18「予期せぬ帰還」

 フィード近くの森にふたりの馬が着いたのは、その日の夕刻だった。なんてことだ。この娘と出逢ってから1日も経ってないというのに、こんなことになっているとは。カロはこの1日の人生の動転ぶりが信じられないというように森の入口で空を見上げた。


 その夜空はいつもと同じ星座が瞬いていたけれど、その下に生きる僕の生はなんだか、すっかりおかしなことになってしまった。それもこれも、メリアを拾ったばかりだったが、当のメリアはすやすやとカロの背中にしがみついたままいまは眠っている。



 馬を飛ばしながら、その日の昼間、メリアとカロはお互いのことをぽつりぽつりと語り合ったが、それでもなお、メリアは謎が多い娘だった。


「お前、テセからなんで逃げてきたんだよ」


「そういうあなたもテセ人なんでしょ」


「……ああ、僕はたしかにテセ人だ、亡命してきたんだ。でも、それかなぜかは知らない」


 メリアは自分のことを聞かれたのに、対するカロの素性の方に興味津々である。


「じゃあ、テセの思い出はまったくないのね」


「そうだよ」


「……じゃあ、私たちのことなんか、知りっこないわね……」


「神官のことをか?」


 そこでカロは漸く本来の疑問に立ち戻る。


「……お前、生贄になるって騒いでいたな。テセの神官にはそんな慣習があるなんて、聞いたことないぞ」


 途端にメリアの体がぶるっ、と震えた。

 馬を止めて振り返ってみれば、怯えた顔でちいさな声で呟く幼い顔がある。


「……私は嘘をついてはいないわよ……」


 その青ざめた顔を見てしまうと、もう、カロはなんだかメリアが哀れになって、それ以上問いただせなくなってしまうのだ。カロはそれ以上の追求をやめて再び馬を走らせる。そんな1日であったのだ。


 さて、森に着いたとはいえ、いったいこれからどうしたものか。かんがえていると、後ろでメリアが目覚める気配がした。ふぁっとあくびをするとメリアはこう言った。


「ああ、あなた汗臭いわね、そういえば神殿なら、いまころ禊ぎの時間だわ」


「一日中馬を飛ばしていたんだから、汗臭くて当然だろ!」


「そんなに怒らないでよ。感じたことを口にしたまでだわ……それよりはどこかに泉は無いかしら。禊ぎがしたいわ」


 勝手なこと言いやがってとカロは言いかけたが、たしかに泉を見つける必要はあった。カロの喉はなにしろ乾ききっていたし、考えてみればメリアに夕食を恵んでしまったおかげで、学院での昼食以来1日半何も口にしていないのだ。それにしても、あの毎日退屈だった学院での日々が、級友たちの顔が、とてつもなく遠い日のものように思える。

 とりあえず森の中に進もう、水も食糧も見つける必要がある。カロは決心し、馬を下りると、森の入り口付近を伺った。微かに水の音がする。カロはメリアをも馬から下ろすと、その音を辿ってゆっくりと歩き出した。


 幸いなことに小川、ついで泉はほどなく見つかった。まあまあの綺麗さである。カロとメリアは夢中になって喉を潤した。と、一息ついたところでメリアはいきなりカロにこう言う。


「あの……すこしこちらを見ないで下さる……?」


 さっそく禊ぎをしようというのだ。カロは顔を真っ赤にしながら叫んだ。


「好きにしろよ! もう!」


 そうカロが後ろを向いた途端に、するりとメリアが衣を脱ぎ捨てる気配がした。カロは勝手に心臓がどぎまぎするのを感じ、振り返りたい衝動を抑えようと一歩、歩を進めた。野草か木の実でも、いまのうちに探してこよう。

 そんなカロにかまわずメリアは泉にしずしずと沈み、何やら祈りの言葉を目に見えぬ者に捧げている。


「……大いなるテセの護り神よ……この国を護り賜え……赤い花よ、永遠に咲き誇り賜え……永遠に散りゆくことなく、我らを護り賜え……」


 なにやら不思議な祈りの言葉だと思いながら、カロは森に落ちた木の実を物色する。ああ、あと薪もあつめておかないと。もうすぐ日がくれてしまう。獣の餌食になるのはごめんだ。


「ああ! 森の泉って思ったより綺麗ね! 神殿の水より匂わないくらいだわ!」


 今度は、メリアは足を水の中でばたつかせ水音を立てて、はしゃいでいる。高尚な祈りの言葉が途切れたと思えば、途端に年相応の少女の声音だ。その落差にカロはいまだついていけない。やがて水音が静かになったので、もうそろそろいいかな、とカロは泉に向き直った。


メリアは泉から上がって、ローブを身に纏おうとしていた。ローブの下の腕は思った以上に細かった。


 ……と、カロは思わず声を上げた。メリアの左腕下には、遠目でもはっきりわかる大きな十字の傷があった。そして、その傷は青黒く膿んでいた。


「……! お前! それは、あの病の……」


「え? これ? あなたには無いの?」


「……僕は疫病なんかじゃないぞ!」


 思わずカロは飛び退きながら叫んだ。そんなカロをメリアは不思議そうに見ている。


「え? 私の知っている人には、みな、この傷があったけど……そういうものじゃないの?」


 メリアの口調はどこまでも暢気だ。……だが、間違いない。あれは、あの、疫病の証だ……。カロは恐怖した。感染うつる……!

 治療薬はあれど、それは今でもガザリアでは稀少なものだ。ましてやこんな旅の途中で罹ったら…。 

 カロの背中に、ぞわっ、と鳥肌が立った。


 そのときだった。


「案ずるな……案ずるな……」


「恐れるな…恐れるな…」


……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……ざわざわ……

……ざわ、ざわざ、ざわわ……ざわざわ……ざわざわ……


 木々の上から、声が降ってきた。森がざわめいた。カロはひっ! と声にならぬ声を上げた。自分が恐怖のあまり、おかしくなってしまったのかと思ったのである。

 だがたしかに、その声は聞こえてくる。その証拠に、メリアもローブを肩に引っかけたまま、不思議そうに頭上を見上げている。そして、その声ははっきりとこう告げたのである。


「カロ、お帰りなさい……」


「お帰りなさい……カロ」


 カロはあんぐりと口を開けた。そして今度は声だけで無く無数の影が降ってきた。


「ようこそ、お帰りなさいませ、この森に」


「我ら森の衆は、カロ、お前の帰りを長く、長く待っていたのだよ」


「……どういうことなの?」


 メリアの声にカロは思った。それはこっちの台詞だよ! と。

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