25 平地人の戦慄

 いいおわったあとも、父はじっとわたしの目を見つづけていました。

 哀切とか、懇願とか、あるいは威嚇するような感情のうごきは読みとれません。暗がりのなかで父の表情は、どこかからっぽに見えました。

 木板でできたちいさな祠のことを、わたしは思い浮かべていました。

 この部屋でひとり、本を読みながらすごす自分のすがたを、思いえがいてみました。

 わたしはちいさく首をふります。

 いまはもう、〈かれら〉の声はきこえないんです。わたしは父にそう打ち明けます。たしかにちいさいころ、わたしは森のなかで不思議な誰かとすごしていました。あのころのわたしにはそういう能力があったのかもしれません。でも、ある日をさかいにその声はわたしにはとどかなくなってしまいました。わたしにはもう、その呼びかけを代弁する役割は、こなせないんです。

 わたしの言葉に父は落胆するそぶりを見せるでもなく、静かにわたしを、わたしの顔を、見つめつづけています。

 その表情の動きのなさ、ゆらぎのなさを見て、ふいにわたしは父の気もちに思いあたります。父はもしかしたらただ単純に、〈わたしの顔〉を、見ていたいだけなんじゃないだろうか。

 いまはお前は森をはなれているからな。どこかくつろいだような声で父はいいます。ふたたび森で暮らすようになれば、すぐにまた〈かれら〉の声がきこえるようになる。外界には騒音がありすぎるんだ。ここはいいぞ。邪魔をする音はひとつもない。あらゆるものの精神の音に、それだけに耳をすますことができる。

 父はもぞもぞと身うごきをして、布団のなかから右手を抜きだし、そっとわたしにむけて差しだします。

 この祠を引きついでくれ、スミレ。わたしの瞳をじっとのぞきこんで、父はいいます。ここで〈かれら〉とともにある生き方をえらんでくれ。森はいつでもお前を味方する。だからお前も森を味方してくれ。お前にはその能力がある。なぜならお前は、〈カミ〉にえらばれた存在だからだ。

 父の右手は小きざみにふるえていました。

 衰弱しきった表情のなかで、その瞳だけが熱をもっていました。

 わたしはそっと目を閉じます。

 選択の余地なんて、ありません。

 わたしはゆっくりと目を開けて、父の顔を見つめ、ロッキングチェアをゆらしながら静かにこたえます。いやだよ。そんなのお断りです。だって、わたしはお父さんみたいな人生は、あゆみたくないですから。

 きぃ、きぃという椅子の音だけが部屋に響きます。

 右手を差しだしたかっこうのまま、しばらく静止していた父は、ふいにこらえきれず苦笑をもらします。まあ、そうだろうな。そうつぶやくと右手を布団のなかにもどし、そして寝がえりをうって反対をむきます。ひどい娘だと、ぼやくようにいいました。

 お父さんこそ。わたしもそう、いいかえします。

 夜の闇が部屋をみたしつつありました。

 お前はお前の好きなことをすればいい。やがてまたひとりごとのように父はしゃべりはじめます。だが、これだけは忘れるな。この世界のすべてのものに精神はやどる。読みとられることがなかったとしても、あらゆるものは固有の精神をもっている。検出できないものを切りすててきたのが科学の歴史だ。だが切りすてられたものたちは消えてしまったわけではない。お前たちはよくその事実を忘れる。そのことで、いつかきっと痛い目を見る。いつかきっと復讐される。そうならないためにも、お前は、お前だけは、声なきものの声に耳をすませるんだ。そのことだけはどうか、忘れないでいてくれ。

 それだけいいきると父は、もう口を開くことはありませんでした。不安になって耳をすませましたが、ちいさいけれども単調な呼吸の音がきこえました。どうやら眠ってしまったようです。部屋はもう完全な闇が押しよせていて、夜の静寂が小屋のむこうにしみわたっているのを感じました。父のいったとおり、この場所には邪魔をするような騒音はひとつもありません。

 それで〈かれら〉の声がきこえるわけではありませんでしたが。

 わたしもいつの間にか眠りに落ちてしまいます。なにか夢を見たような気がしますが、思いだせません。ふと気づけば夜あけの青い光が部屋に差しこんでいました。部屋の静寂にはきのうまでとは違った質感があるようでした。わたしは椅子から立ちあがり、ベッドをのぞきこみます。父はすでに旅だっていました。呼吸はなく、脈もなく、それなりに穏やかな表情のまま、父はひとりでこっそりと、自分勝手にその生涯を、おわらせていました。


 けっきょく森へ顔を出すこともなく、簡単に父の葬儀をすませたあと、わたしは帰りの電車に乗りこみます。

 山小屋にあるものはすべて処分してもらうことにしました。柳田国男の〈遠野物語〉がゆいいつ、わたしのかばんに収められただけです。

 帰途それを読みながら、実質的にわたしの頭にあったのは、〈精神波形〉をめぐるあらたな考察でした。

 〈精神波形〉について、それまでのわたしはある種の情報処理システムとしてとらえていました。はやい話が無線通信のような、ラジオの送受信のような、そういった処理系としての〈未知の特殊な意志伝達手段〉を思いえがいていたんです。わたしの想定するモデルには所与のプロトコルが存在し、わたしの研究はそれを解明することを目指すものだったことに気づきます。

 でも、もしかしたらプロトコルは存在しないのかもしれない。

 わたしは研究室にもどってからしばらく、その新しいモデルについての思索をふかめていきました。もっと自由な、自分勝手な系としての〈精神波形〉。キャッチすること・されることを前提としないそのあり方は、自然と広範なひろがりをもって適用されていきます。生命をもたない物質であっても、ある種の道具のような機能をもたない素朴な素材であっても、そこにはなにかしらの精神がやどる。

 わたしの仮説は必然的に、あらゆる原子レベルの存在、それと等価なエネルギーに対しても、精神をみとめることにつながっていきます。

 この世界のすべてのものに精神がやどる。

 わたしは自分のたどり着いたテーゼに呆然とします。そんなことがありうるんだろうか。そしてそれがありうるとして、それをどう検証すればいいのだろうか。こたえを見つけだすことができず、途方にくれてしまいました。研究はまた、暗礁に乗りあげることとなります。

 でも、どうしてもわたしは、そのテーゼをすてる気にはなれないのでした。

 この世界のすべてのものに、精神がやどる。

 〈遠野物語〉の冒頭にある文章が思い浮かびます。こう書かれています。

 〈願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ〉


 それから一年とすこし経ったある日のことでした。わたしのもとに、こわれた機械兵士がとどけられたんです。

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