7 「ふたり旅」

 ゆらゆらと体が揺れる。目を開ける間もなく潮の香りと風が押し寄せてくる。こうして目覚める朝も今日で12日目だ。さすがに慣れては、きた、が、今回の旅に至るまでエスターは海を見たことがなかった。だから、船倉から甲板に上がると、その果ての無い青の光景に、白い波に、未だ、子どものように心が躍る。エスターは、まだ、自分の心が躍ることができるとはついぞ意外であったが、子どもの頃のように、海の光景はエスターの世界をたしかに美しくしつつあった。それが錯覚と、分かってはいても。


 船に乗ることになったのは、ヴォーグの提案である。旅立ちの朝、エスターははじめてこの世がどうできているかの地図を見た。うろ覚えながら、この二年、辿ってきた村や都市、山脈の名をヴォーグに告げると、いとも簡単にヴォーグはその二年の旅の軌跡を地図に導き出した。それで分かったのは、ズームグにテセから至るのには、かなり多くの道筋をガザリアの地を踏まねばならないということだった。


「これはまずいな、ガザリアでは俺もお前も、多少は名の知れた存在だ。旅の邪魔をされるのは間違いない」


 そうヴォーグは言うと、しばしの思考ののち、海に出ることをさらりと決めた。テセの港から船を出せば、ガザリアの外海をぐるりと廻ることができる上に、旅程もかなり短縮できる。船になど、まして海での航海など経験のないエスターは一瞬怖じ気づき、顔を曇らせたが、ヴォーグにこう言われて、不承不承したがうことにしたのだ。


「俺だってどちらかと言えば陸の男だ。だがな、旅を大きく短縮できるのなら仕方なかろう。それに長旅の途中でお前が死んでは、困るのだ、任務を果たせなくなってしまうからな」


 ……というか、いまのエスターの運命を握るのはヴォーグだ。その言に従うしかないのが現実だった。その結果、エスターはいま海の上にいるわけだったが、揺れに背中の傷が痛むのを除けば、思ったほど航海は嫌なものでなかった。最初の頃こそ船酔いに苦しんだものの、今では、頭上を飛ぶ海鳥や、波間をはねる魚の群れに見とれる余裕が生まれていた。


 一方のヴォーグは、船の上でも剣や弓の稽古を欠かさない。エスターはこの男を殺して再び自由の身になり、旅を続けることを、旅に出てから、幾度となく考えたが、ヴォーグに隙は全くなかった。船員の目もあったし、会話も最低限しかせぬし、何より、その身のこなしには、一国の国境を預かって来た剣士の威厳と風格があった。エスターはよって手出しするのは得策ではないと悟らざるを得なかった。


 そうこうするうちに、船はズームグ西部のちいさな湾に着岸した。エスターはこうして、全く思わぬ形で故郷の地を踏むことになった。


 旅は単調なものだった。朽ちかけた道標や、通りかかった村の者に首都への道を聞く。村人は変った装束のふたり連れに恐れを無しながらも、ヴォーグがズームグでは珍しいテセの織物を数枚渡してみれば、その効果は莫大で、卑屈な笑顔を浮かべながらも首都への道を教えてくれた。ただ、そのあと決まって誰もが言うのだ。


「都なんぞ、十数年も前に滅んでいるよ。あそこは呪われていからさ、誰も近づきやしないよ、あんたら、もの好きだな」


 エスターにとって、久々の故郷に感慨はあまりなかった。ただ、幼い頃親しんだ花が道ばたに咲いていたり、よく捕まえた虫たちがはねていたり、子どもの時分、世界が美しいと感じさせたあらゆるものを目にすると、しばし立ち止まって目を細め見つめるのだった。やがてヴォーグが旅を急く声をかけると、何事もなかったように歩きはじめる。そんな繰り返しの日々であった。

 

 変化があったのは10日と数日を経た頃だ。エスターの足取りが重くなり始めたことにヴォーグは気が付いた。


「おい、どうした?」


 ヴォーグが慌てて駆け寄ってくる。それを感じる間もなく、エスターはばたりと道に倒れた。エスターの顔は青ざめていたが、そっと触れてみれば頬は燃えるように熱い。これが起きると死も近いといわれる、病の発作だった。



 エスターは夢の中にいた。過去何度も思ったように「死んだかな」と思い、そしていつものように「父さん、ごめん」と謝った。陽炎のように父の姿が目に映る。夢の中の父の目はいつも決して笑っていない。責めるような鋭いまなざしがエスターを射貫く。エスターは嗚咽した。泣いて謝っても謝っても許してもらえないのは分かっていた、だが、夢の中でエスターは泣くことを止められないのだ。


 ……だが、この夢は、いつもとなにかが違う。

 エスターが思わず目を開けたのは、頬に流れ落ちた涙をそっと誰かの手がすくい取ったのを感じてのことだ。至近距離にヴォーグの顔があった。そして、ヴォーグのいかつい手のひらが、エスターの頬を流れる涙を拭っていた。


「気が付いたか」

 ヴォーグはエスターの瞳が焦点を取り戻したのを確かめて、静かにエスターから離れた。


「……感染うつるぞ…そんな、触れたりしたら……」


 エスターは短く苦しい息の下そう応えた。


「気にするな。傷の膿に直接触れなければ、大丈夫なのは経験から分かっている」


 空は黒く、星が瞬いている。夜の帳が降りた森の中にふたりはいた。たき火が炊かれている。いつか見上げた懐かしい星たちが、エスターを見下ろしている。そしてヴォーグも。


「……なぜ泣く?」


 エスターは赤面した。なんと夢の中だけではなく、この男の前で自分は泣いていたのか。そう思うと恥ずかしさに身が燃えた。熱のせいだけでなく体が熱くなる。ところが、エスターの意思に反して涙はいまだほとばしるのをやめないのだ。どうしたことだろう。こんなこと、あの日以来、ない。

 そんな統制のとれない自分に戸惑いながら、いつしか小さくエスターは呟きながら、泣きじゃくっていた。


「……父さん……父さん……ごめんなさい、許して……」


 ヴォーグは黙って、焚き火の向こうから見つめていた。そしてぽつりと言った。


「お前はその呪いを解く必要がある。病を治す前にな」


 エスターは泣くのを止めて聞き直した。


「……呪い?」


「ああ……お前をいま、動かしているのは、呪いだぞ。生きるための行動ではない」


 ……エスターは下を向いた。なぜこの男はこう、自分の痛いところを突いてくるのだろう。あの王宮の牢の中でもそうだった。


「……そう言われても、止められない……私は止まれない……」


 エスターはそう聞こえるか聞こえないかの小声でささやいた。遠くから夜行性の動物の遠吠えが聞こえる。すると意外なことをヴォーグは口にした。


「呪いを解いてやろう」


「何がお前にできる」


「何もできんさ、ただな、テセではよく歌われているまじないの歌を思い出した」

 

 そう言うとヴォーグは低い声で歌を歌い出した。森の静寂を破らない程度の声で。


  ながれる みずが そのすえに

  注ぐ うみは 永久とわのうみ

  なにも かもが 集まって

  いつしか 地の果て たどりつく

  おおきな石も

  ちいさな木の葉も

  いきつく先は みな おなじ

  いきつく先で 見るものは

  お前が望む 夢のあと

  お前が望む 夢のあと……


 ……歌はときに途切れながら、長く続いた……かどうかはエスターには分からなかった。再び意識が遠のいて、静かに眠りに落ちるエスターをヴォーグは見た。ヴォーグは歌を止めると、エスターの泣きはらした寝顔を隠すように毛布を掛けた。


「……呪いから解かれたいのは、俺も同じだ……何を偉そうに……」


 ……ヴォーグの自嘲を、エスターは知るよしも無かった。 


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