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体調不良とでも嘘をついて面接を休みたい気持ちもあったが、電話をする方が億劫で、結局キングマーケットの面接に行くことになってしまった。

いずれにせよ、今日で全て終わりだ。面接で凍った私を見れば、さすがにもう面倒は見きれないだろう。服装もフォーマルなものではなく、着古したオフホワイトのニットとベージュのチノパンにした。もう、どうにでもなれ。


キングマーケットは、ほかの大手チェーンのスーパーとは違って少し高級志向のお店だと、三鷹に引っ越したときに母親が教えてくれた。紺色の壁を背景に、白い文字で”KING MARKET”と書かれたロゴからも、ほかのスーパーとは一線を画していることがなんとなく伝わってくる。だから、よほど急ぎでない場合は武蔵境駅前の大手スーパーに行くようにしていたので、買い物をしたのは片手で数える程度だろうか。


久しぶりに入ったキングマーケットは、時間帯のせいかお客さんはまばらだった。

入口は青果のコーナー。いつも買うレタスの値段が50円くらい高くて、普段使いはできないなと改めて思った。隣の島を見ると、白菜のような色で手に乗りそうなサイズの見たことのない野菜を発見した。名前はチコリ。野菜のラインナップも違うんだなとぼんやり眺めていると、こちらをチラチラ窺っている視線を感じた。顔を上げると、軽いパーマのかかった眼鏡のおじさん店員と目が合った。向こうもこちらに気づいた様子で、「あっ」という顔をした。ちょうど良かったので、この人に近づいて話しかけた。

「あの、13時からバイトの面接で伺いました。小坂です」

すると、おじさんはくしゃっと顔にしわを寄せて笑った。

「こさかさん!そうじゃないかと思ってたんだよね。来てくれて良かった。さぁ!こっちです、どうぞどうぞ」

おじさんの後をついていくと、バックヤードの一室に案内された。この人が、たぶん電話で話した相手だろうか。「そうじゃないかと思ってた」と言ってたけど、もしかして、私のことを待ち伏せしていた?

「ごめんね散らかってる部屋で。さぁ!座って座って!」

勧められるがままに私はパイプ椅子に腰掛けた。折りたたみ式の白い会議用テーブルを挟んで、おじさんも私の正面に座った。

「あ!何か飲む?」

「あ…いえ」

私の返事を待たずに、すぐに席を立って部屋から出て行ってしまった。私はその間に履歴書をバッグから取り出して、テーブルの上に置いた。

おじさんはニコニコしながら、350mlペットボトルのお茶を持ってきて私の目の前にそっと差し出して、再び席についた。

「あ!紙コップいる?直飲みなんてしないよね?」

「だいじょうぶです」

必死で顔を横に振り、今度はなんとかおじさんが席を立つのを阻止した。

「ほんとに?何でも遠慮しないで言ってね。じゃあ、改めまして、僕が店長の本城茂夫ほんじょうしげおです。よろしくお願いします」

店長は丁寧に名刺を渡してくれた。バイトの面接で名刺なんてくれるんだ。そもそも、スーパーの店員でも名刺って持ってるんだ。いや、さすがにそれは失礼か。電話で話したのは、やはりこの人で間違いなかった。

「お!履歴書持ってきてくれたんだ、ありがとありがと」

テーブルの上の履歴書に気がついた店長は、手に取って目を通し始めた。

小坂史帆こさかしほさん。うん!いい名前だね」

私が愛想がないから、喋らないから、変に気を遣って場を盛り上げようとしてくれているのがわかって心が痛んだ。

「おぉ!家めっちゃ近くじゃん!いいねー!バイト先は家から近いのが一番だよね!」

私の住所を確認して、店長のテンションはさらに高くなっていった。

「小坂さんバイトは初めて?」

店長は首を少し傾けて、俯いた私の表情を窺うように尋ねた。

「はい」

「そうなんだ!記念すべき初バイトだ!志望動機もとっても立派に書いてくれてるけど、これ何かで調べたのそのまま書いたでしょ?何でスーパーでバイト始めようと思ったの?」

一番聞かれたくない質問だった。私だって、できることなら家庭教師とか、コーヒーショップの店員とかやりたい。こんなところで働くつもりはさらさらないし、そもそも採用なんかしてもらえないと端からわかっている。今まで受けたバイト全部落ちて仕方なく応募しました、なんて言えるわけがない。

「やっぱり家から近いから?」

相変わらず店長はニコニコしていて、私の嘘の志望動機に怒っている様子ではなかった。でも、お願いだから見逃してほしい。こんなことした私が悪かったのかな。受かる気ないのに応募したからバチが当たったんだ。小坂さん、と名前を呼ぶ店長の声が遠くに聞こえる。ほら、もう凍って動けないよ。早く引いて。怯えて。私の前からいなくなって!


はっと気がついたときには、私が膝の上で固く握っていた左手に、温かな手が重なっていた。店長は私の左側で跪いて、テーブルに添えた左手の上に顎をのせて、悲しそうな表情で私の顔を覗き込んでいた。

「小坂さん!ごめんね!急に知らないおじさんと二人きりで話せって言われても緊張するよね?ごめんね」

私が動いたのを確認すると、店長は自分の席に戻った。

「理由なんて何でもいいんだ。僕は小坂さんみたいな若い子がスーパーに興味持ってくれて本当に嬉しいよ。あ!別に、パートの主婦さんを悪く言ってるわけではないからね!すごく頼りになるもん!小坂さんも一緒に働けば、すごいなってきっと思うよ」

何が起きたのか理解が追いついていないが、手足は完全に元の体温を取り戻していていた。

「今日はもう疲れちゃったよね?せっかくのお休みの日にありがとね。今日は家でゆっくり休んでね」

頭が混乱したまま店長と一緒に席を立って、店長に見守られながら私は店を後にした。結局、面接は途中で終わってしまった。帰り際、「小坂さん、またね」と言われたけど、振り返らなかった。


外はまだ明るいけれど、飲まずにはいられず、冷蔵庫の中から缶を取り出した。自分が今何のビールを開けているのか、どんな味なのかもわからなかったけど、とにかく無心で口に運んだ。でも、さっき起きたキングマーケットでの出来事が頭から離れることはなく、全然涙が止まらなかった。

これは、書店バイトやイベント派遣会社の登録会で失敗したときの涙とは違う。プライドが傷ついたり、自分に絶望したりしたわけではない。あんなに優しく接してくれたことが、辛かったんだと思う。私があの店で働くことはできないのに、店長だってわかっているはずなのに、気を遣わないでほしかった。書店バイトのときみたく、「仕事舐められたら困るんだよ」ってはっきり言ってほしかった。私に希望を与えてほしくなかった。

私がもう少しだけ人とコミュニケーションをとる練習をしていたら、もしかしたらあの店で働けていたかもしれない。もっと真面目に履歴書を書いていたら、あんな質問はされなかったかもしれない。今まで一度も頭をよぎらなかった”未来の可能性”が、初めてはっきりと見えて、今日までの自分の行動を激しく後悔した。

もう二度と会うことも、話すこともないのに、店長の名刺がどうしても捨てられなかった。

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