第17話 転換期 後編

 ブランシールは水煙草を吸いながら陶然としていた。

 感覚が解放される。世界が虹色に見え、皮膚が酷く敏感になる。


 そしてブランシールは目を開けてみる夢に溺れる。

 愛しい人。

 たった一人の絶対なる人。


 それは心から大切にしたいと願うレーシアーナの事ではなかった。

 あの人によく似た煌めきでブランシールの心を一時的に奪ったエスメラルダでさえなかった。


 あの人は唯一にして絶対の物。

 その人がブランシールの事を抱き締める。

 体中が歓喜の声を上げる。細胞の一つ一つが喜びに震え、溶け出しそうになる。


「ああ……」


 ブランシールは喘ぐ。


 夢だと理性は理解している。けれど、水煙草は理性をちゃんと殺してくれる。

 だから、夢でありながらも、ブランシールは蕩けてしまう事が出来た。


 その夜はエスメラルダが城内に迎え入れられて丁度一週間目の夜であった。

 小さなパーティーが催されているのだが、小さいとはいえ国王が臨席するパーティーを中座したブランシールは、自室の奥、寝室の隅で水煙草を吸っていた。


 禁断症状が出たのだ。

 もう、それ位にブランシールは冒されていたのである。


 レーシアーナにも止められなかった。何故ならブランシールは自分に割り当てられた仕事が終わると、翌日行われる仕事の準備をするからとレーシアーナとは個人的には殆ど口を利かず、自室に鍵をかけて篭ったからだ。

 『真白塔』の出火以前はブランシールは毎日のようにレーシアーナの肌を求めていたというのに。


 レーシアーナは馬鹿ではない。夢はいつまでも続かないとブランシールは知っている。

 それでもだ、だからこそ、一分一秒でも長く溺れていたいと思ってしまうのだ。


 レイリエの面影から逃げるように手を出した水煙草。

 今は逃避の為ではなく、ブランシールは叶わぬ逢瀬の為にそれに手を出す。

 何より大切な兄が知ったら、きっと自分を許しはしない。そんな事は解っている。けれど、水煙草を吸わぬ時は常にレイリエがブランシールに纏わりつくのだ。あの唾棄すべき女の眼差し、感触、匂い。


 狂いそうだ。いや、とっくに狂っている。


 未来の夫を、レーシアーナは心の底から案じていた。

 どうすれば助けられるのか、考え続けて今日を迎えたのだが。

 それでも少しだけ安心できることがあるとすれば、ブランシールの目が隈に縁取られることもなく、翌朝の四人だけの討論には活き活きと参加することだろうか。


 もうお止め下さったのではないかしら?


 レーシアーナはそう思い込もうとした。そんな甘い錯覚は何度も何度もレーシアーナを襲う。

 しかし、レーシアーナは誰よりブランシールを見つめ続け、知っている。

 やはり、何か変であった。


 妊娠に気付いて暫くたつというのに、レーシアーナはブランシールに言いだせずにいた。


 何故か、言えなかった。

 言える程、信用できなかった。


 そしてその夜。

 零時の鐘が鳴った。


 パーティーはお開きになる。


 その鐘の音を聞いてはっと正気に返ったブランシールは舌打ちした。

 一時間かそこらで止めるつもりだったのにたっぷり三時間も薬に溺れていたらしい。

 あの人の腕の感触を振り払い、ブランシールは『夜月の露煙管』を吸おうとベッドのサイドテーブルから新たな水煙草を取り出した。


 その時である。


 がちゃりと応接室の扉を開ける音。


 まずい、と、ブランシールは思った。

 この部屋を訪れる者といえばレーシアーナ。未来の妻たる女。


「レーシアーナ! 来るな!! 後で行く!!」


 しかし、ブランシールの叫びに答えたのはレーシアーナではなかった。


「俺だ! ブランシール、今すぐこの扉を開けよ!! これは勅命として聞け!!」


 兄の怒号にブランシールの手から水煙草の煙管が転がり落ちて、割れた。

 それは隠し様のない絶対の証拠。


「お待ち下さい! 兄上!!」


「聞かぬ!! 開けぬとあらば蹴破るまで!!」


 フランヴェルジュが堅苦しい言葉遣いをするのは王として臣下に接する時と、そして心の底から怒り狂っている時だ。


 兄上……!


 がしっ!! と言う音と共にがたん!! という音が後からついてきた。

 フランヴェルジュはやりもしない事を言って脅しに使う事はない。蹴破ると言ったら本当に蹴破る。


 そしてブランシールは恐怖に、兄から、扉から、背中を向けた。

 『花蜜水の煙管』の副作用で体中の震えが止まらない。そして割れた水煙草の煙管。


 ごまかしようがなかった。


「ブランシール! 此方を向け!! 此方を見てこの兄の顔をしっかりと見据えよ!! 出来るものならな!!」


 ぐいっとブランシールは襟首を捕まれ、兄のほうを向かされた、と、思うと、押し倒された!!


 兄上? 兄上!?


 混乱するブランシールの頭上に声が降ってくる。


「エスメラルダ」


 フランヴェルジュの後ろから付いてきていた娘に、ブランシールはやっと気付いた。

 呼ばれた少女は「はい」と言うなりブランシールの顔に蜜蝋の燃え立つ燭台を向ける。


「瞳孔が開いているな。お前、いつからだ?」


 ふるふると、ブランシールが首を振る。いやいやをする子供のように。


「愚か者!! お前はもうすぐ父親となる身ぞ、知らなんだか!?」


「ち……ちおや?」


「レーシアーナは妊娠している」


 ブランシールはその目を見開いた。


 父親? まさか、まさか、まさか!!


「毒が抜けるまで、お前の身柄を拘束する」


 フランヴェルジュの宣告。


 ブランシールはただ、恐れ戦いていた。



◆◆◆


 レーシアーナはアユリカナの膝の上に顔を突っ伏し、泣いていた。


 今日のパーティーは仕組まれたものだった。

 ブランシールが街に出て水煙草を吸う暇がないよう、また部屋で吸う暇は充分あるよう、計算してブランシールの中座を許した。


 そして、今頃はフランヴェルジュとエスメラルダが衛兵に悟られる事なく、ブランシールを拘束している筈である。


 レーシアーナは酷い裏切りを犯した気分で一杯だった。

 己はブランシールの妻になる身である。それでありながらこの謀を未来の夫に知らせなかった。自分の腹の子の父親に知らせなかった。


「自分を責める必要はありませんよ、レーシアーナ」


 アユリカナは優しく言う。


 レーシアーナは何度も頷きながら、それでも止まらぬ涙で、アユリカナの喪服の襞を濡らしていた。


 ブランシール様……!


「大丈夫です。レーシアーナ。泣く事はありません。薬さえ絶てばブランシールは元のあの子に戻るでしょう。そうなったら、あの子は貴女を幸せにする為に努力を怠らないでしょう」


 アユリカナの優しい慰めに、レーシアーナはふるふると首を振った。


「あのお方はわたくしをお許しにはならないでしょう。わたくしは、あのお方を守る為にあるのに……!!」


「時には厳しくなる事も必要ですよ、レーシアーナ。長い目で御覧なさい。このまま廃人となるまで水煙草を吸わせるのが貴女の愛ですか? 違うでしょう?」


「で、でも、言葉で説得して……」


「無理です」


 アユリカナはきっぱりと言った。


「昔、わたくしを欲して、薬漬けにしようとした者がいるのです。とある貴族でした。わたくしを地下牢に監禁して薬物を与え……レンドルの手の者に助けられた時、わたくしは廃人寸前でした。薬を求める衝動に勝てず、暴れ、レンドルは泣きながらわたくしを牢に籠め、自ら命を絶つような事がないように拘束したのです。半年かかりました。わたくしの体から薬が抜けるまで。でも、薬の効果はそれだけではなかった。わたくしが、流産しやすい体質である事は周知の事実でしょう? あの時与えられた薬物故だそうよ。幸い、ブランシールはまだ廃人の域に達していない。三ヶ月もすれば毒が抜けるでしょう」


 アユリカナが淡々と語る言葉にレーシアーナの涙が乾いた。


 なんという過去だろう。なんと凄惨な。


 しかし、アユリカナが嘘を吐くようにはレーシアーナには思えない。


 アユリカナは毒物というものを身をもって知っていて、そして……嗚呼、そして!


 母親なのだ。一番辛い筈なのだ。


 だけれども、何事もなかったかのように振舞っている。


「申し訳ございません、アユリカナ様」


「何を謝るのです? ああ、先程の話はくれぐれも内密に。外聞が悪いですからね」


 アユリカナは笑った。その笑顔は今もって若々しく、美しい。


 メルローアの黄金姫と呼ばれた女性。

 レーシアーナはいつかはこうなりたいという理想をアユリカナの上に重ねるが、レーシアーナでは無理であろう。

 レーシアーナとアユリカナの美質は全く異なるものだからだ。


 王妃として、歴代の中でも特に傑出していると、アユリカナはそう評価されている。そのアユリカナは、忙しく頭を働かせ、しかし考えていることを表情には出さずにレーシアーナを慰め続ける。


 エスメラルダは醜聞に塗れていた。


 そのエスメラルダを王宮に招く事は困難であった。だが、アユリカナは何処からも文句のつけようがない形でそれを可能にした。


 そして、ブランシールに四人だけの討論、四人だけの朝議を提案させたのは実にアユリカナであった。

 その目的はエスメラルダとフランヴェルジュの距離を近づけると共に、エスメラルダをこの国、メルローアの政治に関わらせる為である。


 半分は上手くいった。

 ただ残念なのは恋の炎よりも為政者としての炎が燃えた事。


 アユリカナは王を支える王妃であったが、エスメラルダは違う王妃になるであろう。もしフランヴェルジュの恋が実り、この国が認めるならば。


 エスメラルダはきっと、フランヴェルジュを護り、共に戦う王妃になる。


 そんな未来が見えるような類い稀なる素質を持ったエスメラルダを、アユリカナは一刻も早く娘と呼びたい。

 女の身に相応しからぬほどの知識を持ち、ただ暗記しているだけでなく応用までして見せる娘。


 その報告をブランシールから聞いた時、思わず唇の端が持ち上がってしまった。

 素晴らしい事だ、そうアユリカナは思ったのだ。玉座に飾り物の姫をつけるつもりはない。為政者としての資質があるにこした事はない。


 メルローアの王妃となるのであれば、求められるものは多い。


 しかしながら、まだ二人は恋仲ですらない。


 エスメラルダを迎え入れるのには成功した、さて、次はどう近づけるかであった。

 そこでアユリカナはブランシールの問題をあの二人に任せた。共通の秘密を持つという事はそれが余り色っぽい事でなくとも、二人の間を縮めてくれるだろう。


 そう、全て上手く行く。


 レンドル、大丈夫よ。わたくしは、きっと最適解にたどり着いて見せる。最後に、愛する者達が皆笑えるように。


 ブランシールの、我が子の惑乱には胸が痛んだが、この国の礎の為に利用できるものなら何でも利用するつもりだった。ブランシールもフランヴェルジュと同じく大切な息子である事に変わりはない。ただ、アユリカナにとって過程より大事なものは結果。


 ブランシールを利用するような形になっていることは否めないが、このまま水煙草に愛する我が子を溺れさせる事など出来るものか。


 結果的に、ブランシールの身体から毒が抜けて、そしてエスメラルダとフランヴェルジュの距離が少しでも縮まれば。


 そう、大事なのは結果だ。

 レンドルが残したこの国と子供達を守る事こそ我が使命。


「大丈夫です。レーシアーナ。貴女はただ毅然としていれば良いの。その内使いがくるでしょう」


長い夜だった。誰にとっても。

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