14-2
しげさんと話す機会も減り、バイトに行くのが苦痛になっていたけど、しげさんへの思いを断ち切ることもできないし、翻訳のスクールに通うためのお金も必要なので、バイトを辞めるという選択肢はなかった。外に出ると霙が降っていて、東京の2月の平均気温と比べてもとても寒い日だった。スーパーはすぐそこだけど、手袋とマフラーなしでは歩けなかった。
角を曲がってスーパーの前の横断歩道で信号待ちをしているとき、お店の入口付近で人影が動いた。よく見ると、ちょうどアリサさんがしげさんに腕を絡ませて、2人でスーパーに入って行くところだった。
私は、信号が青になるのを待たずに来た道を引き返した。頭が混乱して、状況が上手く飲み込めなかった。目に映った光景をとてもじゃないけど受け入れたくなかった。でも目を瞑ると、鮮明な映像として再生されて、足がだんだん重くなった。
やっとの思いで家の玄関に着き、靴を脱いだところで力尽きて座り込んだ。しげさん、楽しそうだった。私に見せていた笑顔は、私だけのものではなかったんだ。そりゃそうだ、根暗で無愛想で可愛くない私より、社交的で元気で明るく可愛いアリサさんの方がいいに決まっている。しげさんに特別扱いされていると思い込んでいた恥ずかしさ、私とは正反対の人間であるアリサさんへの嫉妬、いろいろな負の感情が心の中で入り乱れて合わさると、とてつもない絶望感に襲われた。しげさんに認めてもらいたくて、褒めてもらいたくて、好きになってほしくて、自分の殻を破ろうと頑張っていたのに、寄りかかっていたものが粉々になって崩れた。
体の自由が次第に奪われていく。いつもとは違う感覚。指先や足先の皮膚が瞬時に凍るのではなくて、体の芯の方からじわじわと、体中の体温が徐々に下がっていく。細胞1つひとつが、氷になっていく。
もし両目が凍ってしまったら、私は何も見えなくなる。もし脳が凍ってしまったら、私は何も考えられなくなる。もし心臓が凍ってしまったら、私は一人で死ぬのかな。
さっきからリュックにしまってあるスマホが何度も鳴っている気がするけど、音がすごく遠くに感じる。視界も霞んでいるし、頭もぼーっとする。
もっと幸せな人生を送りたかった。最近ようやく、生きることが楽しいと思えていたのに。ずっと一緒にいたいと思える人に、初めて出会うことができたのに。
背後から、ドアを叩く音が聞こえる。私の部屋かな?隣の部屋かな?音はどんどん強くなって、誰かが叫ぶ声が聞こえる。
次の瞬間、玄関が少しだけ明るくなった。
「小坂ちゃん!!」
こんなに焦って叫んでいる声は聞いたことがなかったけど、姿を見なくてもしげさんだとわかった。
「小坂ちゃん大丈夫!?」
しげさんは手袋の上から私の手を握った。
「すごく冷たいよ!とりあえず中に入ろう!」
両脇の下から手を入れて、引きずるようにして部屋まで運んでくれた。
「寒いよね?今、暖房入れるから」
しげさんは今にも泣きそうな声で話しながら、暖房のスイッチを入れて、自分の着ていたダッフルコートを私の肩にかけてくれた。
どうして部屋の中に入れたのだろう?そっか、私、鍵かけないまま座り込んでいたんだっけ?しげさんは、バイトに来ない私を心配して来てくれたのかな?ずっと鳴っていた電話も、しげさんからだったのかな?
「もうすぐあったかくなるからね」
しげさんは焦った様子で部屋を見回し、隅に置いてあった電気ストーブを私の近くまで運んで電源を入れた。
しげさんが、私のためにこんなに必死になっている。私、親以外の誰かにこんなに心配してもらえるんだ。
コートを脱いだしげさんはエプロンを身につけたままだった。仕事を休まないことでおなじみのしげさんが、仕事を放り出して駆けつけてくれたのが伝わった。
手袋越しに私の手を握るしげさんの額には汗が滲んでいたから、おそらくかなり室温は上がっているのだろうけど、全く実感がなかった。
ぽとり、私の手の指先から、水滴が落ちた。
「えっ?」
どうやら、私の体は本当に氷になってしまったみたいで、室温が上がったせいで水に変わっているのだと察しがついた。しげさんに思い切り手を握られると、手袋が少しだけブカブカになっているのがわかった。
このまま水になって、消えてしまうのだ。でも、しげさんに看取られるなら、それも本望かな。
「なんで!小坂ちゃん、どうしたら助けられるの!?」
しげさんは涙をボロボロとこぼしていた。私のために泣いてくれている。しげさんは、本当に優しい人だ。もし今、声を出すことができるのなら、感謝の気持ちを伝えたい。もう十分、しげさんの思いは伝わったから。これ以上、どうにもならない私の体質に振り回される必要はないよ。どうか、自分を責めないでほしい。私は元々、こういう人生を辿る運命にあったのだ。
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたしげさんが、ふと、右手で私の頬に触れた。
「あっ」
しげさんが声を漏らした。
どんなに部屋を温めてくれても何も感じなかったのに、しげさんの手は温かいと感じた。しげさんに触れられたところから、徐々に溶けて元通りになる感覚がした。しげさんも、そのことに気がついたみたいだった。
しげさんが両手で、私の顔を包むように触れた。おかげで、視線だけは自由に動かせるようになって、しげさんのことを見つめ返すことができた。
「小坂ちゃん!ごめんね、最初からこうすればよかった」
顔が溶けると、今度は手袋を取って私の手を強く握った。しげさんの手、本当に温かい。芯まで冷え切ってしまっていたけど、しげさんの体温がたしかに伝わってくる。
「そうだよね、いつもこうやって、手に触れていたのにね」
これまでも、しげさんは意識して私の手を握ってくれていたのだということがやっとわかった。
手の状態が元に戻っても、胴体が凍ってしまっているから身動きが取れなかった。しげさんは、一瞬ためらってから「ごめんね」と言った。そして、しげさんがかけてくれたダッフルコートを取って、私が着ていたPコートを脱がせた。その間も、ごめんね、ごめんね、としげさんは涙声で何度も謝っていた。
しげさんがニットの下から手を入れて、私の素肌に触れた。撫でるようにして、ゆっくりと手を背中に回した。しげさんの手は、温かくて、気持ちいい。
「ごめんね。でも、小坂ちゃんにいなくなってほしくないから、離さない」
私はずっと、こうしてしげさんに触れてもらえる日を待っていたのかもしれない。動けないから伝えられないけど、私は嫌がってなんかいないし、むしろ、今が一番幸せとすら思える。もう少しして、腕が動かせるようになったら、必ず抱きしめ返すから。それまでは、どうか、このままで。
私を溶かしてくれるのは、しげさん、あなただけだから。
凍る彼女 デミロマ会議 @kiyono_hsdiary
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