31「取引」

「お前と取引がしたい」


 セヲォンがカロを伴って傷の癒えたグルーの部屋に訪れた。この館にやってきてふた月ほど経ったある日のことである。

 セヲォンがグルーの部屋にやってくるのは異例のことで、何ごとかとグルーは改まってふたりの顔を見た。そしてセヲォンの第一声がそれであった。


「取引……?」


 セヲォンは、疑念の色を顔に示したグルーを一瞥したが、かまわず椅子に腰掛け、そして、驚くべき一言をさらりと言ってのけた。


「お前にテセの国をやろう」


「……テセを、俺に?」


 グルーの心の臓の、鼓動が早くなる。そんなグルーを見つめながらセヲォンは言葉を続ける。


「病の者たちの為の国を、お前は作りたいのだろう? ここに作るが良い。どこの馬の骨とも知れぬお前だが、国を作り上げたいという気概は買おう。そんな人物にテセの国を継いで貰うのも一興かと思ってな」


 セヲォンは重大なことを話ながらも、どこかそれを面白がっているような口調である。それは若い頃からの癖であるのだが、グルーはそれを知るよしもない。グルーは隻眼を光らせてただセヲォンの一言一言に耳を傾けるのみである。


「……ただ、ひとつ条件がある」


 セヲォンは立ち上がって陽光あふれる窓の外を見つめた。その目は、また、あのときのように、どこか遠くを見ている。

 そして、手にしていたものをグルーに手渡した。


「これは……」


「テセの都に行って、城の堀にこの帳面を沈めてきてはくれまいか。城の西の堀だ。そこにはエスターが眠っておる。そこにこのヴォーグの、エスターが最後まで気にかけていた歌が記してあるヴォーグの帳面を沈めてきてほしいのだ」


 一気にそこまでセヲォンは言うと、小さな声でこう付け加えた。


「それが、余の友ヴォーグに対するせめての弔いだ」


 窓の外ではうららかな日差しの中、小鳥がさえずっている。

 そのさえずりに紛れるようにそうグルーに告げると、セヲォンはグルーの返事も聞かずに部屋をゆっくり出て行った。

 


 しばし思いがけないセヲォンの申し出にグルーは呆然としていたようだ。我に返ったのはカロの声を耳にしてだ。


「引き受けるのだろう?」


「……」


「いや、私からも頼みたい。どうかセヲォンさまの願いを引き受けてほしい」


「カロ……」


「正直、国のことは、私はどうでもいい。お前がテセの国王にふさわしいかのも、わかりはせぬ。だが、ふさわしくなければガザリアに、または民に倒されるだけのこと。私が願うのはセヲォンさまの心の安寧だ。あの方はさまざまな栄光、しかしそれ以上の業を抱えて、生きてらっしゃる」


 カロには珍しく言葉が多い。それだけセヲォンへの想いがただならぬものなのをグルーは感じざるをえなかった。


「あの方と私は、メリアは、初めて会ったとき、敵としてまみえた。あの方はその時言った、自分は悪魔であると。だが、そう生きたくて生きてきたわけで無いというのは、監視人として仕えるようになってから、身に染みるほど分かった。たまたま、地位によって、そうならざるをえなかっただけなのだと。そして私は、あの方が私と同じ人間だと、初めて知ったのだ……」


「……」


「人は光にも闇にもなり得る。だが、等しく同じ地を這う星だ。私もあの方も、そしてグルー、お前もそうだ。それならば……この取引、悪くは無かろう……」


 ……グルーはそのカロの言葉に腹をくくった。


「……引き受けよう……国が手に入るとは、願っても無いことだからな」


 カロはグルーのその一言を聞いて、ほっ、と安堵の息を吐き、言った。


「……礼を言う。すでに、都への旅の支度は調えてある。庭へ回れ。それと、お前の短剣を返そう。これは好きにするがいいと、セヲォンさまがおっしゃっておられた」


 カロはグルーに愛用の短剣を手渡した。

 元はエスターの短剣であったそれは、今はただ鈍く昼のやわらかな光を跳ね返すのみであった。

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