27「敗走」

「こんなはずでは……」


 グルーは呻いた。手に負った傷からは絶えず血が流れている。意識が朦朧としてくる。グルーは気力をふり絞って、腹心の部下たちの名を叫んだ。


「ガルムド! サラーン! ヨヘド! ……生きてるか? いたら返事をしろ!」


 だがその声に応える者はいない。ただ風が吹き、砂塵がばあーっとグルーの傷ついた体にまとわりつくのみだ。


「皆死んだか……ガザリアの奴らめ……」


 テセとの国境に配置されたガザリア軍の作戦は巧妙だった。グルーたちが動き出す前夜のうちに、野営をする一団へ、病の者を装った数人の精鋭を忍び込ませ、朝が来る前にグルーの一団を襲ったのだ。

 さらに、混乱するグルーたちの一団へ、ひそかに周りを囲んでいたガザリア軍の本隊が攻め込んだ。攻撃は一方的なものとなり、悲鳴・怒号……修羅場と化したグルーの野営地は病の者のうめき声で満ちあふれた。

 

 倒れ込む患者たちの上に更にガザリア兵の剣がきらめく。野原は病の者たちの血で赤く染まった。


 夜襲に気づいて必死に戦ったのはグルーも同じであった。

 いつものように地位を顧みず、病の者の群れの中で、獅子奮迅するグルーの姿があった。だが、銀髪を振り乱し、隻眼をらんらんと怒らせて短剣でガザリア兵に戦いを挑むグルーの姿は、否が応にもガザリア兵の目についた。ガザリア軍にとっては、グルーこそが標的であったからだ。


「他の者はほっておけ、首謀者グルーを捕らえよ!」


 ガザリア軍の将校から途端にそう指示が飛び、グルーはあっという間に囲まれた。間一髪のところで、グルーの腹心たちが駆けつけ、その輪の中へと切り込んだ。たちまちグルーの周りは大混戦となり、もはやだれが味方で敵か分からぬほどだった。


「グルー、逃げろ! ここは俺たちに任せて逃げろ!」


 誰かがそう叫んだ。


「グルー、お前がいれば病の者たちのこの一団は再建できる、だから逃げるんだ、国を作るんだ!」


 刃と刃がぶつかる中でグルーは何度もその声を聞いた。


「逃げるんだ! グルー……」


 そう言って事切れた声を足下で捉え、グルーははっと下を向いた。腹心、それも昔からの仲の仲間がグルーの盾となったまま、血にまみれ崩れていた。


 グルーは観念した。逃げるのは性に合わぬ、だが、いまはこの場を逃れなければ何もかもが終わってしまう。グルーは不承不承それを悟ると、戦場を脱出する決意をした。が、それも容易ではなかった。何人ガザリア兵を斬ったかも分からぬ混乱のなか、グルーは必死に退路を探り、走った。力の限り走りに走り、そしていつのまにか、独りになっていた。


「畜生、こんなはずでは……」


 砂塵の中からは、いまだグルーを追うガザリア兵の声が微かに聞える。グルーの体力も限界が近づいていた。


 ……どこかに身を隠せなければ……。


 グルーは光ある片目で必至に周りを見回した。すると、もとは軍の詰め所だったらしい古びた建物……というか廃墟が眼に入った。グルーは震える体でそのなかに這いずりこみ身を隠す。だがガザリア軍の声は次第に近づいてくる。


 ここまでか、とグルーは思った。同時に、捕まるのは恥だという気持ちがグルーの中で高まる。なら、ここで自害して果ててしまおうか。俺を守って倒れていった仲間に申し訳はつかぬが、こんな人生の終わり方が俺にはふさわしいのかも知れぬ……。


 グルーは愛用の短剣を勢いよく引き抜くと、首に当てた。そして勢いよく喉を切り裂こうとした、その時……短剣がグルーの意に反して手を離れた。そして、カターン、と床を転がると、短剣は不自然な格好で廃墟の隅に転がっていた古びた帳面に突き刺さり、止った。


 グルーは笑った。

 死なせてももらえぬのか。そう可笑しくなりながら、短剣を引き抜こうと帳面に触った。だが、意外なことに、帳面に短剣は固く刺ささっており、抜けない。


 どうした、俺の短剣よ、俺を殺させてくれ……、ずっと一緒だったではないか、お前とは……そう、赤い花の平原で拾ったのだ、この短剣は。それからずっと俺の護り神だったよな。だったら、俺の最後の願いを聞いてくれてもよかろうよ……。


 グルーの意識はそこで途切れた。

 静かに廃墟の中に崩れ落ちたグルーの側には、古び朽ちかけた帳面と短剣だけが寄り添うように落ちていた。

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