一階のお部屋に……ってアユリカナ様は仰っていたわ。わたくし、自分の事で頭がいっぱいになっていたのね、大切な事を忘れかけていたのが恥ずかしいわ。ごめんなさい、エスメラルダ」
エスメラルダは瞠目する。
「王太后様が?」
そしてエスメラルダの人生の中でまた一枚、カーテンが開けられるように未来が広がる。
◆◆◆
「まぁ、レーシアーナ! 貴女ってなんて良い娘なのかしら。わたくしが『会いたい』と言ったらすぐに連れてきてくれるのですもの。貴女がエスメラルダね。会いたかったわ」
「王太后陛下にはご機嫌麗しう……」
「やめて頂戴。エスメラルダ。大仰な礼は必要ありません」
アユリカナはそう言うとにっこりと笑った。
黒い喪服を着て、真珠を髪に絡ませ、喉元にも見事な真球の真珠を飾った未亡人。その顔はうっすらと化粧で彩られている。だが、先王の代と違いあくまで薄化粧、嗜み程度の化粧にしか過ぎない。
とてもとても美しい女性だった。
子供が三人もいる女性だとは到底思えない。その美貌故に『
そんなアユリカナはエスメラルダにとって忘れられない男の名前を口にする。
「アシュレは貴女の事ばかり話していたわ。その貴女にどれ程会いたかったか。貴女が婚姻前だというので国葬の場に一般参列者としてしか出る事が叶わないと聞いた時、わたくし、腹が立って仕方がなかったわ」
どくんと、エスメラルダの心臓が鳴った。
エスメラルダの苦しみ。
ランカスターの葬儀は今でも胸につっかえている事だった。
「こちらにいらっしゃい、エスメラルダ、レーシアーナ」
アユリカナは二人の少女が言葉を挟む隙を与えず、先にたって歩いた。
出たのは塔の中心部の園庭。
「『真白塔』は変わった建てられ方をしているのですね」
エスメラルダが正直な感想を洩らすとアユリカナは笑う。
エスメラルダはこの塔はもっと寂しい場所かと思っていた。しかし、この塔は上空から見たら白いドーナツにでも見えるのではないだろうか。庭を丸く囲むように塔が建てられている事にエスメラルダは驚いた。そしてその庭には季節の木々や花が溢れんばかりに咲き誇っている。
アユリカナはその庭園にしつらえられた大きな天蓋つきのテーブルセットに少女達を誘う。二人が席に着くと冷たい飲み物が運ばれてきた。
「変わっているでしょう?」
アユリカナは説明する。
『真白の塔』は王族の寡婦の墓場だと噂されているが、真実、幽閉同然の生活をするわけではないのだと。
流石に人々の目に見えるところでくつろいでいる姿を見られるのは外聞が悪いと、庭は塔にくるりと囲まれるような形になっているのだと。
見事な庭園だった。
美しく整えられ、鳥の囀りすら響く庭園。
「楽しく暮らしているわ。愛しい人達を思って、それに、時にはこんな可愛いお客様達を招いたりして、ね」
くすくすとアユリカナは笑う。
エスメラルダは一気にこの女性に興味を抱いた。
アユリカナの笑顔に嫌味なところは何一つなかった。自然で優しい笑みだった。
茨の王冠、剣先の玉座。
そこに座していた女性はまるで少女。
だが、決して愚かではないのが解る。聡明な瞳はしっかりと見開かれていた。今見ているものを何一つ見逃さぬというように。
フランヴェルジュと同じ色の瞳。
そこには卑しさは、微塵もなかった。驕りは、欠片程もなかった。
「あの」
アユリカナの瞳に見つめられている事に耐え切れず、エスメラルダは口を開いた。
「わたくしをお呼びになられたのは……」
「一つは、アシュレの妻を見たかったから」
アユリカナは一言で言いきった。
「華燭の典を挙げてなかろうが、枕を交わしてなかろうが、貴女はアシュレ・ルーン・ランカスターの妻である筈です。違いますか?」
エスメラルダは静かに首を二度、上下に振った。
「わたくしは、ランカスター様の、アシュレ様の妻です」
レーシアーナは言葉も出せずに王太后と親友を見詰める。
二人の間では空気が張り詰めていた。
殺気とも違う。
強い強い思いが交差しているのだ。その心が織物を織り上げる糸のように、縦に横に、張り巡らされる。
アユリカナが満足げに笑った。その時、エスメラルダは気付く。
「国葬の際、雨に濡れていたわたくしを馬車に乗せるよう部下に命じられたのは、貴女様ですね? 王太后様」
紋章の付いていない、しかし立派な仕立ての馬車。
よく教育された御者は、礼を述べて誰に仕える者か尋ねても決して主人の名前を漏らさず、礼の言葉以上のものを断固として受け取らなかった。
「そんな事もありましたね、エスメラルダ。アシュレは、自分が死んだ事よりも貴女を置いて逝った事が辛かったでしょう。貴女が自分の葬儀で雨に濡れて、もし肺炎にでもなって自分を追うような事があれば……わたくしの可愛い義弟の魂はきっと狂ってしまったに違いないとそう思ったのです」
たいした事ではないようにアユリカナは認めた。あの時どれ程嬉しかったか礼を言おうとしたエスメラルダは、しかし言えなかった。
アユリカナがさっさと先を進めたからだ。
「さて、二つ目ですが……わたくしは、一つ、お願いがあってレーシアーナに貴女と会いたいと伝えました。手紙を出して招待するのは……この塔に住む者が自ら動いて積極的に人との関りを持とうとすると、少し厄介なのです。だから出来なかったのだけれど、わたくしはどうしても貴女に頼みたい事があったのです」
アユリカナの顔から微笑が消える。
「レーシアーナを守る為、王宮に入ってくれませんか? レーシアーナの友として相応しい待遇を用意します。御願いします」
「王太后様……」
先程、此処は自分の居場所ではないとはっきりと思ったところだ。
いや、それは何度も何度も繰り返し思い続けたことであった。
だが、しかし。
「狂気に陥ったブランシールからこの娘を守れるのは、恐らく貴女だけです」
「そして陛下と」
エスメラルダは言った。
アユリカナは知っているのだ。ブランシールの秘密を。だから自分などにその様な事を『頼む』のだろう。幾らでも命令出来る身分でありながら、平民に過ぎないエスメラルダに『頼む』アユリカナという女性は、とても変わった女性だが、エスメラルダは既にアユリカナが好きだった。
そのアユリカナの顔に光が差した。
エスメラルダが正確に自分の息子達を理解している事に驚きつつも、それが嬉しかった。
「……レーシアーナは貴女が賢い女性だといっていましたが。まだ十六という歳でも、解りますか。年で侮っていてはいけませんね」
アユリカナは一人、納得する。
エスメラルダは微笑んだ。王太后様は今、自分の、このエスメラルダと言う人間の奥の奥まで見詰めようとしていらっしゃるのだ。
どう評価されるかは解らない。及第点に達しないかもしれない。
しかしアシュレの声が心に響くのだ。泰然とあれ、と。
アユリカナは暫しの間をおいて言った。
「やはり、貴女には王宮に入って頂かなければなりませんね。この頭で良いのなら幾らでも下げましょう。どうかお願いします。エスメラルダ」
立ち上がって頭を下げたアユリカナに、エスメラルダもレーシアーナも慌てて立ち上がった。
「勿体のうございます。王太后様、お顔を上げてくださいまし」
エスメラルダはその白い手でアユリカナの手を包んだ。
尊い身分の方に、こちらから触れるのはとてつもない無礼だ。それでも、身体は勝手に動いてしまった。
アユリカナの手は小さい。子供のように小さな手。だけれども、エスメラルダの手を握り返してくるその手には力を感じる。
この手で、アユリカナは三人の子供達を、夫を、メルローアを守ってきたのだ。
「亡き人の義姉上様、親友の未来のお母上様、そしてメルローアの国母たるお方のお言葉に逆らう事など出来ましょうか? 否にございます。王太后様。しかも、その内容は親友の為のもの。王太后様の未来の娘の為のもの。承りましょう。何の役目も持たずただ朽ち果てていくだけの寡婦の……寡婦のような身のわたくしに新たに役目を仰せ使わされ有難き幸せにございます」
大仰な言葉になってしまったとエスメラルダは一瞬思ったが、よくよく考えれば平民に過ぎぬ小娘が国母たる女性に申すのであれば、もっと丁寧な言葉でも良い筈である。宮廷や至尊の位の相手への言葉を母もアシュレもちゃんと知っていた筈なのにエスメラルダには教えてくれなかった。二人とも必要を感じなかったのだろう。エスメラルダとて、王であるフランヴェルジュや王太后であるアユリカナと個人として会話する事など昔は想像すらしなかったのだから。
自分の言葉はなかったことに出来ない。受ければ緑麗館に暫くは戻れない。自分が在るべき場所を暫く……恐らく長い間留守にすることになる。
けれどレーシアーナの為ならば、そう思う。
そして、既に好意を抱いてしまった女性の言葉であれば。
エスメラルダは王太后というその身分の者に言われたから自分の行動を決めた訳ではない。
自らそれを良しとした。
「エスメラルダ……」
アユリカナがぐっと手に力を込めた。
「エスメ……」
レーシアーナの呼びかける声は埋もれて行く。涙の中に。嗚咽の中に。
自分のみを真実、ここまで思いやられて嬉しくない筈があろうか?
ああ、大好きなアユリカナ様。
ああ、愛しいエスメラルダ。
「エスメラルダ。一つだけ。わたくしの出来る事でという条件付ですが願いを叶えてあげましょう。何か願い事はありますか?」
「今は御座いません、王太后様」
エスメラルダは即答した。
アユリカナはさほど驚いた様子も見せずに言う。
「今なければ、出来た時にでもわたくしにお言いなさい。叶えましょう。わたくしの出来る範囲で」
「有難うございます、王太后様」
エスメラルダの返事に、アユリカナはすっとエスメラルダから手をほどき、指先をちっちっと振った。高貴な身分の女性がやる仕草ではないが、アユリカナがやるとそれすら気品高く見えるのが不思議である。
「アユリカナと呼びなさい。王太后はわたくしの役目、位であってわたくし自身ではありません。わたくしはね、二つの事がとても嬉しいのよ。貴女が素直にわたくしの頼みを受け入れてくれた事が一つ。もう一つはアシュレの妻が立派な女性だと感じた事。アシュレは登城の度に貴女の自慢をしていたわ。
『一国の女王とするにも相応しい教養を与えた。美しさ、気品は元から備わっていた。だが、あの娘は他の誰でもない、私のものになるのだ』
ですって。あの子は何にも執着しなかったわ。絵を描くことは別だけれど、あの子にとって絵を描くことは大地に指で刻む事でも出来る事だったから、特別な事ではなかったのよ。でも貴女だけは違った。貴女だけはアシュレにとって特別だった。アシュレの心を捕まえて離さない。レンドルともよく話していたものよ。エスメラルダってどんな娘なのだろうって。でもアシュレったら臆病なの。あなたが他の男に取られるのが怖くて結婚してしまうまでは決して王都には踏み入れさせないだなんていうのですもの」
絵姿すら見せようとしなかったわ、そう言いながらくつくつとアユリカナは笑い、エスメラルダは目を丸くした。
そんな恥ずかしい事をランカスター様は仰っていたのかしら?
身に過ぎた言葉だとエスメラルダは思う。
本当に、ランカスター様ったら!
だけれども、本当に想われていたことをエスメラルダは知った。
アシュレという男は好きだとも愛しているとも言ってくれたことはなかった。ただ、愚直なまでに態度で示した。愛されているのだとエスメラルダは思っていたが不安に思った事がなかった訳ではない。
愛の言葉を強請らなかったは、自分が女としてアシュレに愛の言葉を言えなかったからだ。男として見ていたわけではなく家族としてしか見られなかったからだ。
けれど、アユリカナの言葉はアシュレの愛を肯定するそれだとエスメラルダは思い……。
ふと、違う男の面影が心に割り込んだ。
エスメラルダから花を摘み、唇の熱と舌というものの甘さを教え、更に好きだとさえ言ってくれた男。
愛しいという言葉の意味を教えた男。
いや! 今、思い出す事じゃない。いや、お願い、今は考えさせないで……!
助け舟を出したのはアユリカナだった。
「いつ、王宮に入れますか? 部屋はレーシアーナの隣の部屋を与えます。貴女が入城出来る日に合わせて準備させましょう」
「お心遣い有難うございます。わたくしはすぐに準備を整える事が出来ます。アユリカナ様の良いと思われた日に」
「では、一週間で準備を整えて下さい」
「解りました。アユリカナ様」
乱れた心をあの男の母たる人に知られなかった事に、エスメラルダは微かに安堵する。
一週間。それだけあれば準備をすることは容易い事だ。
泣きながら、レーシアーナは二人のやり取りを聞いていた。涙が止まらないのは何故だろう?
「まぁ、レーシアーナ、そんなに泣いてはなりませぬ。お腹の子に悪影響ですよ。貴女は母となるのですから」
アユリカナの言葉に、レーシアーナは涙を拭いながら頷いた。
レーシアーナはアユリカナが自分の為にエスメラルダをこの城へ迎えようとしていたことを初めて知った。
エスメラルダは自分の為に呑んでくれた。
これほどまでに大切にされて思われて、泣いている場合ではないのだけれど。
だけれども、嬉しくて涙が止まらない時はどうすればいいのだろう?
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