2 「罹患」
ここ数年のことだ。人々が恐れているのは疫病だけではない。いや、人は疫病以上に、同じ人間を恐れていた。「やつら」とは人間たちのことだ。それも、疫病に感染して死を待つしか無い病人が集団となって、村という村を襲撃してくる半死人の群れである。「やつら」は死を恐れない。怖いものなど何も無い。そして何より「やつら」は、健康な人間を憎んでいる。それゆえ「やつら」は人々を襲い、自らの病んだ体から迸る膿を浴びさせる。そうして、道連れを作ると、満足して、嗤いながら去って行くのだった。それは、病以上に厄介で凶暴で、慈悲の無い襲撃である。
それがこの村にも来るのか?
エスターは寝床に横になり、思いを馳せる。窓の外から梟の声が聞こえる夜半である。そうしたら、自分と父は、矢面に立ちこの村を守らねばならない。いままで幾度となく戦い撃退した山賊どもとはわけがちがう。自分は、死ぬのだろうか。エスターは初めてそう思った。
死ぬのは怖くなかった。幼い頃から剣士として育てられたのである。いつかこういう日が来るのは、ぼんやりとだが想像がついている。だからこそエスターは世界を愛していた。愛する世界のために、いつか死ぬ。そう思うと高揚感から空はいよいよ輝いて見えるというものだ。怖くは無かった。だが……。エスターはひとり布団の中でつぶやいた。
「やつらから
エスターは初めて身震いした。想像がつかなかった。ただただ恐怖と嫌悪感がエスターの心に靄をかける。……想像がつかなかった。死ぬのは怖くない、怖くないはずだが、だが……だが……。
いつしか眠りに落ちていたエスターが目を覚ましたのは、窓からなだれ込む明け方の光だった。……やけに眩しい朝日だ……寝ぼけながらエスターは身を起こし、そして、自分の間違いに気がついた。火の手だった。村の中心部が赤く燃えている。エスターは飛び起きて寝床の横に置いてある剣を握った。山賊か? だが、彼らが率いる獣の匂いはない。代わりに焦げた匂いとともに漂ってくるのは、微かな腐敗臭だ。これは……これは……。
「やつらが来た……」
エスターは呟いた。夢の続きのようにぼんやりと口から漏れた。だが、つぎの瞬間、エスターは家を飛び出した。父のことを思い出したのだ。
「父さん!」
父が村を見張るいつもの丘も赤く染まっていた。あの中に父さんがいる!なんてことだ。自分も行くべきだった。
「くっそう……」
後悔の念が馬上のエスターの口からほとばしる間に馬は丘に至った。エスターは馬から降り、赤く染まる斜面を、剣を片手に駆け上がる。その目に入ったのは……体の炎を払いながら剣を振るう父と、複数の人間の格闘だった。いや、人間の形をした人ならざるもの、「やつら」に囲まれる父の姿だった。
「遅い!」
「父さん!」
「俺はここで一戦構える、お前は村人を守れ!」
父ははっきりとした声でそうエスターに命じた。大丈夫だ、父は強い。半死人の群れに負ける父では無い。エスターは、気を取り直して身を翻し、村の中心部に向う。その時だった。鋭い鎌の一撃がエスターの背中を襲った。熱く鋭い痛みに、エスターはもんどり打った。声も出なかった。更に次の瞬間、倒れていく自分の体に無数の人間がのしかかり、嗤いながら押し倒すのを感じた。
崩れ落ちるエスターの意識は途切れた。ただ、強い腐臭と、けたたましい嗤い声、そして自分の名を叫ぶ父の声が遠くなる意識の中でかち合い、やがて虚無がエスターを包んだ。
どれだけ刻が経ったのか……。エスターはゆっくり瞼を開いた。鋭い痛みが背中に走る。自分が生きていることにエスターは驚愕した。だが、動けなかった。そして動かない自分の体が、なんともいえない腐臭を放つ膿に包まれている事に気づいた。これは……。エスターの意識は恐怖に覚醒した。
自分の声とは思えない叫び声が、エスターの口からほとばしった。
「静かにしろ……動くんじゃ、無い……」
その口を押さえ込んだのは、ほかでもない愛する父の手だった。がっしりとしたなじみあるその手は、やけに冷たかった。見れば、父もあの膿に覆われている。傷だらけの全身の至る所に、あの腐った膿がまとわりついているのが分かった。そして顔は、青黒かった。
「……父さん……」
「いいか……俺の言うことを良く聞くんだ……」
そう言葉を継ぐ父の体はゆらゆら揺れている。必至に、倒れまいとしながら、エスターの頭上で父が言葉を繋いでいる事に気がつき、エスターは言葉を失った。かまわず父は口を開いた。顔を苦痛にゆがめながら必死の形相で。エスターは父の言葉に聞き入るしかなかった。
「お前の体に放出されたやつらの膿は、俺がお前の傷口から吸い取った。だが、量が如何せん多かったな…俺の命を持っても吸いきれなかった」
「……!」
「俺はもう死ぬ。当たり前だな、お前に放出された、致死量のやつらの膿を吸い込んだんだ。急激に毒が体内にまわっているところだよ、今まさに」
「……とお、さん……」
「いいか、よく聞け。やつらは俺が倒した。だが、お前はやつらに
エスターは急速にか細くなる父の声にたまらず飛び起きようとした。だが、動かない。動けない。動けないエスターの前でどうとついに父は倒れた。
「俺の娘……エスター……いいか、生き抜けよ……」
そして、父の姿と声はエスターの視界から消えた。父の声は、二度と蘇ることは無かった。
こうしてエスターの世界は黒く沈み、人の憂いに汚された。空は再び輝くこと無く、色を失い、風はただ背中の傷を冷たくえぐるものでしかなくなった。
傷が癒えた頃、エスターは村を辞した。もうここで役に立つことはないし、寧ろ病の身となったエスターは忌むべき者となったからだ。その証に、その旅立ちを見送る村人はいなかった。
いつかの鷹が、空高く羽ばたきながら鋭く鳴いていた。
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