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自転車を止めて、時間を確認するとちょうど8:20。これなら余裕で間に合う。リュックを背負って、私は講義棟に向かった。8階建ての講義棟はロの字の形をした吹き抜けで、天井が一面ガラス張りになっていてとても開放的。今朝は天気が良いので太陽の光が差し込み、2階や3階のガラス柵に反射してキラキラと輝いている。

教室に着いたのは始業の3分前。あまり早く着き過ぎてしまうと、誰とも話さずに待っているのが少し気まずいので、このくらいの時間に着くのがベストタイミングだ。


私が通っているのは、日本唯一の国立外国語大学。第一志望だった英語科に入ることができた。授業以外の時間は図書館で過ごし、翻訳家になる夢を叶えるために勉強をする日々。サークルにも所属せず、バイトもしたことがない。

土地柄もあってか、派手な学生は少なく、あまりコミュニケーションを取らなくてもなんとかなった。大学は気楽でいいなと思った。

1限の授業は、英語文学概論。1年生のときから講義を受けている芦澤陽子あしざわようこ先生の担当だ。ベテラン教授で授業は丁寧、物腰が柔らかく話しやすいので、よく講義の後に質問もしている。芦澤先生のような信頼できる先生に出会えて本当に良かったと思っている。


今日も質問したいことがあり、講義後に芦澤先生に声をかけた。

「芦澤先生、実はこの小説の和訳を以前読んだのですが、この部分が間違っている気がして」

「よく気づきましたね。これは誤訳だと思います。間違いやすい表現で、プロでも気づかない人もいますね」

「そうなんですね」

小坂こさかさんは、翻訳に興味があるの?」

「はい。実は、翻訳家になりたいと思っています」

これまで自分の親以外に夢を話したことはなかったけど、芦澤先生ならいいかなと思って、正直に打ち明けた。

「そうなんだ!翻訳家になりたいなら、語学力ももちろん必要だけど、翻訳ならではのテクニックも必要だから、余力があるならスクールに通うといいと思うよ」

その発想はなかった。本気で目指しているつもりだったけど、具体的にどんなスキルが必要なのか、どうやって就職先を見つけるのか、現実的な課題からは目を背けていたかもしれない。大学3年生になれば就活も始まってしまう。真剣に考えなくては。

「もしよかったら、私のゼミのOB・OGで翻訳家やってる人が通ってたところとか教えるよよ」

「ぜひ知りたいです。よろしくお願いします」


家に帰り、パソコンを開いて、芦澤先生が教えてくれたスクールについて早速調べてみることにした。相場は半年通って入学金など含めるとおおよそ30万くらい。結構な出費だ。親に無理を言って寮ではなく一人暮らしをさせてもらって、毎月仕送りももらっているのに、これ以上負担をかけるわけにはいかない。普通の大学生なら、バイトをして稼ぐのだろう。来年の4月から通うとして、それまでの約半年間で30万稼ぐ。もし時給1000円なら300時間分。11月から3月まで働けるとすれば月60時間。つまり週15時間だから、不可能ではない数字だ。もし私が、まともに働くことができればの話だけど。

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