10 「対峙」

 テセに戻ってから、エスターとヴォーグはしばらく静かに暮らした。凱旋といって良い成果をもたらした帰還だったが、隠密行動であったし、またはいわば「前科者」でもあるエスターの存在をテセは公にもできなかったので、ヴォーグとエスターを英雄の如く遇したのは、ごく限られた人々、つまりは、女王セシリアと王弟セヲォンと、その腹心のものたちだけであった。エスターは都の郊外に専用の館を与えられ、療養に専念し、ヴォーグといえば、まだ休暇の残りがあったので、自らの宿舎に戻り、軍の雑務をこなしたり、部下の訓練を指揮したりの日々であったが、それまでと違ったのは、そんな毎日の中で、足繁くエスターの館を訪れることであった。水菓子などを携え、見舞い、と称しては館に現れ、エスターの顔を見ると、安堵したようにしばらくたわいの無い話をし、程なく館を辞す。

 そんなヴォーグを見て、館の下働きのものたちは呆れながら笑った。なんと不器用なお方だろうね、と。


 エスターはそれまでの激動の日々を離れ、何不自由ない生活を送りながら、今の自分の身を振り返り、人生は不思議なものだと考えたり、可笑しく思ったりした。与えられたテセ風の優雅なドレスは、自分には不釣り合いに思ったし、何と戦うことも無く、ただ平穏に過ぎていく日々も、ドレスと同じく自らの人生に似合うものなのか、ふと考え込むこともあったが、朝、窓を開けて吸う空気を美味しいと想い、空を飛ぶ鳥の羽ばたきや、それを照らす陽の光が美しいと思ったり、エスターの世界は再び美しいものに変ろうとしていた。


 そしてなにより、ヴォーグの訪問が嬉しかった。体は日に日に弱っていくのを感じてはいたが、死への恐れは、その嬉しさがほぼ消し去ってくれていた。顔を合わせても、たいして実のある話ができるわけではなかったが、その喜びは、エスターの人生における、最後の平穏な短い日々を明るく眩しく照らすものであった。


 そんな日々が続いたある日、ヴォーグは久々に王宮を訪れた。軍の仕事を済ましひとり王宮の廊下を歩いていると、後ろから誰かがヴォーグに声をかけた。振り返ると、セヲォンが立っていた。


「よお」


 セヲォンの表情は普段の微笑みだ。だがなにか、その日はそのなかにチラリと皮肉なものが見えたのは、気のせいだろうか。ヴォーグはそういぶかしみながらも、旧友に差し出された手を取り、いつものように握手した。


「セヲォン、元気だったか?」


 ヴォーグは手にしていた書類を落とさぬよう気をつけながら、握手を終えると、セヲォンに気心の知れたものにだけ見せるくだけた笑顔でそう語りかけた。


「見ての通り、元気さ」


 セヲォンは手のひらを広げながらそう応えた。そこには変らぬ友の表情であったので、ヴォーグは少し安堵した。そして気になっていたことを尋ねた。


「薬草の研究は、どうだ」


「ああ、今、薬師たちが懸命に、お前たちが持ち帰った種を培養しているぞ。ただ、なかなか花が咲かない。花弁が蕾のまま落ちてしまうのだよ。種もできぬ。何の栄養分が不足しているのか、夜も寝ずに研究に励んでいる。それが分かれば、薬ができる日も近いだろう」


「そうか、早く薬ができれば、エスターが喜ぶ」


 ヴォーグは心が軽くなるのを感じて、笑いながら言った。セヲォンはそれを見て肩をすくめた。


「お前は本当にわかりやすい奴だ」


「……」


 ヴォーグの無精髭で覆われた頬が少し赤くなった。それをセヲォンは確かめると、微笑みを崩さぬままさりげなく言った。


「エスターの館にまた今日も行くのか」


「……ああ、ここ数日調子が良くない様子なのでな、ちょっと見に行くことにする」


「姉上が泣くぞ」


 ヴォーグは急に飛んできたセヲォンの攻撃をかわせず、一瞬言葉に詰まった。


「……からかうな……」


「……からかってなどないさ……」


 セヲォンの瞳にちらちら炎が踊っているように感じ、ヴォーグはひるんだ。そして早くこの話題を終わらせたいとばかりに、軽く咳払いをして、その場を去ろうとした。

 だが、セヲォンがヴォーグの顔をまっすぐ見据え、ヴォーグの足を止めさせると、こう呟いた。


「国境の村、フィード、新月の夜」


 ヴォーグの顔色が変った。

 青ざめたヴォーグの手から書類がバサリと落ちた。途端に風が書類をまき散らす。その渦の中でヴォーグはただ言葉も出ず、動けなくなっていた。それを拾い集めながらセヲォンが押し殺した声で語を継いだ。


「……昨年の夏の新月の夜、村は何者かに襲われた。フィードには重度の疫病患者が集まって暮らす貧村だ。そこに火が放たれ、逃げ惑う村人はその何者かに焼かれるか斬殺された。生き残りはただひとりもいなかった」


「……」


「近隣の人々は、国境警備隊の手によるものではないかと噂した」


 ヴォーグはただ何も言わずに立ち尽くしている。


「あの事件は、やはりお前の命によるものか」


「……そうだ」


 ヴォーグはしばらくののち、吐き捨てるように言った。セヲォンは合点したとばかりに、頷きながら、書類をまだかき集めている。


「王族の情報収集能力を舐めるなよ。お前が留守している間に、国境警備隊の報告書を漁ってみたのさ。お前の部下は正直者だな。はっきりとあの事件の詳細が書いてあったよ。お前の命令書付きで」


「……しかたなかったのだ! 我が軍の将校を殺して逃げた賊が、あの村に逃げ込んで……」


 ヴォーグは弱々しい早口でそう呟いた。その声は震えていた。


「部下にやらせるわけにはない任務だった……だから、俺が率先して村を焼いたんだ……」


「うむ。報告書にもそう書いてあったさ、一字一句その通りだ」


 セヲォンがそう言いながら、漸く集め終わった書類の束をヴォーグに渡した。ヴォーグは震える手でそれを受け取るときっぱりと言った。


「軍法会議にでも何にでも、俺を突き出せ……!」


「そんな野暮なことはしないさ。ただ、これは聞きたいな。お前がエスターに好意を抱くのは、その罪滅ぼしなのか、どうか、は」


「……違う!」


 本音がぽろりとヴォーグの口から漏れたのを聞き、セヲォンは乾いた笑い声を上げた。


「ならいい」


「……笑い話をしてはないぞ、俺たちは……!」


「笑い話さ」


 ヴォーグはそう言い切ったセヲォンの瞳が冷たい色に染まっているのを見た。たまらずヴォーグは呻いた。


「……いまだに村人の断末魔が耳に残っている」


「気にするな。……もし、どうしても気になるようだったら。俺と姉のためと思えば良い。お前はこのテセの国を護るために、真っ当な仕事をしたのだ。とな、それでは駄目か?」


 ヴォーグはたまらずセヲォンに背を向けて歩き出した。その背中から、自分の提案には承服しかねる無言の意思を受け取るとセヲォンは大声で言った。


「近日中にお前に新しい任務地が決まる。楽しみに待っていろ。あと、これは余計な話だが、俺は近々、ガザリアに行く。軍事顧問という名目だが、まぁ、人質みたいなものだ。王族も王族なりに苦労があるのだよ、ヴォーグ」


 ヴォーグが振り返る。すでにセヲォンはくるりと身を翻し歩き出していた。ヴォーグの瞳に映るセヲォンの後ろ姿がゆっくりゆっくり遠ざかる。

 ヴォーグはそれを見届けると、ヴォーグもまた歩き出した。セヲォンとは別の方向に。


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