8 「暁の疾走」

 幸いなことにエスターの体調は急激に悪化しなかった。数日、森で休養したあと、なんとかもとの体調を取り戻した。ふたりの旅は再開した。だがその旅程で、あの夜のことがふたりの話題に上ることは無かった。エスターの涙のことも、ヴォーグの歌のことも。そのことに触れそうになると、ふたりともややぎごちなくその会話を避けた。王都まではもうすぐだった。


 そしてついに、ヴォーグとエスターは王都を見渡す丘に到着した。遠くにかすむズームグの王都は、不気味な静けさを保っている。しかし丘を登り切ったふたりが息をのんだのはそのことではなく、ガザリアの旗を掲げた、丘の下を埋める軍勢だった。


「まったく別の道筋で来やがったのか……奴ら」


 ヴォーグが選んだ海路経由ではなく、ガザリア軍は海に出ること無く、大陸を直進してこの地にたどり着いたようであった。そのため両者は交差せず、ここまで道を進められたのであったが、ヴォーグはその幸運に浸ること無く、舌を打った。


「……先んじられたな……!」


 ガザリア勢も薬草の秘密に気づいて、ズームグの王都まではるばる軍を進めてきたのだ。眼下の光景が意味するのは、そういうことだったからだ。とはいえ、ここまで来て、唇を噛んで王都に入城する軍勢を見ているわけにもいかない。ヴォーグとエスターは、ガザリア軍に見つからぬよう、夜を待って丘の下へと少しずつ移動を試みることにした。

 しかし、夜目が利くガザリア軍の夜警が鋭く笛を吹き、夜明け近く、ふたりは気が付けば、ガザリア軍に囲まれていた。


「これはこれは……国境警備隊長、ヴォーグ将軍自らここまで足をお運びとは、驚きですな」


 夜明け前の冷たい風が吹き付ける中、夜警の知らせで駆けつけたガザリア軍の指揮官らしき男が馬の上から、動くこともできずただ背中あわせで固まっているヴォーグとエスターを一瞥して笑った。ヴォーグはかろうじて剣を構えてはいたが、多勢に無勢、この状態では無力なことは火を見るより明らかである。言葉の出ないヴォーグを前に、ガザリア軍の指揮官はさらに高く笑って言った。


「薬草だけで無く、ヴォーグ将軍をも国に土産として連れて帰れるとはわたしは本当に幸運だ……テセのヴォーグといえば、有名だからな、なんせ国境警備の折……」


「言いたいことはそれだけか!」


 やや早口でヴォーグが叫んだ。とたんに兵士たちが色をなす。それを指揮官は静かに手で制すると、エスターに目を向け言った。


「女は切り捨てろ」


「やめろ!」


「お黙りいただこうかな、ヴォーグ将軍」


 すっとヴォーグの首に剣が差し出される。兵士たちはエスターに向き直り、剣を振り下げた。

 その時だった。エスターが短剣を胸から鋭く差し出すと、横に飛んだ。そして飛ぶやいなや、指揮官の馬の腹を斬りつけた。馬が高くいななき、激しく身を揺さぶる。たまらず指揮官は鞍から転げ落ちる。その間を逃さず、ヴォーグが短剣が刺さったままの暴れる馬に飛び乗り、エスターをも引き上げる。そして呆然としているガザリアの兵士の間を縫って、ヴォーグは王都に向かって馬を走らせ始めた。


「追え! 追うんだ!」


 背後から迫り来るガザリア軍の怒号にエスターは肝が冷える想いであったが、ただヴォーグの腰に手を回し、落馬しないことだけに意識を集中した。刻はまさに日の出であった。

 東の丘から日が昇る。一騎の馬とそれを追う軍勢、そして彼らの前にひろがる王都に通じる平原を、朝陽の光が鮮やかに包み込んだ。


「……!」


 ヴォーグもエスターも、一瞬追われていることを忘れて、目を見張った。

 平原には一面、赤い花が咲いていた。


 一面の赤い花から立ち上る甘い匂いにヴォーグはむせかえる。が、かまわず平原に馬を踏み込ませ、更に鞭を振るう。それを追ってガザリア勢も平原になだれ込む。途端に赤い花びらが宙に舞った。続く悲鳴と怒号。エスターは思わず後ろを振り返った。


 目にしたものは、ガザリア勢の先頭の兵士が叫び声を挙げながら、ゆっくりと地中に引き込まれていく光景だった。そして花畑に満ちる微かなあえぎ声にエスターとヴォーグは気が付いた。


「ヤツラヲ……ヒキコメ……ヒキズリコメ……」


 赤い花とともに人ならざるものの声が平原に木霊している。その声に応じるかのように、ガザリアの軍勢は次々、土に飲まれていく。そして自分たちの周りからも木霊が聞こえた。

「コイツハ……ナカマダ……ナカマダ……」


 たしかに囁き声はそう木霊していた。エスターは身震いした。この声は、疫病で死んだ同胞の死霊によるものだ。ガザリア軍を土に引きずり込んだのは彼らの仕業だ。そして仲間とは……自分のことだ。同じ病に冒されている自分のことだった。だからヴォーグとエスターの馬は止ること無く王宮の城壁まで進めたのだった。

 だが、もうすぐで城壁というところで、エスターの短剣が腹に刺さりながらも走り続けた馬が、いななきとともに傷に耐えかね、崩れた。とたんにエスターとヴォーグは花畑の中に投げ飛ばされた。すかさず囁き声が木霊する。


「コイツハ……チガウ……チガウ……」


「ヒキズリコメ……」


「ヴォーグ!」


 エスターの視線の先では、ヴォーグが無数の人ならざるものの木霊の囁き声に、足を土に引きずり込まれようとしていた。しかしかまわずヴォーグはエスターに向けて叫んだ。


「行けーっ!」


 その声に背中を押されるように、エスターは赤い花を踏み散らしながら、全身の力を振り絞り城壁に向かい走り始めた。朝の陽はまだ低く、だが眩しく、赤い花の広がる、死霊に支配された平原を静かに照らしていた。

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