11 「唇はささやく」

 その日のヴォーグは珍しく表情が硬いように、エスターには思えた。エスターも慣れない手で、自らテセ流の茶を淹れてみたりしたが、器を受け取ったヴォーグはそれにも気づかない様子でやはり浮かない顔をしている。


「近日中に新しい任地が決まるとのことだ」


 やがてヴォーグは器を手にしたまま、ぽつりと呟いた。


「もうここには、来られなくなる……」


 ……エスターはついにこの日が来たか、とばかりに小さく頷いた。が、これがヴォーグとの永久の別れになることを感じ取り、微かに震えた。

 

 ヴォーグはそれを見て、思い切ったようにいかつい手をゆっくりエスターの頬に差し伸べた。エスターはとっさのことに声も出ない。

 ……お互いの顔が赤くなるのを、ただふたりは見つめあった。


「お前の好きに生きてほしいんだ……呪いを解いて。お前の生はお前が決めろ。自分の意思で生きろ。死ぬも生きるも、お前が決めろ……」


 そうしてヴォーグはなにかを言おうと口を開いた。エスターもなにか言わねばならぬと唇を動かした。


 その時、館の玄関から大きな叫び声がふたりの耳をつんざいた。ふたりは我に返った。


「何事だ?!」


 ヴォーグがソファーから立ち上がり叫んだ次の瞬間、客間の扉が乱暴に開けられた。そこにはヴォーグの見知ったテセの将校と、部下らしい数十人の兵士が剣を手に立っていた。


「お前は……たしかセヲォンの副官だな……何をしている!」


「将軍、その女をこちらへ。ガザリアに引き渡します」


「何を!」


 ヴォーグは腰の剣を抜き将校に突きつける。


「セシリア様との約束はどうなった! それを知らぬわけではなかろう! 統治者の威にかけてされた約束だぞ!」


 将校はひるまなかった。それどころか薄笑いを浮かべてヴォーグにこう言い放った。


「統治者の威など、糞なことは、貴殿が一番お分かりでは無いか」


「……!」


 ヴォーグは言葉を失った。その隙を突いて兵士がエスターを取り巻き、連行しようとエスターの腕をつかんだ。


「やめろ! 放せ!」


 ヴォーグは兵士に躍りかかった。同じくして、ヴォーグに向かって複数の剣が振り下ろされる。ヴォーグは身を翻して応戦する。数十人の兵士がそこになだれ込む。客間は一瞬にして戦場と化した。エスターはただ目の前で繰り広げられる惨劇を見ていることしかできなかった。


 決着がやがて、ついた。


「手こずらせやがって……」


 十数人の兵士の血だまりのなかに、更に大きな血だまりがあった。ヴォーグの大きな体が、その中に沈んでいる。その体は傷だらけだった。


 エスターはドレスの裾が血に染まるのもかまわず、ヴォーグに声ならぬ声を上げ、駆け寄る。亜麻色の髪をも血に染め、振り乱し、ヴォーグの顔をのぞき込み、その口元を見た。ふたりには、まだ言うべきことがあったし、また聞くべき言葉があった。だがヴォーグの唇は青ざめ動かない。エスターは血だまりの池に崩れ落ちた。頭を垂れたエスターの腕を兵士が掴む。

 

 その瞬間、エスターの中でなにかがはじけ飛んだ。エスターは渾身の力で兵士を突き飛ばすと、その剣を奪い、血の池から高く飛んだ。

 兵士たちは怖じ気突いた。まるで死の女神が襲いかかっていたように見えたのだ。エスターは剣を一振るいし、一番前にいた兵士に斬りつけた。そして血しぶきを浴びながら、身を反転させて庭に面した客間の窓に身を投げた。ガラスは派手な音を立てて割れ、エスターは庭の芝生になんとか着地すると、いまある力の限りで駆け出した。


 あのとき、呪われた都の城壁に向かって走った、あのときのように。「行け!」エスターの背中を押すヴォーグの声が再び聞こえたような気がした。


 だが、それが気のせいでしかないことをエスターは知っている。走るエスターの頬を、止めど無く涙は流れ、飛沫は冷たい風にさらわれていった。




 エスターの館での事件は、すぐに王宮に伝わった。報告を終えた武官が退出すると、セシリアは膝から崩れ落ちた。


「……俺の仕業じゃ、ないですよ。姉上」


「だがセヲォン、お前の副官がしたことではないですか!」


「俺は指図していません、俺のガザリア行きを止める駆け引きの手段に、エスターを使おうと彼らは考えたのでしょう……先走りやがって……」


 姉弟の間に火花が散った。


「嘘おっしゃい!」


「嘘では無いです。その証拠に……」


「証拠に?!」


 セヲォンはためらわずその名を口にした。


「……俺はそこまでヴォーグが嫌いじゃ無かった……!」


 セシリアはヴォーグの名を聞いた途端、雷に打たれたように固まると、次の瞬間泣き崩れた。


 だが、それも長くは続かなかった。慌ただしい気配が扉の外でした。床に崩れているセシリアの代わりにセヲォンが、再び現れた武官から事の次第を聞くと、セシリアに向き直った。


「姉上、薬草園が、何者かに襲われたそうです」


「……そう……」


 もうセシリアは泣いては無かった。統治者の冷たい仮面をかぶり直すと、静かに言った。


「迎え撃ちましょう。エスターを」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る