第14話 陰と陽 月と太陽 後編

 その夜、レイリエは天井を眺めながらじっとベッドに横たわっていた。


 この塔は高貴な身分の者が囚われる塔。

 正確には王族の地を組む女を籠める塔。もしくはアユリカナのように表舞台から身を引いた王族の女性が残りの一生を過ごす塔。


 ベッドも豪奢で布団もちゃんと干した布団だった。黴臭さなど何処にもない。それなりに精緻な刺繍すら施されている柔らかな羽根布団だ。最後にこの塔に囚われた女は誰だろう。この部屋は囚人の為の部屋だがもしかすれば布団は新品かもしれない。


 王家の女が囚われたことなどレイリエが生まれてからはなかったとレイリエは記憶している。それは特に誰も罪らしい罪を犯していないからなのだが、レイリエは違う解釈をする。王族が仮に罪を犯したところで王族であれば本来許されたはずだ、と。それほどまでに王族というものは尊く、今自分がこんな目に遭っているのはフランヴェルジュが恋に狂い理不尽な事をしたせいだと。


 そこでレイリエはフランヴェルジュを恨むよりもフランヴェルジュを狂わせたエスメラルダが悪いのだと認識する。本当の罪人は王族である自分を陥れたのは生きているのか死んでいるのか知らないがエスメラルダだと認識する。


 あの女こそ、死体になっていても更に手足を切り刻んで首をさらしてやらねばならぬくらいの悪魔だわ。


 とはいえ、今の現状を把握しよう。

 此処は何としても出なくてはならないところだが、それも出来るだけ早く、勿論裁かれる事なく、毛ほどの傷もつけられずにだ。


 しかし侍女も従僕もいない静けさは初めて味わうが案外孤独ではなく、出る為の策を考えるのには適している。そう、居心地は悪くない。


「もっと恐ろしいところかと思っていたわ」


 レイリエは自嘲するように笑う。

 自分を次に待ち受けているものは何なのだろう? 生涯の幽閉か? 居心地は兎も角若く美しい自分がこんなところで孤独に朽ちるなどごめんだ。


 看守が男なら誑かすのは容易い。

 女なら、少し面倒だがまぁなんとでもなる。同情を買えばいいのだ。


 わたくしは国王の叔母。先王と母を同じくする妹。


 その時、ノックの音が響いてレイリエは一瞬びくっと身体を震わせた。


「叔母上、起きていらっしゃいますか?」


 その声はブランシールのものだった。

 レイリエは驚く。


 ブランンシールが、こんな時間に何用だろう? 何故看守でも何でもない王弟である彼が? いや、自分を捕らえさせたのはあの兄弟に間違いはないのだが。


「女性を訪問する時の礼儀位、守って下さらない? それとも、賊まがいの真似をして連れて来た女に、そんな気遣いは無用だとでも? 今が何時かご存知?」


 もう鐘を鳴らして時間を知らせる時間ではない。レイリエだとて時計のない此処では何時かわからないが二十一時だとか二十二時だとかいう宵の口ではない、真夜中であることは解る。


「解っていますよ。だからいきなり開けずにノックしたのです。女性に対する気遣いや配慮が欠けている事は認めます。どうかお許し頂けませんか?」


 下手に出てこられると、レイリエの胸に甘い満足感が広がった。特に相手がブランシールだという事で更に。

 死ぬまで自分に靡かなかった愛する男の若き日にそっくりの顔と声の男。それが自分に丁重な言葉をかけている。

 無礼であろうとも許してやろうではないか。

 動かない肖像画と違って生きて動いて言葉を交わせる、アシュレの面影を宿す男なら。


 きっと昼間見た乳房が忘れられないのだわ。男なんて、何て単純な生き物なのかしら?


 ブランシールを味方につけておけば心強いという事もレイリエは計算している。まだ若いのに国王からも、誰からも、一目置かれている男。彼の言葉はとても重い。


 それに、彼は大層女の喜ばせ方が上手だと、淑女達の噂で聞いた事がある。


 この身体で確かめるのも悪くないわ。


「一寸待って頂戴。ええ、きっかり二百秒経ってから入って来て下さらないかしら」


 レイリエはそう言うと自分の服装の乱れを点検して顔をしかめる。


 滅茶苦茶だわ。


 確かに乳房の谷間が艶やかなのは認めよう。だが、これでは強姦された娘だ。胸元を露わにする為に取る手としては悪手だった。レイリエの中ではその胸元に惹かれてブランシールが塔に忍び込んだ事になっているので完全な悪手ではないと考えるが、もう少し情緒的な誘い方をすればあの時点で何かが変わっていたかもしれないと思うのだ。

 自分はもっと男というものの誘惑の仕方を、手練手管を知っている筈なのにと、そうレイリエは少し自分に腹が立つ。


 ばさりとレイリエは服を脱ぎ捨てる。この格好なら露わな裸体の方が余程美しいし、より扇情的だ。


 レイリエは背中で紐を結ぶコルセットではなく、あまり貴婦人に好まれない前で紐を縛るコルセットを愛用していたから助けがなくとも一人で脱ぐことが出来たのは不幸中の幸いだった。前開きのコルセットはその点が良い。男に脱がされるのを待たなくとも、コルセットの紐をほどく姿はとても官能的に見えるようで、そして男は細いウエストや突き出す胸に心惹かれるくせにその恩恵をもたらすコルセットを脱がせるのを案外面倒くさがる。


 その時、ふと目の前でよいものを見つけた。

 裸体を見せつけるより更に男を煽る方法を見つけてにやりと笑う。


 窓に掛かっていた夜が開ける直前の様な藍色のカーテンを引っ張った。その拍子に金具が取れてレイリエは満足する。

 そのカーテンを体に巻きつけ、レイリエは唇を噛み、頬をつねった。


 完璧だ。鏡はないが、レイリエは自分が男を夢中にさせる姿をしていると確信する。


 ぎぃっと、音立てて扉が開いた。レイリエは準備が間に合ったことにほっとした。

 完全に美しく蠱惑的な自分でなければならない、失敗は許されないのだから。


 月明かりの下、レイリエは確かに美しかった。そして彼女の思惑通りブランシールは扉のところで一旦立ちどまり、レイリエを仔細に観察する。そのブランシールの姿を見てレイリエは勝利を確信した。


 ブランシールは微かに笑う。

 そう、美しい。美貌だけで言うならエスメラルダに勝るかもしれない。

 だが、レイリエには品がなかった。王族の血筋にありながらも、レイリエは娼婦に見えてしまう。


 勝利を確信したところでの相手からの微笑を見て、レイリエは大層満足だった。

 微笑の意味を理解出来るほどレイリエは賢くなかったし、ブランシールは己の内心を隠すのが上手かったのだ。


 ブランシールが一旦立ち止まったのは自分の美しさに感銘を受けたからであろう。

 此処から出るのだ。

 今はこれしか方法がないのだ。

 ブランシールの心を掴んで虜にして、そして彼自身が自らの心でこの塔からレイリエを解放してくれるように。


 レイリエは艶やかな微笑を見せた。

 ブランシールには毒々しく見える微笑だった。だが、構わずブランシールはベッドに近づいた。レイリエはそれを黙って見ている。


 窓から風が入り、ベッドの帳を揺らす。

 そしてブランシールはレイリエの許に辿り着いた。

 唇を重ねるのは同意の上であった。


 レイリエは満足していた。

 ブランシールの口づけの技巧にうっとりしながら彼の背中に爪を立てる。所有印。


 お上手ね。


 一旦唇が離れる。

 唾液が糸を引いた。

 淫靡なキスにレイリエは体中の力が抜けてしまったような気がする。


 これでは噂にもなろう筈だわ。こんなに巧みなキスをするのなら、身体を重ねたときにはどれ程の快楽が待ち受けているのかしら?


 その瞬間、レイリエは塔から出してくれと懇願するのを忘れていた。生来の血が疼く。男が欲しいと。ブランシールが欲しいと。

 だから彼女は腕を振り解かない。背筋をなぞるように挑発すらしてみせる。


 もう一度、あの甘美なキスが欲しい。


 目を閉じて、唇をすぼませる。

 睫毛を震えさせれば戦く処女に見える筈だ。


 ブランシールはその顔を見ながら吐き気を堪えていた。

 ブランシールにとってただ不快なだけの女。

 だが、今までそんな種類の女と何回枕を交わしただろう。


 それでも、考えに考えた末に今自分がどうするかの最善として選んだ方法、それが彼女を抱くことだった。彼女を抱いて、そして……。


 心の底から想う兄の心に添うために。

 添ったとしても、それを兄に告げることは出来ないけれど、それでも、それでも真実を告げられずとも兄の心に添いたい。

 その思いが吐き気も不快感も無視させる。


 手馴れた腕で、ブランシールはレイリエを寝台に押し倒すと唇を寄せた。


 空が白むまで、二人はベッドの上にいた。




◆◆◆

 エスメラルダは目覚めてから二日後、きっかり一週間後には緑麗館に戻った。


 レイリエの事は任せてくれとフランヴェルジュとブランシールに言われていたが、エスメラルダは本当ならレイリエの顔を両手の爪で引っかいてやりたい位憎んでいた。

 殺してやりたいとは思わない。あの女と同列になるのは嫌だったし、エスメラルダ自身も認めていた美貌をあっさりと「醜い」と言い切りながらも傍に置いていたアシュレの異母妹でもある女を殺してやりたいと思うのは罪であるように思う。


 あの女ご自慢の顔に傷をつけてやったら、どれ程愉快かしら?

 ダラだけでは足りないの? あの可愛かった子犬。腸を抜かれて殺された子犬。もうランカスター様はいらっしゃらないのにわたくしを害さないと気がすまないと思っているの? わたくしがランカスター様の妻になったかもしれないから?


 それは十分すぎる程に有り得る話だった。


 レイリエの兄に対する執着は異常だった。

 愛だの恋だのを知らぬエスメラルダだからそう思ったわけではない。自分の感情としてそういうものを覚えたことはないが、男を愛する女なら普通に見てきた。恋する女もまたしかり。

 それでも、レイリエのそれは常軌を逸していたと思う。


 エスメラルダはいつも怖いと思っていた。

 よくあんな強く想われてアシュレは靡かなかったものだ。アシュレは醜いと言い切るがレイリエは美しい女であるのに。

 異母妹だったから惹かれるのを我慢していたとは思えない。何故傍に置くのか理解できない程アシュレはレイリエを眼中に入れていなかったし、うっかり視界に入ると酷くその目は冷たくなった。


 そしてエスメラルダをひたむきに愛してくれた。その愛情もある意味異常なほどのそれだったのだがエスメラルダはそれには気付いていない。

 ただ、レイリエに憎まれる理由としては十分。だから、恨めしいのは解る気がする。心の総てを傾けて転ばぬ男が、何処の骨ともわからぬ身分も何もない女を自ら選び愛したのだから。


 だけれども、まさか毒まで。


 エスメラルダの心に、暗い復讐の思いが宿る。だけれども、それも一瞬の事。


「エスメラルダ様!!」


「ご主人様!!」


 使用人達の顔に宿る自分への愛情を見た時、エスメラルダは幸せに包まれた。


 嗚呼、やはり此処がわたくしの帰る場所だわ。


「有難う、わたくしの留守の間、よくこの館を守り抜いてくれましたね」


 エスメラルダは微笑むと、使用人達を皆呼び集めて一枚ずつ銀貨を配った。

 そして砂糖菓子も。

 本当はもっと労う品を奮発したいが、常識の範囲内とされる品にしないと自分の大切な者達が他者に仕える者達からやっかまれることになる。母からそれを教わった時は理由が解らなかったが、今は理解出来た。そして、仕える者達を守るのも主人の役目だ。恐らく母なら、これでもやり過ぎだと怒りはしないが嗜めるだろう。

 しかし、心から感謝しているのを表したかった。だからエスメラルダにこれ以下というのは無理な相談である。


「皆には本当に感謝しています。お前達がこの館を守ってくれていなければ、わたくしは帰る場所さえ失うところでした」


 エスメラルダの言葉に、皆が恥ずかしそうに黙る。その表情は笑顔。お互いを肘でつつきあったり、互いの顔を見合わせたりしつつ彼らは笑っていた。

 砂糖菓子や銀貨を喜んでいる表情ではなかった。

 何かを隠しているのだ。それも、彼等にとって非常に胸躍る出来事を。


「駄目よ、わたくしに隠し事は通じなくってよ。お前達、何を考えているの?」


 エスメラルダが言っても、彼等は笑うだけであった。笑って誤魔化して。


 エスメラルダは段々不機嫌になる。感謝していた自分を忘れた訳ではないが、彼らは今までエスメラルダに隠し事などしなかったのにと思うと、どうしてもご機嫌とは言えなくなってしまう。


 元々絶好調の気分の精神状態とは言い難いのだ。


 そして彼女は自分がのけ者にされるのは嫌いなのだ。


 そう言えばさっきまで側に居たマーグは何処に行ったのかしら?


 きょろきょろと、エスメラルダは周囲を見回した。居ない。


「お前達、マーグは……」


「お待たせ致しました、エスメラルダ様」


 何処に行ったの? という言葉を口に出す前にマーグはにゅっとその巨体を玄関から覗かせた。

 使用人達が歓声を上げる。


 エスメラルダは益々不機嫌になった。


 わたくしが主人なのに……! 何故皆に隠し事をされねばならないの?


 だが、大慌てで走ってきたのか、汗だくのマーグが背中から紙箱を見せた時、エスメラルダの興味はそこに集中した。白くて大きな紙箱だった。


「それは何? マーグ」


「エスメラルダ様、まずはご覧下さい」


 すっと、箱が捧げられ、エスメラルダはそれを受け取る。


 入っていたのは、緑のドレスであった。

 決して高級なものではなかった。いや、充分に高級品なのであるがエスメラルダの経済観念からすると普段着のドレスであった。

 柔らかい綿繻子のドレス。

 そこには細かな刺繍が刺されていた。スカートの下から半分は黒い木綿糸で刺繍された蔓草模様である。

 とても愛らしく素朴なドレスだった。


「皆が少しずつお金を出し合って買ったドレスです。エスメラルダ様のご回復を祝って」


 マーグの言葉に、エスメラルダは泣きたい位嬉しくなった。不機嫌な顔を晒してしまった自分が恥ずかしかった。皆が彼女の事を慕ってくれていることも、嫌がらせもするはずがないのも、ちゃんと解っていた筈だ、隠し事をするなら自分の為であるだろうと何故見当をつけられなかったのか、幾ら病み上がりでまだ足に力が入らない状態であろうとも、それでも何故自分はあんな表情を晒したのだろうと心から恥じた。


 使用人達は最早笑ってなどいなかった。


 神からの審判を待つ人のように静かにエスメラルダの言葉を待っていた。


「有難う……お前達」


 エスメラルダの声は震えていた。

 とてもとても嬉しくて。


 そして幸せだった。


「このドレスを早速身につけたいと思います。この館のホールでのパーティーが相応しいかとわたくしは思います。皆、パーティーをしましょう。ランカスター様がご存命の頃何度も開いた無礼講のパーティーを」


 エスメラルダの言葉に、皆が歓声を上げた。

 緑麗館は蜂の巣をつついたかの如く大騒ぎとなる。パーティーという言葉は胸踊るもの。


 エスメラルダ様のご無事のお祝いだ! そう誰かが叫び皆が何度もエスメラルダの名前を呼んだ。


 久方ぶりの……アシュレが他界してからの初めての身内での無礼講のパーティー。


 ランカスター様が生きていらした頃はパーティーはしょっちゅうだった。そう、エスメラルダは思い出す。


 これからは使用人達を労う為にパーティーを盛んに開こう。城の夜会などより余程良いものだわ。




◆◆◆

 それから一週間後の真夜中、『真白塔』の最上階から火が出た。

 レイリエの部屋である。

 油による火災だったらしく、水をかけると火の勢いが更に強くなり、そして消火に来た者達からは幸いにも死者こそ出なかったが、怪我人は沢山出た。

 砂をかけ、何とか類焼を防いだ人々は真っ黒焦げの焼死体になった女の遺体を発見する。


 怪我など何処にも見当たらなかった。

 恐らく、焼身自殺だったのだろうと、消火の指揮を取った男は言った。


 フランヴェルジュには弟が手を下したのだと解った。しかしその弟は何処へ行ったのか。


 火災の直前に、『真白塔』から何者かが馬車を走らせた事は、誰にも気付かれなかった。


 月だけが見ていた。




◆◆◆

 ブランンシールは苦悩する。

 膝に頭を埋めて苦悩する。


 父上、漸く貴方の仰っていた言葉の意味が解ろうとしています。

 ですがもう手遅れでしょう。


 災いの種はまかれた。


 何だか嫌な予感がするのは何故でしょう?


 それは真実『彼女』の恐ろしさを知ったから。骨の髄までしみたから。

 いや、支配されたのだ。

 足の先から髪の毛の一本まで完全に彼女に虜にされたから。


 だから、有り得ないと解っていても恐怖が沸き起こるのだ。


 どうしても、兄が知る事がなくとも兄の思いを守りたかった。

 人を殺すことを心の底から忌避する兄の思いに自分も添いたかった。

 兄は自分が手を下したと信じるだろう。いや、信じてくれなければ何の為に自分は今壊れてしまったのか。だからそれでいい。


 これはただの自己満足。


 ただ、随分高い対価を払ってしまった事に気付いたのは、自分がその対価を差し出してからというのが情けなく、ここまで恐怖に染まっていなければ狂人のように笑っていただろう。


 父上、貴方は今の僕と同じように苦悩されたのでしょうか?


 だが、もうあの女はいないのだ。


 それだけが――救いだった。




◆◆◆

 翌日、ブランシールは目の下にくっきりと隈を作って兄の居室を訪れた。

 毎朝の習慣は覆されるわけもない。


「ブランシール、お前……」


 フランヴェルジュは弟を抱き締めた。そうすることしか出来なかった。

 昨夜、何があったのか聞かなくてはならなかった。フランヴェルジュだけは、ちゃんと把握しておかなければならない事であった。

 だが、そんな話は朝食の前に相応しいだろうか?


 それに聞きたくないと思ってしまうのだ。自分の責任から逃れる者を軽蔑していたフランヴェルジュは、今己を心の底から軽蔑する。

 考えたくない、そしてそのことをブランシールの口から言わせたくもない。

 目の前に座る弟が叔母に当たる女性を焼き殺した……きっとそれが事実であるのに。


 フランヴェルジュは昨夜、必死に考えた。元々思考用に作られていない頭で、懸命に。だけれども、何が正しく何が間違っているのか解らなかった。


 フランヴェルジュが愛するものを守る為に確かにレイリエは邪魔でしかない。いや、滅ぼさなくてはならない敵だとも解っている。


 それでもだ。


 自分で手を下していればこんなに辛くもなかったのだろうか。


 出来もしない事をフランヴェルジュは考える。自分が人を殺せるとは思えなかった。人に命じてという事すら出来ぬから死刑に処すべき人間が、未だ牢獄でいつ刑が執行されるのだろうかと怯えているというのに。


 昨日までは、『真白塔』からレイリエ死亡の報が届かない事に、安堵していた。

 だけれども、昨日は──。


「兄上、食事に致しましょう」


「あ……あ、そうだな」


 フランヴェルジュは席に着いた。ブランシールもそれにならう。


 朝食が運ばれてくる。

 フランヴェルジュとブランシールは何事もなかったように食事を摂り始めた。

 サンドイッチにスープにサラダ。

 よく朝食に出てくるメニュー。いつも通りの朝。


 だが。


「う……!」


 フランヴェルジュは椅子を蹴るように立ちあがると洗面台に食べたものを吐きだした。

 弟の前で、フランヴェルジュの為に手を汚した弟の前でこんな姿を見せたくはないのに!

 別に毒が入っているわけではないのだ。

 ただ、受け付けない。身体が拒むのか心が拒むのか。


「兄上!」


 立ち上がり駆け寄ったブランシールが背中をさすろうとすると、フランヴェルジュは身体を固くした。

 ブランシールは諦めたように苦笑を浮かべると伸ばした手を引っ込める。


 そう、兄はこういう性格だ。

 だからこそ、何よりも愛おしく守りたい存在なのだ。


 ただ、自分が兄の思うようにレイリエを殺した訳ではないとは絶対に言ってはいけない。

 言えば兄は自分が罪を犯さなかったことを喜ぶだろう。その代わり愛する者に危害が加えられないか、その事に恐れ続けなければならない。

 そんな風に、誇り高い兄の日常が常に恐れに支配されるくらいなら、兄を変えてしまうくらいなら、まだ自分を嫌悪された方がましだ。


 そう考えたからブランシールは抱きたくもない女を抱いたのだ。


 『太陽』、エスメラルダの絵が彼を見ている。


『気をつけておくことね。あの娘は禍つ子。必ず貴方達の運命を狂わせるわ』


 今はもういない女の言葉を思い出す。


 エスメラルダを夜会に招きさえしなければ、僕達の運命は狂わなかったと?

 緋蝶城のアトリエで、エスメラルダの絵を見出さなければ僕たちの運命は狂わなかったと?

 それは有り得ないとブランシールは思う。何故ならもう、ブランシールは自分が壊れているという自覚を持っているからだ。


「済まなかった、ブランシール」


 フランヴェルジュの言葉が痛い。

 潔癖な兄には昨夜の事が頭で理解していても感情が追いついてこないのだろうという事がブランシールには悲しい位に解ってしまう。


「ブランシール」


「はい、兄上」


「背中をさすってくれないか? どうも玉子が悪かったらしい」


「解りました」


 玉子!? そんな筈ある訳ない事位ブランシールはよく知っている。だがフランヴェルジュから接触を許してくれたのだ。

 まさか、触れることを兄から許してくれるとは思ってもいなかった。一生触れられない訳ではなかろうが暫くは、心の整理が済むまでは何年でも避けられる覚悟もしていたというのに。


 嬉しい。

 けれどひどく胸が痛い。


 ブランシールは兄の広い背中をなでながら、いつの間にか泣いていた。号泣に変わるまで、そう時間はかからなかった。


 何故泣くのだろう。兄が触れることを許してくれたからか? 自分が兄の心に添いたいと願ったが故に犯した間違いが自分を壊してしまったからか?


 いつの間にか兄の腕の中に居た。

 焦がれて焦がれて堪らないその場所にいる事を許されたというのに。


 それでも、ブランシールは泣き続けた。


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