捨てられない名刺

4-1

バイト探しを断念してから1週間が経とうとしているが、どうしても親に連絡ができなかった。いつまでも現実逃避している自分が惨めで情けなくて、そんな自分を晒したくなかった。私にもまだプライドが残っているんだなとそこで気がついた。ケースで買い溜めしているビールが減るペースも、前より早くなっていた。

現状を打破できないまま11月を迎えてしまった私は、大きな賭けをすることに決めた。あと1回だけバイトの面接を受けて、ダメなら親に頼る。最後にもう一度だけ思いっきり傷ついて、自分のプライドがズタズタになれば、これ以上迷うことはないはず。その最後の面接は、どこで受けよう?どうせ失敗するのに、どこでもいいか。


「嘘でしょ?」

しばらく気にもとめていなかった例のキングマーケット求人募集の貼り紙に、黄色い猫の絵が追記されていることを、大学からの帰りに発見してしまった。赤い猫同様にブサイクなので、同一人物が描いたと思われる。シンプルに気持ちが悪い。なぜ黄色を選んだ?見づらいのに。もしかして、信号?猫を飼うまでにリーチがかかったとか。緑の猫が現れたらGOサインで、本当に猫を飼う。そんなバカな。

もう、ここでいいや。

その気持ち悪くてバカげた貼り紙を鼻で笑いながら写真に撮って、家に帰った。


もう何も期待していないはずなのに、諦めをつけることが目的のはずなのに、電話することをこんなにためらっているのはなぜだろう?スマホを握ったまま画面が消えて、パスコードを入力してはまた画面が消えて、というのを気づけば30分も繰り返していた。そもそも、あんな求人募集本当はしていないんじゃないか?もし電話して、本気でかけてきたと思われたらどうしよう?あんな貼り紙するくらいだから、店長が頭のおかしな人だったらどうしよう?あまり利用しないスーパーだから、まずお客さんとして店員の様子を観察してきてから検討した方がいいのではないか?

いや、何を考えても無駄だ。あのスーパーで働くことはないのに、店の雰囲気なんて調べて何になる。電話してバカにされたら、面接に行く手間が省けたと思って喜べばいい。もう、立ち止まっている時間はない。

涙目になりながら、貼り紙に書かれていた電話番号を押して、発信した。呼び出し音が鳴っている。電話がつながるまで待っている時間がとても長く感じられる。嫌なことは早く終わらせてしまいたい。ところが、電話は一向につながらない。数えてはいないけど、もう10コールくらい鳴らしていると思う。やっぱり、募集はしていなかったってことかな。あと3回鳴らしてつながらなかったら、電話を切ろうと決めたときだった。

「キングマーケット野崎店でございます」

落ち着いた感じの女性の声とともに、誰かの話し声や、レジの”ピッ”ってする音、BGMなどが混ざった雑音が耳に入ってきた。

「あ、あの、お店に貼ってあったポスターを見て…バイト募集の」

「あー!少々お待ちください」

保留にならなかったので、電話の遠くから「しげちゃーん!」と叫ぶ女性の声が聞こえる。しげちゃん?

「お電話代わりました。わたくし店長の、ほんじょうしげお、と申します」

電話の相手は、とても柔らかい声で、ゆっくりと聞き取りやすいように名乗った。

「アルバイトの応募の件でお間違いないでしょうか?お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「あ…こ、小坂史帆です」

「こさかしほ、さんですね。あの、一度店舗の方まで来ていただいて、実際にお話できればと思うのですが、いつがご都合よろしいでしょうか?」

「あ…えっと…」

咄嗟に言葉が浮かばず、沈黙が流れてしまった。まずい。何か言わないと。でも、声が出ない。

「こさかさんは、学生さんかな?」

イライラさせてしまったかと思ったのに、電話の相手は全く怒っていなくて、まるで迷子の子供に話しかけるような、優しい声で尋ねてきた。

「あ…はい」

「学生さんだったらー、平日の夜か、土日がいいよね。明日の夜だと急かな?今週の土曜日とかどうだろう?何か予定あるかな?」

「だ、大丈夫です」

「そう?じゃあ、そうだねー、せっかくのお休みの日だし朝はゆっくり寝たいよね。13時はどうだろう?お客さんも比較的少ないし、いろいろお店のことも案内できるかも!」

「じゃあ…それで」

「了解!じゃあ、土曜日の13時ね。何か予定入っちゃったり、体調悪くなったりしたら遠慮せずにまたこの番号に連絡してね」

「はい…わかりました」

「うん。じゃあお待ちしてます!」

いたたまれなくなって、電話を切ってしまった。言われるがまま従っていたら、いつの間にか面接の日時が決まっていた。こんなに優しく対応されたのは初めてだった。予定を答えられない時点で、もうダメだと思った。なんでこんな奴にまで、面接に来てほしいのだろう?本当に人手不足で困っているのだろうか?「お休みの日は朝ゆっくり寝たいよね?」って言ってた。最近の若者はゆとり世代だからと思って、向こうも過剰に気を遣い過ぎているのだろうか?

いっそのこと、そのままブチ切れられて、電話も切られた方がよかった。コミュニケーションの取れない私に対してのリアクションは人によってさまざまだが、実は一番堪えるのが、謝られたり心配されたりすること。「あなたは何も悪くないですよ」と伝えたいのに、言葉にできないから。悪いのは私なのに、関係ない人を巻き込んでしまった罪悪感を、ずっと引きずることになるから。

さっきの電話、せめて「ありがとうございます」とだけでも言えたらよかったのに。

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