第16話 転換期 中編
緑麗館は閉める事無く置いておく事にした。
アユリカナは館の一つくらい何ともなく運営させることが出来るだけの報酬を約束してくれたし、準備金だといって更に金をくれた。
エスメラルダにはその金を受け取らなくとも緑麗館を運営するだけの財産はあった。アシュレが遺してくれてはいたが、敢えて金を受け取った。
自分が逃げ出さないように、自ら退路を断つために。
蒼氷館は閉じる事にした。
レイリエが死んだと聞かされて、本来ただ国家の物になる筈の蒼氷館が何故かエスメラルダの物になると聞いた時はひどく驚いたものである。
『レイリエの死後はエスメラルダが全ての財産を継ぐ』
アシュレはとんでもない遺言書を作ったものである。これでは、仮にレイリエが誰かと結婚して子を産んでもその夫や子供ではなくエスメラルダが継ぐ事になるではないか。
しかし、アユリカナが笑って暴露してくれた話によるとアシュレは財産の総てをエスメラルダ一人に遺すという遺言書を作って先王の眉を思いっきりしかめさせたのだという。レイリエはどうなる? そう聞かれて初めてレイリエの事を思い出したアシュレは、
『そんなことまで心配しなければならないのですか? アレの事などはっきり言って死んだ後までお守りするのはご免です』
とまで言ったそうだ。
ランカスター様にとってレイリエとは何なのかしら?
結局レイリエにも財産を遺さなければならないとなって、そうなると財産分与であまりにも露骨な差別を付けた時の――つまりは緋蝶城をエスメラルダに遺した時のレイリエの暴走をアシュレが心配した結果、彼は緋蝶城とエリファスを王家に返還する事を決めたらしい。ただし、正式な婚姻の後は異母妹など知った事か、全部妻の正当な権利だとアシュレは兄王に言いきり、レンドルはそれを飲んでいたというから……考えると頭が痛くなる。
兎に角、今の蒼氷館の主はエスメラルダだそうだが、売ってしまうのも他の誰かに貸すのも嫌だった。だからと言って自分の物だとも思えなかった。
だからエスメラルダは、全力でこの案件を投げた。一つ願いを叶えてやる、そう言ったアユリカナにこの件を放り投げたのである。
この館の外見を見ていると胸苦しい気持ちに襲われたので、外見を完璧に変えるよう建て替えて国の施設とするよう、アユリカナに話をつけた。アユリカナは快く了承してくれた。こんな事で願い事を使っても良いのかと聞かれたが、自分では触れたくない事で、誰にでも任せられることではないこの件に願い事を使わないとしたらいつ使うというのだろう?
慌しく王城に旅立つ準備をしていると、エスメラルダの許に金色の組紐でくくられた漆塗りの書状箱が届いた。
手紙ではなく、正式な形で届いたそれを何事かと開けてみると蒼氷館の始末についての正式な書類だった。
蒼氷館は、生まれ変わるのだ。
そこは少女達が手に職を就けるための洋裁学校となるのだ。しかもその外貌はアリア・リュペナ式であった。二百年前にはやった上品で慎ましやかな、最近またそろそろと話題に持ち出されている様式。慎ましやかといってもそう見えるだけであって決して金がかかっていない訳ではないのだが。
その事業……一種の公共事業であるがそれらは入札によって決めるようだ。
その入札も基準が厳しく設定されていた。下請けの者達までがちゃんと報酬を受け取れるように。
「フランヴェルジュ様が立案者であらせられるのかしら、これは。それとも、アユリカナ様が?」
書状を読みながら一人、エスメラルダは呟く。
どちらにしろ、良い形で決着をつけてくれた事に、エスメラルダは心の底から感謝する。
アリア・リュペナ式なら蒼氷館の面影は残らないであろう。良かった。本当にそう思う。
そして、そんなこんなの間に準備は全て済んでしまった。
わたくしは、行くのね。王城に。
自分の居場所ではないと強く感じた。
だけれども、親友の為だ。
そして、彼女が孕む子供の為でもある。
「カスラ、出ておいで」
エスメラルダは呟くように命じた。
するり、何処からともなく出てくる人影。
エスメラルダはベッドの上で座っていたが、カスラと呼ばれた人物は寝室の扉も開けず、窓も開けず、どこからか現れたのだ。
影の中の影と呼ばれる者達の長であるカスラにはそれは至極当たり前の事である。
カスラは黒装束に身を包んだ細身の女性であった。美人である。だが、年齢不詳であり、そして不思議と印象に残らない顔であった。
「ねぇ、カスラ、城のほうは動きがあった?」
「いいえ」
カスラは少し低めの掠れた声で短く答えた。
「私は反対です。ランカスター様の掌中の珠があのような魔窟になど」
「魔窟ではないわ。レーシアーナも居るし、アユリカナ様もいるわ」
「つまらぬ者達です」
「口を慎みなさい」
エスメラルダの言葉に、カスラは黙った。
黙って居ろといったならば三日でも四日でも黙っていられるのがカスラであった。結局、沈黙に耐えかねて言葉を紡いでしまうのはいつもエスメラルダなのだ。
「カスラ、わたくし、やっていけると思う?」
「勿論でございます。エスメラルダ様」
カスラは即答した。
「貴女様ならば汚泥の中でも咲き誇れましょう」
「わたくし、社交界でときめきたいのではないわよ?」
「解っております。もしあなた様が望まれたならばの話です。それに、レーシアーナ様の友として王城に入場するのであればレーシアーナ様が出席なさる全てのパーティーに出席なさらなくてはならない事は貴女様の方が良くご存知の筈」
「そうね、そうだったわね」
そしてふと思いついた。
マイリーテとも対決しなくてはならないのだ。母と同じ色の、そして自分と同じ色の瞳をした祖母とも。
だけれども、それは後で考えよう。それよりも取り敢えずはとエスメラルダはカスラに問うてみる。
「ブランシール様は?」
「相変わらず、水煙草に溺れる日々です」
「そう」
仕方ないのか? どうしようもないのか?
それも後で考えよう。
今考えて、自分に出来る事は何もないのだから。
「マーグが泣いているの、カスラ」
「そのようでございますね」
カスラは淡々と応える。
「此処に残らねばならぬ者は多かれ少なかれ涙を流しております。カスラはお側を離れませぬ。ランカスター様より命じられた通り、我が命果てるまでお側に」
エスメラルダは溜息をついた。
カスラの忠誠は今もってアシュレの上にある。少なくともエスメラルダはそう固く信じている。
カスラがエスメラルダの為に部下を間諜として放ち、自身がエスメラルダの身を守るのはアシュレの命令だからだ。
──私にもし何かあったなら、お前達はこの娘を主君と戴き、命果てるまで忠義を尽くすべし──
アシュレの死後もカスラを縛る命令。
だが、カスラはそれを守り抜くだろう。
エスメラルダはアシュレとカスラとの出会いを知らない。どういうものだったのかとアシュレに問うた事があるが答えてはくれなかった。
レイリエもカスラの存在は知らない。
そのカスラの事を、エスメラルダは今ではなくてはならないものだと感じていた。
レーシアーナの初めての茶会での失敗、そして自身の死に瀕したときにわが身を守る武器として何があるかと考えた時、カスラがあった。いや、カスラ達、彼女達がエスメラルダの武器だ。盾であり、矛である。
そのカスラがベッドの支柱の元でエスメラルダに「耳を」と言う。
「上がってらっしゃい、カスラ」
カスラはそっとベッドによじ登るとエスメラルダの耳に小さく囁いた。
カスラたちが目を離した隙に行われた喜劇。
その絡繰りが明らかにされ、エスメラルダは
だけれども、やはりそうであったかという思いの方が強い。
『真白塔』では随分と笑えない喜劇が繰り広げられたようだ。それがブランシールを壊してしまったのだろう。
馬鹿なブランシール様。あれは触れてはならぬもの。
ただ、殺してしまうのが良策だったのに……。
しかしである。そう思いながらエスメラルダは安堵している自分に気付き驚いた。
あのような女でも、どうやら自分は生を望んでしまうらしい。
善人ぶる心算つもりなど毛頭なかった。
しかし何故か、また、そうまただ、またあの男の面影が頭をよぎってしまったのだ。フランヴェルジュはエスメラルダにどうやら酷く影響を与える男のようである。殺人を忌避する男を思い出して、それ故にブランシールが壊れた事実があるのにも関わらず、あの男故にあの女が生き延びた事にエスメラルダは安堵してしまったのだ。
「……我らは追跡を続けようかと思いますがエスメラルダ様にご許可を賜りたく……」
「いいえ」
エスメラルダはきっぱりと言った。
「もう、放ってあげて」
「なりません! あれは毒です!! 解き放つは……!!」
「そうね、カスラ、お前が声を上げるところなどそう見る事が出来るものではないわ。確かに、あれは毒よ。だけれども、いえ、だからこそ、わたくしはもう係わりあいになりたくないのかもしれない……」
フランヴェルジュの心に添いたい、そんな思いをエスメラルダは懸命に無視しようとする。己の意志で関わりあいたくないのだと懸命に主張する。
わたくしはどうしてしまったのかしら?
「恐れる事はありません。我々が盾となりましょう。同じ失態は二度と犯しませぬ。御身の怯えはエスメラルダ様の最大の敵です。どうか、追跡の命を」
「あれは蛇だったわ」
エスメラルダが言った。
「確かに牙には毒があった。あったけれども、その牙はもう抜かれているのよ。もうあれは放っておいてやって」
「後悔なさいますぞ、エスメラルダ様」
「大丈夫」
エスメラルダは笑った。
「ランカスター様がお守り下さるわ」
「死者に何が出来ましょう?」
カスラは歯噛みした。
「生者の世界に関わる事は出来ません。死ねば、ただの骸です」
エスメラルダは眉をしかめる。
「『ただの骸』の命令でお前とお前の一族はわたくしの命令を聞き、わたくしを守っているというの?」
「命を下された時! ランカスター様は生きておいででした!! だけれどももういらっしゃらない!!」
カスラが吠える。血を吐くような声だとエスメラルダは思う。
「今の主はエスメラルダ様です。二度も私達から主君を奪わないで下さい!! 私たちの心のよすが! 生きる目的! 己が仕える主が幸せであれば幸せである程、仕える者達は幸せなのです!! その幸せの為なら私達の命など塵芥のように使って下さって構わない。解りますか? 忠誠を得る者はその命の重みを知り、耐えねばならない。金で買われた忠誠ならともかく、魂かけた忠誠とはそのようなものなのです。どうか、ご命令を!! エスメラルダ様の未来の為にも!!」
カスラの常にない言葉に、エスメラルダは呆気に取られた。普段寡黙なカスラが。
そして彼女は『忠誠』の重さを知る。
使用人達の使い方なら解る。だけれども、カスラのような忠誠は……!
「……解りました。ただし、わたくしの命があるまで殺してはなりません」
「は!」
がっと、カスラは己の左胸を叩いた。
忠誠のポーズ。それがエスメラルダには重い。しかし、背負わなくてはならない物。
何故わたくしは殺せと命じないのだろうとエスメラルダは思う。そのほうが手っ取り早いし確実だ。それに、多分カスラもそれを望んでいる。だけれども。
わたくしは甘いのだわ。
あくまでも、フランヴェルジュの事をエスメラルダは頭から振り払おうとする。
「ブランシール様をよく見張って頂戴。お願いします」
エスメラルダの言葉に、カスラは優しく笑んだ。
「お願いなどと……ただ命じてくれさえすれば良いのですよ。エスメラルダ様」
「カスラ……」
お前もわたくしも同じ人なのに命の重みに何か違いがあるとでも言うの?
エスメラルダは思うが答えは出ない。
「では、御前、失礼致します」
すぅっと、カスラは影の中に消えた。
エスメラルダは一人、取り残される。
いや、一人ではなかった。
面影が振り払えなかった。
どうして? どうして貴方はわたくしの心に住まわれるの?
答えを、エスメラルダは知りたくない。
◆◆◆
エスメラルダに用意された部屋は全部で四室だった。寝室、浴室、書斎、応接室兼居間。
レーシアーナの部屋もそうだったが約百五十年前に立てられたものらしい。
城の南翼に今、工事を急がせているのが、華燭の典を挙げてからのレーシアーナとブランシール、その和子、そしてその時までまだ必要だと思われたならエスメラルダも移る事になる建物だった。
フランヴェルジュ自身は先々代の王、祖父であるリドアネ王の使っていた後宮を王位についてから整え始めた。盛大に作らせてはいるが迎える美姫は居ないというのが寂しいところだ。
誰でも良いわけではないと言うのがフランヴェルジュの欠点だった。
正しくその血を後世に伝える事もまた王の役目であるからそれは欠点としか言いようがない。
そういう意味ではフランヴェルジュは王失格だった。
だが、フランヴェルジュはエスメラルダ以外の女に興味なかった。他の女をあてがわれる位なら、自ら男の印を切り落とし、性欲から逃れる事叶った者のみを受け入れる聖ぺラニア教にでも改宗してしまうだろう。勿論、玉座と王冠ごと捨てて。
そして、メルローアの王はそういう考えの男ばかりだったのだろうか、大半が恋愛の末結婚をしている。
フランヴェルジュの父親も、アユリカナに一目で恋に落ちてしまい、時間をかけにかけ、周りをやきもきさせた挙句、妻に娶る事に成功した。
祖父のリドアネも、王妃であるルーニャを政略ではなく恋故に王妃に迎えた。
とはいえ、リドアネという王は後に妾妃を迎える事にはなったのだが。
それでも基本、メルローアの王族は恋を全うする。ぶっちゃけていってしまえば、王族の権利はそれ位しかない。
贅沢なら富裕な貴族の方がしているだろう。
仕事の量は殺人的。
王族の事について詳しく知るものならば絶対に王位など望まない。はっきり言って割に合わなさすぎるからだ。
好きな女を娶るのだけは王にも許された権利だと父上は仰っていたが、随分あれこれとややこしい……。
フランヴェルジュは溜息を吐きそうになる。
周囲は、フランヴェルジュが熱い眼差しで誰を見ているか気付いていない。
春の夜会ではフランヴェルジュとブランシールが代わる代わるエスメラルダを腕に閉じ込めたが、その後の他の夜会では別の淑女達も腕の中に収めてきた。それが政治というものだと思うと、フランヴェルジュ自身はやりきれないような憂鬱な気分になってしまうのだが。
周囲はフランヴェルジュが妻を娶らぬ事を温かい目で見守っている。
フランヴェルジュは政務に積極的だ。それに夢中で女の事など考える余地がないのだろうというのが周囲の一致した見解だった。
単純に積極的にやらなければ到底こなせない量の仕事の前で変に真面目なフランヴェルジュは逃げる事も出来ずそれを片付けているだけなのだが、周りはフランヴェルジュがそれをこなしているのを見てさらに仕事を回してくるので困ったところである。
そんなフランヴェルジュは悶々とした日々を送っていた。
愛しい女はやっと王城で生活を始めた。これで夜会だの茶会だの以外での時間も持てるのではないかとフランヴェルジュは大いに期待してしまったというのに、その愛しい女はフランヴェルジュの前だと目を伏せてしまう。二人きりになろうとは、全然しない。
これは流石のフランヴェルジュにも堪えた。
すぐ傍にいるのだ。手が届く距離にいるのだ。
これは一週間餌ぬきの犬の前で肉を見せつけつつひたすら『待て』をするようなものだとフランヴェルジュは思う。
さっさとぺろりと美味しく頂きたい。
金髪に金の瞳のフランヴェルジュ。日焼けして金色にこんがり焼けた肌にたくましい胸板。女は蜜にたかる虫のようにやってくる。今まで女に苦労した事がなく周囲が恋人と認定する女は時折いたものの彼自身はエスメラルダに出会う前は恋すら知らず。
はっきり言ってしまえば恋愛経験値ゼロ。
だからフランヴェルジュは知らないのだ。
ちゃんとした男と女の恋の手順を。
それは致命的だった。
相変わらず、朝、兄弟は食事を共にする。
その時、レーシアーナとエスメラルダも同席するようになった。
エスメラルダは最初拒んだ。それはもう頑なに拒んだのだ。
わたくしと貴女とは身分が違うわ、と。
レーシアーナは王弟妃になる女性。
エスメラルダはその友人として城に招かれているに過ぎない平民の娘だ。
エスメラルダはダムバーグの姓を名乗るつもりは決してない。一生、エスメラルダ・アイリーン・ローグのままでいるつもりだ。貴族の身分よりも自分の中の誇りの方がエスメラルダにとって守るべきものである。
そんな彼女は婚姻なんてとんでもない事だと思っている。
エスメラルダは自分の心はアシュレ・ルーン・ランカスターの墓碑の下に埋められていると固く信じていた。そのたぎるような情熱の炎を持て余しながら。
エスメラルダのその炎に身を投じては燃やし尽くされる男達の多い事多い事。
だがエスメラルダは燃え尽きた男達の屍を踏みつけてもそれと気付かぬ娘であった。
本当に。
エスメラルダとフランヴェルジュはよく似ていた。
頭の良さ、カリスマ性、その他、人の羨むものを沢山持ちながらも驕らぬ代わりにそれに気付かない。そして恋愛面では十歳の子供より幼い。
もう、二人ともうすうす気付いている。
すき。
その気持ちが一方通行ではない事を。
フランヴェルジュは思いを伝えた。
エスメラルダには思いは届いた。
だけれどもエスメラルダは思いの返し方を知らない。
だけれどもフランヴェルジュは相手からの思いをもぎ取る術を知らない。
不器用極まりないのだが食事の席ではまだ会話があった。
ブランシールが提案したのだ。
政にも女性的で優しく柔らかな面を取り入れませんかと。
スゥ大陸での女性というのは、地位が低い。
子供の頃は親の、嫁いでからは夫の、老いてからは子供の、所有物と言っていい。
まだメルローアは随分女性に甘いが、女であるがばかりに、という思いを一度も味わった事のない女は恐らくいない。
政に携わるのも、基本的に男の仕事だ。
その事を常々馬鹿らしいと考えていたフランヴェルジュはブランシールの提案を面白そうだの一言で採用したのである。
それ故、そのような事に疎そうなレーシアーナもエスメラルダも参加したのだが、なかなかどうして、エスメラルダは大した政治家であった。老練であり強か。上辺だけの事などすぐに見透かしてしまう上に知識もあった。それも恐ろしく、だ。
レーシアーナは侯爵家令嬢というよりは庶民的な感覚を持ち合わせているので、彼女の意見は皆の盲点を上手く突く。
そうなると朝の時間が楽しくなり、四人は四人とも時計の音が聞こえないようにと願いながら一生懸命論議を発展させていった。
そのおかげでエスメラルダもフランヴェルジュの事を妙に意識したりはしなくなったがこれはこれで恋愛成就からは一歩、遠ざかったといえよう。
つくづく周りの手が必要な二人である。
レーシアーナとブランシールが二人きりにしても真面目に政治について語り合っていたりするのだからもうどうしようもない。
フランヴェルジュとほぼ同じレベルで議論を交わす事が出来るエスメラルダにブランシールははっきり言って恐怖した。それは自分にも、他の者にも今まで出来なかった事だからだ。
フランヴェルジュは素直に驚いていた。驚かされる事ばかりで面白くて堪らなかった。
そして今日、フランヴェルジュはうっかりと、あるドジを踏んでしまった。議論が白熱し過ぎたのが悪いのだ。少しばかり興奮しすぎている時に時にスゥ大陸の公用語では意味の存在しないリケッタ語の単語が浮かんでしまいついうっかり口にしてしまったのである。ところがだ、そういううっかりをやらかさないように神経を張り詰めていたというのに、やらかしたと思った瞬間リケッタ語が返ってきたのだ。
ごく当たり前のようにエスメラルダはリケッタ語でフランヴェルジュに続きを促し、流れでフランヴェルジュはそのままリケッタ語で会話を続けた。
途中、公用語にもリケッタ語にも存在しない単語がもどかしくて、ガドゥシア語を口にしたら、エスメラルダはやはり当たり前のようにガドゥシア語で応え……。
フランヴェルジュはとても楽しくなってしまった。エスメラルダは単語をぽつぽつと覚えているというレベルではなく日常会話が出来るレベルで公用語以外の言語を喋る事が出来るようだ。日頃、公用語以外口にするのを必死で我慢していたフランヴェルジュは本当に楽しくて堪らなかった。
ブランシールとレーシアーナが会話に入れないでいる事にフランヴェルジュは当たり前の如く気付かなかったし、エスメラルダもやはり気付けていなかった。
そして鐘がなる。
「シェリア・マリュ・ヘスティア」
終わってしまいましたわね、とエスメラルダはユラナ語で呟いた。
「兄上……それからエスメラルダも、三分で会話の要点をまとめて下さいませんか? 僕は情けない事に公用語以外は単語が少しわかる程度でして、お二人の会話が全く解らなかったんです。五ヶ国語以上使ってらしたのは確実だと思うのですが、正確に何ヶ国語で会話していらしたかという事すら、僕の頭では追いつきません」
ブランシールが微苦笑を浮かべながら言うとフランヴェルジュとエスメラルダは面白い位同時にブランシールと、そして勿論レーシアーナに謝った。勿論公用語で。
それから解説を始める。
「確か治水の事からリケッタ語に移ったのですわよね? それから鎮めの儀式について話しておりましたの。メルローアの神の鎮め方と他国のそれの違い……」
「それでだな、結局行きつく先は祭りだよなってことになってだな、祭りの風習で面白いと思うものを片っ端から挙げていったんだよな、それだけだったよな?」
「それだけですわね」
他者の存在を忘れ二人の世界に没頭していた、こう書くとすこぶる甘い話に思えるが会話の内容は面白くはあるかもしれないが全然甘くない。
ただ、これからはもっと気を付けようと二人は同じ事を決意した。
周りが見えなくなるのは、危険だ。
「エスメラルダ、貴女、一体何処でそんなに沢山の言葉を覚えたの?」
レーシアーナの言葉には、半分の尊敬と半分の呆れが同時に存在していた。
「父様が……父が、教えてくれたの。父は元々は商人だから、だと思うわ。何処の誰とでも商談を交わして成功させてみせるのが、父の自慢だったから」
エスメラルダのその言葉にレーシアーナだけでなくフランヴェルジュまで納得したが、ブランシールだけはおかしい、そう思った。
エスメラルダはてっきり叔父上に感化されたのかと思ったけれど。
昔ならば通訳という仕事はすこぶる実入りのいい仕事だったが、現在は殆ど通訳を生業にする者はいない。スゥ大陸の言語は長い時間をかけて公用語で統一されたからだ。だから、公用語が広まる以前の国の言葉など、殆ど必要ない。必要なのは書物を読み解くとき位だ。この国の元の言語でさえ、古代語と呼ばれており、学ぶのは神殿の人間位だというのに。
エスメラルダは、つくづく不思議な娘だ。
例えば法の改正、例えば国家事業としての建築、例えば歴代の王の偉業、それらを当たり前のようにすらすらと並べることが出来る。
それは緋蝶城で覚えたのだとエスメラルダは言った。緋蝶城には本と言えるものが法律書やら歴史書やら、アシュレが臣籍に下る前に教材として使った本しかなかったのだという。
レーシアーナが恐る恐る聞いて解った事だが、エスメラルダは恋愛小説も娯楽小説も読んだ事がなかった。エスメラルダにとって書物とはただ学ぶものでしかなかったのだ。
エスメラルダの父親と云い、自分の叔父と云い、一体この娘をどう育てようと思っていたのだろう? そうブランシールが不思議に思っても仕方のない事。
「フランヴェルジュ様、そろそろ朝議のお時間ですわ」
唐突にエスメラルダが言い、フランヴェルジュは顔をしかめた。
ふと思ったのだが、エスメラルダはかなり沢山の言葉を使いこなせる。これを利用すれば、愛の言葉を紡いでも周りにそれと気づかれずに済むのではないか?
しかし、時間は本当になかった。
下らない祭事の話で盛り上がった時間は途轍もなく楽しい時間ではあったが、堂々と愛の言葉を口にしてもエスメラルダ以外にバレない時間でもあった。ブランシールに注意されてしまった以上、その手はもう使えないだろう。ああ、勿体ない!
しかし、一言位は許されるだろう。いや、許してほしい。
フランヴェルジュは立ち上がるとエスメラルダの目をじっと見た。綺麗なエメラルドグリーンの瞳、自分の愛する瞳。
すぐに視線は逸らされる。
かつて堂々と自分を見つめ返して笑って見せたエスメラルダなのに、何故だか何時の頃からか、彼女は自分と視線を合わせようとしなくなった。
嫌われているのだろうか?
そう思うが、先程夢中で話していた時に彼女は自分を見つめて笑っていた。
嫌われていないと信じたい。
だから言葉を紡ぐ。
お前と二人きりになりたい。
古代語で、隣に座るエスメラルダにだけ届くようにフランヴェルジュは囁くと、その言葉がエスメラルダにどんな影響を与えるかを確かめることなく、既に立ち上がっているブランシールと共にさっさと扉に向かい、そのまま行ってしまった。
その一言で、ほんの一瞬で、エスメラルダの頬は熟れた果実のように真っ赤になってしまったというのに。
レーシアーナはエスメラルダが熱でも出したのかと心配したが、エスメラルダには自分が顔を赤く熱くしている原因は解っていても誰にも言えない事であった。
どうして?
以前はドキドキなどしなかった相手に、今は容易く心臓を操られている。
どうして?
以前なら考えもしなかっただろうけれど、今は何故か自分も――二人きりになりたいと思っている。
二人きりになって何をするというのだろう?
自分の心が不可解過ぎて、エスメラルダは苦しくて堪らない。
◆◆◆
エスメラルダは、毎日のようにアユリカナの許を訪れるようになった。
王弟の婚約者の話し相手、といえども平民と変わらぬ身分であるエスメラルダがアユリカナと対面叶うのはアユリカナが『真白塔』の住人であるからだ。王城で国母として権勢を競っていたならば畏れ多いと周囲がエスメラルダなぞを近付けすらしなかっただろう。
アユリカナが俗世から一歩身を引いた状態であるから、面談を求めても許可されるのだ。
とはいえ、アユリカナは快く迎えてくれたが、周りの本音はどうなのかエスメラルダは知らない。知りたくもない。
ただ、『アユリカナ』という人に出会いたくて、エスメラルダは『真白塔』に通う。
表向きの理由はアユリカナが受け持っていた慈善事業に関する知識を吸収し、次の日の朝に行われる論議の武器にする為。
だが建前を取っ払った本音は、エスメラルダがアユリカナに母を求めての事であった。
エスメラルダ自身、意識していない無意識のうちの『母』への思慕。
それがアユリカナに向かっていったのである。
アユリカナは苦笑を扇の陰に隠す。
わたくしはいつだって『母』になる気はありますものを。
エスメラルダは遠慮がちだ。
少し、怯えているのはアユリカナに嫌われたくないと意識しすぎているためであろう。そんなところまでが初々しくて愛しいのに娘と呼べぬのは辛くあった。
レーシアーナはあっさり『娘』となるが、エスメラルダの方が単純な故に解きにくいパスルのような、そんな難しさを感じる。
そもそも、娘と呼ぶには息子と恋仲になってくれなければアユリカナにはどうしようもないのだ。
仮にフランヴェルジュが恋をしておらずアユリカナが個人としてエスメラルダを愛していたとしよう。しかしだ、アユリカナが貴族に嫁いでいたなら養女に出来たのに、王族に嫁したアユリカナにはそれすら出来ない。
王族が養子に取れるのは王族のみ。
でも、既にエスメラルダは愛しい。
娘と呼んで、心のままに愛おしみたいのがアユリカナの本音。
「アユリカナ様、何か?」
エスメラルダの問いにアユリカナははっと扇を膝に落とした。無意識のうちに意識を飛ばしていたらしい。それは客人をもてなす女主人としては大層礼儀に外れた事だった。
「ご免なさい、わたくしの可愛い娘……」
ぽろりと唇から零れ落ちた言葉。
アユリカナの頭の中の願望がそのまま漏れてしまった言葉。
その言葉にエスメラルダは緑の瞳を見開く。
『娘』?
確かにアユリカナはそう言った。
「あ……、あら、わたくしったら、ご免なさいね、わたくし、つい」
「つい……?」
狼狽するアユリカナをエスメラルダは見詰める。エメラルドの瞳は真剣だった。真剣に、その言葉の意味を求めており、けれど、怯えてもいた。それでも、言葉の真意を見極めねばとその一心で、エスメラルダはアユリカナを見つめる。
何事も見逃すな。
「ああ! もう貴女ったら!!」
アユリカナは椅子を蹴るようにして立ちあがると、向かいの椅子に座っていたエスメラルダを抱き締めた。
エスメラルダは、動けなかった。
さらさらという衣擦れの音と共に漂う柑橘類の香り。『
けれど、心の半分は冷静そのものなのに、心の半分は歓喜で狂いそうになっていた。
温かい腕、優しい胸、愛しいおかあさま……。
『おかあさま』などと、自分が呼んではならぬ事をエスメラルダは理解しているけれど、抱きしめてくれるアユリカナのその細い身体にしがみつきたくて堪らない自分を自制するのが精一杯で。
「ずっとこうしたかったのです。わたくしは」
アユリカナは囁いた。
「娘のように貴女を愛おしく思っていてよ」
「……何故ですの? アユリカナ様」
エスメラルダはようよう言葉を紡いだ。
だってエスメラルダには理由が見当たらない。何処にもない。
心の底から望んではいる。けれど、自分に資格があろうか?
「それは……」
アユリカナは言いよどんだ。
フランヴェルジュが懸想しているからと愛おしんできたのなら、可愛らしくも愚かな息子の気持ちは伏せて適当に言い含める事も出来たであろう。
だが、アユリカナがエスメラルダに感じているのはそのような気持ちだけではなかった。
それは酷く残酷な事実。
エスメラルダの、猫の瞳のようなエメラルドグリーンの瞳には愛情の飢餓を訴える光が余りにも色濃く浮かんでいたから。
同情しているのではなかった。
だけれどもそれをどう伝えれば良い?
生真面目なアユリカナには適当な言葉が見当たらない。その真っ直ぐさこそが先王レンドルが愛した美質であり、長男フランヴェルジュに受け継がれているものであり、アユリカナの誇りであった。しかしこのような状況ではレンドルの巧みな話術が欲しくて仕方がなかった。ブランシールが受け継いだ美質だ。
「わたくしは、ただ、ね」
アユリカナが言った。
「貴女が余りにも与えられる事に対して不器用に思えるの。物の事ではなくてよ。気持ち。感情。心。そういったものを与えられた時、困り果ててしまう貴女を見ていると……きっとわたくし自身を見ているような気がするのでしょうね。レンドルと出会う前のわたくし自身を。勝手な憶測で申し訳ないのだけれど」
アユリカナの腕の中で少女が震えた。
アユリカナは願い、祈る。
どうかそんな悲しい目を、幼いこの娘がしなくても済みますように……。
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